観に来てください!(再)2008/08/04 14:35:18

再びお知らせいたします。
「THE LIBRARY 2008」。
東京店開催の折には、みなさんお運びくださいましてまことにありがとうございました。さて、来たる8/9(土)より京都展が始まります。

【京都】2008年8月9日 (土)~8月17日 (日)  *月曜日休廊
  ギャラリーはねうさぎ
京都市東山区三条通り神宮道東入ル
http://www.haneusa.com/
  地下鉄東西線東山駅徒歩3分

http://www.h3.dion.ne.jp/~artspace/library2008.html

いい加減なつくりの私の造形物など、いまごろバラバラに分解しちゃってるかもしれませんが(ろくちゃんごめーん)、ぶじ会場にあったら18秒ほど凝視してやってくださいましね。

私は最終日の搬出時間直前にしか行けそうになく、足を運んでくださるみなさんと現地で談笑、という優雅な振る舞いはできませんが、お近くへお越しの際は覗いてやってくださいまし。

やっぱ、ダメ……・だけど2008/08/11 18:52:58

谷亮子選手が準決勝で負けたとき、解せない気持ちになったのは私だけではないだろうが、それにしても、まだ中学生だった頃からの彼女の活躍をみてきたもののひとりとしては、ああ、大人になったんだあ、お母さんになったんだなあとしみじみ思わずにはいられなかった。
丸くて、どこにそんなパワーがあるんだと思うほどちっちゃくて、ファニーフェイスが可愛らしくて。それがいつのまにか、頬がこけて、目つきの鋭い勝負師と、仕事と子育ての両立に苦悩する母親の、ふたつの顔を併せもつ大人の女になっている。いい顔だ。ほんとにそう思った。
四年に一度の大会に五回連続で出て、ずっとメダルを獲り続けているなんて、とにかく驚異だ。あれこれいう前に拍手。
次の大会も出てほしい。佳亮くんに手がかかってたいへんだろうし、彼女はけっして子育てを人任せにはしたくないだろうし、選手を続けることは困難だろうが、プレイしてほしい。
それにしてもなんだあ、あれ。あれ、柔道なのか? あんなので負けたって気にするこたあないけど、やっぱ勝って、西洋ジュードーなんて邪道なんだよって言ってやりたいよ。
フランスにいたとき、とても柔道が盛んなことを知ってうれしかったけど、自分たち流にやりたいなら違うスポーツとして確立すればいーじゃんか、サッカーからラグビーが生まれたようにさ。日本の柔道をいじくりまわすのはやめてくれ。Je vous le dit, a vous ! Vous, les Francais !!!

なんていってたら、内柴くんという、これも若いお父さんがそのにっくきフランス人を潰して勝った。溜飲が下がるってこのことだね。ほんとすっとしたっ。
近所のスポーツ洋品店では、「金メダルが出たら10%OFF」セールをやっていて、きっと昨日今日は混雑したに違いないのだ(笑)。
水泳でコースケくんが世界新で金という偉業を成し遂げてしまったし。
まったく、盛り上がりまくってええことだ。

しかし、やっぱ、ダメである。
なんで、あの国でオリンピック開催なんか可能だったわけ?
このご時世に注射器使いまわしてエイズ蔓延させて村ごと葬ったりしてる国だよ。
張りぼてみたいなスカスカの建物に未来を担う子どもたちを押し込んで倒壊させて、遺族に金払えばいいんだろーがって開き直って脅すような役人しかいない国だよ。
地方の少数民族のことなんか人間だとは思っていない国だよ。
あの馬鹿でかい競技場のために追放された庶民の行き先とか、各地で起こる暴動の犠牲者の数とか、何も公開しないで握りつぶす国だよ。
なんなんだよあの開会式。
あれ実現させるために何万人が餓死したんだろうと思う。
何万人がまともな医療を受けられずに死ぬのを待っているのだろうかと思う。
各民族衣装に身を包んだ子どもたちが出てきたのを見たときは(子どもたちは可愛いけれども)吐きそうになったよ。
どの面下げてあんな演出できんのさ。
軍のお兄さんたちが足振り上げて行進するのも反吐が出るけど、よほどあの国らしいよね。

けれど、アスリートたちには、開催地がどこなんて、関係ないのだろう。
その国の空気や水が居るだけで健康を害するほど汚染されているとか、その国では収賄が当たり前だとか、その国では公開処刑が当たり前だとか。
晴れ舞台に立てた感激、ライバルと競う喜び、自身の限界に挑む覚悟、そうしたもので心は張りつめてぱんぱん。ほかのあれこれが入る余地なんかないのだろう。

今日、ウチの娘は陸上の記録会で、長らく走る気のなかった1500mを走って自己ベストを出したそうで、ご機嫌である。炎天下をものともせずに連日練習に出かける娘を見ていると、プレイする本人たちにとってはたしかに、大会主催者が誰とか競技場はどことか、そんなのどうでもいいことなのだということがわかる。一緒くたにしちゃ、五輪出場選手に申し訳ないけどね。

しつこいですが8月17日まで開催中2008/08/16 08:45:54

「THE LIBRARY 2008」。
みなさん、あちらからこちらからご来場くださいましてまことにありがとうございます。京都展もいよいよ、8/17(日)までとなりました。

ギャラリーはねうさぎ にて ~8月17日 (日)
京都市東山区三条通り神宮道東入ル
http://www.haneusa.com/
地下鉄東西線東山駅徒歩3分

http://www.h3.dion.ne.jp/~artspace/library2008.html

お運びくださったみなさんからは、大変面白かったとの声をいただいております。200点におよぶ「本」という名の多様な表象、ぜひお楽しみくださいませ。

……と書く本人がまだ見に行けてないんですが(汗)明日のお楽しみにとってあるのですけどね。
噂によると来年は東京と札幌の2会場での開催とか。それだと私自身は絶対に見にいけないけど、もし出品したら、東京の人には来年も、札幌の人には来年こそ、見てもらえるかなー???

