2007年になりました2007/01/05 10:29:56

『あなたが世界を変える日』
セヴァン・カリス=スズキ著、ナマケモノ倶楽部編・訳
学陽書房(2003年)


2007年も、もう5日目になった。
正月らしさのない新年。
気候のことである。ぬるいぬるい、生ぬるい冬。
と思えばいきなり冷え込んでドカ雪が降る。
しかし翌日にはまた熱い太陽が照りつける。

ここ20年ほどのうちに、冬の陽射しの強さが尋常でなくなっている。
冷気ではなく熱の照射で、皮膚が痛い。

春の穏やかさは長続きせず、5月頃から真夏の陽気だ。
夏は夏で、この地域では年に一度あるかないかの雷雨・豪雨が頻繁だ。
いつまでも中途半端な暑さが続き、日中と夜半の寒暖の差も中途半端で、葉の色はいつまでも中途半端なまま、冬になる。「錦秋」なんてどこの国の言葉か。

若かった頃、酷暑と極寒のあいだに桜と紅葉のある四季に一喜一憂した。体のリズムは四季とともにあり、他でもない自然によって保たれていることも知らずに、もうこんな気候耐えられない、とよく愚痴った。常夏の南国に憧れた。

一年を通じてぬああんのっぺり、と生暖かい大気につつまれるせいで、今、体がおかしい。リズムの崩れを、感じる。単に年をとったせいかもしれない。しかし体内から「それだけではない」と声がする。

カナダの少女セヴァンがこの本にあるメッセージを発したとき、おろかにも私は今日の体の変調を予期できなかった。
環境汚染・公害問題とはつねに隣り合わせで生きてきた世代だ。しかし、いやだからこそというべきか、これは「社会問題」であり、「自分自身の体の問題」ではなかった。

この本を入手したとき、当時8歳の娘に読み聞かせたら、彼女は自分でもう一度目を凝らして読み、「教室でみんなと一緒に読んで話し合う」といって学校に持っていった。
思えば彼女が生まれたときから、この地球は汚れていた。メディアの「カンキョー」「オンダンカ」の大合唱をいやでも耳にして、育ってきたのだった。
私が8歳の頃にも地球は汚れ始めていただろうが、私たちはそんなことに無頓着でいられた。手近なところに水と緑は生きていて、虫や鳥や小動物を観察して、無邪気に遊んでいられた。環境問題は大人の問題だった。

セヴァン少女も大人になった。事態はますます悪化している。

耳を、澄ます2007/01/05 12:18:15

『音さがしの本 ~リトル・サウンド・エデュケーション』
R・マリー・シェーファー、今田匡彦 共著
春秋社(1996年)


谷川俊太郎さんの「みみをすます」という詩がものすごく、好きである。
娘は「生きる」が好きで、この二つの詩が我が家のボロふすまにぺたぺたと貼られている。
頭がボーっとしている朝や、時刻を問わず退屈で手持ち無沙汰だなと思ったら、ふすまに貼った詩を読む。時には大声を張り上げて。
「みみをすます」はひらがなばかりだが、描かれる風景が少し時代を遡るので、娘は理解しにくいようだ。そのかわり(というと変だが)、「生きる」の一節の「それはヨハン・シュトラウス」のくだりに好き勝手な人名を入れては、けらけら笑っている。
アホ、それが詩を鑑賞する態度か! などと叱るどころか一緒になって名詞着せ替えごっこをしている私。

「みみをすます」は、そういうふうには遊べない。
この詩には、私たちが耳を塞いだまま、聞かずにほうっておいたまま、永遠に失くしてしまった音があまりに多く描かれていて、切なくなるのだ。
この詩を読み、記憶の中にある音を探す。記憶の中にある音を、今再び聞けないか、周囲に耳を澄まし、音を探す。

「ほんの少しのあいだ、すごく静かにすわってみよう。そして耳をすましてみよう」

『音さがしの本』の中の、一節である。小学生向けのこの本は、いかに私たちが多様な音に取り囲まれているか、そしていかに多くの音に気づかないでいるか、を気づかせてくれる。

