目から鱗2007/02/07 10:42:58

へとへとに疲れて帰宅したある晩。
娘と一緒に入浴中も、目は半開き、体は重く沈み込む。娘がいなければ本当に頭まで沈没するところだ(浴槽が小さいので二人で入っていると沈めないのである)。
いつもならあっち向いてホイとかどんじゃんけんとかにらめっことか指相撲とか数限りない手遊び指遊び顔遊びに耽るのだが、その元気なし。

「ごめん、今日はお遊びお休み」
「なんでそんなに疲れてるの?」
「……」
「あっちこっち取材に走り回ったの? おっちゃんたちのつまらない会議に何時間もつき合わされたの?」

なんで君はそんなに親の仕事を熟知しているのだ。

「ううん、一歩も外に出なかった」
「だったらなんでそんなに疲れてるの?」
「……パソコンの前にずっと座っていた」
「ずっと座ってたのに、疲れてんの?」
「それがいちばん疲れるのよ」
「だったら、時々立てばいいんじゃないの?」

ほよ。
ほんとうだ。
君は正しい。
目から鱗とはこのことだ。

「そうだね。そうすればいいんだね! いいこと聞いた!」
「いつも頭もっと使えって言うくせに。自分こそもっと使えっての!」

憎まれ口をたたく君の、思いがけないひと言には結構いつも救われる。ありがとうよ、ありがとう。

そりゃトイレにもたつし、お茶を淹れにキッチンにも行く。来客もあるし。
でも、それ以外に動くかといえば、動かないのだ、たしかに。
取材に出たり顧客先へ行ったり、ということに追われる日が多い一方、それがないときは原稿の締め切りに追いかけられてパソコンに貼りつくという結果になる。こういう日こそ、目も肩も背中も瀕死で助けてえといわんばかりのくたくたへとへとしょぼしょぼ状態になるのである。

娘が「時々立て」と言ってくれてから、私は30分おきに腕や背中を伸ばすようにし、1時間おきには必ず席を立って用事がなくても社内をうろつきながらふくらはぎのストレッチなんぞをこっそりするようになった。また、昼食はキー打ちながらコンビニパンをぱくつくということは止めるようになった。食事は食事としてきちんと摂り、食後はできるだけ会社周辺を歩く。
ちょっとしたことだが、案外できないのだ。だからいつも娘の声を思い出せるように、彼女が描いた猫の絵をデスクの前に貼り、「時々立て」と猫がいっているように吹き出しをつけた。さて、これ書き終えたらストレッチ♪

(余談)
目から鱗が落ちる、とはとても日本的な諺だと思っていたら、広辞苑によると聖書に由来するという。イエス・キリストの奇跡によって盲目の男が見えるようになったという話で、鱗は魚のじゃなくて蛇の鱗らしい。

帽子は編めたが2007/02/07 11:23:32

自分のためのつもりで編んでいたなわ編みのニット帽、先週完成。
娘に被らせてみると、ほんとに悔しいくらいに似合う。可愛い。
でも、私にだって、似合うぞ。だって私がかぶることを想定して作ったんだもんなっ。小さすぎるんじゃないかいと指摘されていたが、かぶれるよっ。

来週、娘の小学校では5年生・6年生がスキー授業に出かける。
スキーウエアは友達の娘さんのを借りた。
その友達はスキー場近くでペンションを経営している。
「もう、どのウエアもぼろぼろでとても使ってもらえないよー」
とは、貸さない口実では決してなくて、ほんとうに冬はスキーウエアが普段着&作業着になるらしい。二人の娘さんがいて、上のお嬢さんがまだ3歳か4歳頃に一度遊びに行ったけど、その3、4歳の幼児がとっととリフトに乗り、斜面のはるか高いところからひゅうううーーーんんんと滑り降りる姿には驚愕し感動し、空恐ろしいものを感じたものだった。当時3歳になったばかりの私の娘は、それを宇宙人に遭遇したかのように眺めていた。
借りるウエアはそのお嬢さんのもので、なかなかきれいに保管してあるじゃん、と思ったが、さんざん着倒したから「防水加工落ちてもう効かない」らしい。なるほど、用を成さないのだ。

