週の真ん中が休みだからこんなことになるんじゃないの?という話2008/12/03 18:57:08

今日の本とは全然関係ないけど、昨日見た「秋」です。


『水曜日のうそ』
クリスチャン・グルニエ著 河野万里子訳
講談社(2006年)


水曜日になったらこの本の話をしよう、と思って早や幾歳。って大げさだが実際すでに数か月。水曜日にブログ更新って簡単じゃありません。
気がつけば巷はクリスマスムードいっぱいだ。秋は? 来てたか? どこ行った?

この本、フランスでは児童書もしくはティーンエイジャー向け図書の範疇に入るだろうか。行きつけの図書館では一般の仏文学書架に入っていた。表紙も地味。フランスのこの辺の小説って、日本の図書ジャンルでは行き場がない。『ペギー・スー』シリーズですら、一般書架に入ってる。ハリー・ポッター(私は読んでないけど)あたりを読む子どもなら楽勝で読めると思うんだけど……児童書架においてくれよって感じのフランス小説、けっこうあるんですよねー。
まあ、たしかに仏語って、訳すと堅い言い回しの日本語になってしまう……話し言葉の乱れは日本に負けず劣らず凄まじいけど、書き言葉はガチッと確立されてるからなー。
でも何とか頑張って紹介していかないと児童書界からフランス文学の影が消えてしまうではないか! といってみたが、日本の出版界からは「いや、別に頑張らなくても、英米文学で十分足りてますから」っていわれそうだ。

ハイ、スミマセン。
だいたい、『マグヌス』を高校生が読む国なんだ。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/08/27/3713448

Actes Sud Juniorという出版社から出ている「初めて読む小説シリーズ」は対象年齢が「9歳から」とある。9歳というとなんだかちっちゃいみたいだけど、フランスではCM1(小学校4年生に相当、「高学年」扱い)なので、子ども自身にも「読むぞ」という自覚が出てくるんじゃないか。その証拠にこのシリーズは大変読み応えのあるものが多くて、私などは夢中になって読んでしまう(赤面)。ほんとに「初めて読む」シリーズかよって思うくらい。面白いんだけどなあ。

本書『水曜日のうそ』の対象は9歳ではありません。フランスではコレージュ(小学校6年~中学3年相当)部門で文学賞を獲っている。本書の主人公イザベルは15歳。15歳だとだいたい「すべて経験済み」が普通のあの国では珍しくまだ恋に恋しているような少女として描かれている(物語の中でちゃんと彼氏ができるけど)。だからCM2(小学校5年生相当)くらいから読めちゃうと思う。

イザベルの家には毎水曜日おじいちゃんがお喋りにやってくる。水曜日は学校が休みだから、孫娘イザベルも、大学で教える息子(イザベルの父親)も家にいるからだ。わずかなこのひとときを、おじいちゃんはとても愛している。おじいちゃんのことを大好きなイザベルも、その来訪を楽しみにしている。ただ、イザベルの父だけがうんざりしていた。
そんな折、父親がリヨンの大学に空きポストを紹介されて、一家は引っ越しを決める。おじいちゃんには内緒で。おじいちゃんの水曜日のひとときのために、一家は水曜ごとにパリの元のアパルトマンにやって来て、いつもどおりそこで暮らしているかのように振る舞うのである。
それほど重要な、水曜日という週の真ん中の休日。
日本では起こりえない話である。
とはいえ、なんで水曜日なんだ、という理由さえ押さえて理解したら、話はよくわかる。もともと中学生向けの話だから、物語そのものはあまり複雑にはならない。読み進むと結末は見えてくる。

このおじいちゃんはほんとにいいおじいちゃんだ。
イザベルもよくできたものわかりのいい少女である。
父親が自分の父親(おじいちゃん)を疎ましがっているが、よくある父子関係だ。
母親は舅思いのよくできた嫁である。
この二人が知恵を絞ったあげくの「水曜日のうそ」。
イザベルの彼氏がまたそんなフランス男いるわけないと思わせるほどいい少年で、「うそ」にからんで重要な役回りを果たす。