「たぶん、ほんとうの静けさなんて、ありえないのだろう」
「なにが聞こえていて、なにを聞きたいのか? ほんとうに、だれもが考えてみなければいけないことだ」

この本の著者の名を教えてくれたのは、ピアノ教師をしながら音楽療法の勉強をしていたある友人である。音信が途絶えてしまったが、彼女への感謝の念は尽きない。

下記は、ある場所に提出した「耳を、澄ます」という拙稿の草稿(なぐりがき)である。とりあえず書きたいことをだだだっと書いた、体裁を整える前の、最初の文章。冗長で散漫だが、全文をここに貼りつけておく。
前述の友人、ならびにこの『音さがしの本』への感謝をこめて。


「耳を、澄ます」

 風邪を長引かせていた娘の耳に異変を発見。耳だれが出ている。
 「お耳、痛くない?」
 私の問いかけに、娘はきょとんとした顔でかぶりを振った。耳孔の周りにべっとりとついた膿のような液体は半ば乾いている。痛み、あるいは違和感があったとしても、もう数時間前だったのだろう。まだ二歳にもならない娘は、耳が痛くても気持ち悪くても、それを言い表す術をもたない。ましてや、睡眠中なら気づきもしないはずだ。膿が鼓膜を破り、耳の外へ流れ出て押し寄せる……などという具体的な夢を見てうなされる、などということが二歳の子どもに起こるとも思えない。
 「幼児にはよくある症状ですよ。細菌性でなければ心配はないし、風邪が治れば耳も治ります」
 かかりつけの小児科医の言葉に安堵して、私は娘の耳にせっせと点耳薬を落とした。幸い、耳だれはその日以降、もう出現しなかった。

 しかし、子どもはしょっちゅう風邪をひく。保育園に預けていると、病原菌は次々と現れては空中を伝播し、容赦なく、これでもかといわんばかりに幼児の体に入り込む。娘の耳に耳だれを再発見するのに、さほど時間はかからなかった。
 再び小児科医の診察を受け、前回と同様の処方をしてもらい、そして症状は治まった。

 ところがある日、私は娘の別の異変に気がついた。
 初めて耳だれを出した日から数か月は経過していた。二歳半の娘はよく話し、歌っていた。だがこの日、いつもかける童謡のCDに反応しない。
 「お歌、歌わないの?」
 私が声をかけると、意味がわからないといった様子でじっと私の目を見る。ラジカセの音量を一気に上げると、目が覚めたように音に合わせて歌い始めた。
 私は試しに後ろからそっと、名前を呼んでみた。応答しない。声を張り上げて呼びかける。「はーい」娘は、大きな音声しか聞こえないのだ。
 二度目の耳だれが出たと告げたとき、保育士のひとりに「耳鼻科専門医へ行ったほうがよい」と言われたことを思い出し、私は迷わず耳鼻科医院をたずね、娘を診てもらった。

 滲出性中耳炎。風邪や発熱で併発する急性中耳炎が完治しないと、鼓膜の内側に常に膿などの液が溜まった状態になる。鼓膜を突き破る勢いはないが、だがこのせいで鼓膜が振動しないので音が伝わらないのだ。
 「慢性化しやすい病気です。じっくり根気よく経過を見る必要があります」
 症状に改善が見られないと、鼓膜に通気孔を空ける、副鼻腔の膿を取るといった手術が避けられないという。しかし何より私の頭に響いたのは、医師の次のセリフだった。

 「聞こえが悪いと、発育期に必要な情報が脳まで伝わらない。正しく言葉を発音することや、周りの音を聞き分けるといった能力が育たないのです」

 自治体の発育健診。三歳になっていた娘は「きわめて発育良好」との結果だったが、耳の不安を話すと、保健婦は優しく娘のほうに向き直り、自分の口元を隠して話しかけた。声の大きさがある程度にならないと、近くからの声かけにも娘は返事ができなかった。

 「お母さんの表情、唇の形、お子さんはそれを見て、何を言われているか推察しているんです。聞こえの能力の判断が、お母さんには難しいゆえんです。ですから時々は口を隠して言葉の当てっこをしてみてください。耳元でのひそひそ話ゲームでもいいですよ」

 私はわが意を得たりといった気になって、それから毎日このゲームに興じた。二週に一度、耳鼻科へ定期検診に行き、一か月に一度の割合で聴力検査をした。
 音楽教師をしている友人に、耳が心配だから何か楽器を習わせたいと相談したら、興味深い答えが返ってきた。