防水スプレーと、分厚い靴下を購入。
「あとは、スキー帽だね」
「え? 要らないよ」
「帽子かぶらないと寒いよ、雪降るかもしれないし、転んだときのことも考えないと」
「だって、帽子、あるじゃん」
「いつものあれ? だめよ、タウン用で薄いよ」
「お母さん、編んだじゃん。アレかぶる。耳まで隠れてちょうどいいもん」

というわけで、私のニット帽は娘のスキー帽としてデビューすることになった。
スキー授業の日は、奇しくも娘の誕生日なのである。
これをプレゼントにしちゃえと思ったが、「これはお母さんの帽子だからね。借りるだけだからね。だからお誕生日のプレゼントにはしないでね」と釘を刺された。

裏側に名前のタグを縫いつけながら、それでも作ったものを喜んで身に着けてくれるのはいったいいつまでだろう、などと考えた。肩がどんなに凝ったって、喜んでくれるならいくらでもいつまでも、編むさ。

絵本は「本」【上】2007/02/07 19:27:14

『あらしのよるに』
木村裕一 作  あべ弘士 絵
講談社(1994年)


アニメ映画にまでなってしまったシリーズ絵本の第1作。ガブとメイの友情物語の序章に当たる。子どももその親も若者たちをもその渦に巻き込んだ感動巨編。しかしである。関係者にも感動した人々にもうらみはまったくないけれど、私は、『あらしのよるに』はこの一冊だけで完結していて欲しかった、とその後のヒットを好ましく思っていない一人である。『あらしのよるに』はこの一冊だけで十分にスリリングであるし、想像をかきたててくれる。オオカミは、ヤギは、あのあとどうしたと思う? 仲良く一緒にご飯食べたかな? 『おおかみと七匹の子やぎ』のお話を知っている子どもなら、「ヤギさんは食べられてしまう」と残酷な結末を想像するかもしれない。もっと幼い子どもなら「一緒におむすび食べたかな」なんて可愛いことをいうかもしれない。いずれにしても、続編を次々とこしらえてくださったので、このお話には「続き」が存在してしまった。ある意味、親子の楽しみが奪われたといえなくもない。残念である。それほど『あらしのよるに』は、この一冊の完成度が高い。続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する。

といっても、私は「2巻め」以降をまったく読んでいないので、それらについて述べることができないだけでなく、結果的に「1巻め」になるこの『あらしのよるに』が「続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する」なんてもってのほかなんだけど、本当は。

同じ書き手と画家によるのなら、おそらく一冊一冊はどれも素晴しい絵本に違いない。あべさんの絵はとても素敵だ。動物園で飼育係をされていたこともあるというこの人の絵は、観る者に媚を売らない。動物たちとじかに接してきた人ならではの動物の描き方。なんといえばよいのかな、動物への本物の愛という陳腐な表現では足りないな、心の深い深いところから自然に生まれている動物たちへの寛容、厳しくも温かい飼育者の眼(これは、そうした職業経験のあることを知っているから受ける印象ではあるけれど)が、押しつけがましくなくにじみ出ている絵。

完結まで6巻。
その内容はひとつなぎになって、メディアを通じて広く流布された。そしてそのおかげで、初めて絵本『あらしのよるに』を母娘で読んだときの楽しさは、おそらく娘の記憶からは失われてしまった。彼女にとって『あらしのよるに』とは、幼児期に私が読み聞かせた絵本ではなく、オオカミとヤギの切ない友情と恋慕を描いたアニメ映画になってしまったのだ。
(おまけに『小説・あらしのよるに』なんてものがあるらしい。それを立ち読みして感動して泣いたという同僚からその内容を聞くかぎりでは、たしかにわかりやすくて、誰もが泣ける展開だ。でもな、だからって、立ち読みして泣くなよ、同僚)
幸い、その映画をウチの子は一度は観たいといったが、「お母さんは観たくない」というとあっさり引き下がってくれた。