ありがとうございました2008/08/18 19:07:47

本年上半期最大のイベント(笑)が終了し、「箱」は無事に私のもとへ帰ってきた。ほんとに、思いがけず大きな「作者孝行」をしてくれた「箱」。あっぱれだったぞ。ありがとうよ。

***

展示会場へ足をお運びくださったみなさま、ありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
メッセージカードを入れてくださった方、昨日、搬出時に受け取りました。感激でジーン。ほんとにありがとうございます。
メールや手紙、電話をくださった方にも、あらためて御礼申し上げます。

***

世の中ではオリンピックの話題で持ちきりだが、それと一緒くたにしてはまったくどちら方面にも申し訳ないけど、こういう公募形式の展覧会ってオリンピックみたいなもんだなーと思わなくもなかった。つまり、「参加することに意義があり、参加しなくちゃ始まらない」ということである。デザインセンスもなく、手製本の技術も未熟であるゆえ、出品にはむっちゃためらいがあったけれど、えいやーでつくって出してよかった。出して、会場にある自分の作品を見たときの「うむむむむ」、他の出品者諸氏の力作の数々を手にとって観たときの「うーむ」。ウーとかムーとかいってごまかすつもりじゃなくて、感じたことが山のように星のようにありすぎて書ききれないのでそう表現したまでなんであるが、こういうさまざまなあれやこれやは、やはり参加しなくては得られなかったことなのである。出品するぞと決めて、プランを立て、試作して、作り直して、完成させて、搬入して、始まって、観てもらって、感想を聞いて……。自分で見て。長い長いこのプロセスはつくり手にしか経験できない時間だ。この時間だけが生んでくれる、多くの人からの励ましや感想。得がたい宝石のような、幾つもの、たからもの。
それと、手応え。
「本づくりは、面白いぞ」。
「何が何でも、自分の本をつくるぞ」。
そういう、手応えである。

私には大手中堅の出版社に勤める友人知人がいるが、今回の展覧会の案内を彼ら彼女ら、つまり編集出版のプロにも出すという暴挙に出てしまった。
そして例外なく温かい言葉をいただいたのであるが(みなさんありがとう。涙)、なかでも嬉しかったのは:

「お話がすごく面白かったよ」

聞いた、聞いた? おーい、鹿王院知子さーん!!!

今回の公募展に出品する前には、芦屋の手づくり本展に参加したが、そのときも今回も感じたのは、本にはやはり「テキストの力」が不可欠なのである。「詩」でも「文」でも「つぶやき」でも「擬音」でも。
装飾やあしらいや仕掛けをすっかり排除したあとの、残ったテキストだけでも持ちこたえうるか?
持ちこたえる力をもったテキストだけが、ページや扉や表紙といった衣を纏っての勝負に、勝ち残れる。

鹿王院知子さんの『箱』は、そんなサバイバルに挑戦する資格のあるテキストである。今回はたまたま私が『箱』を利用させてもらったが、彼女の文章は、そういう「仕立て甲斐」があるのだ。
読み手が最後のページをめくるまで手離さないでいるような本。そういう本に仕立ててやるぞーという気にさせてくれるのである。

鹿王院知子さんへ。
ありがとうございました。次回もよろしくお願いします(笑)。

昭和の王子さま2008/08/19 17:24:47

『楢山節考』
深沢七郎 著
新潮文庫(2007年)


長いこと読書の話をしていないような気がする。全然本を読んでいないのかというとまったくそんなことはなくて、もはや読書だけが寸暇の愉しみ、心の癒しなのであるので、職場の机の上にも鞄の中にも家のマック横にも食卓の端っこにもテレビの前にも枕元にも、図書館から借りた本常時約20冊が散乱しており、何かしらいつも読んでいるという状態である。これは面白いぞ、あの人に勧めたいな、などと頻繁に思うものの無情にも貸し出し期間が過ぎ私の手許を離れ「今度ブログに書く本リスト」にその名が1冊加えられ……ということを繰り返してその「リスト」は何十冊にもなっていて、たぶん、死ぬまでに、読んだ本について全部ブログに書くなんてありえねーと思うのであった。
ありえねー。けど、忙しい目が回る死にソーダなんてぶーすか文句いうのをやめて、読んだ本、読む本、読みたい本ときちんと向き合おうと、悲壮な(?)決意をしているのである。

中学生になって陸上部命!のランニング少女と化した我が娘は、同じ小学校からともに進学し、同じように陸上部命!のランニング少女と化した友達の面々とほとんど毎日一緒にいる。夏休みの部活、皆勤はウチの娘だけなので、5人の少女がいつも全員揃うわけではなかったが、朝や昼の練習、そのあと誰かの家に集合して宿題、そのあと場合によってはなりゆきで晩御飯一緒……。何の話をしているのかしらないが、いくら一緒にいても話は尽きないみたいで、ころころしゃべりけらけら笑っている。その面々に2、3の保護者が加わって、先日、近所のお好み焼屋で晩御飯した。さんざん飲み食いしたあと「しりとりしよう」ということになった。「しりとり」なんかで遊ぶところがまだまだ小学生モードだが、言い出しっぺはご想像どおりウチの子である。3文字の言葉に限定して始めたら、これがけっこう難しい。おまけに親連中が言葉をつなぐたびにこのコギャル予備軍どもは「うわー昭和ワードぉー」「すいませーん意味ふめー」「平成語でよろしくー」などといいよって違うところで盛り上げてくれるのである。親たちは呆れて苦笑いしつつ、いつまでこうして一緒に遊んでくれるんだろうと思うのである。
一方で、昭和ワードっていうのはたしかにあるよな、たとえば何だろう、と、頭の中でいろんな言葉を浮かべては消し浮かべては消していた私であった。

