賞味期限のごまかしを云々する前に(続)2008/01/31 20:38:14

前エントリの続き。

本書を読んで、「うわーこれアタシだっ」とグサグサ来たのも事実だが、やはり「うっそー」と驚いたことも少なからずある。その中の最たるものは「家族の行動がバラバラ」だということだ。家族構成員が全員大人で、それぞれが自立して各自責任をもって行動しているということでは、もちろんない。まだ幼少の子どもがいる家庭ですら、そうなのである。

前回、クリスマスツリーやケーキをきょうだいの人数分用意する家庭があることに触れたが、喧嘩にならないように用意することは、たしかに悪いことではない。だが著者が重要視しているのは、「ほかの誰かと協力して何かを作り上げる」機会を親が積極的に奪っているという事実である。

ウチの娘がまだ小学校低学年だった頃、地域のイベントとしてクリスマス会やひな祭り会があり、ケーキのトッピングは子どものたちの喜ぶメインイベントとして用意されていた。しかし、六~十人で一つの班を作って、協力して飾りつけ、出来映えを競うというものだった。大騒ぎである。喧嘩もする。クリームだらけになってワイワイ騒ぎながら、それでも自然とリーダーシップをとる子が現れ、子どもたちそれぞれの作業の得手不得手が明らかにもなる。アイデアを出し合ってきれいで美味しそうに飾ろうとする。私の覚えている限り、もんのすごおいケーキばかりだったけれど、食べたら同じさといわんばかりに、子どもたちは上機嫌でそうしたイベントを終えるのである。

だが本書によれば、親しい家庭どうしが集まって開くパーティーなどでは必ず一人に一個、トッピング用のケーキを割り当てるという。これは現在の主流なのだろうか?

そして語られている家庭の多くが、朝食も夕食もバラバラに摂っている。もちろん事情はあろう。平日はお父さんが早く、きょうだいそれぞれ学校が異なると出発時間が違うので、朝食はバラバラになる。しかし、まだ5歳や6歳の子どもたちでさえ、休日は寝ている親より早く勝手に起きて、それぞれ冷蔵庫から惣菜パックなどを出して食べたりしている、という状態を、家族のそれぞれがこうして自主性をもって一人で行動することはいいことだというふうに肯定的にとらえる傾向が強いのには閉口する。こういう家庭では、正月、クリスマスに限らず家族の誕生日など「みんなで食べる」機会にも「それぞれが好きなものを飲んで食べている」。個性や個人の趣味嗜好を重視するのはけっこうだが、何か違っているように思えてならない。
そのように幼少から「勝手に」「自由に」「一人で」振る舞うのを当然として育った子どもが大人になったとき、協調性が欠けるとか、堪え性がないとか、人の意見を聞かないとか非難されたりしても、その子のせいではない。そうしたことが原因で大きな不祥事にでもなったとき、その責任を、親は取れるか?

本書には、家族はバラバラだけど、携帯でちゃんとつながってますからといった主婦(小学生の親だったと思う)も登場する。このひと言はショッキングであった。そうか、それほどまでに携帯は重要なんだ。命綱なんだ、イマドキの家族の。
便利なツールであることは、私だって否定しない。
高校生になったら持たせてね、という我が娘や、ダメダメ選挙権と同時だよ、なんていう私自身などはすでに過去の遺物として珍重されるに違いない。

もう一つ、なるほどと思ったことは、インタビューに答える主婦たちの言葉の乱れである。それはもう、凄まじい。笑える。
若者や子どもの言葉の乱れ、国語力の低下がいわれてもう幾久しいが、私たちはたしかに、「元・言葉の乱れた若者たち」だったし。カタカナ語を連発する官僚たちはほぼ同世代だし。こんな私たちに育てられた世代がきれいな日本語を使えるはずがない。
言葉遣い(だけではないが)が、子どもじみているのである。

言葉は生きものだ。正しい日本語はこれだ、なんて範はない。そんなに肩に力入れなくても、乱れたら必ず軌道修正の動きが起こって、必ず中庸が存在するようになるものだ。そう思っていたけれど、本書を読んでいささか暗い気持ちにさせられた。言葉が死んでいるのだ。本来もっているはずの語源や意味という輝きを失っている。

