ごめんくさい。(中略)ああ、くさ。2008/06/04 20:40:01

岩波書店『図書』
2008年4月号
6ページ
「匂いあれこれ」富岡幸一郎


私の遺伝子が娘を苦しめている(笑)。
その一。娘は外反母趾矯正用の中敷を通学靴に入れている。娘の足型を取ってオリジナルに製作してもらったもので、けっこうな値段だが、整形外科の処方箋に従ったものなので保険が利く。
娘の両足の親指の付け根あたりが出っ張ってきたのは、二年くらい前からだ。バレエのレッスンでポワント(トウシューズ)を履くことが頻繁になったので、そのせいだと思っていた。私の足も、私の母の足も、ひどい外反母趾でその痛みはわかりすぎるくらいわかる。だからその傾向を示しだした足を見るたび娘に「痛くない?」と訊ねていたが、いっこうに痛みを訴える気配がなかった。
昨秋になって、おそらく陸上のトレーニングで疲れがたまったこともあったのだろう、痛い痛いと言い出した。症状をよく聞くと、まさしく外反母趾の痛み方である。嫌がる娘のケツを叩いて、なじみの整形外科に連れていった。ついでに、私も柚子の里で転んだときの捻挫が尾を引いていたので一緒に診てもらった。
医師は開口一番、「外反母趾は遺伝ですから」。ええっとおおげさに驚いて見せた私を睨みつける娘(笑)。私にしろ母にしろ、会社勤め時代のパンプスのせいでこんな足になったのだと思っていた。
「もちろん、直接の原因は先のとんがったハイヒールですがね、そういう靴を履いていても外反母趾にならない人はならない。なる人は、ハイヒールを履かなくてもなります」
「お嬢さんはまだハイヒールなんて履かないでしょう? でも外反母趾になっている。コレはね、外反母趾になりやすいという遺伝子を受け継いでいるからなんです」
ますます私を睨みつける娘(笑)。
「外反母趾の原因は主に足指の運動不足。ものすごくスポーツをやっていても、足指はそれほど運動していないものなんですよ」
私たち母娘の足のレントゲン写真を見比べて、「そっくりだなあ。ほら、出っ張ったところの角度とか」と医師。もはや「怒髪天を突く」勢いの怖い顔をする娘(笑)。

その二。娘の両足を入念に診察しながら、軽度のウオノメなどを発見する医師。
「こういうの、お母さんにもあるでしょう?」
「ええ、ええ、ありますあります」
「こういうのでき易い足だってことなんですよ、母娘揃って。遺伝ですよ、これも」
諦めなさいね、いい子だからねといわんばかりの口調の医師と、遺伝といわれるたび心なしか嬉しくてつい声弾ませてしまう私の横で、娘ひとりが憮然(笑)。

その三。娘は慢性副鼻腔炎を治療中である。副鼻腔炎というのはかつては蓄膿症と呼んだやつで、いわば常時鼻づまりである。ひどくなると口呼吸しかできないので喉を痛める。冬、娘は喉の痛みを頻繁に訴えていたが、熱が出るでもなし、鼻は詰まっているけど鼻水たらたらでもなし、喉の痛いのはのど飴やトローチでごまかしてきた。しかしGWのさなかにとうとう発熱した。喉が焼けるようだというので耳鼻咽喉科へ行く。私も花粉症の薬をもらわないといけないので一緒に受診する。
「発熱は扁桃腺の腫れが直接の原因ですが、この方の場合、鼻が悪いようですね。口呼吸ばかりじゃないですか?」と問われて首を傾げつつも頷く娘。
「うーん、ずいぶん長いこと喉が辛い状態だったんじゃないですか?」
「一過性のものならいいんですが、慢性化している恐れがありますね。根気よく薬を飲まないといけませんが……」
原因は細菌の侵入、またはアレルギー。特定できないので両方の薬を処方してもらって様子見しつつ、しばらく通院することになった。
で、私の番。医師は私の鼻を診ながら「お母さんも軽度の副鼻腔炎ですね。心配はありませんがね」というのでちょっと嫌な予感。医師は続けて独り言のように、「こういうのって、なりやすい遺伝子ってあるのかもしれないなあ」
ああ、先生、言ってはいけないひと言をおっしゃいましたね(笑)。
診察室の隅っこの椅子でおとなしく待っていた娘の肩がピクッと震えた(笑)。