 「耳の心配をしているなら、楽器を習わせるよりも、耳を澄ます習慣をつけてあげるといいよ。静かな部屋で、紙を丸めるクシャという音、蛇口から落ちる水滴の音に耳を澄ますの。早朝の小鳥の声や、夜の虫の音に耳を傾けて聴く楽しさを教えてあげて」

 目から鱗が落ちる思いだった。ピアノやバイオリンで耳が肥えても、日常のささやかな音を聞き逃しては不本意だ。そんなことだと、やがては人の心に立つさざ波の音にも気づかない人間になってしまうだろう。

 私と娘は、窓を揺する風の音、隣家の夕餉の支度の音、雨樋に響く小雨の音に耳を澄ました。紙や空き缶を使って音をたて、目隠しをして音の主を当てるなど他愛ない遊びを考えては試した。

 足掛け三年、就学前には娘の聴力は正常に戻った。鼓膜の内側にへばりついていた液はいつの間にか姿を消した。薬の投与も不要になった。
 今でも、風邪が長引いて鼻づまりがひどいと耳が心配になる。そのたび私は小さな音をたてて「今の、聞こえた?」などと尋ねる。
 「今のって……お箸でコップたたいた音のこと?」と、本から顔を上げずにぶっきらぼうに答える娘の声に、心底ほっとするのだった。

まちはこどもでできている2007/01/05 16:55:22

『となりのこども』
岩瀬成子 著
理論社(2004年)

7編の短編の主人公たちは、1編を除いてみな小学生だ。
そして7編はすべて同じ街を舞台に描かれている。

私も、大通りの向こう側の人たちのことはあまり知らない。
でも、行きつけのカフェやレンタルビデオ屋が同じだったり、子どもや親戚が、同じ塾に通っていたり、自転車ですれ違っていたり、するかもしれない。
街は、そういう意味で切れ目がない。
みな、となりのひとの、そのまたとなりのひと。
そしてそのつなぎめには、いつもこどもがいる(いるべき、というべきか)。

この本を子どもに読み聞かせたら、冒険やミステリーではない日常の物語に物足りなさを感じていたようだ。子どもの、細かい心のひだを丁寧に描いているけれど、これを味わうには小学校を卒業する必要があると思った。
3、4年生くらいの女の子たちの喧嘩。
高校生の兄を理解しきれない、6年生の弟。
なついてくる幼稚園児を疎ましく思う5年生の少女。
ああ、私もあの頃こんな気持ちになったっけ。
中高生ならもっと瑞々しい気持ちで読めるだろう。私はオバサンになりすぎたな。おまけに誤植を見つけてしまうし。

この本はおとどし、図書館の一般書書架にあった(児童書の書架にもあったが)のをふと手にして、ざっと読みで惚れこみ、速攻で買い込んだ。以来、岩瀬さんの世界にはまっている。

耳を、澄ます その22007/01/06 11:20:12

『世界でいちばん やかましい音』
ベンジャミン・エルキン作 松岡享子訳 太田大八絵
こぐま社(1999年)


2006年のクリスマスに、私から娘へのクリスマスプレゼントのひとつとして買った絵本。

娘は現在小学校5年生で、5週間後には11歳になるが、自分で物語の本を読むということをまったくしない(涙)。本は大好きで、2週に1度は必ず図書館に行き次に読む本を物色する。だが読むのは本人ではなく、母親の私。おかげで必殺読み聞かせババアと化している。365日×10年余。ほぼ毎日、特別な例外の日を除いて(病気になったり、声が出なかったり……って、もちろん私が)。
娘が自ら開いて読む本は絵本、なぞなぞやクイズがぎっしりつまった「頭の体操、パズル系」の本。だけ。
どうも、ページに字だけが整然と並んでいるのを見ると、即刻睡魔に襲われるらしい。やれやれ。とはいえ、私も同じような年の頃はマンガ週刊誌しか読まなかった。それを思えば、娘のほうがまだましかもしれない。何しろ彼女は新聞は読む(読めるページはごく一部だけれど)。文字に大小があり、写真も豊富な新聞は、眠くならないのだ。

大好きな絵本『ブータン』の作者・太田大八さんの挿画であることと、私自身の育児キーワードのひとつ、「音」がテーマであることから選んだ本。実はずいぶん前からほしかったのだが、本屋へ行っても書架になかったり、オンラインショッピングするときにはさっぱり忘れてしまっていたりで、買いそびれていた。ようやく手に入れて、満足満足。

