ゾウさんが、好きです2007/05/31 06:49:10

日経ナショナルジオグラフィック社
『ナショナルジオグラフィック日本版』2007年3月号
40ページ
特集「滅びゆくゾウの王国」


私がいちばん好きな動物は、シマウマである。シマウマは、「縞馬」と書くのが正しい日本語表記なんだろうか。それでは「縞模様のある馬」という意味になってしまうではないか。シマウマはたしかに動物分類上はウマ科に属するんだけど、馬とはまったく違う別の動物なのだ。
私は馬が嫌いなわけではないが、私にとっての馬は、競走馬であったり農耕馬であったり馬車馬であったりと、悲しいながら人のために働いている姿しか思いつかない動物である。
でもシマウマは違う。そりゃ、動物園でしか、シマウマを見たことはない。だが私のシマウマは野生のシマウマだ、あくまでも。
群れをなしてサバンナを駆け、水場に集まり、草を食む。肉食動物から身を守るために草むらにまぎれて身を隠す。美しい縞は猛獣の目を眩ませる命綱でもあるのだ。

私はゾウも大好きだ。子どもの頃から童謡や童話で親しみ、動物園ではちょっぴり芸もしてくれるゾウさんはシマウマよりもずっと身近な動物だった。それでも私にとっての一等賞にならなかったのは、やはりビジュアル的な美しさでシマウマにはかなわないからだ。ゾウさんの瞳は愛くるしいし、皺の刻まれた皮膚を見るとなんだかとてもいとおしい。しかしシマウマの肢体の完成された美に比べてしまうと、どうしても、私の中での美的ランキングにおいては後退せざるを得なかったのである。

しかし、私は認識を新たにした。
上掲の特集では、上空から撮影した群れの疾走や、月明かりのもと水場でくつろぐ幾組もの家族の写真が掲載されていたが、そのゾウの姿の美しさといったら。長い鼻、大きな耳、背に山脈のように隆起する背骨、それらは流線を成して完璧なまでの様式美をゾウに与えている。ゾウさん、あなたたちはそんなに別嬪だったのか。

本特集は、アフリカ大陸中部にある国チャドのザクーマ国立公園に生息するゾウが、象牙狙いの密猟者による虐殺のために、数百頭単位で年々減少していることを伝えるレポートである。

密猟しているのはアラブ系の騎馬遊牧民だという。彼らは、内戦や無秩序状態の続くスーダンや中央アフリカで銃や武器を入手する。ザクーマ国立公園の境界は警備が厳しくなっているが、ゾウの群れは餌を求めて公園の外へ移動する時期があり、そこで狙われる。チャドでは武装レンジャーを結成して密猟者の取り締まりにあたらせているが、隊の規模は、密猟者の数に及ばない。正当防衛の名目で射殺した密猟者の数以上にレンジャーも命を落としているという。ゾウが激減していくのを防ぐ有効な手段とはなっていないのである。

密猟者は、ゾウの体に幾弾も撃ちこみ、倒れたゾウにとどめを刺すため頭部に何発も撃ち、絶命したことを確認すると鼻の根元を切り裂いて象牙を取り外す。目的を達成するとゾウの頭部は、ときには胴体全体も、ずたずたにされる。鼻をもがれ、原型をとどめぬほど顔を切り刻まれたゾウの死骸が数十頭単位であちこちで発見される。

残酷な虐殺行為に遭った果てのゾウの姿は、サバンナを駆ける姿の美しさとは、対照的というにはあまりに哀れだ。写真は、「何かを訴えている」なんつうレベルのものではない。ここまでやるのは密猟者の民族性か? そうはいいたくないが、内戦や反乱で人々が殺し合うとき、かの地では時に命を奪うだけにとどまらぬ死体への残虐な行為が見られた。

象牙はスーダンなどで美術工芸品、装飾品に加工されたり、原型のままアジアへ取り引きされている。象牙の違法取引が盛んなのは、今は中国だそうだ。インターネットなんぞでバンバンさばいているらしい。