本当に私に似たんだね、君は。
しかも悪いところばかり(笑)
だけど、私は嬉しくてたまらないよ、紛れもなく君は私の子なんだよね。

自分が副鼻腔炎であることは知っていた。小学生だった頃、ある時期を境に、級友たちからやたらと「鼻声だね」といわれるようになった。風邪かと心配してくれる子もいれば、何だその声きもちわりいとあからさまに罵る子もいて、そんなとき私は人知れず傷ついていたのであるが、そうはいってもしんどいわけじゃなし、鼻が詰まっているという自覚もあまりなかったので、忙しい親に「鼻声っていわれるよお」などと訴えることはできなかったのである。しかし、以来、私の鼻づまりは一度として解消されることなく現在に至る。ほどなく軽度の蓄膿症だと知るが、それで医者に診てもらおうなどとはまったく考えず放置してきた。
しかし、代わりといってはおかしいが、嗅覚が衰えないように努めて注意を傾けて生きてきたつもりである。絵描きやデザイナーを志して学んでいた頃、やっていることは視覚がすべてだということに気づいていきなり愕然とした覚えがある。私がいま懸命にやっていることはもし視力を失ったらすべてチャラ。なんてこと。
高校生だったが、すでに私の視力は0.01くらいでこれ以上悪くはならないだろうと思っていた。でもなにかとすぐに結膜炎になるし、しょっちゅうモノモライをつくって膿出しをしてもらわないといけないし、目の健康は非常に覚束ない。
音を聴くだけでも絵を描けるようにならなくては。
匂いを嗅ぐだけでも絵を描けるようにならなくては。
そう思って特別な訓練をしたわけではない。でも、耳を澄まし、鼻をひくつかせ、微細な音や匂いを感じるように、全身をまるで猫の髭か昆虫の触角のように研ぎ澄まそうとした。
だって、私の鼻はすでにハンデがあるのだし。

音や匂いに敏感であれば、いま視界に入っていないものの気配を感じ取るのに役に立つ。人間も動物のはしくれである以上、そういった能力を鍛えておくことは絶対に重要だ、と思う。誰が襲ってくるかわからない世の中だもん。誰が隣で自殺してるかわからない世の中だもん。音がしたら瞬時にその方角を感知せよ。異臭がしたらその場から離れて人に知らせろ。これらは「背後から不審な人物がついてきたら大声を出して走れ」と説く娘の空手の師匠の言葉にくっつけて、普段から言い聞かせている私の言葉である。

上掲の富岡のエッセイによると、イマドキの高校の先生は、喫煙所で一服したあと教室に入る前、消臭剤を体に吹きつけて入室せねばならないらしい。「世の中かくして無臭文明へと突入しつつある」(6ページ)。よい芳香がもてはやされているけれど、人工的な香りが世界に充満することに悪魔的な匂いを感じる、と書いて憂鬱な様子である。
そんなふうに、たいして値打ちもない香りがそこらじゅうにずっと立ち込めているなんて、あまり歓迎できないなあ、と私も思う。富岡はこのエッセイの中で源氏香についても述べているが、『源氏物語』研究者の著作の一節を引いている。「《(……)とりわけ親王たちの着物には、香が薫かれたと。美しい着物には、高貴さを立ち上らせる芳しい雰囲気が似合う。(……)》」(9ページ)

よい香り、とはこのように特別なものであってほしいのである、いまも昔も。異臭はゴメンだが、普通の、多種多様な生活臭がいれかわりたちかわり現れる、普通の暮らしでけっこうである。
古い家が多い近隣では、下水工事がよくあって、そのたびにとんでもなく臭い思いをするけれど、とても人間的な臭いである。屋根裏や床下で鼠が死んでいるらしき臭いがたまらない夏もある。しかし人の住むところ鼠は必ずいるものだ。ゴミ収集車がのろのろ家の前を走るのはその臭いでわかる。喫煙者の多い職場から帰宅した私は煙草くさい。娘の体操服は汗臭い。愛猫がウンチするたびに部屋中が臭い。でも、そんな臭いにもあふれているから、御飯が炊けた匂い、味噌汁の匂い、いただいた花束の香りが素敵に思えるのだ。ごくたまに焚くお香に、非日常の安らぎを感じるのだ。

富岡は、香木の至宝・伽羅の出てくる、森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』も紹介している。弥五右衛門という人物が殿様の命で茶事に用いる香木を外国船に買い求めにゆく。持ち帰った伽羅は重宝され、弥五右衛門は出世する。
はっきりゆって鴎外なんか全然読む気が起こらないのだけど、これは読んでみたいと思わせた。

まつりあげて拝まないといけないほどの香りもなんだかな、と思うけれど、「よい香り」とはやはりこのように特別であって、よい香りがそこいらに充満していたら嗅覚が鈍るのである。生きている人間全員の嗅覚が鈍ったら、世界はエライことにならんかい?