なんとなく、模範的なあるいは平均的人々大集合、的な印象で、悪人や小賢しいヤツとか裏切り者とか冷血漢とか、そんなのが必ず出てくるモンばかり読んでるせいか、物足りない(笑)。でも、家族愛とか隣人愛とか、思春期とか高齢者問題とか、仕事優先の大人たちとか、いろいろと考えさせられる要素には事欠かない。
しかし大人にとっては、あまりに自明のことが並ぶような感じで盛り上がりに欠ける。子どもが読んでも盛り上がりに欠ける点では同じかもしれないが、考えることを知っている(ここが重要だが)子どもなら、イザベルを自分に置き換えて、祖父母や両親、近隣の人々、学校の友達との関係を見つめることができるだろう。

水曜日が休みだが、つまり週休3日なんだけど、フランスの学校の夏期休暇(学年末の長期休暇)も秋期休暇(万聖節休暇、墓参のためのお休み。日本のお彼岸)冬期休暇(クリスマス休暇、日本のお盆)も春期休暇(復活祭休暇)も、日本の各休暇とは比較にならないほど長いのである。
なのに高校生が『マグヌス』を読むのである(それはもういいってか)。

好調ならもうすぐゴールする頃なんだけど大丈夫かなあ、と母は気が気でないのであった2008/12/10 10:24:39

9月の合唱コンの様子です。


今日、持久走大会です。
12キロ走るんです。
この日に向けて長距離の走りこみ、かなりやっておりましたが、数日前から膝が痛くなりまして。医師からは心配ないよといわれたけれど、部活顧問からも成長痛だよといなされたけど、痛いところがあると長距離走って辛いもんです。

60分を切るのが目標といっていました。
練習でもそのペースで走っていましたが、昨日の雨で、コースは悪路、滑って足をぐねったりしたら大変。いい記録を出させてやりたいけれど、とにかく怪我しないでねと祈るばかりです。

噂によれば、わが国の低学力総理、「怪我」を「かいが」って読んだって? なかなか手ごわいなあ。ゆとり教育だったのか、ヤツの時代?

もとい。
何にでも全力投球。合唱コンも、舞台の裏方も、体育祭も頑張ったなあ。
定期テストなんかもう必死の形相で(これはまあ、しゃあないが。笑)。
今にも破裂しそうなくらいに緊張する。
ぱーん!

……とはじけてしまうと怪我になるので、はじける寸前まで膨らんだ反動でパワーを出す。
本番でいい結果が出せたときは、そのコントロールがうまくいったときである。

今日はどうだったかなあ。
早く電話かかってこないかなー(仕事しろって)
うずうず。

ビミョー、と言い残して彼女はダンスのレッスンへ行った2008/12/11 13:27:45

これは夏の大会風景。


こんにちは。
昨日の持久走大会、いいお天気で、足場もまあまあ乾いてて、コンディションは悪くなかったようでした。

午後、移動中の私の携帯が鳴りました。
「どやったん?」
「ビミョー」
「60分、切れた?」
「わからん。聞いてへん」
「足は?」
「ビミョー」
「何番でゴールした?」
「フツー」(なんやねんそれ、と突っ込むのはやめておいた)
「休みなさいよ」
「おやつ食べてバレエ行く」
「けど膝痛いでしょーが」
「ビミョー」

夜、レッスンから帰宅した娘に持久走大会の話を聞くと、非常に機嫌が悪いのである。これは芳しくなかったのだな?と思っていると、順位は8位だったって。
8位?
全校生徒400~500人いるぞ。
「女子の中で、に決まってるやろ」
女子ったって、その半分くらいだろうし、なかなかすごいじゃないか!
「すごいことないーぜんぜん」(憮然)

8位までの女子順位(すべて仮名):

1 ゆかり(1年/バスケ部)
2 川島(2年/バスケ部)
3 里中(2年/剣道部)
4 みちよ(1年/バレー部)
5 きょーか(1年/陸上部)
6 さくら(1年/陸上部)
7 みい(1年/陸上部)
8 さなぎ(1年/陸上部)

不機嫌の理由は:
一つ、陸上部が1位を取れなかった。
一つ、ゆかりは小学校(他校)のときから走れた子で、ひそかにライバル視していたが、これで完全に水を空けられた。
一つ、陸上部の長距離仲間たちの中でも負けた。(←かなりキテいる。笑)

……のようであります。
負けず嫌いは人一倍なので、さぞかし悔しかったことであろう(笑)。
でも、他と比べず自分だけを見れば、とりあえず持てるものは出した、といえるのではないだろうか。これでまだ上がいるのはもうしょうがないよね。