さて。
子どもを膝に乗せ、絵本を広げて読み聞かせる。子どもにとって今ここは、暗い小屋の中。すぐそばにいる見知らぬ相手、でも顔は見えない。外は暴風、豪雨。子どもはどきどきしながら、どうなるの、どうなるの、とわくわくしながら絵本のページを凝視する。目は絵を見ているが、頭の中は、経験したことのない嵐のものすごさを自分が知っている限りの音で感じようと懸命だ。オオカミの声、ヤギの声を、読む親の声を通して恐ろしげにあるいは不安げに解釈している。その子どもの体を打つ鼓動は、親にも、ずんずんと、伝わる。
嵐の夜とはどんな夜なのか。幸いにも大きな自然災害を体験していない私たち。だからこそ、子どもはそれを全身で想像しようとする。本を読む楽しさはそこにある。絵本だろうと、一般書だろうと。まだ見ぬもの、知りえないものの疑似体験をするのだ。読みながら、音声と映像を頭の中で作り出すのは自分自身だ。

『あらしのよるに』大ヒット(というか、大騒ぎ)のきっかけになったのは、某国営放送の某テレビ絵本とかいう番組である。
できるだけ「絵本を読む」感じを損なわないように、動画化せずクローズアップや絵を揺らす程度の動かし方にとどめている。絵本の読み手には、テーマにイメージが合うような(?)有名人を配している。製作者サイドの工夫、苦労がよく感じられる番組だ。
しかし、この番組は、日本中の親子から絵本を読む楽しみを奪っているといっていい。
いや、たしかに、この番組がきっかけで絵本を求めた親子もいるには違いない。
しかし、本は高い。充実した図書館が地域にないこともある。
しかし、家にはテレビがある。テレビで絵本?まあ、ちょうどいいわ。じゃちょっとテレビ見ててくれる、お母さんそのあいだに台所片づけるから。
テレビ絵本の読み手は朗読者としてなかなか優れているし、効果音もあったりで、子どもはすぐ夢中になる。話題のイケメン俳優が読んでいたりすると母親も聞き耳を立てたり。

テレビ絵本で見た本を入手して読み聞かせたら、子どもがよりいっそう喜んだ、だからよかった、よいことだ、といえるだろうか。
たぶん、製作者サイドは「それを狙っている」というだろう。
しかし、テレビ画像化した絵、魅力的な玄人の声、効果音声等を織りなして作られた、完成した5分間の番組として子どもが経験した後では、それによってできあがったイメージを崩す、あるいは凌駕するほどの感動を、親の読み聞かせで提供できるかといったら、疑問だ。親の声を聞きながら、ページをめくりながら、子どもの頭の中では番組が再生されているに過ぎない。

番組がよくできているほど、番組への反響も大きく、たぶん絵本自体もよく売れる。だからって、それでいいのか。

番組を見てから絵本を読んだ子どもの場合、その絵本に初めて出会ったとはもはやいえないし、親の声を通して語られる物語を聞いてもそれで脳裏に甦るのはテレビ音声だとすれば、豊かな想像力を育てる絵本の読み聞かせ、なんてもう戯言になってしまう。
絵本をたっぷり読んだ後で番組を見た場合、違和感を覚えてなじめない子とその逆の反応をする子とでは、どちらが多いのだろう。おそらく、日頃、より親しんでいるのが本なのかテレビなのかで子どもの反応は変わるのだろう。だとしたら、きっと後者が多数派だ。

「この絵本、テレビで見たほうが面白かった」
この子どもの台詞は悲しくないか。テレビ絵本製作者たちにとっても不本意じゃないのか。絵本は「本」であって、テレビ番組の素材でも脚本でもない。絵本を読む楽しみを奪う(つもりはなくても結果として奪う)番組なんか、やめてしまえ、と言いたくなる。

数日前図書館で、ちっちゃな子を膝に乗せて『あらしのよるに』を読んでいる若いお母さんを見た。子どもの真剣な目。その耳元で、お母さんの唇が横に縦に大きく動く。今あの子の中に沸き起こっている世界が成長の糧になればいい、と思う。

絵本は「本」【下】2007/02/07 21:45:10

『あしたもともだち』
内田麟太郎 作  降矢なな 絵
偕成社(2000年)