ワシントン条約(1989年)以降、象牙の自由な売買が禁じられ、おそらくその影響もあってジンバブエなどのアフリカ南部ではゾウの個体数が増幅し人家への被害が深刻になった。今、そうした地域からの象牙輸出は合法的なものとして認められているらしい。

だから、世界的に象牙が不足しているから密猟がはびこるという図式ではない。
密猟者たちは、一年を通じたゾウの行動を知りつくし、警備の穴をついてゾウを待ち伏せて襲う。密猟者たちにとって、ザクーマ国立公園のゾウを襲うのが最も効率的でより多額の金になるからに過ぎない。

象牙加工技術が古来栄えた国の人間として、たぶん手許にひとつも持っていないけれど、ゾウの命をいただいた象牙製品には誇りと愛着を感じていた。根付、三味線の撥や琴の爪など邦楽器の材料、はんこ。象牙という素材があったからこそ繁栄した技術、芸術である。
象牙加工品の業者たちは「ウチの象牙は天寿を全うしたゾウから合法的にいただいたもの」と説明するのを忘れない。

本誌では、「象牙を買わないでください」と呼びかけている。ナショジオの読者は買わないかも知れない。しかし問題があるのはそこではない。
アフリカの均衡は、野生動物だけで保たれていたのではない。彼らと共存していた人間も、アフリカの生命要素のひとつに過ぎなかった。その均衡を叩き潰したのは、アフリカの大地にはあまりにもなじまない西欧人という異星動物であった。
その責任は重すぎる。ナショジオでゾウ絶滅の危機をいくら訴えてくれたところで薄ら寒く感じるだけだ。彼らの責任は、重い。ほんとうに。

アンリ・ベール、ジュ・テーム!2007/05/31 20:01:48

『スタンダール変幻――作品と時代を読む――』
日本スタンダール協会編
慶應義塾大学出版会(2002年)


スタンダールといえば『パルムの僧院』『赤と黒』しか読んでいない。
「しか読んでいない」なんて卑下したものではないとは思うのだが、本書のような研究書に出会うと、やはり「しか読んでいない」し、「読んだといっていいものかどうかも疑わしい」といわざるを得なくなる。
簡潔に本書の感想を述べるとしたら……。

作家研究とはここまで作家自身をみじん切りにしないといけないのか!
作家の人生を最小単位まで因数分解することなのか!
すごい、びっくりだ!

ということになる。それで終わってもいいけどそれでは自分がつまらないので、もうちょっと書く。

なぜ『パルムの僧院』『赤と黒』を読んだかというと、あのジェラール・フィリップさま主演映画の原作だったからである。もう遠い記憶なのでどっちが先だったか、実はわからない。たまたまスタンダールくらい読んどかないと、と思って文庫本買ってから深夜映画でジェラールさまに出会ったのかもしれない。ジェラールさまの麗しきお姿を最初に見たのは『危険な関係』という映画(これを観ろと私に言ったのはアート・ブレイキーに心酔していた当時の連れだった)で、これでジェラールさまに完全にノックアウトされた私は、以後『モンパルナスの灯』とか『愛人ジュリエット』とか『悪魔の美しさ』とか、ジェラールさまの映画が放映されたら必ず録画し、名画座にかかったら最優先で観にいった。『パルムの僧院』も『赤と黒』もそれら一連の作品のひとつとしてそれぞれ脳裏に残っていて、思い出せるのはジェラールさまの雄姿ばかりで、文学作品としては、たとえば「ジュリアン・ソレル」はどっちの主人公だったかしらと自問しても思い出せない程度の、読み方でしかなかったのである。

荷風の『蛇つかい』のところでも書いたけれど、
http://midi.asablo.jp/blog/2007/05/18/1514108
本書の存在を知り、読破しようと試みたものの、けっきょく全部の論文を読むことはできなかった。それはひとえに私があまりにもスタンダールを知らなさ過ぎるからであり、またスタンダールと同時代人についても、当時のフランスについても知識が乏しいから、みじん切りにされたスタンダールを差し出されてもどう料理して味わえばよいやら、わからないだけなのである。そんななかで、「明治・大正・昭和のスタンダール像/栗須公正著」(p.3-36)で荷風がスタンダールの言葉を『蛇つかい』の題辞として引用していたことを知ったのは大きな喜びであった。