娘が6年生になったとき、初めて「市販の問題集」のようなものを買い求めたのだが、とある本屋でそれが700円くらいだった。もったいないなと思いつつ、しょうがないから財布を開けるとその700円分の小銭がない。げ。しょうがないからクレジットカードを使おうと思うのだが、スーパーの食品レジじゃあるまいし書店で数百円の買い物にクレジットカードってのは……と、約1年半前の私は妙に見栄を張り、あと300円ぶん何か買い足して支払い額を4桁にしようと考え、本を探した。で、見つかったのが本書。362円(税別)。
『楢山節考』は大好きな小説だったが、ウチにはない。しかも、これ以外に深沢七郎を読んだことがなかった。深沢七郎か。ナイスアイデアじゃん、とこれと合わせて1000円プラスアルファでクレジットでお会計。やれやれ、だったのである。
(蛇足だが、この「約1年半前」以上に財布に現金のない状態となっている現在、たとえ30円でもクレジット決済に躊躇しない私である)

自分は、昭和人としての人生よりも、平成人としての人生のほうが、終わってみればきっと長いであろう。それでも、深沢のような昭和の作家の昭和の小説のほうが、自分の身の丈に合うというか気持ちのありように添ってくれるというか、読んでいて落ち着くのである。

《その巡査は私を怒るような口調で言うのだ。
 「しょうがねえなあ、あんな気狂いを、脳病院でも一番重患の部屋に入れたそうだぞ」》(『月のアペニン山』本書26ページ)

《向うでは田中が女生徒と話していた。
 「忘れたら、お尻がアザになる程ツネってやるから」》(『東京のプリンスたち』本書101ページ)

《「熱を入れてるヒトがあるんでショ?」
 とカボチャ頭が言った。
 「スペシャルはいないよ」
 と洋介は言った。》(同106ページ)

ははは。スペシャルって(笑)
とりわけ『東京のプリンスたち』のほうは「プレスリー」とか「レコード」とか「マンボ」などの外来語てんこもりのほか「音楽を聴く」「金がない」と書けばいいところを「ミュージックを聴く」「マネーがない」と英単語を使い、はては「コーモリ」(傘のこと)「ハタチ」(二十歳)など、必要ないのに片仮名で書く箇所がやたら多いなど、昭和モード満開で楽しい。古さを楽しむというよりも、登場人物たちが出入りするジャズ喫茶や、高校での教師とのやりとり、街の書店や駅の風景などを、自分のものとして記憶を辿り物語を追えることが快いのである。

パソコンも携帯もない。自宅の固定電話すら、未成年のうちには自由に使うことがためらわれた時代があった。そんなとき、お目当ての女の子とデートを実現するには信頼できる友人に伝言を頼んだり、手紙を渡してもらうしかなかった。ノスタルジーにかられて昔はよかったなんていうつもりはない。でも、端末の発達のせいばかりではないにしても、そんな道具の台頭とともに、失ったものはたしかにあるだろ? 

『東京のプリンスたち』の主人公のひとり「洋介」は、我慢できなくなって担任と教頭を殴ってしまうが、その拳の出る前には言葉にならなかった幾つもの迷いや悩み、打ち明けたいわだかまりが渦巻いて洋介の脳裏を駆けめぐる。教師は別に頭ごなしに洋介を責めたてるわけでなく、手もとの仕事を片づけながら、ぽつりぽつりと質問を繰り返すだけだ。洋介の言葉を待つのだ。だから洋介は教師の罵詈雑言に「キレた」わけではない。鬱積した思いの発露が言葉でなく拳で出てしまったのだが、こういう若い学生は昔は普通にいたのである。小生意気で、勉強もできないのに肩をいからせて強がって、妙に理想は高いが諦めも早い。中途半端な王子さまたちが、昭和には量産された。他人や社会をこれっぽっちも怖がってはいなかった。だが、悲しいほど口下手だった。
現代なら、流行りの「コミュニケーション能力」という「スキル」を身につけましょう、ということで小学校なら「グループ発表」の時間、中学校なら「スピーチ」の時間、高校なら「ディベート」の時間が、その対策として嬉々として設けられるところであろう。しかしだからといって(……と続けたいところだが本題から外れるのでもう止める)

《おりんは手を延ばして辰平の手を握った。そして辰平の身体を今来た方に向かせた。(……)
 おりんの手は辰平の手を堅く握りしめた。それから辰平の背をどーんと押した。
 辰平は歩み出したのである。》(『楢山節考』本書87ページ)

話をいきなり『楢山節考』に戻すが、私は絶対におりんのような母親にはなれないのである。往生際の悪さには自信がある。私は命を賭けて生にしがみつくであろう(変な日本語!)。

たとえば、幸せな人に会うということ2008/08/21 17:30:43

『人生論ノート』
三木 清 著
新潮文庫(1999年)