某国営放送の某テレビ絵本云々という番組を否定するようなことを書いたけれど、我が家では、最近こそ落語ものしか見なくなったが、かつてはそれこそ欠かさず見ていたのである。とりわけ子どもが保育園にお世話になっていた頃は、番組を見るたびに
「これ知ってるぅー」
「今度これ読みたいぃー」
の、どちらかの台詞が子どもの口から出て、番組と競争するかのように絵本を選んで読み聞かせたものだった。

ところで、私は別に「読み聞かせ信奉者」ではない。本なんか、自分で読めよといいたい。よく読み聞かせ活動に熱心な方が居られるが、それ自体は称賛するし拍手を贈るが、私はエゴイストなのでよそさまのお子さまにまで本を読んでさし上げる気はない。本はウチの子のためだけに読むのだ。ウチの子が、私が読み聞かせる以外に本に触れようとしないから読み聞かせているだけである。

この本は、今人気爆発沸騰大流行中の『ともだちや』シリーズの3作め(だと思う)。第1作の『ともだちや』は本を読んでいないけれど、2作めの『ともだちくるかな』を本屋で見て一目惚れし、よし、今度買うぞ!と先送りしたまま買わずにいたら次々と続編が出て、今いったい何冊あるのか知らない。とにかく大好きな降矢さんの絵だからきっとそのうち買うぞ、とは思っていたけれど。
ずいぶん前のことだが、その本の話をしたら娘は「嫌いだ」という。読みもしていないのに何でだと訊くと、「テレビで見たもん。つまんない」
なんだってえ~。

たしかに、このシリーズを例のテレビ絵本で続けざまに放映していたのは知っている。人気が高いので、期間をおいて再放映を何度もしている。
その何度目かの放映を、見た。
なるほど。降矢さんの絵が、伝わってこない。色遣い、タッチ、細かな仕掛け。絵本のページに目を皿のようにして向かって初めて味わえる面白さが、ない。
この本に限っていえば、たしかに面白み半減だ。
だが私は諦めず、この本の愉快さを何とか子どもに味わわせたくて、図書館に行くたび探して(いつ行っても貸し出し中、予約がいっぱい入ってる人気絵本だからホント困った。だったら買えよってところだが)やっと読み聞かせることができた。
その結果、娘はこの本を気に入ってくれたのだ! やった! テレビ絵本に勝ったぞ!
娘は、不服そうな悲しそうなキツネの顔、優しいオオカミの眼をじっとじっと凝視した。落ちている栗の数を数えたりもした。一緒に栗拾いをしてクマのお見舞いに行く気になってくれたのだろうか。

ところで。
この本の第1作『ともだちや』をめぐって派手ではないが議論がある。『ともだちや』はキツネが「ともだち買いませんか~」と、何かくれたら友達やってあげるよ、というストーリーである。あれこれあって、本当の友達のようなものに出会うのだが。
何かと引き換えに友達になるなんて、そんな話は子どもには聞かせたくない。こんな本はよろしくない。
そうおっしゃる方々がいる。
「よろしくない」というのは正論かもしれない。純真な子どもの心に、何もわざわざ、大人の世界でやってるような時給500円で雇い雇われという仕組みを友達に当てはめて差し込むことは、ない。そりゃそうであろう。
内田さんならではの、少し社会風刺の入ったテキストは、ともすれば「何たること」として非難の的になることがある。
しかし、子どもはそんなに馬鹿ではない。
友達をお金で買う。そのことが是であると、この本が言っているわけではない。それを是だと解釈しそのまま疑いもせず大人になった子どもがいたとしたら、それは子どもではなくその周囲の大人の社会が病んでいるのであって、子どものせいではない。
何も知らない小さな頃にこの本を読み聞かされて、幼稚園で真似っこしているのを見て、先生方は目をつり上げて子どもを怒るんだろうか。保護者は出版社に苦情を言い立てるんだろうか。

子どもは、それも含めていろいろな遊びを通して成長する。絵本はそのきっかけを作るには絶好の材料だ。絵本で体験した世界を自分でもやってみる。実際、やってみるとおかしなことはいっぱい出てくる。それを学ぶ。