やっぱもっといい肉食べさせないとダメかなあ格安アメビーフじゃなくて、と母の意識はそっちへ行ったりする(笑)。

今朝もしっかり朝ご飯を食べ、元気に登校していきました。
ひそかに応援してくださった皆さん、ありがとうございました。

ひとは幸せな記憶を長くはとどめておけないものだからせめて辛い記憶は埋もれたままにしておくれ2008/12/15 20:04:35

やめてほしいイベントが二つある。
「流行語大賞」と「今年の漢字」。



流行語大賞を云々するシーズンになると、流行り言葉っていったい何だ?と、まずそこから定義をし直さなきゃという面倒くさい(実に面倒くさい)気持ちになるのが、まず嫌である。
流行語って、その語の意味を共有する人々が集う場所もしくは住む地域もしくは所属共同体のなかで、その人たち誰もがつい口にして情報共有感または連帯感を確認できて、なおかつ、楽しくウキウキした気分になるとか、その語をやたらと用いることで人とかモノとか事象を揶揄したりリスペクトしたりするという気分で盛り上がれるとか、そういう類のものだと思うんだけど。
ひとつの国で「流行語大賞」というからには、【その語の意味を共有する人々が集う場所もしくは住む地域もしくは所属共同体】イコールその国、ということになる。

歴代流行語大賞については何も知らないが、毎年候補語がメディアで取り沙汰されているのを見ていると、何が面白いんだかさっぱりわからない芸人のギャグだとか、有名人がたまたま口走ったのをマスコミがやたら書き立て皆の耳に馴染んでいるというだけのフレーズだとか、そんなものばかり並んでいて、それを「流行した言葉」と位置づけてええんかい?と首をかしげてしまうのだ。

ちなみに2008年、私と娘の口にやたらのぼったのは、「いみがわからへん」。
小学校のときはやたら「いみふめー!」と叫ぶ娘(とその周囲の小学生たち)の真似をして私も「いみふめー!」を連発していたが、「いみふめー!」は、子どもの中学校入学とほぼ同時に「いみがわからへん」に変化した。

「いみがわからへん」は、娘がいうには、数学科担当教諭で部活の副顧問でもあるサブロッチ先生の口癖らしくて学校でも話題らしいんだけど、私が思うに、娘はサブロッチに会う前から「いみがわからへん」といっていたはずなのである。むしろサブロッチのほうが生徒の口真似をしていて、いつのまにか口癖と指摘されるほど頻繁に用いるようになったんだ。

実はあるとき私は、子どもみたいに「いみふめー!」というのをやめて、意味がわからないときはちゃんと「そんなの、意味がわからへんよ」、と意思表示するようにしようと心がけ始めた。それは昨年末頃のことだ。それから、しばらくして娘は「いみふめー」のかわりに「いみがわからへん」というようになった。そして、自分でも気づかないうちに、連発するようになった。

たぶん、子どもをもつ各家庭で同じようなことが起きていて、中学生になった子どもたちは「いみふめー」をやめて「いみがわからへん」というようになり、サブロッチにも波及した……のである。

どうでもいいことである(笑)。
が、私たちは、それぞれが「いみがわからへん」というとき、あるいは相手がいうのを聞いたとき、サブロッチを思ったり、数学のテストの悲惨な結果を思ったり、部活のきつさを思ったり、漢字では書けないくせに「いみふめー」といっていた頃の可愛らしさを思ったり、この言葉ですべてを片づけて逃げようとしている自分を思ったり、するのである。
なかなかこれで、いろいろな事どもを含むのである。そしてやがて使わなくなるのである。流行語ってこういうもんじゃない?



もうひとつの「今年の漢字」。
「流行語大賞」とは違ってこちらはローカルイベントである。
ご存じない方のほうが多いに決まっている。
説明するのも腹立たしいが説明すると、「その年の世相を表す漢字一字」を決めるイベントである。

この国がちっともよくならないのは、関西に元気がないことが理由のひとつだと思っている。首都圏に次ぐ経済規模のこの地域に元気がないと、例えば地方分権の議論も盛り上がらない。首都機能分散とか道州制とかにしても、関西の発言に説得力がないと進まないであろう(私は道州制なんか反対だけど)。
関西が元気かどうかは、ひとつは阪神タイガースの動向がものをいう。
もちろん、ほかにもいろいろある。ガンバ大阪も寄与してるんだろう。よく知らないけど。こういうスポーツや文化面の振興は、それを嗜好する人以外にはあまり波及しないものである。