品川から乗り換えて三田で降りた。目指す建物は超現代的な摩天楼の姿で目に飛び込んできた。そこへたどり着くためには歩道橋をひとつ渡らなければならない。朝からすでに重い足を、引き摺るようにして歩道橋の階段をのぼる。のぼった私の目に、東京タワーが飛び込んだ。目的地のビルと比べてなんて麗しい姿か。実は東京タワーをこんなに間近に見るのは初めてだった。たしか都庁のてっぺんか、または別のクライアントのビルの最上階とかいうところから、遠目に遠目に眺めた記憶はあるけれど。
不意に現れた東京タワーは、とても華奢で愛嬌にあふれて見えた。もっとごつごつした鉄塔の武骨さにあふれた無愛想なしろものと思っていたが、どんよりした薄墨色の空に、その赤と白のツートンカラーはたいへん美しく映え、私はほんの数秒だがうっとりとみとれていた。

その日の仕事場は、とある講演会の取材だった。カリスマ性のある講師を慕って集まった聴講者たちは一様に皆、講演の当初から陶酔しきったような表情だ。笑い、どよめき、歓声、拍手が、講師が何かを発するたびに会場に波打ち、非常に盛り上がった講演会であった。聴講者たちは誰もが満面の笑顔だ。しかし、そのどれもが、心の奥から、あるいはお腹の底からわきあがった笑みではなくて、どことなく、魔法にかかってつくられたような笑顔、マジシャンのような講師の話術に乗せられ否応なく出たような上滑りした表情のように感じたのは、私だけでなく、同行のカメラマンや営業担当もしかりだった。

そんな笑顔を見せられても、私たちは感動できないし、幸福も感じない。

本書はまだ駒田眼科院長であられたときのコマンタさんに勧められて購入したもので、新渡戸稲造の『自警録―心のもちかた』(講談社学術文庫)と並んで、「一気には読めない本なんだけど、ときどき開いてピンポイントで読んで、よしよしアタシは大丈夫だ、と確認するための本」としていつもそばに積んでいる本である。

本書の読み方は、簡単である。目次はすべて「○○について」となっていて、「○○」について考えたいときにその項目のページを開けばいい。死について、幸福について、懐疑について、習慣について……成功について、瞑想について、噂について……娯楽について、希望について、旅について、個性について。『人生論ノート』の初版は昭和29年というから、著述には時代を感じる箇所があるのは当たり前ながら、著者の意図の核をなす部分は現代に通じて余りある。現代人への警鐘として読むべきところも、見受けられる。

とあるところで「幸せ」について語られていたのでそれに便乗し、今エントリでは本書の2項め「幸福について」をとりあげる。

《今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。(……)幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混乱は種々に論じられているが、倫理の本から幸福論が喪失したということはこの混乱を代表する事実である。(……)
 幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであるといわれるかも知れない。健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。しかしながら今日の人間は果して幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。》(15~16ページ)

なんだか、今の世のお話のようじゃない?

《愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。》(19ページ)

ううううう(涙)。深いじゃない?

《幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。》
《機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。(……)幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。》(22ページ)


「波長ねえ、……合ってるんでしょうね、外してるな、と感じたことないですからね、うん、合ってるんですねえ」
結婚を控えた友人が、頬を紅潮させて、少しはにかみながらしかし確かな口調で言った。私の中に、熱くて温かくて甘い、ほどよい重さのあるなにものかが広がる。この友人は今こんなにも私を幸福にしているということに自覚があるだろうか。たぶんないだろう。その無頓着さが、私をいっそう幸せな気持ちにさせる。私のこの幸せな気分は、日常の小さな出来事で一時的なものに過ぎない。過ぎないが、この友人に思いを馳せただけで幾度も味わえるという意味で限りなく真の幸福に近い、とも思う。そしてまさしく、「鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にする」今の友人は、真の幸福の只中にいるのだ。

夏がゆく2008/08/25 19:49:15

『夏の終わりに』
サラ・デッセン著 おびかゆうこ訳
徳間書店 (2000年)


 新聞もポータルサイトもテレビも「夏休みも残すところあと1週間」「いよいよ夏休み終盤、宿題追い込み」とかなんとかゆっている。ふん。去年も書いたがわたしたちの町の子どもたちはかわいそうに夏休みがまるで短いんだよっ。地域の小学校は金曜日から始まってるよ。娘の中学は今日から「前期の後半」が始まったよ。ゆっとくが夏休みが「早く始まった」わけじゃないんだよ。数年前は大きな夏祭りが7月中旬にあるのでそれに合わせて夏休み開始を早めたりもしていたが、そうやって40日間を確保していたら授業時間足りないんだってよ。そんなわけで今30日間しかない夏休み。公立小・中はみな同じ。
しかも娘の中学は、1週間後には「期末テスト週間」に突入だって、そんなのあり? ウチの子はね、遊んで暮らしていたキリギリスじゃないぞ。早朝は小学生の練習に伴走し、午前・午後は中学の部活、学校で開かれる夏期講座、夏休みの課題でデイケアセンターのボランティア、夜は発表会を控えたバレエの練習。その隙間を縫って宿題。昨日までに終わるわけないって(笑)。宿題のほかにテスト勉強しておくなんて、「不可能」だとか「無理」だとかじゃなくてウチの場合「ありえねー」だから「どんまい!」(by さなぎ)