絵本は本である。楽しむための、本である。マナーや常識を学ぶために社会人予備軍が首っ引きになるようなハウツーものではない。試験合格必勝本でもない。絵本は、開いたひとだけに、そのひとだけが味わえる世界にいざなう扉を、提供してくれるものにすぎない。その扉の向こうには、そのひとだけの世界が待っている。
私の娘も、『あしたもともだち』に、彼女なりの世界を作ってくれたに違いないのだ。

余談。
内田さんの詩集『うみがわらっている』の中に、『いたこども』という詩がある。「うみたくないけど/うんだこども/かわいくないのに/いるこども」というふうに始まる。親をやっている者の心に突き刺さる詩だ。この人のテキストは、字面だけでなく、その行間のそのまた向こうを読み取りたいと思う。力がなくて、なかなかできないけれど。

猫を飼育する2007/02/09 19:05:47

『ネコと暮らせば――下町獣医の育猫手帳』
野澤延行 著
集英社新書(2004年)


猫が病気になって、ただただ心配しておろおろしていたが、医者がいるのをいいことに、自分では何も知ろうとしていなかったことに気がついた。猫という動物について。

金魚が来たときも、ザリガニが来たときも、クワガタが来たときも、タニシが生まれたときも、アマガエルが迷い込んだときも、私はいつだって、彼らについて書かれた飼育専門書を読み漁った。彼らは次々死んでいく。なぜだ、どうして。どうすれば生きていてくれるのか。金魚の専門店に行って薬を求めたり、小動物専門店へ行ってカエルの餌を求めて「なぜ自然に帰してやらないんですか」と叱られたり(だったらトカゲとか売るなよ、もう。怒)。彼らには名医も特効薬もないのだから、帰す自然も周囲にはないのだから、私は真剣に彼らに向かい、共存するために知恵を絞り手を尽くしてきた。

共存と書いたが、こちらが人間である以上、飼育である。
飼って、育てる。人間界に囲い込まれたら最後、彼らは飼われて育てられるのである。

猫も同じだ。
私は猫を「飼育」しなくてはいけなかった。
なのに、初めて我が家に来た哺乳類の小動物を、私はまるでちっちゃな人間のようにとらえていた。今はニャーとしかいわないけれどいずれ「すみませんが喉が渇いたので水をください」ときちんとお座りして訴える日が来るかのように。
猫は犬と違って人間の言いなりにはならない、とか、自立したプライドを持つ生き物だ、とか、猫さまのそうした美点はしっかり尊重して。
月齢2か月で我が家に来てから、母のもうひとりの内孫、娘の妹分、私の二人目の娘のように可愛がっては来たけれど、その体の仕組みや習性、性癖について、飼い主の責任について、金魚のときのように、タニシのときのように、アマガエルのときのように、執念深く調べることはしていなかった。雑誌を立ち読みしたりネット検索をする程度で、獣医やペットショップ店員の言葉を鵜呑みにして、済ませていた。

普通はそれで事足りるかも知れないが、うちの猫は病気になってしまった。
非常にショックだった。費用がかかったこと以上に、自分がいかに何も知らずに家へ猫を招き入れてしまったかを思い知らされ、私は反省した。
これは勉強しなくてはいけない。「飼い主、かく在るべき」という事どもについて。

事の顛末を書いたエントリーに温かく的確なコメントをいただいて、ますますその意を強くし、遅まきながら、道しるべになってくれそうな本を探した。図書館では思うように探せず見つからず、オンライン書店でだだだっと探してシャッと買った。便利な世の中だ。

本書『ネコと暮らせば』は、同時に買い求めた『ねこのお医者さん』(石田卓夫著)に比べて読み物の要素が強く、雑学もてんこ盛りで面白い(たとえばマタタビやカテキンの語源とか、モンゴルではどのように猫を飼っているかとか)。
『ねこのお医者さん』のほうは項目が整理されていて、飼い主の「こんなときどうしよう」にすぐ応えてくれる豆事典。手の届くところに置いとくと役に立ちそうな一冊だ。
いっぽう、読みながら、下町の野良猫や外飼いの猫たちが気ままに遊ぶ様子が浮かんでくるのが『ネコと暮らせば』。子どもと一緒にさんざん読んだ『ルドルフとイッパイアッテナ』(斉藤洋著)をつい思い出す。

