九月の空、じゃなくて8月終わりの空なんだけど ― 2010/09/02 08:53:16
供養供養の夏だが私はただ寝たい ― 2010/08/24 22:40:18
京都の晩夏の風物詩「千灯供養」が23日夜、京都市右京区嵯峨鳥居本の化野念仏寺で営まれた。約8000体の石仏や石塔に参拝者が思いを託してろうそくをささげ、秋の気配をしのばせた夜風に揺れるともしびに静かに手を合わせた。
千灯供養は、古く葬送の地だった化野の無数の無縁仏を、明治時代に集めて供養するようになったのが始まりという。
僧侶の読経が響くなか、こけむした石仏が並ぶ境内の「西院(さい)の河原」に参拝者が次々と訪れ、思い思いの石仏に、ろうそくを供えた。」(地元紙サイトより。写真も)
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日曜日は地蔵盆だった。今年は主催担当だったので先月から何かと用事が多くて忙しかった。例年どおり夏祭りの屋台もやるし、もう勘弁してよねって感じだ。「京乃七夕」を観に行ったあたりから、まともな時間に帰宅していない。さすがに日付の変わる1時間前くらいには帰るようにしているが、風呂に入ってふうーっと深呼吸して、午前1時頃からまたこりこり原稿書いたり指示書を作ったりする……といいたいが、たいてい1時半頃にもう眠くて眠くてたまらなくなり、途中で止めて寝にいき、翌朝決死の思いで早起きして4時から6時くらいまで頑張って準備した材料を、出社したらすぐ制作サイドに渡す。……とこれが毎日できればものすごく進行するのだが、そうそう毎日4時には起きられないので十分な準備をけっきょくできないまま出社する。制作サイドの作業も遅れる。提出刻限が迫るとクライアントがぎゃんぎゃんと電話してくる。アンタねー、早くブツが欲しいならアタシたちをそっとして仕事させてよっと電話口で怒鳴りたいのをこらえて「申し訳ありません。今全速力でやっております」などという。それで電話を切りたいのにクライアントはああだこうだナンでだ遅いぞ困るぞとぐだぐだねちねちと受話器を離さないのである。おまけにお盆前には「悪いけどお盆休みに出張取材に行ってくれる?」としゃあしゃあと仕事を発注する。アタシはアンタの部下でもアンタんちの社員でもないんだぞっっそれになあお盆には伊予柑の里へ行くんだよ仕事よりスケジュールタイトな旅行だけどな何年ぶりかで娘と旅行するんだよキャンセルせんぞ絶対———とこのときだけは絶対行かないと言い張った甲斐あって、というよりは、クライアントの担当者が取材実施日を勘違いしていただけでお盆休みには実際には何もなかったのである。ほんまに人騒がせである。そんなこんなで寝る間もないのに地蔵盆の準備なんかできないっつーの。要領を得ない私が目を血走らせてあれこれするより年季の入ったオッサンオバハンらに任せたほうがいいと思って、母にうまいこと頼んでよおーというと、母ははいはいと引き受けてくれたが、近所のオッサンオバハンらは私が開いた会合の席では何も言わなかったくせに母が各戸へお願い回りに行ったらここぞとばかりにああしたほうがいいこうしたほうがいい、いやせないかんでと洪水のように「ご意見」の雨を降らせ母を立ち往生させるのである。アタシの顔見て言えばいいのになあ、と、ある晩も夜中に帰ってから母の報告と愚痴が終わってそう言うと、アンタにいうたら10倍くらい言い返されると思たはんのやわ。そらまあ、そうかもな。
それでもなんとか終了した。地蔵盆は、町内会ごとに行う町内会の一大イベントである。お地蔵様飾りは近年新調されたものも多いがいったいいつなのかわからん年号の染め抜かれたものもある。200年くらい前からこの地域は今の姿をしていた。町内会の面々はみなそれをよく知っている。誰もが地蔵様に深々と頭を下げて拝んでいる。たいしたもんだと思う。信仰心がこのイベントを支えている。あれこれ口の減らんオバハンは多いが、それでも仲良くやっているのは地蔵様が見守ってくれているからかも、と思う。アタシみたいにええかげんな人間を大事にしてくれるのは、アタシの父も祖母も、地蔵盆という一大イベントに惜しみなく力を注いで町内会を盛り上げていたことをまだ覚えてくれている人がいて、口承されているからである。
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五山送り火のときに金魚のことに触れたが、あのあとまたリュウキンが1匹、天に召された。今年の夏ほど供養ばかりしている夏はないであろう。キンスキーも調子が悪いので薬浴中である。
風が少し秋めいてきたが、酷暑はまだ続きそうだ。
私の体感からだけ言うと、このとんでもない仕事量さえなければ、しのげない夏ではない。不調の原因はやはり睡眠不足に尽きる。私は毎日8時間寝ないといけないカラダなのに、ずっとその半分程度が続いている。酷暑のさなかだが、冬眠していいと言われたら即刻しそうだ。冬眠だけでなく春眠夏眠秋眠とえんえんと眠りそうだ。寝たい。
それからどうなった?シリーズ その4。金魚 ― 2010/08/16 22:49:31