会社に仏語がらみの仕事が飛び込んで、「誰かチェッカーできる人探してくれ」と上司に言われて心当たりにメールしたけど、誰もいねえよっ(笑)今頃みんなヴァカンスなんですよ、あの人たちはたとえ日本がメイン居住地で日本の職場で生計を立てていても、ヴァカンスはフランス流に取るんだよね。9月中下旬にしか帰ってこないんだよね。それを許してる日本社会ってなんなんだよ、と思わない? 日本の人口の半分くらいがフランス人にならないかなあ。そしたら感化されてフランス流のヴァカンスの取り方するように、ならないかなあ。

本書の舞台はアメリカ。アメリカの児童文学やティーンズ向け小説は次々紹介され翻訳出版花ざかりだが、うーん、なんだかなあ、という本が多いのでなかなか手を伸ばす気になれない。子ども向けだけでなく、大人が書くものも、フィクション、ノンフィクションを問わず、なんだかなあ、である。そりが合わないのだな、あたしとは、きっと。
でもこの本は、表紙の絵がキュートだったので、なんと発売当時に衝動買いしてしまったのである。

15歳のヘイヴンは実に憂鬱な夏を過ごしている。スポーツキャスターのパパはお天気お姉さんと不倫の果てに再婚するし、5歳上の姉アシュリーも結婚を控え、その準備で家族は振り回される。おまけに身長は伸び続け……。面白くない、面白くない! イライラを募らせ塞ぎ込むヘイヴン。ある日、ヘイヴンの前に突然、アシュリーの昔の恋人サムナーが現れる。サムナーとの会話に、ヘイヴンの心は徐々にやわらかく変化していく。

思春期の、やり場のないいらつきや言葉にならないもやもや、素直になれずについ口にする言わなくてもいい一言……などを上手に描いた作品が、私は好きである。
私も、なんだかあの頃は不完全燃焼だったよなあ、と思う。もちろん、爆発して燃焼してしまってたらどんなことになってたか、一歩手前で分別取り戻して(あるいは思い切りがなくて)踏みとどまるから思春期なんだけど、それにしても、と思うから、爆発してしまったり、転がってしまったり、そんな友達に巻き込まれたり、という物語が好きである。

本書は、とっぴな物語でもなんでもないけれど、ちょっと身体的なコンプレックスをもつ15歳の少女のイライラもやもやムカムカどきどきがよく表れている。主人公ヘイヴンの描き方には好感がもてる。
夏休み、長いもんね(笑)そんな鬱陶しい状態が2、3か月続いたらやーだよね。

けれども、主人公と姉、主人公と母、近所のおばさん、出て行ったパパ、再婚相手のお天気姉ちゃん、バイト先の店長、客、サムナー……といった関係性の描き方が、足元をすくわれるような印象を持ったり、えっそうなるの?とあまりに意外だったり、なんだか腑に落ちない箇所に頻繁に遭った気がしたのである。

それはたぶんとても「アメリカ的」な箇所なのであろう。私は日頃から嫌米を標榜してるけれど、実は普通の米国人の普通の生活を何も知らない。私のアメリカ経験は高1のときにクラスに来た留学生と仲良くなったことと、20代の初めにロスやニューヨークに住む日本人の友達を訪ねて旅行した1週間がすべてだ。アメリカ合衆国は日本で最も頻繁に報道され紹介される国だけれど、普通の人々の暮らしの中に入ったことがないから、アメリカ発の出版物を読んでもピンとこないことが多すぎるのである。

本書も例外でないのだ。アシュリーがヒステリーを起こすところ、お天気姉ちゃんの妙な明るさ、近所のおばさんの関わり方。

本書はサラ・デッセンのデビュー作だが、もしかするとこの「こなれなさ」はそこに原因があるのかもしれない。岩瀬成子さんのデビュー作(『朝はだんだん見えてくる』理論社)も磨ききれていなかったでこぼこやざらつきが文章に残っていて、それが作品の魅力なのだが、違和感なく受けとめられたのは、舞台が日本で昭和のある時代のある町だということが、私の場合大きいのだろう。かたや本書は、当時大学生だったデッセンが書いた、たぶんでこぼこやざらつきの残る文章を、訳者のおびかさんがきれいに、かつ、やはりそのざらつき感はいい意味で残るようにと苦心して訳した結果なのであろう。
それが私にはどうにも消化しづらいのだった。

とはいえ本書は40代のオバサンをターゲットに出版されたものではないのであるから私の感想はどうでもいいのである。
十代の多感な少女たちが読んで、ヘイヴンに共感してくれたら嬉しい。
売れ行きはいかほどか知らないが、デッセンの第2作、第3作もおびか訳で出版されている。出たばかりの『愛のうたをききたくて』(徳間書店/2008年7月)は高校を卒業した少女のこれまた「長い夏」を描いたもの。続けて出るんだから、日本のヤングアダルトたちにはウケているのかな?

急に朝晩涼しくなって慌てて肌布団出したり、いきなり雷雨が来て夏祭りの設営片づけたりで、ゆく夏を偲ぶ、なんて情緒はかけらもない。今年もノーエアコンで過ごした我が家では、盆明けから扇風機が回っていない。涼しいからだ。家中、開けられるところはすべて開けていたが、徐々に閉めるところが出てきた。夜はすっかり空気が冷たくなって、きちんと閉めて寝ないと寒い。なのに銀行とか定食屋とか、あちこちでけっこう冷房を入れてくれる。冷房完備が自慢の中学校はどうだろう。今日、娘は寒くなかっただろうか。心配だ。早く帰ろう。

続・夏がゆく2008/08/26 19:53:07

『ひまわりの森』
トリイ・ヘイデン著 入江真佐子訳
早川書房(1999年)