猫は、猫という種族として誕生したときから、人間に限りなく近い場所で野生動物として暮らしてきたという。だから人間の生活にもなじんでくれる。だが、野生時代が長かったことによる遺伝子は連綿と受け継がれ、決して人間に隷属しない。
しかし、人の暮らしが自然から遠のき、無味乾燥になったところへ猫を引き込む以上は、猫に我々に同調してもらうための工夫が必要になる。
しっかりと「飼育」してやる気持ちがないといけない。知ってやらないといけない、猫の体と心を。

本書の後半には食事、健康についてのアドバイスが並ぶ。『猫のお医者さん』も併せて、重要だと思われるところに付箋をつけるのに余念のない初級飼い主なのであった。

季節はめぐり2007/02/16 17:15:49

いっとき、えらく寒い日が二日ほど続いたように記憶しているけれど、そのあとまたなまぬる~い暖冬に戻っている。曇天や雨の日は空気がよどんで重くてぬるい。きれいに晴れた、陽光の射す日はその陽光がまるで夏の光の棘だ。洗濯物はよく乾くけど。
今日も、空気は冷たいけど、光に当たると、熱い。

おかげで今日は、花粉がぴゅーぴゅー飛んでいるらしい。
先週かその前の週か、クライアント企業の担当者がいきなり休んで仕事を停滞させてくれたが、どうやら重度の花粉症らしい。花粉の飛ぶ日は、朝から尋常な状態ではいられなくなり、一日寝込んでしまうそうだ。しかし、休んだ日は花粉情報でも「ごく微量」とされた日だったのに。まったく気の毒なことだ。

私も花粉症については重度だと主張したいところだが、かかりつけの耳鼻科医は「あなたのは軽症」と断言する。私はヒノキもイネ科植物もダメなので、花粉の症状は6月になっても続く。
大地に生を受けたものみな開花し種を飛ばし。
結構なことだが、毎年春がこんなに苦しくなるなんて、本当に思いもよらなかった。くしゃみ・鼻水も苦しいが、私にとって最もきついのは目に症状が出ることだ。耳鼻科医はそこのところを、きっとわかってくれていないのだ。面倒なので眼科には行かずに耳鼻科医でアレルギー性結膜炎の薬を処方してもらっているが、PC画面と印刷物をいったりきたりする私の目の、どういう部分がどう疲れていて、だから花粉が入ったらこんなふうにしんどい、なんてことは、耳鼻科医の君にはわかるはずがないだろう。だから今年は、症状が出る前にまず眼科へ行って相談しよう。きっとそうしよう。毎年そう思いながら、実行しないうちに花粉が飛ぶ。

そして今日はどうやら猛烈に飛んでいるようである。
目を開けているのが辛い。
ブログ書いてる場合じゃないんだが。

件の担当者は、昨日も今日も具合が悪いと休んだそうだ。そりゃ、そのはずだ。軽症の私がこんなに苦しいのだから、彼女はもはや復活できないであろう。冬眠ならぬ春眠に入ったということにしてはいかがか。復活できるだろうと思って決済を待っていて、けっきょく復活できないあるいはぎりぎりになってNG出してくれたりした暁には、こっちはどうしたらいいんだい。もう時間がないんだよっ。

明日は法事。いつかの年も、法事だというのに(法事だからこそ、だったかもしれないけど)朝一番に耳鼻科に駆け込み、なんとかその日をしのいだと記憶している。どうしようかな、明日。耳鼻科に行こうか眼科に行こうか。両方行っている時間はない。

季節はめぐり、花粉は飛ぶ。私の目はしょぼくれ、化粧もはがれる。合掌。

本を造りたい!2007/02/19 19:29:22

本を造りたいのである。
出版したいとか著者になりたいというのではなくて、製本をやってみたいのである。
「和綴じ」とか「ルリユール」とか、そういう言葉にはつい敏感に反応して、図書館でも、予定外のそういう手芸・工作ジャンルの本まで借りてしまう。