みかんづくし ― 2010/08/16 09:06:32








わたしとあなたと彼と彼女と もうひとりの「私」 ― 2010/08/10 21:12:45
外山滋比古 著
みすず書房(2010年)
第一人称 わたし
第二人称 あなた
第三人称 彼、彼女 あるいは わたしとあなた以外のすべて
ある文章世界がある。
そのなかに第一人称「わたし」と第二人称「あなた」がいる。会話は第一人称と第二人称の間で起こり、その話題は第三人称についてである。こうして文章世界は第一人称と第二人称と第三人称とでつくられていることがわかる。
ではその文章世界を外から眺める、あるいは読むこの「私」は。
本書では、こうした場合の「私」を第四人称と名づけ、ケースバイケースの考察を試みている。第四人称である「私」は、書物を外から読む者に限らない。人の噂を又聞きする人も第四人称的性格をもつ。映画や芝居の鑑賞、スポーツ観戦もしかりである。伝記、評伝の書き手や、または読み手。翻訳者。見知らぬ土地を訪れる旅行者。かつて異人と呼ばれた、日本人とのコミュニケーションのすべを持たなかった外国人。裁判の傍聴者。
裁判員という制度ができて、第四人称に甘んじていられた「当事者でない市民」は、第三者として判定を下す立場を与えられたために裁判において「第三人称」として振舞わなければならなくなった。裁判は原告と被告、検察と被告、弁護人と原告、検察と弁護人、また裁判長と被告といういくつもの第一人称と第二人称の組み合わせが錯綜するスペクタクルである。第一・第二人称に目撃者や関係者が第三人称として絡みつくように振舞う。第一人称、第二人称から最も遠い第三人称が裁判員であろう。
裁判員は傍観者や観客ではいられない。精神的・思想的にコミットしなければならない。しかし第一人称や第二人称の個別領域にまでは足を踏み入れることはない。そればかりか、第一人称や第二人称が、第三人称として裁判員を語ることもない。裁判員は、ときに第一人称である被告や原告にとって第二人称へとせり出すことがある。しかしそれは一時的なことで、あっという間にまた第三人称へと後退する。裁判長という大きな第二人称が第一人称たちの前に立ちはだかるからだ。裁判員はこうして、半歩足を踏み外せば第四人称へと転落しそうな、突き出されて第二人称にされたかと思えばはじき返される、あやふやであいまいな彼我のあわいに立ち、毅然と前を向いて職務を遂行せねばならない。
この、中途半端で微妙な立ち位置の裁判員という在りかたを、よくも創造したなと思う。これって、すごく余計なことだったんじゃないのか。裁判員制度は、「とっとと裁判を終えられる」こと以外に何かメリットを生んでいるのか。第四人称である傍観者からは、まるで判断がつかないのである。
外山のおじさまは「翻訳」について一章割いてくださっている。
《独立翻訳は訳者の理解し得た限りのことを材料にして新しい作品、書物をつくるくらいの覚悟をもたなくてはならない。いちいち原著者の顔色を伺っているようではいくら原文忠実であっても翻訳の資格を欠くことになる。訳者の全責任において新しい作品、著述を創出する気概と決意が求められる。》(71~72ページ)
そうよね、おじさま。
とても勇気づけられましたわ。
わたしの歩んできた道は間違いなかったのね。
おじさま、わたし、おじさまの教えをけっして忘れないことよ。
旧暦で ― 2010/08/08 22:37:31