昨日、平気でフランス時間のヴァカンスをとるフランス人たちめ何てヤツだ、みたいなことを書いたけど、普通に日本企業に勤めて日本人サラリーマンのごとく働いているフランス人をわずかだけど知っている。私の知り合いにはそのパーセンテージは低いというだけで、たぶん首都圏だとそっちのほうが多数派に違いない。ということは、いくらフランス人が増えても日本人みたいなフランス人が増えるだけでヴァカンス改善にはつながらないのだ。あーあ。今年もこうして同じようなことをぼやいて夏がゆく。

私のいちばん好きな花はひまわりである。
というのも私は太陽崇拝者なので、太陽を追っかけるひまわりにシンパシーを感じているのだ。若い頃、ひまわりのコサージュを大小2個買って、それを黒や茶の無地のワンピースにつける、というのがお気に入りのお洒落だったのだが、あのコサージュはどこに行ったのだろう。バブルけたたましい頃、あのコサージュをつけてパーティーに行き、デカイなそのひまわりぃと周囲から言われて得意げだったピチピチの私。

留学先を南仏にしたのは、映画『ひまわり』で観たひまわり畑と同じような風景を見られると期待してのことであった。実際には、私が選んだ海に近い町ではひまわり畑なんぞなく、丘陵地のほうへ小さな旅をしなければならなかったが。
見渡す限り広がるひまわりは、小学校の花壇とか、植物園のひまわりコーナーとかを凌駕して気高く感じられた。独りすくっと咲くひまわりも好きだったけど、群れて咲く大きな花の迫力に私は息を呑んだ。まるで、全世界を見てるわよ私たち、と叫んでいるように思えた。

娘が生まれ、初夏の街を子ども連れで歩くとひまわりの種をよくもらったものだ。ミニひまわりだったので、小さな鉢に植え、小さいながらもすくっと立って空を見上げるように咲く姿を楽しんだ。種も収穫したが、皿に広げて置いていたら、ある夜ネズミの食害に遭ってしまった(涙)。

本書が描く「ひまわり」は、痛切な記憶の象徴である。

トリイ・ヘイデンの本は『機械じかけの猫』が最初だった。若干冗長な箇所があるものの、とても面白い小説だった。私は以前からヘイデンの本を読みたくてウズウズしていたけれど、内容に圧倒されて読み進めなくなるのではないかという、児童虐待の事実への恐怖心が先に立ってなかなか手にできなかった。
が、『機械じかけの猫』に続いて本書『ひまわりの森』を読んで、彼女の既刊書に手を出す気になったのであった。

ヘイデンのノンフィクションは世界各地でベストセラーになっている。思わず目をそむけ耳を閉ざしたくなるような苛酷な事実の数々を、ヘイデンは実に滑らかに童話を紡ぐように物語化している。そのストーリーテリングのうまさがヒットの理由には違いない。

しかし、事実を語るのがうまいのと、書いた小説が面白いのとは、仕事としても重ならないし、別の次元の話だ。そういう意味で、ヘイデン初の小説である『ひまわりの森』は、ノンフィクションがすでに何冊も世に出ていてその仕事ぶりを認められていた者だから出せたといっても過言ではない。ヘイデンをすでに読み、彼女が見つめてきた子どもたちのこと、子どもを虐待する親たちのこと、そうした心が暗くなる問題のさらに暗い奥底をヘイデンとともに著作を通して見つめてきた読者でなければ、読破する体力はないかもしれない。

舞台はアメリカのカンザス。17歳のレスリーはボーイフレンドを持った経験のないことに劣等感を抱いている。私を愛してくれる男の子なんて現れるのかしらと不安だ。一方で、レスリーはそれどころではない。母は体調や精神状態が不安定になることが多く、レスリーが家事をしなければならないことがよくあった。母のために家族は幾度も引っ越しをした。だが高校卒業を控え、レスリーは今どこにも引っ越したくなかったのだが……。やがてレスリーは、母が少女時代のおぞましい体験によってひどく心を蝕まれていることを知る。彼女に献身的に尽くす父。背伸びして自己主張をする妹。家族は母を必死に支えようとする。なのに恐ろしい事件が起きてしまう。レスリーは、母が思い出をたどってよく口にしていた「ひまわりの森」を見に行こうと決意する。

第二次世界大戦の傷痕がレスリーの両親を支配している。私たちが広島と長崎の記憶を風化させないよう懸命になるのと同じで、いや、それよりもずっと強い意志で、欧米の人々は、ナチスの蛮行に代表されるあの戦争の残した亀裂や断絶や癒えない生傷、継承される悲痛を、あらゆる方法で書き残そうとしているように思える。本書も然りだ。

読むのはかなり辛いけれど、戦争の要素こそが物語に厚みを与え、読めるものに仕立てている。もし本書にそれがなかったら、かなり退屈な物語に成り下がっていたであろう。

後半、レスリーは長い夏休みを利用して旅をするが、滞在先での彼女の心情の変化にしろ、彼女の世話をする人物の心模様にしろ、少し息切れがしたのかなと思わざるを得ないような粗さを、その描き方に感じる。ただ、レスリーをカンザスからヨーロッパに大きく移動させたことは悪くなかった。
カンザスという場所は私にとって『オズの魔法使い』のイメージしかないので、荒涼としていて広すぎて、密な人間関係を想像しにくい舞台だ。広い場所、広い土地、広い道路、広い空。長い夏休み。アメリカのだだっ広さは、やはり小説を理解するのを妨げてくれるよ。
ともあれ、なんだかでかいところ、というイメージの場所から一転させることで読者をひっぱっている。ヘイデン自身、力を込めたところであるらしい。
結果的にたいへんな大作だが、たぶん、全体的にレスリーの恋や妹のエピソードなどはもっと削いでもよかっただろう。そうすれば、母の病める心と、その母を愛し抜く父の心がもっと際立って読む者の心に届いたに違いない。