この本に出てくる王子様は、ブリキのバケツやドラム缶を高く積み上げて一気に崩す遊びがお気に入り。バケツや缶がぶつかり合って起こる大きな音を楽しむのである。
わが子がお座りできるようになったばかりの頃、積み木を危うげに積み上げては一気に崩し、キャッキャッと喜んでいた姿を思い出す。子どもは思いがけなく聞こえてくる音が大好きだし、いつもと違う音に敏感だ。その音がどのように起こるかに興味を示す。音の出る仕組みがわかると何度も繰り返す。

王子様への誕生日プレゼントとして国の人々はいちばんやかましい音をプレゼントしようとするけれど……。物語の結末は途中から予測できるけれど、それでも劇的で、かつ安堵を覚える素晴しい終わりかた。

大切な人に、本当に聞かせたい音とはいったいどんな音なのか。
これは、母親としての私の頭から離れることのない問いである。自戒を込めて、つねに自問している。

ぱたぽんの本名2007/01/06 13:56:46

『まりーちゃんのくりすます』
フランソワーズ文・絵 与田準一訳
岩波書店(1975年)

2006年のクリスマスに、サンタクロースから娘の枕元へ届けられた絵本。
届いたのは75年の初版本ではもちろんなく、05年の第27刷だが、素朴な絵と訳文が時代を感じさせて、なんだかとてもいい。
私も、幼い頃にこんな本を贈られたかったな、と思う。

まりーちゃんはクリスマスが楽しみで、あんなものほしい、こんなものほしいという。
でもひつじのぱたぽんは、私はどうせ羊だから何ももらえない、とすねている。
まりーちゃんは、うきうきワクワクする気持ちを抑えきれなくて、まるで、すねるぱたぽんの話を全然聞いてないみたい(このあたりがとても笑える……娘は「笑うところじゃないよ」と怒るんだけど)。
いっそうさびしくなるぱたぽん。
でも、まりーちゃんはやっぱり優しい女の子。
そしてサンタクロースもやっぱりちゃんと、見ていてくれた。

「幼児から低学年向け」の絵本だ。

――サンタさんに出した手紙、ひらがなばかりで書いてたんじゃないの?
――そんなこと!……あるかも。ははは。
――1年生だと思われているよ、きっと!
――勉強よくできる5年生だと思われてちっちゃい字ばっかりの分厚い本もらうより、ずっといいもん!

というわけで、本人大喜び。
しかも、サンタクロースは我が家の愛猫へのプレゼントも一緒に包んでくれていた。
この本とそっくりのクリスマス。
幸せいっぱいの娘と猫。
サンタクロースはちゃんと見てくれていたわけだ。

原書では「ぱたぽん」はなんて名前なんだろう、と思って調べたら……

「Patapon」だった!

再挑戦できたなら2007/01/06 17:48:00

『カラフル』
森 絵都 著
理論社(1998年)


いろいろな児童文学賞を受賞している森絵都さんの作品のひとつ。日本における児童文学というジャンルをよく知るため、とりあえず何らかの形で評価されている作品を読んで研究しよう、と思っていた頃に購入した本。面白い。いくつか読んだ(といってもこれのほかに2作品だけど)森作品の中で、ダントツに面白い。

意表をついた装幀。センスがよいと思う。
線画のイラストも今風。
子どもに読ませるための本を探す親はターゲットにしていない、という気がする。そうでもないのかな? 子ども自身が自ら選ぶように装幀された本、という外観だ。

中学生の家庭生活、学校生活が描かれる。
幸せでないようで、幸せだ。ごくありがちな、家族と学校。

読者ターゲットも中学生以上……であってほしい。
これをすらすら読んで笑える小学生……いるかもしれない……笑うだけなら。
字面だけを追うことはたやすいが、著者が本当に伝えたかったことをしっかり読み取って受けとめる、それほど深い思索ができる小学生は、たぶんいない。