子どもじみているのに、言葉はすでに死んでいるなんて。

諦めなくてはいけないのかもしれない。

コメント

_ おさか ― 2008/02/01 11:29:10

この話題、つい食いついてしまう私(笑

食事ね、確かに、耳の痛いことは多々ありましたよ、正直。
うちも朝食は小学生二人は大体同じ(だがかたっぽがご飯、かたっぽがパンという場合もあり)だけど旦那は別、幼稚園児はまだ寝てたりするし。私は残り物を見計らって最後に食べる(じゃないと食べ物が残るか私が太る)。
とにかく食べ物を余らせない、短い時間にちゃんと食べさせていく、にはどうしたらいいかというのを考えると、こうなる。皆同じものを一緒に食べるのが一番望ましいけれど、なかなかできない。あ、でも昼と夜は同じよ。当然。

言い訳になってしまうけど(そして私達は言い訳したがる世代でもある)、私達が母親になった頃はものすごくいろいろ言われた世代ですよね。食が細い、言葉が遅い、おむつがとれない、母乳かミルクか、お友達を作らなきゃとか・・・・豊かな世代の豊かな生活の中で、以前はそれほど問題にされなかったであろうことが、いろんなメディアを通じてつぎからつぎへと突きつけられた感じ。「こうすべき」「このほうが望ましい」という情報はどんどん入ってくるんだけど、どれを優先してどれを後回しにしたり諦めたりしていいのかは、それこそ個人の判断のみ。かなりの自分なりの拘りみたいなものがないと、人間はたやすく楽なほうに流れる、と思います。その「拘り」は育ってきた環境であったり教育の程度であったり本人の資質であったり、いろいろだけど。

母は「私のことだ」と戦々恐々しながらも、「でもこれ、皆が皆こうではないと私は思う。今の若い人には、私の世代なんかよりずっときちんとやってる人もいる。それは確かだ」と断言してました。いや、私のことじゃないですよ(笑)もちろん。言葉のことに関しても、「悪いこと」は表に出やすいけどその逆はなかなか見えない。中高校生でも派手なギャル系はメディアに露出しやすいってのと同じだと思われます。

ところで携帯は、私も最低限高校生になるまでは持たせるつもりありません。中学は目の前だし。リアルな人間関係をさんざん体験してから初めて、メールやネットに行かないと危なくてしょうがない。大体携帯「だけ」でつながる親子関係なんておかしいって。携帯はツールなんだ、単なる。

_ midi ― 2008/02/01 13:47:11

おさっちをなぐさめるつもりはないんだけど、耳の痛いのは私も同じ。家族構成は違うけど、ウチだって(私がオヤジだからさ)バラバラです。でも。

やむをえずバラバラになるというのと、積極的にバラバラにしているということの間には大きな乖離があると思うよ。そしてたぶん最初は誰もが「やむをえず」「しかたなく」バラバラに食事を摂っていたけれど、これが思いのほか、食卓を預かる主婦や主夫にとっては「楽チン」だったんだよね、きっと。だからそっちへ流れていくのが、世の家庭の主流になっちゃった、というところなのでしょうか。

いま、ここで、「それじゃ、だめだよ」と誰かが声高に言うことで軌道修正されるなら、そのほうがきっといいと思います。そういう意味でも、本書はもっと読まれ、取り沙汰されてよいと思います。センセーショナルに騒ぐだけに留まらず、本書の中身を自分のこととして誰もが考えるように。

私は、家族がいつも一緒にべたっとくっついている図、は好きではありません。帰る共通の家がある。家族をつなぐものはそれだけです。家族の構成員それぞれがマイペースで行動しバラバラに日常を送っていても、何かが起こったときに結束し何倍もの英知と判断力、行動力を発揮することのできる共同体であればいいと思う。そうした共同体の最小の単位が家族ですから。
時として訪れるハプニングや危機(災害など大きなことから隣近所とのいざこざ、はたまた子どもの受験などに至るまで)に皆で対処するためにも、日頃から「協力する姿勢」を養っておく必要がある。家族揃って食卓を囲む、時には食事の支度を親子で台所に立ってする、そういうことは「協力する姿勢」の第一歩ではないかと、岩村さんがいいたいのはそういうことだと思えます。私も同感です。

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