母さんの愛したひまわりの森へ、みんなで行こう……レスリーは幾度となく父に訴える。だが、レスリーのひまわりも、母親のひまわりも夏の蜃気楼だった。「ひまわり」は人物の記憶と想像の中で巨大な救世主のように神話化され、消え去る。
私の愛するひまわり――清く正しくおおらかな――とはまったく異なるひまわりの描き方に、しばし呆然とした。

街路樹脇に植えられたひまわりがこうべを垂れていた。夏がゆく。

【負け犬譚(2)】記憶の凄さ2008/08/27 19:48:15

Magnus
par Sylvie Germain
Edition Albin Michel, 2005
Prix Goncourt des lyceens 2005

(邦訳:『マグヌス』
 シルヴィ・ジェルマン著 辻 由美訳
 みすず書房、2006年)


フランスには《高校生ゴンクール賞》なるものがある。
文学賞には洋の東西を問わず全然詳しくないのだが、フランスのゴンクール賞といえば日本でいう芥川賞のような、国を代表する文学賞のはずである。それに「高校生」という冠詞のついた賞があるのだ。
実は、これ、全国の高校生がその年に出版された文学の中から、これぞ僕たち私たちが読みたい文学だと選んだ作品に与えられる賞なのである。

こういう活動があるというだけでも彼我の隔たりに意識が遠くなる。
今のニホンの高校生に、優れた文学作品を選ぶ気概があるか?
選ぶということは、まずは読まなくちゃいけないのだよ。読んでるか、君たち?
ホームレス何とか、とか、ケータイ小説の○空、とかがものすごい勢いで売れて読まれていることを考えると、若者たちにあまり「本」は読まれていないといっていいだろう。

と偉そうにゆっているが、そんな賞があることは知らなかった。
はっきり言って、フランスの若者たちだって日本とそう変わりないと思ってるし。若者に限らず、大人もね。
ともあれ、高校生たちがあまりに真剣に選ぶので、この賞はますます権威あるものとされているらしい。本家のゴンクール賞よりも高校生ゴンクール賞がほしいという輩までいるそうだ。

Prix Goncourt のあとに、des lyceens と続くのを見て、ゴンクール賞のヤングアダルト部門かなと思ったけど、そうじゃない。『マグヌス』は児童文学でもライトノベルでもYA小説でもない。第二次世界大戦の傷痕を、どうあがいても立ち現れない消えた記憶として描いた一編である。

この賞のことや、作品の内容を読んで、またしても私は「これを私が訳さずして誰が訳すのだ!」と意気込んだが、調べたときにはすでに翻訳出版が決まっていた。戦わずして負けましてん。

「マグヌス」とは、「病気のため」五歳で記憶を喪失した男の子が肌身離さず持っていたぬいぐるみのクマの名前である。男の子には、なぜ自分がこれを片時も離さないのか、その理由もわからない。母からは「勇敢な家族」の軍功ばかり聞かされ、純真にそれを誇りに思っている。医師の父は町の有力者であり人望厚く、国家の重要人物だと信じていた。男の子は父を愛していた。
舞台はドイツ。町を不穏な空気が支配し、やがて、男の子は事情も説明されないまま、母とともに「引っ越し」、名前を変えた。わずかな平穏のあと、父は「仕事のため」国外へ脱出すると告げにきた。その後メキシコへ渡ってのち自殺したとの報が入る。疲れた母は、英国に住む実兄に男の子を託して絶望の中で死に至る。
伯父の家に引き取られ、再び名前を変えた少年は、自分のものと信じていた記憶が母親による作り話であったことを知るに至り、真実を求めて長い旅に出る。舞台はメキシコ、米国へ。一度英国に戻った後、彼は伴侶を得てウイーンへ向かおうとするが……。

自分はいったい誰で、どこからきたのか。
クマのマグヌスだけが、唯一の過去の証し。しかしそれさえも、不当に歪められていた。
呼び覚まさなければ、もしかしたらそれなりに穏やかな人生が待っていたかもしれないのに、主人公は未熟な瘡蓋を引き剥がして傷を抉る、さらに深く。癒えかけたらまた引き剥がし、を繰り返して、記憶の底の炎の叫びに触れようともがく。

「小さな本なのに、十冊も読んだようなこの印象はどこからくるのだろう」と評したのは、他でもない選考にあたったリセアンたちだそうだ。
戦争の記憶が風化しつつあるのはフランスも同じこと。いっぽうで今なお、フランスは「戦犯」たちの調査と糾弾の手を緩めてはいないのも事実である。
欧州にとってあの戦争はけっして国家と国家の一騎打ちなどでなく、普通の人々の密告と裏切りに満ち、家族の離散と故郷の破壊が待ち、民族の誇りや人間としての尊厳を喪失させられた、精神的拷問であった。勝ち負けでなく、隣人や友人を売リ、傷つけあった戦争であったのだ。