興味深く読めたのは、「スタンダールとマリー・アントワネット/下川茂著」(p.139-160)という論考である。スタンダールが10歳のとき、アントワネットの処刑が行われたそうである。スタンダールは7歳のときに熱烈に慕っていた母親を亡くしているが、《すでに多くの論者が、スタンダール小説の大きなテーマの一つとして母子相姦の問題を取り上げている》(139ページ)という。母を亡くした3年後にアントワネットの処刑という事件に遭遇するわけだが、アントワネットの罪状の中には王太子との近親相姦もあったといい、裁判でも公にされていたのでフランス中がその「罪」を知っていたそうだ。本論で著者は、幼少時にフランス革命を体験し、ルイ16世の処刑については詳述しているスタンダールが、王妃の裁判と処刑について何一つ書き残していないことがかえって、王妃と王太子の関係に対する高い関心を窺わせると述べている。そしてその作中の女性像にアントワネットの姿を投影している、という。『赤と黒』のマチルドとレナール夫人、『パルムの僧院』のジーナとクレリア。
おおお、するとジュリアンやファブリスが王太子ルイ=シャルル! と思うと、『赤と黒』『パルムの僧院』を『ベルサイユのばら』の後半と並行して読まなくては! と違うところに力が入ったりする。
《アントワネットの事件を、少年スタンダールは未遂に終わった彼自身の母子相姦願望を現実に実行した者の悲劇として受けとめた。》(154ページ)
そうなのか、アンリ・べール? 返事をしてくれ、アンリ・べール!

もう一つ、大変わかりやすい論考が「スタンダールの思想的意義/粕谷祐己著」(p.415-434)であった。著者はたとえばスタンダールの『恋愛論』について《「(……)しかしそのあなたの恋愛談義になぜわたしがつきあう義理があるのか」と読者が難ずれば、反論するのは簡単なことではない。(……)スタンダールの著作はもっと作者を度外視しても意義があるのではないか。(……)だから「恋愛論」は本当に、スタンダールの言う真の意味での恋愛体験の持ち主ならば、今でも相当真面目に理解しうる理論的内容の豊かな本ではなかったか。》(416~7ページ)と書いている。その「真の意味での恋愛体験」って、どんな恋愛体験だったら「真」なんだろう、とかつい思っちゃうけれども、要は、スタンダールはあんな体験をもとにこんな恋愛談義を書いてこれこれこういうことを言いたかったのであるのだうむむむ、と読むのではなくて、「うん、あるある、こういう感じ、あいつに似てるじゃん」と思いながら読めばいいのであると私は理解した(違うかな?)。
また、スタンダールによる「結晶作用」についての定義を紹介している(427ぺージ~)が、「結晶作用」とは難しい言葉だけれど、早い話が、恋とは「あばたもえくぼ」、恋が成就しないときは「えくぼもあばた」、そういう心のありさまを結晶作用現象というのだと理解した(違うかな?)。
なーんだ、アンリ・べールったら、そんなこと知ってるわよ、あ・た・し。

文学作品を味わうというのは骨の折れる仕事だ。しかし作家をミリ単位に因数分解したりすることでより深く味わえるというのも事実なんだろう。私はどの作家ともそのように向き合ったことはない。これからも向き合えそうにない。しかし、このように真摯に作家と作品に向かう人たちの膨大な仕事のおかげで、ちょっぴりわかった気持ちにさせてもらえて、また読んでみようという読書欲を抱かせてもらえるのは幸せだと思う。
君は知っているのか、アンリ・べール! 海の向こうで君がこんなにも愛されみじん切りにされていることを、どうなんだ、アンリ・べール!

【さて、6月は児童書月間にする予定。汽車ぽっぽテンプレでまた来週~】