観に来てください、ぜひ!2008/06/06 13:11:14

「THE LIBRARY 2008」という手づくり本の展覧会に出品することになりました。

http://www.h3.dion.ne.jp/~artspace/library2008.html

(上記よりコピペ)
■会場/会期(東京で開催の後、京都にて巡回展を開催)
【東京】2008年6月23日 (月)~7月4日 (金) *日曜日休廊 
  人形町Vision's
東京都中央区日本橋堀留町2-2-9 ASビル1F
http://visions.jp
  日比谷線(東京メトロ)/浅草線(都営)
 「人形町」駅下車 - A4/A5出口(人形町交差点側)小伝馬町方向に徒歩約3分

【京都】2008年8月9日 (土)~8月17日 (日)  *月曜日休廊
  ギャラリーはねうさぎ
京都市東山区三条通り神宮道東入ル
http://www.haneusa.com/
  地下鉄東西線東山駅徒歩3分


お近くの方は、ぜひ足をお運びください。
関東方面の方には、近々DMをお送りします。
関西の方にももちろんお送りしますよ。
でも京都は8月だからね、少し待っててね。

出品数がたいへん多く、取るに足りない私の造形物など埋もれてしまっているかもしれませんが、探してくださいね。

素材はなんと、ろくこさんの……です。内緒よーん、観てのお楽しみ! おほほ~

「本」にするということ2008/06/11 19:35:42

前のエントリーで紹介した展覧会THE LIBRARYは、もう10年以上続いているけれど私は寡聞にして知らなかった。

昨年、製本のイロハを学ぼうと思って半年間、カルチャーセンターの教室に月2回の割合で通い、やっとの思いでつくった一冊を、教室からのグループ出品という形で、とある手づくり本展覧会(兵庫県)に出させてもらった。その会場で、今回のTHE LIBRARY 2008を知ったのである。

とある手づくり展覧会(兵庫県)は、こぢんまりしているがなかなかしゃれた造りのある美術館の一角を借り、たくさんの手づくり本が並べられていた。私の作った本なんぞは、数多のアートな表現に圧倒されて隅っこで小さくなっていたが、それは致しかたないとして(笑)、そこで展開されていた「本」としての表現方法の多様さにいちいち感心した。

これが本か?みたいなのは別にして、たいていの作品は、そこに絵や写真や文章が載っているページを重ねてある、という形態をとっている。表紙があり、めくると中身が現れ、順次めくると読み手のなかにストーリーが紡がれていく、というものだ。

はっきりいって、意味のわからないものや、文章の稚拙なもの、思いはあるんだろうがよく伝わってこないものなど、文章にしろ絵にしろ全体の装丁にしろ、自己満足の域を出ていない独りよがりなものが多い。
だけど、こうして「本」にした時点で、少なくともそこに書かれたテキストにとってはかなり大きなワンステップを上ったことになると思う。

最初につくった猫の絵本や、ろくこさんの……を素材にした今月の出品作なんて、これまたはっきり申し上げるが、とても鑑賞に値するようなものではない。私は自分でつくっていてとても楽しい&嬉しいからつくっている。仕事の合間の、片手間作業だから、とても渾身の一作とはいえない。けれども、形になる前はただ私の頭の中のあやふやなイメージでしかなかったものや、パソコンの中のいちテキストデータが、ある衣装を纏って「実物」として立ち上がろうとする過程、「本」をつくっているとそういうワクワクどきどき感を味わえる。そして、できあがったら、描き散らしたらくがきのような絵や、数キロバイトのわずかな文字データが、三次元の立体となっているのだ。

だって、「本」は、縦×横×厚さ という立体物なんだもの。

デスクトップの平坦な画面にざー、ざー、と流しだされる文字データでは、もうないのだ。
ダブルクリックして開いてスクロールして読むものでは、もうないのだ。

「本」は、あなたがその掌にとり、その指先を使って表紙をめくらなければ中身を見せてくれはしない。そして、一枚ずつ、ページをめくらなければ物語を読み進むことはできない。過って二枚いっぺんにめくってやしないかと、指の腹を使って確かめることも時には必要であり……。

とてもとても観るに耐えないような、私の造形物なんぞ、ほんというとどうでもよいのである。(いえ、もちろん観てほしいけどー。ろくこさんごめん)
「え、これがそう?」
「なーんだ」
「わざわざ観に来てやったのにさー」
「ろくこさんがお気の毒ー」
などと評されるのは目に見えている(汗)。

当ブログに来てくださる方はみなさん、自身もたいていブログなりサイトなりをお持ちであり、日々何らかの文章をしたためることを常としてらっしゃる方々である。その方々に、
「デスクトップの平坦な画面にざー、ざー、と流しだされる文字データ」
「ダブルクリックして開いてスクロールして読むもの」
から、こんな方向へ踏み出してみるのはいかがですか、と問いかけてみたいのである。

みなさんのテキストは、立体になる資格がある。
立体になれば、そのテキストは、今とは違った思わぬ方向へ読み手を誘うはずだ。
みなさんのテキストは、そういう賭けに出る資格をもっている。

「私の文章の加工方法を探すためのサンプル展示」
そう思って足を運んでいただくというのはどうか。

http://www.h3.dion.ne.jp/~artspace/library2008.html


(私とは違って渾身の大作を出品される方にはまことに失礼なもの言いになるけれど、作品を貶める意図はまったくありません。勉強させていただきます!)