比して、件のイベントが年中行事としてあるって、どやねん。
毎年その年を振り返って「今年の日本社会はああだったこうだった」と話すとき、「いいこと」を思い浮かべる人っている?
個人の一年間の生活を回顧するのとは違う。合格した、結婚した、子どもが、孫が生まれた、卒寿を迎えた……自分としては慶事あふれた年だったけど、世の中、社会は……。
世相を思うと、自分とは直接関係がなくても大きなニュースが頭をよぎる。そして大きなニュースとは悪いニュースのほうが圧倒的に多いのだ。

このイベントをワイドショーやラジオでやんややんやと取り上げるのは関西、あるいは京阪神だけだろうと想像する。ここの住民は、暮れになると毎年、いやでも一年を回顧し、「あれはひどかったわねえ」「お気の毒なことやったなあ」「あんな悲惨なこともう嫌やで」などとけしからん出来事や悲しい事件をいっぱい思い出す。
ああ、なんてひどい年だったんだろう……いったいいつまでこんな世の中が続くんだろう……。どんなに幸せいっぱいで過ごした人でも、そのような思いでいっぱいになってしまって、暗澹たる気持ちで一年を終えるのである。

やめてよ。まったく余計なことをしてくれる。そう思いませんか。
こんなイベントが十年以上も続いているから、われわれはいつも閉塞感に苛まれ、気持ちが晴れないまま、憂鬱なまま生かされてしまうのである。

ある年を漢字一字で表す。その試みは悪くない。各人がそれぞれの思いで一字を思い浮かべる。日本人ならではの知的遊戯だ。著名な方々がテレビなんかで「私の一年を漢字一字で書くとこれでーす」なんて遊んでいるのは罪がない。
しかしそれを人に押しつけないでほしい。考えさせないでほしい。
一年を振り返る必要のある者だけがやればいいだろ。
何もかも忘れたい人間だっているんだ。
投票なんかさせるな。学校とか公共施設とかに投票箱なんか置かせるな。
結果に影響を受け易い人間だっているんだ。

私は、このイベントが全国区になる前に消滅することを心から願う者のひとりである。
なんといっても、投票数はまだ11万程度だ。最多獲得票数は6000票ちょっと。
そんな票数で世相を表す一字と騒ぎ立てるのはとても滑稽。
日本のほとんどの人が「今年の漢字」なんか知らないし、結果に振り回されたりもしていないけれど、たぶん、私たちの地域にはつい振り回されている人々がいる。
そのせいで、関西は元気がないのだ。
「いやな一年でしたね」を合言葉に年を終わるなんて、まっぴらだ。

愛するウチダさんも言っている。
《……お正月番組の打ち合わせ。タイトルはどうしましょうかと訊かれたので、「変わるな!日本」というのをご提案する。「いいじゃん、このままで」というのが私の最近の万象についての基本姿勢なのである。》

来る歳も相変わらず幸せでありますように。

木枯らしや懐に友の詩集抱き――俳句こそ優劣はどこで決まるのだろうと考えた2008/12/23 17:37:40

『池畔』
草間時彦句集
ふらんす堂(2003年)


とある連載原稿を書くときに、内容に厚みを持たせるために古典も含め名のある文学から引用をすることがよくある。自分の記憶を頼りに引くが、必ず出典の証明を要求されるので、うろ覚えをただすためにも念入りに書籍を探し出す。この過程はけっこう楽しい。

そんな作業のプロセスで、私自身は不勉強でまったく知らないにもかかわらずその世界では大変に高名である、といった人の作品に出くわすことがある。俳人・草間時彦もそんなひとりである。

インターネットなんぞで彼の名で検索をかけても、食に関するエッセイ集や、近現代俳句集の編者としてしかかかってこない。彼自身の句集もあるのだが、刊行当時のものはなく、ようやっと、半世紀余の間に出された《八冊の句集から、三七九を選んで一集とした》本書を図書館で見つけた。
このほかにも、昭和46年に出された『淡酒』を所収した『現代100名句集』(四季出版)があったが、本書のほうが百倍くらい粋である。というのは、この本がとても小さいからなのだ。葉書よりちょっと大きいくらい。

百貨店めぐる着ぶくれ一家族(2ページ)
秋鯖や上司罵るために酔ふ(4ページ)
夕ざくら墓地を買はねば死ねざるを(11ページ)
日だまりは婆が占めをり大根焚(同)