そう思って、長いことこの本は私の本棚に入れておいたのだが、不要物を整理した機会に子どもの本棚に移した。目につくだろうなと思いつつ。
すると案の定、まもなく娘は「これ読んで~」とねだりにきた。冒頭を読んで興味がわいたらしい。だったら自分で読めよ! と思ったが、本人の理解を超えたボキャブラリーもかなり出てくるので、読み聞かせることにした(で、余談だがそれで誤植を見つけた……購入したての頃に何度も読んだが気づかなかったのに。音読するほうが誤植は見つけやすいことぐらい、わかってるさっ)。
随所にストーリーと関係なく笑わせる小ネタが出てきたり、設定じたいが非常にコミカルだったりするので、聞きながら娘はけらけら笑っている。

しかし本書の主題は、非常に深刻で重大なことなのだ。
病んだ日本の社会の部分部分を切り取ってつないで作ったような物語。

人生を捨ててしまっても、捨てたことを心から悔いて、もう一度生き直せたら。
そう思いながら天に召されてしまった魂が、どれほどあることだろうか。
生き直したい魂ばかりでもないだろうが、やはりもう一度生き直したい、本当は生きていたかったと後悔しきり、という魂もあるのだろう。
しかし、再挑戦のチャンスなど、決して誰にも訪れないのだ。命を捨ててしまったら。

この本を読んで、「あ、再挑戦すればいいのね」と、安易に自殺するバカ者がいないことを願うが、もはやその可能性がなきにしもあらずの世の中だから、もはやティーンエイジャーの気持ちのありようがわからないから、この本は相手かまわず読めと薦めることはできない。

聞きながら「ありえね~」と笑っていた娘よ。
二、三年後、もう一度これを読み直してくれ。
今度は、自分で。君なら大丈夫のはず。

ルーツをたどること2007/01/08 15:07:49

『迷い鳥とぶ』
岩瀬成子 著  柳生まち子 挿画
理論社(1994年)


この本には、祖父の生まれた場所を訪ねて来日する日系アメリカ人の初老男性が登場する。結局、祖父が働いていた場所にはたどりつくのだが、生まれ故郷まではわからないまま、彼は帰国の途につく。

私の祖母は、「ウチは十代前まで遡れる」とかなんとかいっていた。
先祖代々、この場所で、連綿と続いてきた家業。たしかに我が家には、百年以上続いた老舗(そんなもん、このあたりじゃ珍しくも何ともないが)に贈られる盾だか賞状だかがある。十代は大げさだと思うが、四、五代くらい前の先祖の名については書き付けが残っている。墓も江戸時代の元号が彫ってあるし。

しかし、根っこをたどれるからどうだというんだ。
そんなもの、現代に生きる者に何の関係もない。
私の時代は今であり、過去じゃない。ご先祖様なんか、ふん。

そんなことをほざいて、若い頃は「先祖代々云々」が疎ましかった。
早くこの軛から逃れたかったし、意味のない鎖を断ち切りたかった。
生まれた土地に家族と住んでいるうえ、どこまでもたどれる深い根っこを持つ私は、ディアスポラ(離散を余儀なくされた人々)と思いを共有できない。
私は彼らがうらやましく、そうした状況で精神を鍛えたかったと切に思っていた。
自分の痕跡をたどれない。持っていたはずの根を切られ、生死の境を浮遊する植物のような状況。そうした中で生きていてこそ、ほとばしる感情や生命を表現できるはずだ。負荷の大きい道のりであるほど、何に対しても真剣に向き合わざるを得ないはずだ。
がっしり根をはった太い幹から伸びる枝の先に安穏とのっかっていては、何事にも本気にはなれないのだ、と。

しかし私は、愚かにも、中年になってようやく気がついた。
ディアスポラの悲劇など、とうてい理解できるものではない。
日系人として他国で生きる人々の命がけの生活など、想像もおよばない。
帰国残留孤児や在日コリアンの立場に、一度でも、立ったことなどない。

老舗の伝統を維持することの厳しさに挑戦すらしなかった。

そのような私に根っこの有無を議論する資格はないのだ。

この本の日系人・カラキさんの存在は、主人公の少年少女の心にどのようにはたらきかけたのか、読み手の心に何を訴えかけたのか。著者はルーツをたどろうとしてうろうろする日系人を描くことで、子どもたちに何をいいたかったのか。
「わかるような気がするだけ」の私には、こうした問いへの答えを導くことはできず、ただ、自分の子どもに考える機会を与えただけで精一杯だった。