おみせやさんごっこ2008/06/13 18:31:25

410円の衝動買い。


福音館書店『こどものとも』
2008年7月1日号〈628号〉
「あいうえおみせ」 安野光雅


近所の、スタバに隣接する大型書店はぜんぜん好きくないのだが、近所ゆえについ立ち寄ってしまう。
私は本は買わないぞと固い誓いをたてているけれど、(娘の参考書など、無駄と知りつつ必要悪として買わねばならないときもあるので)本への出費は止まらない。純粋に自分の心の栄養剤として買うのが、きれいな絵本たちだ。これもよほど気に入った場合だけれど、よほど気に入ってもやはり買えないことのほうが多いけれど、買っちゃうことがある。たとえば410円の月刊絵本。

安野さんの絵。たくもう、なんだってこんなに癒し系なんだろうね。
豪快な油絵や大胆なコラージュ、クレイアートあるいは染め織りの技法も盛り込んだような、画家のパワーがぶんぶん伝わってくる絵も大好きだが、安野さんの水彩画のような、水と、パレットに少量ずつ出された幾色かの水彩絵の具と、丸筆数本と面相筆だけで小さな水彩紙につつつっと描いたような、肩の力のぬけきった絵も大好きだ。絶対真似できないとわかっているからなおさらだ。

『あいうえおみせ』は、見開きの上段には「あいうえお順」、下段には「いろは順」に、いろんなお店を並べて描いてある。
最初のページは上が「あめや、いしやきいもや、うんそうや……」、下は「いしゃ、ろくろや、はなや……」。
「えんとつや」にはサンタがいて、「ほうきや」には魔女がいる。「わさびづけや」や「つくだにや」なんて、日本にしかなさそうな店(あるかな?)もあれば、「ろぼっとや」という「あったらいいな」系の店もある。

この月刊誌には「絵本のたのしみ」という小冊子が付録についていて、作家のコメントなどが載っている。娘が保育園児だった頃、毎月保育園経由で配本される絵本の中にはあたりもハズレもあったけれど、私はこの付録を読むのがとても楽しみだった。思わぬ創作秘話が書かれていたり、読み手が受ける印象とはかけ離れたところで発想されていたりと、たいへん興味深いのである。

その付録の中で、安野さんは中野重治の『萩のもんかきや』という作品に触れている。「もんかきや」とは、紋付き羽織の紋章を筆で正絹の生地に描き染めをする仕事である。(私んちの四軒隣にそれの職人がいる)

この絵本にも「もんかきや」は出てくる。「おけや」「れんたんや」「きんぎょや」。たったひとつの種類の品を売り、あるいはたったひとつ腕につけた技で、一生まかなうことのできた時代の、シンプルな店が並ぶ。

私の町はまだそんな店が多く残っているほうであるようだ。
この本を眺めて郷愁にひたるほどではない。むしろ、「あれ、この店、○○さんちみたいだね」などと、実在の店を思い浮かべて話が弾む。
とはいえたしかに、昔はこんな店のほうが多かった。「ウチは○○しか売ってまへんねん」。そんな店ばかりになっても困るけど(笑)。

去年総合学習で柚子味噌の老舗を訪ねた娘は、その味噌の味にいたく感動し、母も祖母も巻き込んで柚子味噌の試作にのめりこんでいた(三日間だけど)。当然ながら老舗の味は再現できない。だけどそうまでしたくなるほどの美味しさ、あるいはものづくり、商売への情熱は子どもにだって伝わるのだ。