俳句はそこでみたまま、聞いたままを五七五に詠めばよいのだ、と誰かから何年も前に聞いた。季語の知識は要るけどな、と付け加えられたが。

句を吟ずる人は世に多い。
外国語話者にまでいる。私はずっと前、日本のある大企業が主催する俳句大賞の国際部門で首席を獲ったフランス人の受賞挨拶を翻訳したことがある。俳句がすごく好きで、この表現方法に出会ってからはとにかく四六時中何を見ても句に仕立てたくなる――というような内容だった。またフランスにも句会はそこかしこにあって、みな楽しみつつしのぎを削っているという。それもこれも、俳句というすばらしい文化を育んできた日本人のおかげ、そして今回このような大きな賞を授かり光栄のいたり云々。
へーえ。
受賞作を何度も発音してみたが、これが五七五として認められるんかーへーえ。としか言いようがなかった。

私には俳句は、詩よりももっとわからない。
ルールがあるだけに、よほど研ぎ澄まされた感性をもってしないとよい句はできないであろうと思う。だがその「よい句」がわからない。
上に挙げた草間時彦の句は、けっこうどれも面白いと思った。わかりやすい。
でも次のようなのは、わからない。

甚平や一誌持たねば仰がれず(25ページ)
カザルスが逝きて部厚き露の闇(同)
南天の花の向うの庭木かな(30ページ)
立食ひの蕎麦の湯気より死者の声(31ページ)
すさまじく人を愛せし昔かな(39ページ)

一つめ、二つめは何のことかわからない。
三つめは、そのまんまやん。あ、でもそれでいいのか?
四つめは、なんかわけありっぽいけど、よくわからない。
五つめは、みんなそうやん、という気持ちと、この句の季語は何?

友だちが恋人語る白い息
夕暮のイルミネーションイヴは明日
安堵した陛下が御手をかざされて

以上、midiの本日の句であります(笑)
でも昨夜、伯母の容態の悪化したことなどは、とても詠めない。

息子が押す正月二日の車椅子(77ページ)

従兄弟が押す車椅子で微笑む伯母にもう一度会いたい。

こんなに太陽を好きなのはアルベールのせいかもしれないわ2008/12/25 21:22:12

前にどこかに書いたかもしれないけれど、私は太陽がとても好きである。
夏は嫌いだが、それはどんより空のもとであっても蒸し風呂のように暑い自分の町の夏が嫌いなだけで、ここでなかったら夏は好きなのである。太陽がさんさんとふりそそぐ、地球人に生まれた喜びを堪能できる夏。
バリ島やラングドック=ルシヨン、コートダジュールの夏の素晴らしいこと。

しかし、いつからそんなふうに考えるようになったのか、実はよくわからない。
中学、高校1年生くらいまでは、やたらとインドア派だった。
青空のもとでの活動というのを毛嫌いしていた。
高2で、所属していたバスケ部を退部して、私は、デッサンと洋楽鑑賞と読書に耽る放課後を過ごすようになった。動から静へと移行したように見えるが、陽光を厭わなくなったのはこの頃からだと思われるのだ。
私は、体育館を使えない日は炎天下を走らされるバスケ部員でなくなってから、デッサン教室に通ったりスケッチしに遠出をしたりと、徒歩や自転車で出歩くことが多くなった。色彩の勉強を本格的に始めて、自然の色を注視するようになり、季節の移ろいにより敏感になった。
それまで私にとって季節とは大暑・極寒の二種類だった。なぜか昔は今より冷え性だったので、冬も辛かった。二つしかない季節のどちらも辛いので、即ち一年中、面白くないのであった。

自然の存在に覚醒し、太陽の恵みをじかに感じるようになったとき、たぶん私はカミュの『異邦人』に出会った。
主人公はひなたぼっこが好きだ。汗が垂れ落ちるのを不快とも思っていない。流れる汗をぬぐう手間を惜しみ、陽光に目を逸らさなかったから、銃の引き金を引くはめになった。
しょうがないじゃん。なのに斬首刑なんてヒドイ話。
初めて読んだときの、高校生の私の感想はそんなものだったと思う。
私だって、同じ状況なら同じ行動をとり、裁判で同じ発言をするだろう。
「太陽のせいだ」と。

