のこり福2006/12/26 18:45:46

娘のショールを編んでいる。
細めの糸で、かぎ針編み。
半円形の、中心から少しずつ、放射状に目を増やしていく。
最初のうちはどんどん面積が広がっていって、それがなかなか楽しかったが、編み進むうちに「1段」が長くなって(そりゃそうだ)、編めど進めど変化が感じられなくて、しんどい。

この冬、「家にある余り毛糸すべて立体化大作戦」を宣言した。
何しろ我が家にはン十年前から残っている毛糸が山ほどある。
それが押入れの中のただならぬ体積を占めている。

それらの毛糸は、昔編んだものをほどいて玉巻きにしたものであったり、何かを編もうと思ってまとめ買いをしたまま編まずにおいてあるものだったり。
だから新品のままの毛糸もあるが、力を入れて強く引っ張ると切れるかも、と思えるようなくたびれた中古毛糸もある。

娘のショールは、中古の毛糸を寄せ集めて編んでいる。
渋めの茶系で編み進み、それがなくなったので赤に変え、それがなくなってベビーピンク、白、と進んだ。次はまた別の柔らかいピンクにして、赤、茶……と進んだらまともな大きさのショールになる予定。
私の母によれば、これらの毛糸はどれもこれも、私が赤子の頃に着ていた服をほどいたものらしい。母の姉たちが、競うようにして、末妹に生まれた女児のために手編みのプレゼントをした。その名残り。
糸のほとんどは別のもの(座布団カバーとか)に姿を変え、今あるのは、まさに残りもの中の残りもの。のこり福の中の、のこり福?

福が娘の肩にとどまることを願いながら。
年内に終わるかなあ……すまん、娘。

久女のふきのとう2006/12/26 19:09:43

『杉田久女句集』
石 昌子/編
角川書店(1969年)


甦る春の地霊や蕗の薹  杉田久女


ある調べものをしていて、この句が目に留まった。
そして、強烈に惹かれた。

蕗は雪解け前に、葉より先に蕾が顔を出す。
雄花と雌花が異株で、蕾のうちはどちらかわからない(咲いても素人目にはオスメスの区別はつかない)。
「ふきのとう」はてんぷらや味噌和えがおいしいけど、男を食べているのか女を食べているのか当方にはわからないのである、と誰かが書いていた。どっちでもいいけど、と思うけど、男(雄花)を食べたいかもな、と思ってから、でもこういうもの(植物)はメスのほうがおいしいのではないか、と思い直す。

蕗は地下茎で増える。地下茎は恐ろしく太くて頑丈らしい。
それだけでなく、タンポポみたいに種子も飛ばす。
生命力があるのだ。上からも下からも、増える。
「蕗」として私たちが食するのは、「葉柄」。茎ではない。
想像するのはたやすいが、だから葉は、大きい。すごく。

生き物の命がほとばしる、早春。
大地の生命を全部うけおった、一番乗りの覚醒が、蕗の薹。
見事に詠んだ久女に感激して、この句集を探したこと、探したこと。
普段俳句にはなじみがないので、一句一句、かみしめるようにして味わった。見たことのない風景が、ありありと目に浮かぶ。

久女の人生を論じたよい書物があるのでここでは触れないが、明治に生まれ、大正・昭和初期に、家庭主婦と俳人を両立させることに費やすエネルギーは現代の比ではなかったろう。
冒頭の句には、久女がもち続けようと願った命のエネルギーが見えるのだ。
地中からいち早く太陽の恵みを察知し、己が存在を示す、ふきのとう。

ふきのとうは、命のサイクルを振り出しに戻して再出発する姿でもある。
もし生まれ変われたら、久女は、俳人を選んだか、あるいは母を、妻を選んだか。同じように自問してみるが、答えは出ない。

本書の編者は、実の娘である。

目薬が目にしみる2006/12/27 00:50:04

単なるビタミン補給だけど、コンタクトレンズ装着前と外した後に、必ず目薬をさしている。
しみる。
快感。

数か月ごとに、下瞼が痙攣する。断続的に。
顔面神経痛予備軍かな。
単なる疲れ目なんだろうけど、普通に会話しているときに、ぴくぴく、と瞼が動いたら、見ているほうはちょっぴりどきりとするのではないかしら、と思い、痙攣しないでねと鏡の中の両眼にいう。

PCにしろ、テレビにしろ、ゲーム機にしろ、こうした画面は絶対に眼に良くない。視力低下云々だけではない。きっと。
わたしは疲れ目のせいで(たぶん)頭痛がする。頭痛のせいで、意志と裏腹にしかめ面になる。しかめ面のせいで、家族はわたしを怖がる。

いたわってほしいのはわたしのほうなのに。

漢字はお好き?2006/12/28 17:12:37

『漢詩入門』
一海知義 著
岩波ジュニア新書(1998年)