大きくなったら○○屋さんになる! 子どもの口からそんな言葉をもっとたくさん、もっとヴァリエーション豊かに聞きたいものである。

美和2008/06/16 20:20:53


よしえ叔母さんはいつも美味しいお菓子を携えて訪ねてくれる。美和はそれが楽しみだった。よしえ叔母さんの上の娘のあかりちゃんは、美和よりも十二も上だったからほとんど話が合わなかったけど、甘いものの好みはよく似ていた。よしえ叔母さんもあかりちゃんも美和もなんてったって洋菓子派だった。よしえ叔母さんは、美味しいケーキ屋さんを見つけるのが上手だったが、よしえ叔母さんちのある北の界隈はお洒落なケーキ屋さんが最初から点在していたので、美和はよしえ叔母さんに会うたびに「叔母さんの家の近くにある《パリジェンヌ》のチーズケーキ、美味しかったなあ」とか、「叔母さんちの斜交いの《シェ・モニク》の苺ショートが忘れられなーい」などとつぶやいてみせる。するとよしえ叔母さんは、「そうだろう、そうだろう、美和はなかなかグルメだね。《パリジェンヌ》はチーズケーキよりモンブランのほうが美味しいからこの次はそれを買ってくるよ」とか、「《シェ・モニク》はもうパッとしないんだよ、新しくできた《シェ・ピエール》のタルトフレーズを楽しみにしておいで」なんて言ってくれて、美和の楽しみはエンドレスなのだった。
すっかり大人のお姉さんになったあかりちゃんとよしえ叔母さんが、例によってケーキ持参でウチへ来て、新しい店の話をする。最近のイチ押しはイワイヤよねー。ロールケーキがたまらないわよねー。イワイヤ? 岩井屋だろうか、祝い家だろうか、それともIWAIYAか。けれど、ふたりは美和の母親のみずえが訊ねた田舎の大伯父さん、大伯母さんの噂話に花を咲かせて、イワイヤについての詳細なインフォメーションを探る隙を美和に与えてくれなかった。でもきっと、この次はイワイヤのロールケーキを味わえる。美和はそう信じていた。
ある日、雨にもかかわらずよしえ叔母さんが訪ねてくれた。
よしえ叔母さんが頻繁に来るのは美和にケーキを食べさせるためではなくて、みずえの腕をマッサージするためである。みずえは叔母さんの姉で、左腕が麻痺している。美和を産んでから少しずつ進行したらしい。麻痺しているほうもだが、酷使する右腕もマッサージしてくれる。家の中のかたづけも、少し手伝ってくれている。以前はあかりちゃんもきていたが、お勤めを始めてほとんど来なくなった。美和も大きくなって、たいていの家事をこなせるようになっていた。よしえ叔母さんは相変わらず美和を子ども扱いだが、可愛いケーキを持ってきてくれるのは大歓迎だから、子ども扱いに異を唱えるつもりはなかった。
今日は前に言ってた《イワイヤ》のロールケーキかな。
包みを開けて、出てきたのは和菓子の水無月だった。
「みずえ姉さんの大好物だよね」
美和はアイタタタッ、と思った。年に数回、洋菓子の苦手なみずえのために手土産を和菓子にするときがある。心の中でイワイヤイワイヤと唱えていたから、今が梅雨だと忘れていたのだ。
水無月を皿にとり、煎茶を淹れてよしえ叔母さんは、あかりちゃんが結婚することになったといった。準備で何かと忙しいからしばらく来られないのよ。みずえは大喜びでおめでとうを繰り返した。そりゃあ、めでたいけどなあ。美和はボーッとした顔で母親と叔母の会話を聞いていた。叔母さん、しばらく来ないのか……。
月日が流れ、高校受験を終えた美和のもとに、あかりちゃん夫婦と赤ちゃんと、よしえ叔母さんがお祝いを持ってきてくれた。もちろん、菓子折りも。このロールケーキ美味しいのよ、というあかりちゃんの言葉に、美和の脳裏に電撃が走った。ロールケーキッ。イッ……イワイヤッ! イワイヤのロールケーキ? 思わず口走った美和の顔を、よしえ叔母さんとあかりちゃんは不思議そうな表情で見つめた。
「イワイヤ?」
「イワイヤのロールケーキ、美味しいって……」
しばらく考え込むふたり。横からあかりちゃんの旦那さんが口を挟んだ。
「イワイヤって、茶問屋の岩居屋じゃないのか、抹茶ロールケーキで行列つくってた」
あかりちゃんが、ああと大きな口を開けてうなずいた。
「ずいぶん古いお店のこと知ってるのねえ、美和ちゃん。もう何年も前につぶれたわよ」
「ま、本業に専念したってことだけどな。ケーキは止めたんだよ」
……。ずるい。
あんなに、よしえ叔母ちゃんとあかりちゃん、絶賛してたケーキ、食べたかったのに。
もう、イワイヤのロールケーキには二度と会えないんだ。
悔しい。
お祝いいただいたのに、なんて顔してるの。みずえが怪訝な顔で美和にいう。
美和はみずえを睨みつけ、「母さんが水無月なんか好きだから、ロールケーキ食べ損なったのよっ」ともはや誰にも理解してもらえないことを言い募った。
「美和ちゃん、今日持ってきたのは《パティシエール・サラ》のフルーツロールよ、きっと気に入るわよ」
よしえ叔母さんのひと言で、美和の機嫌は直ったのだった。