無印良品がイスラエルに出店 ― 2010/08/07 14:21:09
Date: Fri, 6 Aug 2010 21:54:03
From: "チェチェンニュース編集室"
Subject: チェチェンニュース #346
■無印良品のイスラエル出店について。
飾らない愛とはなにか?
出店が実現すれば、アパルトヘイトを無視して、同じように出店する企業が次々に出てきても、おかしくありません。まるで、南アフリカで「名誉白人」などとおだてられて投資してきた、かつての日本のようになってしまいます。
無印良品にはかつて、「愛は飾らない。」という、印象的なコピーがありました。気取りのないシンプルな製品を、過剰な包装をせずに提供してきた、無印良品。今回の出店計画は、このクリーンなイメージを、差別主義を土台とするイスラエル経済の中で、パレスチナ人の犠牲の上に利益を確保する企業という、ダーティーなものに変えてしまいます。
グローバル化と、国家による暴力が続くこの世界での「愛」とは、何なのでしょうか。少なくとも、アパルトヘイトを無視して商行為にいそしむことは、愛からはもっとも遠いはずです。
多くの人が、無印の製品を買ったり、使っています。これは、無印良品で買い物をしているみなさんすべてに関係することだと思います。ぜひ、この計画に反対する意思表示をしてください。次のサイトに、その具体的な方法が書かれています。
アパルトヘイト国家イスラエルへの出店に反対します。
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……とあったので、さっそくサイトへ行ってみた。

つねづね、イスラエルめ許さん!と憤慨している私だが、無印良品の出店は、いいんじゃないのと思えてしまうんだがそんな私はおかしいのだろうか。このサイトがいうように、無印良品が出店したら日本の小売業に道を拓いてしまい、次から次へと出店企業が後続する、そうなったら、イスラエルの町には日本の小売店満開状態になり、ひいては、日本はイスラエル国家を支持するよという政治的態度の表明に等しくなる、というような状況を産んでしまう……って、そんなの、日本はもうイスラエル国家支持派じゃないのさ。

イスラエルはパレスチナを弾圧している。これまで再三起こってきたように、被弾圧者サイドからの抵抗運動(レジスタンス)が当然ある。それが一般に自爆テロと呼ばれる行為だ。自身の体に爆弾をくくりつけて爆破対象に自ら飛び込んで道連れにするという行為を私は絶対に容認しないが、これを自爆「テロ」と呼ぶことに、いつだってとてもためらうのである。国語辞典で「テロル」「テロリズム」などを引いてもらうとわかるが、そもそも政治目的を達成するための暴力的破壊行為のことをテロという。だからどちらかというとイスラエル国家によるパレスチナ人居住地域に対する行為がテロルなのだ。パレスチナ人の自爆行為は弾圧への抵抗である。だからといって絶対に許容されてはならないが、そもそも、どっちが先に仕掛けたのか、をたまには冷静に考えよう、ということがいいたいのである。
したがって、引用したような、「気取りのないシンプルな製品を、過剰な包装をせずに提供してきた」のは事実であっても、それがことさら「クリーンなイメージ」だとは、私だけでなく、もはや誰も思っていないんじゃないかな。無印良品にクリーンなイメージ、もってます? んで、それがダーティーに変わるというのも、あまり説得力ない。
無印良品だから問題なのではなく、どこが店を出そうが、日本の製品(メイドインチャイナやタイランドだったりするけど)を買って買ってー♪と嬉しそうに陳列する商行為に出ることは、こと差別主義政策をとっている国ではまずいだろうな。「あんなことやってる国で店出すなんて」とためらう人が企業内にまったくいなかったわけでもないだろう。しかし「まずいかもだけど、それでも儲けたい」のが企業である。利潤追求の前には「そんなこと」どうでもいいんだから、そんな人々は、もうほうっておくしかないのである。

イスラエルは、パレスチナの抵抗行為があるたびに、パレスチナ人居住区域への銃撃やライフライン断絶などの制裁を行って報復してきた。近年は何もなくてもしたい放題である。日本では「自爆テロ」ばかりが報道されて、イスラエルによる対パレスチナ人迫害行為はまったく報道されない。それはしかたがない。私たちは米国の核の傘の下にいるので、米国がしかめ面をするようなニュースは伝わらないのである。
ならいっそ、イスラエル人がもういやよジャパニーズには辟易するわと嫌がるほど、日本の小売店で埋め尽くしてしまったらどうであろうか。日本の小売店がいっぱいある国なら安全ねと日本からの旅行客もきっと増えるであろう。その地に足を下ろしてみないとわからないことはいっぱいある。結果として、イスラエルびいきの日本人が増えるだけかもしれないし、パレスチナへの無理解は度を深めるばかりかもしれないが、何もしないよりはましである。イスラエル行ってきたのよーとってもよかったわ!日本語も通じるのよー♪という人もいれば、もしかして、パレスチナ居住区方面には近寄れないように有刺鉄線が張ってある、とか実際に見てくる人もいるかもしれないし。
ぜひ、ざっとでもお目通しください。「よくある質問」だけでも。
パレスチナ人の居住区に出店する計画はないのかな?























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