『異邦人』とは勝れて購入欲をそそる邦題ではある。
でも、誰が誰にとっての異邦人なのか、初めて読んだときの私にはわからなかった。
アルジェという街、アルジェリアという国について何も知らなかった。それがフランスの代表的な植民地で、そこではフランス人がまるで当たり前のように、大昔からの父祖の地に住むかのように暮らしていたとか、今はもう植民地じゃないとか、戦争があったとか、そんなことをよく知らずにいて、なんとなく、ムルソーはここではガイジンだから『異邦人』なのかなあ、くらいにしか思っていなかった。

etranger という語に「よそもの」「のけもの」という意味があるのを知るのはもちろん、ずっと後のことで、フランス語の勉強を始めてからだった。etrange という形容詞は「変わってる」様子を意味するほかには「疎外された」状態を表すのにも用いる。

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『よそもの』
アルベール・カミュ

 今日、母さんが死んだ。あるいは昨日かもしれない。老人ホームから電報を受け取ったけれど、「ハハウエノ シヲイタム マイソウアス」これでは何もわからない。たぶん昨日なのだろう。
 老人ホームはアルジェから八十キロ離れたマランゴというところにある。二時の長距離バスに乗れば夕方までには着くだろう。そうしたら、通夜もできるし、次の日の晩には帰ってこれる。ぼくは社長に二日間の休暇を申し出た。こんな場合は許可しないなんてことはできないものだ。けれど社長は不満そうだった。だから、「ぼくのせいではありませんし」といってみたが、社長は答えなかった。それでぼくは、こんな余計なことをいうべきではなかったな、と思った。どっちにしても、休暇の言い訳なんか必要なかったのだ。むしろ、社長の方が弔意を示してくれてもいいくらいだ。とはいえ、たぶん彼は、あさって、出社したぼくが喪に服しているのを見てから、それをいうつもりなんだろう。今のところは、まるで母さんはまだ死んでいないみたいだ。埋葬が終わったら、今とは逆に、ひとつの出来事と評価され、もっとおおやけの性格を帯びるようになるのだろう。

(どーんと中略)

ずいぶんと久し振りに、ぼくは母さんのことを思った。母さんが、どうして人生の終わりに「いいなずけ」を持ったのか、どうしてまた生き直す振りをしたのか、わかったような気持ちがしたのだった。あの、あの場所、幾つもの人生の灯が消えていく老人ホームの周りでも、夕暮れは憂いに満ちた休息に似ていた。死が近づいて、母さんはそのとき自由を感じ、もう一度生き直そうと思ったに違いなかった。誰ひとり、けっして誰ひとりとして、母さんのことを泣く権利はない。そしてこのぼくも、ぼくも今、まったく生き直そうとしているのを感じるのだ。幾つもの星座と星ぼしに満ちた夜の帳を前にして、さっき噴き出た大きな怒りがぼくの中から、罪を洗い流し、希望を捨て去り空っぽにするかのように、ぼくは初めて世間の無頓着に心をひらいた。世間を自分とそっくりに、いわば兄弟のように感じ、ぼくは幸福だと思ったし、それまでも幸福だったのだと気づいたのだ。一切が成し遂げられるため、そしてぼくが孤独でないと知るためぼくに残された望みは、処刑の日、たくさんの見物客が押し寄せ憎悪の叫びを上げて、ぼくを迎えてくれることだけだ。


Albert Camus
L'etranger
folio No.2 Gallimard 2002

きっぱりと冬が来た。2008/12/26 14:38:40

まちかど。


澄み切った青空を残り雪が渡る。
陽だまりに腰をおろし、友の詩集を開く。
雪がページに舞い降りて、点のようなしずくを残す。

やっと冬が来た。
今朝の物干しは、この冬いちばん、冷たかった。
苺のプランターにほんのりと、夜降った雪が残っていた。
鉢植えはどれも寒そうだったが、幸せそうでもあった。
来るべき季節がめぐってきたんだもの。

クリスマスを過ぎ、ラジオはまた無愛想な口調に戻っている。
来年もまた同じように、喧騒と静寂が訪れますように。



本年も暮れようとしています。
一年間ありがとうございました。
とりあえず年末年始休暇に入ります。
1月はまた歳をとるので面白くありませんが(笑)、歳をとった頃に2009年第1回の更新を行いたいと思います。

健康で穏やかに、ゆく年くる年を過ごされますように。