恭子2008/06/16 20:21:33

恭子はどうしても水無月を食べることができなかった。
呉服を商う恭子の家は代々、町の有力者として采配を振るっているため、この界隈の老舗菓子屋から献菓が奉仕されることたびたびである。理由づけは何であれ、お菓子をいただくのは嬉しかった。恭子の知る限り、献菓を家族で平らげることはほとんどなかった。お客様、得意先、職人さん、仕入れ業者らに出すお茶菓子として消えていく。ところが、水無月は恭子の両親も祖父母も大好きだったため、客には供されずに台所に仕舞われた。
梅雨には、あちらからこちらから水無月が届けられた。日を置くと固くなってしまうので、家族はみんな盛んに食べた。
「ほれ、恭子もおあがり」
祖母は必ずそういって、とびきり美味しい玉露を丁寧に淹れてくれて、水無月にくろもじを添え恭子の前に差し出してくれた。恭子が食べないとわかっていても、そうするのだ。
でも恭子は、おばあちゃんが淹れてくれる玉露は大好きだけど、水無月は食べられなかった。小豆は好きだから、いちど、上に載った小豆を一粒ずつ、くろもじでつついて食べようとしたら、「そんな食べ方するもんじゃないっ」と家族全員による音声多重カミナリが落ちた。以来、もう水無月なんか食べるもんか、と思ってきた。水無月なんかなくったって困らないもん。和三盆や蕨餅、羊羹や干菓子は好きだったのだから。
呉服産業が斜陽になり、町全体も不景気になって、恭子の家も生計を維持するのが精一杯だった。近所づきあいは希薄になり、廃業する老舗も出てきた。献菓の習慣など、いつのまにかなくなった。
それでも恭子の家では、六月には必ず水無月をいただいた。ある年の六月、界隈でたった一軒残った和菓子屋に祖母が水無月を買いに出かけたら、そのあとすぐに強い雨が落ちてきた。恭子が傘を持ってかどへ出ると、祖母がシルバーカーの上に水無月の包みをちょんと載せ、よその家の軒で雨宿りをしていた。その前を、酒屋の玄さんや袋物屋の健ちゃんが大きな傘を差してすうっと通り過ぎる。恭子の小さい頃、両親は近所のお年寄りを見たら必ず声をかけ手を引いた。知らない人でも傘を貸した。たまらなくなって、恭子は祖母に駆け寄った。傘の中に祖母を迎え入れて、早う水無月食べたいわあといった。ほんまかいな、と祖母は笑った。

その箱を開けてはいけません(1)2008/06/18 17:59:41

『筆箱の中の暗闇』
那須正幹作『筆箱の中の暗闇』(偕成社、2001年)所収


30年来の超ロングセラー『それいけ!ズッコケ三人組』に始まる「ズッコケ三人組シリーズ」の作者である。幾度もドラマ化されているので原作のほうはもう誰も読まないんじゃないかと思うが、私の行きつけの図書館では本シリーズのたいていの巻が貸し出し中で、那須さんの書架はいつだってスカスカである。
斉藤さんの「ルドルフ」とか「ナツカ」とか、杉山さんの「名探偵」とか好評でシリーズ化されているものは、第一作の初版がもうずいぶん前のものであっても変わらず子どもたちには人気で、予約しないとなかなか回ってこない。寺村さんの「王さま」なんて40年来の長生きシリーズだ。さすがに古さも感じるが、それでもよく貸し出されている。こんな世の中になっても他愛ない王様の物語を読む子どもが絶えないことにほっとする。こんな世の中になっても、ハチベエ、モーちゃん、ハカセといういまや絶滅危惧種に近い(?)小学校6年生の三人組に共感できる子どもたちがいてくれることにほっとする。

いっぽうで、こういうシリーズもの以外の作品はけっこう見過ごされがちである。

だいたい、シリーズ化というのは出版社側が一本目が売れたから続きを出しましょうと作家に持ちかけて始まる。作家はけっして最初からシリーズ化を考えてはいないのだ。
こうしたシリーズ化の功罪についてはすでに書いたような気がするけど、いつも思うのは、第一作のみずみずしさや感動は、2作目以降は味わえないってことだ。当たり前だけど物語を重ねていくほどに鮮度は失われていく。鮮度が落ちてもなお読者を惹きつける力量のある作家だけがシリーズ化を成功させるということも、いえるけど。つまり、こうした作家さんたちはすごいのである。

話が逸れたけど、そういうすごい作家さんたちの「小品」が、私は好きである。
児童書の書架にあるのに、子どもたちもお母さんたちもあまり手にしていないせいでけっこうきれいなままの本。

『筆箱の中の暗闇』は那須さんの短編集。短いお話がぎっしりで、まるで「小学校ミステリーの宝箱」のようである。そう、これはミステリー集なのである。ちょっぴり不思議な、学校での出来事。読んでいると、もしかして『ズッコケ』を執筆するためのネタ帳をそのまま本にしたんじゃないのか、と疑ったりもしなくもないくらい短いお話がいっぱいである。
子どもは何でも不思議がる。不思議を解くためにどんな想像でもする。そんな子どものとんでもない思いつきを、那須さんが上手に仕立てました、という感じ。