漢詩に興味をもってというよりも、この著者の書くものを読んでみたくて、わかりやすそうなティーンズ向けの本に手を出した。

高校時代、漢文の授業は嫌いではなかった。担当教師が情熱的だったことをよく覚えている。教科書一面にぎっしり詰まった漢字の、字間行間に潜むドラマを彼女が語るとき、まるで夢見る少女のような、あるいは恋心を燃やす乙女のような、熱っぽい視線を生徒に投げかけたものだった。
たいていの生徒はそれに辟易するか、しらけきって聞いていなかった。
とはいえ、この教師の説明はわかりやすかった。彼女の情熱は横に置いといて、漢文を読み下して意味を理解するということにさほど苦労は要しなかった……と思うのだが、私の場合、成績はさほどよくなかった。なぜだろう。わかってるつもりでわかってなかったんだろうな、としか言いようがない。
退屈極まりなかった現代国語のほうが、テストの点も通知票についた評価もずっとよかった。
けっきょく、「点を取れる科目を」ということで受験期に入ると漢文からは離れてしまい、以後、現在に至る。

どういうめぐりあわせか、今、漢字ネタのコラムの連載をひとつ持っている。
乏しい知識ではわずかな字数のコラムさえままならず、否が応でもあれこれ調べなくてはならない……ので、さまざまな漢字関連の本に手を出しまくる日々である。

『漢字 漢語 漢詩 雑談・対談・歓談』
加藤周一+一海知義(かもがわ出版)

この本の中で、一海氏は、3000年前の漢詩も現代人がほとんど注釈なしに読める、日本人でさえ読める、漢字が数字のように、地域的かつ歴史的な共通語(字)の役割を果たしているからだ、ということを述べている。

今さらながら目から鱗のひと言だった。
このひと言に惹かれて、他の著書に手を出す気になったわけである。

及時当勉励 (時に及んでまさに勉励すべし)
歳月不待人 (歳月は人を待たず)

陶淵明の五言詩にある一節だが、「若いうちに勉強に励めよ、時間はすぐに過ぎるぞ」という意味ではなく、「勉励すべし」は「無理してでも遊ぶんだぞ」という意味だそうだ。若さを謳歌できる日々は短いから、今のうちに大いに愉しもう、というメッセージ。
漢字が並んでいても、それは言語の形態がそうであるというだけで、別に難しいことを述べたり表現しているわけではない(って、当たり前だけど。中国語ではキモイもヤバイも漢字で書くし)。むしろ、え、そんな馬鹿馬鹿しいことうだうだ言ってんの、という素直な内容が多い。
漢詩も、現代詩と同じように、普通に鑑賞すればよいのである。

ティーンエイジャーたちよ、この本を読んで、漢詩に親しみを感じてくれ!などという気持ちはさらさらない。というより、ジュニア新書を読んで納得してるあんたが書く漢字ネタのコラムってどんなんなのよと、自分でツッコミを入れたくなって、情けない。

カテゴリに肩凝り2006/12/28 19:01:38

ブログを開設するにあたって、なんだか困ってしまったのが「カテゴリ」。

いちおう、読書感想文を気ままに書くという趣旨なので、本のジャンル別にすればよいのだろうと思ったが、口で言うほどうまくいかない。

自分の読む本は、多岐にわたっているようで、偏っている。
最近読んだ本をとにかく挙げてみて、これはこれだよなと「カテゴリ」を作ってみた。
だけど、カテゴリに記事がまんべんなく埋まるまでには、時間がかかりそうだ。

読書の話以外のつぶやきを書き留めておく場所もほしい。
年中肩凝りと疲れ目に悩まされているので「かたこり」と「つかれめ」。
必須カテゴリだ。
……カテゴリって、何よ、いったい。

「カテゴリ」という語が、本来の語義から離れて一人歩きする。
「コメント」という語が一人歩きするようになって久しい。
こういうことについて考えるのが億劫だから、ブログ開設に手を出すのをためらっていたことを、思い出した。

理由がある2006/12/28 19:14:32

ひとさまのブログには、できるだけ行かないようにしている。
理由がある。

目が疲れるから。

私は何でも一生懸命読んでしまう。
ふだんから、ネットを情報収集の手段に使い、メールをビジネス文書通信の手段に使い、PDFをプレゼンテーションに使い、自分の原稿作成にエディタを使う。
どれも、一字一句、画面を睨んで追う。誤記を見逃すとえらいことになる。
まだ、その取り扱い量が今ほどでもなかった頃は、たびたびプリントアウトしていたけど、このご時世、そんな紙の無駄遣いは断じてできない!
……と半端なエコロジストの私は、用紙節約の思いもあって、すべてPC画面上で検討を終了しようと心がけている(例外はある)。
目を凝らして、読む。読み取る。読み解く。

ひとさまのブログを丹念に読むと、同意もしたくなる、反論もしたくなる、再訪したくなる。結果、目が疲れる。

だからできるだけ、行かない。
※この場合の「ひとさま」とは、一般ピープルのこと。著名人除く。

例外が一つある。「駒田眼科」。疲れた目を診てもらう……ことはないけど、このブログは疲れない。必死で読まなくても、ブログの主の思いがすっと入ってくる。午後の紅茶気分で留まって、通過できるブログ。誰にも何も、押しつけない。

おそらく、世にあるブログのほとんどが、このタイプなのだろう。
誰かにとって、心地いい、誰かのブログであればいいのだろう。
でも私はつい、どのようなブログでも、書き手の思いを過剰に受け留めてしまうきらいがあるのか、時間をかけて読み込み、考えてまた読み、結果、目が疲れる。

自らそんな種は蒔きたくないと、ブログ開設をためらっていたことを、思い出した。