美大を志したのは、絵本作家になりたかったからだった。
絵本作家は挿絵画家とは違って、作品を本という立体でとらえる。本という形態をとったときに絵がどのように見え、いかなる視覚効果を生み出すかを考えて絵を描いたり造ったりする。本を構成するページ一葉一葉が、両面キャンバスという立体なのである。本造りは、とてもエキサイティングなのだ。絵本作家になるには、自身の絵を立体的にとらえることができなくてはならない。
だが、私は絵が下手だということが判明してその道は挫折せざるを得なくなった。

しかし、それでも美大生であった私が次に志したのは、エディトリアルデザイナーであった。本の版面の割付をしたり、装丁デザインをする仕事である。
本にはいくつも顔がある。表紙、裏表紙、背、見返し……本文誌面が纏うこれら衣装をあれこれ考えることの楽しいこと。さらに、誌面がたとえ文字ばかりであっても、書体、級数、余白のとり方、紙質、紙色、刷り色、そうしたことまでトータルに考えデザインする、エディトリアルデザイナー。
私の進む道はこれしかないではないか。
しかし、そうした職種を募集する会社が、なかった。

根性なしの私は、いちばん早く内定をくれた大手メーカーに入社してさっさとサラリーマンになり、製品開発部署でパッケージデザイナーとして働き始めたのであった。

だけど、だけど、本造りはいつも私の心の隅にあった。
自分の書いたもののコピーをまとめて綴じて、きれいな紙で表紙をつけて。そんな洒落たことをすすすっと手際よくやってしまう友人たちが、私の周りには結構いたりして、「あたしもやりたいよぉ~」気分は高鳴るばかりなのである。

夏休み、子どもが自由研究をまとめる際にも、子どものためというよりは自分が楽しみたくて、表紙はこうしようぜ、赤いいろがみで背を飾ろうな、なんて口出し手出しをした。
子どもには内緒で製本教室に通いたい、とひそかに調査中である。

私がやってみたいのは手作り本なんだけど、きちんとした出版物として印刷技術を利用して、自身で本を造ってらっしゃる方はたくさんいる。
「Apied(アピエ)」もそのひとつ。
ご縁があって、たびたび寄稿させていただいているが、表紙画のセンスや色彩のバランスのとてもよい、美しい本である。感心しながら、自分も参画していることを誇りに思う。

つい近頃、その「アピエ」の10号と姉妹誌の「シネマアピエ」2号が発行された。
本エントリーをお読みいただいたみなさん、よろしければ、下記をお訪ねください。
http://kyoto.cool.ne.jp/apied/

継続は力なり2007/02/20 01:32:47

けっきょく法事の日の朝、耳鼻科へ行った。眼科は開院時間が遅くて一番乗りしても法事に支障が出るとわかったので。

ここ数年、同じ薬(内服、点鼻、点眼)が出ていたのに、今年はちと変わった。私が重症化したというわけではなく、同じような価格帯でいい薬が出てきたということなのだろう。とにかく製薬会社はほくほくのこの時期、新薬もジェネリックもしのぎを削っている。まったく、「花粉」は製薬会社が「桔梗屋」で国家が「お代官様」の陰謀以外の何物でもない。20世紀にも21世紀にも、黄門様はおろかおえんさんもいやしない。

私は、花粉情報はあまり気にしない。
発症してしまったら、飛散量が多かろうが少なかろうが同じことだからだ。
情報よりも、自分のからだが測る「被散」量のほうが自分にとっては正確だ。しかし、薬を飲むと、当然ながら症状が軽くなるので、この「測定」精度は下がる。ちょっとだるいけど、まあまあ、楽かな、という状態が続くと、花粉に対し感覚が鈍る。花粉感覚が鈍ると、どういうわけかほかの感覚も鈍る。私はだから、春はなんとなあく視界はおぼろげ、周囲の雑音騒音もはるか彼方、食べ物も美味しいんだかまずいんだか、薬のおかげでよく眠る、なんて状態で、ならば気が散らないし睡眠もたっぷり朝すっきりだからさぞかし仕事は捗ることだろうと思われるかもしれないが、そんな人間だったら今頃こんな生活していないのだ(つまりそれは花粉云々ではなく性格の問題だ)。