表題作である『筆箱の中の暗闇』は4ページほどの短編。
子どもは学校に行けない。不登校になってしまったのだ。教師も親も心配する。しかし子どもは怖いのだ。学校へ行くと、筆箱を開けなくてはならない。しかし筆箱を開けると……。

筆箱は暗闇への扉。吸い込まれそうになる恐怖で、子どもは学校へ行けないのだ。でも誰にも信じてもらえないとわかっているから、言えない……。

これ、不登校の理由に使えるじゃないか、などと思った私はお気楽で不遜だが。
学校へ行けなくなる、ご飯が食べられなくなる、友達と話せなくなる。子どもに突然訪れる拒絶の感覚はもしかしたらそのような小さな恐怖と大きな想像のコラボのなせる業かもしれない。そう思うと大人ってやっぱ童心には返れないのね、と悲しい気持ちになる。

あ、そこのあなた。
その箱を開けてはいけません。なぜならその箱は……。

その箱を開けてはいけません(2)2008/06/20 15:02:11


『ヨナタンとまほうの箱』
イングリッド・オストへーレン 文
アニエス・マチュウ 絵
いずみちほこ 訳
教育社(1993年)


ヨナタンはねずみである。人家の屋根裏や床下に住んで柱や梁をかじったり、台所の穀物袋に穴を開けて食べちゃったりする、あれである。

ヨナタンはJonathanである。ジョナサンと読みたいところだが、ヨナタンはドイツのねずみだからヨナタンなのである。ドイツではJapanはヤーパンである。
J音をジャ・ジュ・ジョでなくヤ・ユ・ヨで発音する言語はとても多い。例外なくジ音になるのは英語くらいのもんではないだろうか。

フランス語も基本的にはJ音はジ音だけど、Jで始まる他国の固有名詞に限って、ジ音で発音しないケースによく遭遇する。ドイツ語やオランダ語、北欧語ではJ音がヤ行音になり、ポルトガル語やスペイン語ではハ行音になる。そのことをわきまえて、というのか知ったかぶりをするのか、フランスのラジオの国際ニュースでは小泉純一郎をユニシロ・コイズミといい、京都を訪れた観光客はニホホ・シャトどこですかなどと聞く。それが二条城だとわかる日本人って、そうはいないよ君たち。お国の慣習にしたがってJ音はジ音で発音すればいいのに、と思うのだが、名前の発音は出自を尊重するべきであるという意識が根底にあるのだろうか? 留学してた頃の古い話で恐縮だが、クラスメートにはスウェーデン人のJoan、オランダ人のJustus、スペイン人のJorgesがいたけれど、どの教科の教師も彼らには必ず「あなたの名前はどう発音すればよいかしら?」とおうかがいを立て、彼らの申告にしたがって「ヨアン」「ユストゥース」「ホルヘ」と呼んでいた。(そのわりには私の名前の最初の音は必ず「チ」でなく「シ」と発音され、それが改まることはなかった。chはけっしてチ音にはならないのがフランス語なのだ)

というわけでヨナタンに戻る。
ヨナタンは大変カッコよく、頭もよく、勇敢なねずみだそうだ。
ある日、屋根裏を探険していたヨナタン。積まれていた本の下にあった箱をつついたりひっくり返したりしているうち、箱のふたが開いてしまう。すると箱から粉がまいあがり、ヨナタンにふりそそいだ。すると不思議なことに……。

箱のまほうのおかげで、いつもとは桁外れに面白いいたずらをやってのけちゃうヨナタン。豚さんが空を飛んだり牛さんがダンスしたり、ポニーがキャベツでお手玉したり、動物たちも、家の人もびっくり。しかも、ヨナタンの仕業とは誰も気づかない。

でも、楽しいいたずらの時間は唐突に終わってしまう。魔法の効き目がなくなったそのわけは……。

邦訳されているのはこれだけかもしれないけれど、オストヘーレンの「ヨナタン」シリーズはたくさん出ているそうだ。ストーリーに目新しさはないけれど、マチュウの(たぶん)水彩絵の具と色鉛筆の組み合わせによる温かな絵がとても効果的。水彩で着色した和紙をちぎって絵を創るいもとようこさんの作風にも少し似て、おとぎ話にはぴったりである。

儚い、いっときの夢を見せてくれる、魔法の粉。その箱を振ってみて。どんな音がする? 入っているのは魔法の粉かもしれません。

だからほら、そこのあなた。
その箱を開けてはいけません。なぜならその箱は……。

その箱を開けてはいけません(3)2008/06/22 16:47:36

『箱男』
安部公房作
新潮文庫(1982年)※作品初版1973年


箱男、というと、某ぶ○し○う塾に投稿されたどなたかの小粋な一編を思い出す。それ以外にも、箱の中に人が潜んでいるという設定で書かれた文章はいくつかあった。那須さんの『筆箱の中の暗闇』もうそうだけれど、箱の中というとその言葉には何やら深遠さがつきまとう。箱は、一面を除いて閉じられていて、本来その空間には限界があるもののはずなのに、箱は出口のないトンネルのように長かったり、底なし沼のように深かったりするのである。とにもかくにも、蓋を開けてみないことには中身の正体がわからない。開けたとたん何かが飛び出るのなら、話はそこで終わって明快だが、タチの悪いことには、なかなか開かずに音だけがするとか、全開せずに小さな穴だけが開いてそこから覗いて中を推測するしかないとか、そういうケースがままあるのである(あるか?)。