主人公の消えた記憶の核がその戦争にある。ジェルマンは、どれほど多くの人間の意志が戦争にかかわり、同時に多くの人間を翻弄したかを、幾つもの記憶の「断片」として物語に滑り込ませることによって描き出す。しかし彼女は「あの戦争はひどかったわねえ」などと書こうとしているのではなく、純粋に小説として効果的な手法を用いたまでのことだ。
主人公の人生を辿る物語に、「断片」の数々は文字どおり破片のように突き刺さる。それは、彼の消えかけた記憶を照らし出して鈍く光るナイフの刃のようである。
「断片(Fragment)」に逢うたび、読者の興奮は増す。「断片」は主人公の記憶を刺激し、記憶はたしかな像を結んで主人公の眼前に立ちはだかって見せる。その凄さ。
そして「断片」のあとには必ずクライマックスが待っている。……てことは何回もクライマックスがあるってことで、去年の仮面ライダーみたいだけど、大げさでなく、本当にわくわくドキドキし続けて、最後に静かな感動の待っている、読み応えのある小説なのである。

大部な本ではない。一気に読めてしまう。熱い物語だ。涼しくなってきたからちょうどいい。いま何を書いても冴えてるあなたに、ぜひ読んで主人公に同化してほしい、ヴァッキーノさん。

行かないで2008/08/30 21:11:22

『カブールの燕たち』
ヤスミナ・カドラ 著 香川由利子訳
早川書房 (2007年)


編み物に凝ってセーターだのカーディガンだのを量産していた若かりし頃、菊地さんというニットデザイナーの本を買った。それはパリ・ミラノ・カブールという副題がついていて、イカしたニットを着たモデルが砂山を背景にして立っているのが表紙だった。
それはカブールでのロケだったのだろうか? 私にはまったくわからない。ただ、その本を買った頃の私は欧米とアジア、そして少々のアフリカ、程度にしかよその国について知識も関心もなかった。中東諸国というのはオセアニアや南米に同じく好きも嫌いもなく意識の外にあった。カブールというのがアフガニスタンの首都だということはわかっていても、そのえんえんと砂ばかりの土地にたつモデルの着るニットがカブールをイメージしているものだというのはなかなかわかりにくかった。カブールを知っていれば、こりゃイメージ違うでしょ、とか、アフガンのテイスト感じるね、とか言えるんだが、何も知らないのでわからない。ただ、その本の中にある「パリのニット」「ミラノのニット」の諸作品に比べて「カブールのニット」は抜群にステキに見え、それらを編みたいからこの本を買ったことは間違いがない。

でもその後カブールについて私のイメージは広がることなく、知識は増えることなく、菊地さんデザインのカブールのニットを編むのは挫折したまま、現在に至る。その間、かの地ではソ連の侵攻や内戦や遺跡の破壊や空爆があって国土も人心も荒廃しきって、改善の見込みがないまま現在に至る。

そのアフガニスタンで、日本人青年が殺された。あまりに悲しい出来事だ。アフガンの農民のよりよい暮らしのために全力を尽くしていた人なのに。本人の無念は、ご両親やご兄弟の悲しみは如何ばかりか。心から冥福を祈りたい。
新聞は、NGOも今後は活動の拡大に慎重にならざるを得ず、人道支援活動が畏縮してしまうことを恐れる向きもある、などといっている。

私の知り合いの友人という人の古い話なんだけど、知り合いから「もう十年以上前の話なんだけど」と、十年くらい前に聞いた話だけど、中東を旅していて拉致され、見せ物小屋に売られてダルマにされた、というひどい話。
ダルマにされたというのは、つまり両腕両脚を落とされて台の上に置かれて見せ物にされていたという……。その人は生きて発見されたので、現在はどうされてるか知らないけど、ご両親のもとにとにもかくにも戻ったということだった。それにしても……想像を絶する。

旅情をそそる場所であるのは事実だ。そして何より、助けを必要とする地域である。上の出来事と、今回亡くなった方を一緒にしてはいけないが、行きたい、行かなくちゃという思いに駆られるのは、旅好きの私にはとてもよくわかる。

タリバンは外国人を全員追い出すまで皆殺しといっているらしい。それは誇張でなく真面目な方針であると伝わる。人や生き物や命や歴史の証を傷つけ打ちのめし叩き潰すことをけっして罪深いとは思っていないのだ。
もう誰も、行かないでほしい。

アフガンの、カブールの様子がよくわかるのが本書である……というわけではない。
『カブールの燕たち』は恋愛小説である。
タリバンの圧政下にあるカブールが舞台だから、物語は現況自体が異常である。街は狂気を孕み、人は互いの腹を探りあい、いらつき、悶々とし、物理的にも精神的にも爆発寸前の都市。毎日のように公開処刑やリンチがショーのように行われる。

毎日に嫌気のさしている二人の男と、それぞれの妻。二組の夫婦の、互いの愛情と誇りと絆のありようが、物語の後半で交錯する。簡単にいうと一方の男が他方の妻に惚れてしまい、男の妻は咎めもせずにそれを応援するという、動脈部分はよくある変な話なんだが、ここはカブールであるから、かなり考えながら読み進まないといけない。その読解の過程が面白い。

《アフガンの地は、戦場と砂漠と墓地でしかない。》(3ページ)
《カブールの町で、悲惨と侮辱以外の何に出会えると思ったの? 自分を抹殺してしまうこのおぞましい身なりをするのを。なぜ受け入れてしまったの?》(88ページ)

私たちはアフガンを知らない。あまりにも知らない。だが、知らないからこそ、本書を存分に楽しめる。

冒頭で述べた編み物の本、ロケ地はまちがいなくアフガンだったのだろう。二十年以上も前のその撮影の頃も、戦場と砂漠と墓地でしかなかった。まだタリバンがいなかったから、雑誌の撮影なんて暢気なことができたのだろう。