先日のエントリーにルイポスティーや某整腸薬のアドバイスをもらった。
実は私は、朝食前にはリンゴ酢蜂蜜ドリンク(自分でブレンド)を飲み、夕食後に紫蘇漬けニンニクをふたかけ摂ることを日課にしている。両方とも、始めてそろそろ一年だ。
疲れ目や瞼の痙攣、肩凝り腰痛腱鞘炎、局所乾燥肌や金属皮膚炎、歯周病には何の効果もなかったが、春を迎えて花粉症にも効果がないことが判明した。
しかし、まったく風邪を引かなくなり、スローペースながら3キロ減量した。聞こえたか、メダーム、メドモワゼール? 3キロだっ
継続は力なりだ。
だから酢とニンニクに加え、ルイポス茶と整腸薬を加えてもう一年頑張ってみることにしようと決意した。
決意してから、街でブルーベリードリンクを試飲した。目にいいらしい。うーむこれも飲むべきか。そんなに日課を増やして大丈夫か、私。

継続は力なり。
といえば、「Apied」だ。もう5、6年前だろうか、この本の発行人のK夫人と、夢を語り合った。書きたいね。本を作りたいね。
おとなしい奥様然としているK夫人は実はかなりの行動派。るるるんとかろやかに、私がぶうぶうぐるぐるいってる間に自分の手で本を作り、号を重ねて気がつけば10号だ。姉妹誌までできたし。
続けることの大切さを、彼女の本を手にするたび思う。
あなたも、この本を手にとってみてください。
http://kyoto.cool.ne.jp/apied/

回復のきざし(ニャンてこった!その4)2007/02/26 18:38:54

2週間前の2度目の尿検査によれば、我が愛猫は、回復どころかストルバイトという結石のタマゴ(ごく小さい結晶体)なんかが発生していて、ちっともよくなってはいなかった。

抗生物質の種類を再度変え、本格的に療法食に切り替え。
愛猫はお薬もちゃんと飲むし、療法食も嫌がらずに食べる。むしろよくがっつく。ダイエット食には違いないので、腹持ちが悪いかもしれないな。

2週間経った先日の土曜日、尿検査の結果を聞きにいった。
よくなってますよ!
獣医はとても嬉しそうな表情で告げてくれた。
ああ、よかった(感涙)。

完治したわけではなく、まだ療法食は続行。でももう抗生物質はおしまい。よかったなー、猫。やっぱお薬飲むのなんて、猫だって嫌なはずだ。
早く完全回復にこぎつけるためにも、もっと猫について勉強しよう。いずれおみゃーと以心伝心してみせるからニャ!

あかん……2007/02/26 18:57:11

どうやら目薬は効いていないらしい……。
毎年、耳鼻咽喉科で処方してもらう抗アレルギー点眼薬はとてもよく効く。効くといってもかなり楽になるというだけで、目のかゆみやだるさがなくなるわけではないけれど、点鼻薬が鼻水鼻づまりに劇的な効果が出ないのに比べれば、ずっと優れものだった。

でも、今年は逆だ。
クシャミ鼻水鼻づまりは完全抑制。でも、目はダメ。重い。だるい。開けてらんない。
やはり眼科へ行くべきなんだろうな。わかってるけど、どこ行こう。いつ行こう。時間もないし、財布は寒い。……といって先送りしてばかりだが。
目が疲れてても命取られるわけないと思うのがいけないんだけど。
(だってそれで多少仕事の効率落ちても、だからって天地ひっくり返るわけじゃないしさ。文句言う奴には言わせとく)
(だって見えなくなったり幻覚見たりするわけじゃないから生活にも支障ないしさ。いつも眠たそうな顔というだけで)

今日は飛散量大というふれこみだったが、クライアント先の担当者は元気に出社していた。彼女は花粉が飛ぶと強度の片頭痛が起きるらしくて、かかりつけの脳神経科で花粉症の薬を処方してもらうのだそうだ。なんか耳鼻科と脳神経科とを比べて耳鼻科を卑下するわけじゃないけど、「そっちの薬のほうが効きそう」な気がするのは、被害妄想か。

くだらないことをぐだぐだ書いていないで、とっとと仕事を片づけて、明日、眼科でしっかり見てもらおう。半日仕事休むのも、一日座ってさっぱり捗らないのも、大した違いはないんだし。