安部の『箱男』とは、箱の中にちんまり座っている小さな男ではない。段ボール箱を頭からかぶった男のことである。彼は、頭のてっぺんから体全体の3分の2程度を箱ですっぽり覆い、下半身はドンゴロスを巻きつけるなどしておおい、道路でも川土手でも好きな場所に座れるようにしている。かぶっている箱はかなり大きなものである。箱の側面から手を出したりはしないで、全部隠している。箱男は、かぶった段ボール箱の中で、拾ったものを食い、本を読み、日記を書き、自慰にふける。箱の内側にはいくつかフックがセットしてあって、ペンだのメモ帳だの手鏡だの懐中電灯だのがぶら下げてある。箱男は、段ボール箱の「座り」をよくするために、自身の頭に雑誌(たぶん少年漫画誌みたいな厚みのある軽いもの)をくくりつけて安定させている。

箱男は路上生活者である。
寝るときは箱をかぶったまま、そのへんに座る。
箱の中で体育座りして、小さく丸くなる。
アパートのゴミ捨て場とか、繁華街の裏通りの、家電量販店が不要梱包材をかためて置いている場所などで、そのようにしていれば、誰もその箱の中で人間が生活をしているとは思わないのである。

箱男は路上生活者である。
路上生活者は移動しなくてはならない。
歩く必要があるのだ。
だから、前が見えないと困る。
したがって、箱男の箱には、ちょうど目の位置に小窓がある。
ご丁寧に、その小窓にはカーテンがつけられていて、それは半透明のビニール片などでできている。
外から箱男を眺める人間は、箱男の視線はわからないけれども、箱男は、そのビニール越しに、もしくは(カーテンは二、三枚の短冊状のものを連ねて貼ってあるので)カーテンをちょいとめくって外を窺うことができる。

《……呼び止められた事さえある。そのたびにぼくは、いつものくせで、傾けたビニールのカーテンの隙間から、黙って相手を見返してやったのだ。あれには誰もが参るらしい。警官や、鉄道公安官でさえ、尻込みしてしまう。》(43ページ)

そりゃ、そうだろう(笑)
迂闊だったな、と思った。
箱の中を覗く、という発想はよくあるし、よくあるとはいえそこにはまたいろいろな想像、さらなる創造が可能である。
しかし、箱の中から覗かれる、というのは、しかも箱の中に住むちっちゃな妖精の視線などというファンタジックなことじゃなしに、等身大の人間が箱の中から普通の人々を「覗きながら移動する」だなんて。

安部公房といえば『飢餓同盟』や『他人の顔』などすぐ思い浮かぶタイトルはあるが、例によってどれも読んだことはなかった。『箱男』のほかに読むとすれば、どれを推薦してくれますか、みなさん。

『箱男』は、箱男の成立の過程を追ううちはぞくぞくして面白いのだが、箱男が女に出会ったり贋箱男と絡んだりするところから、主題が人間の内面の葛藤のようなものに移って面白くなくなってしまう。中から外を覗く、というその行為、しかもはたから見ればゴミと見間違うようないでたちで生活を営みつつ他者を覗く、という行為そのものが書き連ねられていたら、もっとよかったなあ、と個人的な好みから思った。

不法投棄のごとく道端に捨てられたように見える段ボール箱。近寄るとそれはいきなり立ち上がってあなたを睨みつけるかもしれない。こわ。

ぴくりとも動かないからといって、もし、そこの人。
その箱を開けてはいけません。なぜならその箱は……。




いよいよ明日から!
お天気イマイチっぽいけど、みなさんよろしくね! ↓
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Attention please!2008/06/24 13:02:04

展覧会を見てくださったKENさんからのメッセージです。

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展示会会場に到着して、すぐに作品を見つけたと思って見てたんです。
すると、蝶子さんと一文字違いのお名前の方がいるので注意です。
そのまま帰ろうかと思ったくらい、お名前が似ています。

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だそうです(笑)
これから見てくださる方に伝えておいたほうがいいのではとのご提案です。
私のつくったブツには、表面に「鹿王院さんの名前」が大きく書いてあります。

ご感想もくださいましたがネタバレになるので(なってもいいんだけど)、私の胸にしまっておきます。うふ。

みにいってね!
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