ニット帽をかぶりたい!2007/01/11 17:53:04

さて、今は自分用にニット帽を編んでいる。
昔むかし、弟にセーターを編んだときの茶色の極太毛糸が2玉残っていたので、それを採用。

ゴム編みになわ編みをプラスしただけのシンプルなやつ。
メンズニットのページに載っていたやつなんだが、こんなんしか似合わないと思われる。私には。

20代の頃、ニット帽が大好きで、いろいろと、とっかえひっかえしてかぶったものだ。髪が極端なショートカットだったり、長くしていても小さくまとめていることが多かったのでニット帽は自分にぴったりハマっていると思っていた。しかし、ある頃からかぶらなくなった。
仕事を変えたため、服装にエレガントさが求められるようになった時期。
また仕事を変え、以前の反動で服装にこだわらなくなった分、髪型に凝るようになった時期。
いずれの時期もニット帽はかぶらなかった。
そうこうしているうちに、数年前からニット帽がブームである。
かわいいのがたくさん出回っている。

私は帽子屋さんで立ち止まり、手にとって、ためつすがめつ、どう編んであるのか観察した。で、いざ編むぞと意気込むのだが、まるで時間がない。取りかかれない。
で、もうこの際買うぞと決めた。あちこちの帽子屋さんで、いくつもかぶってみた。げ。似合わない。
いつの間にこんなにニット帽の似合わない顔になったんだ?

どれをかぶっても、横で娘がコメントする。
「イマイチ」
「イマイチ」
「ビミョー」

おしゃれな流行のものは諦めて、私は、数年前の編み物の本から簡単そうなモデルを選んだ。「これを編むぞ!」

娘のショールを編んでいると、彼女が横からエールを送ってくれた。
早く編み終えないと、自分の帽子、夏になっちゃうよ!
まったくだ。短い正月休みに一気に加速しましたよっ。肩はパンパンだよっ。

ショールが無事にでき上がって、娘は大喜び。
ようやく帽子のための4本針に持ち替えられて、私も大喜び。

コトバはハハ2007/01/11 18:27:17

『祖国とは国語』
藤原正彦 著
講談社(2003年)


私が持っているこの本には、著者の自署が入っている。
ちょっと自慢だ。
別に藤原さんのファンでもなんでもないが、「国語教育を論ずる数学者として教育関係者のあいだで有名な人」だったのが、『国家の品格』があんなに大ヒットして、すっかり全国的全世代的有名人になった。
だから、サイン入り本を持っているというと、やたらとうらやましがる人が結構いて、自慢げに見せびらかしてやったりしている。

著者の講演会を取材して記事にする、という仕事があって、その会場で新刊として売り出されていた本書を買い求めたら、サインが入っていたのである。
講演の内容は、この本に書いてあることそのまんまだった。私としては原稿をまとめるのに非常に有用で、助かった。

祖国とは国語、というフレーズは聞き覚えがある。
アルベール・カミュが「私の祖国はフランス語だ」と言ったという話だったか。
あるいはフランス旧植民地出身の作家がフランス語で発表し続けることに言及してそのように述べた、ということだったか。
忘れた。

以前、フランス語圏におけるフランス語のありようについて高い関心を持ち、いろいろと本を読み漁った。フランス共和国とは離れた独立国家に在りながらフランス語で創作する、といった人々が書いた本や関連書籍をよく読んだ。
学校教育をフランス語で受けた世代の場合、彼らは母語として民族語を持っているけれども、思考も表現も手段はフランス語にならざるを得ないのだ。
思考と表現によってモノ・コトが創作され、その織り重なりが文化の姿であるとしたら、そして郷土がその文化を育んでいるとしたら、やはり彼らにとって「祖国はフランス語」ということになるのだろう。

かあちゃん、はらへった  と母語で言い、
私は空腹を覚えた  とは旧宗主国の言語で書く。

フランスは英国同様、実にあちこちに植民地を作った。またフランスの進めた「同化政策」は原住民を「フランス人化」することだったが、この方面での度合いは英国の政策を凌いでいたという。
「同化された」人々の数は半端でなく、またその言語状況は千差万別。それについて述べる知識は持たないが、ただはっきりいえることは、

これは日本人は経験しなかった状況だ

ということと、

こうした多言語の状況にあれば、おのずと人は「ことば」を大切にしようとするであろう

ということ。家族コミュニケーション用の母語も、記述表現手段用の言語も。どちらが衰えても、多方面に支障をきたす。

自分の言語が危機に陥った経験を歴史上持たなかった日本人にとっては理解を超える状況であるし、持ち得ない感覚だ。
今、ようやく日本語が危ないと発言する人が目につくようになった。いつの時代もいたのだが、年寄りの戯言みたいな扱いをされて、聞く耳を持たない人が多かった。今は、若い世代にも声高にそのように述べる人が増えている。
相変わらずカタカナ語の氾濫はなくならず、放送、報道における日本語のずさんさはちっとも修正されないが、少しは真面目に日本語を考える風潮にはなっている。
一過性のブームに終わらなければいいけれど。

コトバはイキモノだ。
人はこの世に生まれたら、育ててくれる人の声を音声情報としてどんどん脳に取り込んでいく。その声は温かみと愛しみ、怒りや苛立ちといった抑揚を含む、厚くも薄くもある音である。
その音は言葉でできている。
人の喉の奥から発せられる音は生き物としての命を持つ言葉なのだ。
それを最初に語りかけるのは、母である。

そういう意味で、コトバはイキモノ、コトバはあなたのハハである。
そういう意味で、母なる言葉はふるさと、郷土であるという意見には賛成だ。
そういう意味でなら、祖国とは国語というフレーズを、われわれ日本人にあてはめてもいい。

最近かまびすしい国語力向上のスローガンが、愛国心をあおる道具になってはならない。
そうですよね、藤原さん。

ルーツをたどること その22007/01/15 10:28:56

岩瀬さんの『迷い鳥飛ぶ』の主人公は、嘘かほんとかわからないような話をべらべらとしゃべりまくって相手の反応を見て楽しむという性癖のある幼なじみを疎ましく思いながら、自分もそんなふうにあることないこと次々としゃべってみたいと思っていたんだ、ということに気づく。

そして、ちょっと乱暴な口の利き方をする中学生の少年と一緒になって、日系人のカラキ老人に、日本のこと何にもわかってないよ、なんてまくしたてたりする。

そして、その中学生の少年とも、迷い鳥のことで口論する。

カラキ老人のことを好ましく思っていない主人公の父は、老人の話の腰を折り、考えを否定することに余念がないように見える。そんな父を母が責めている。母はカラキさんをきちんともてなしたいのだ。
しかし、アクシデントが起きたとき、母は老人に目もくれなかった。父は、老人を責めていたけど、面と向かい、相手の言い分も聞いていた。

岩瀬さんは、子どもがその澄んだ目で、いかに周囲をよく見ているかを描いて素晴しい。子どもたちは特別でもなんでもない、ごく普通。であるけれど、その小さな胸が、日々、葛藤や驚きとか、自尊心と慈愛のせめぎあいとか、小さなねたみや憎しみ、喜びや感動の連続に、時に耐えられなくなりそう……で持ちこたえるところを描く。

すべての登場人物を、わが子に、あるいは自分自身にあてはめてみる。
この子は私の知らないところでどんな話を誰としているのだろう。
今私がしている会話をどのような思いで聞いているのだろう。

子どもの本を読むと、いつも反省する。
ちゃんと聞いてやらなくちゃ、とか。言葉遣いに気をつけなきゃとか。
すぐに忘れてしまうけど。

先週末、近所の肉屋のご主人が亡くなった。
朝夕、登下校する子どもたちに声をかけてくれていた、優しいおっちゃんだった。
たとえばそんなことを、子どもたちはどのような言葉で、どんなふうに話すのだろうか。

えー信じられないっ、といったり、あの人きらいだったー、とか、うちの母さんはこういってた、とか、誰でもいつかは死ぬだろー、とかいってみたりと、会話はいろんな発言が飛び出ることだろう。いや、そうあってほしい。
話題にならなかったり、関心がまったくない子ばかりなんてことだと悲しい。
また、人の死についてあれこれしゃべれないような空気があったら困る。
(「アホォーお前なんか死んでまえ~」といった子どもに「死ぬという言葉を使ってはいけません」と教師が注意する。「切腹を申し渡す」「ははー」と時代劇ごっこしている男児に「切腹なんていうのはやめなさい」と教師が叱る。そんな学校だし、イマドキ)

子どもが本音で発言できる社会でなくてはと思う。
また、そんな子どもの本音発言に、敏感なオトナでありたい、とつねづね思っているのだが。