現実的なようであまり現実的でもないような、ただ読み心地はよかったなという感想をもったの巻2009/02/04 20:20:08

暮れ、ホームベーカリーをゲット。毎日こんなパン焼いてます♪


『天国はまだ遠く』
瀬尾まいこ 著
新潮文庫(2004年)


前回の『潤一』と一緒に買った本。これは362円、税込み(笑)。
著者は学校の先生らしい。優しくて真面目な国語の先生なんだろうなあ、と想像する。瀬尾まいこを読むのはもちろん初めてだ。文章には奇抜さも華美な表現もなく、ベテラン作家から感じるような熟練の技っぽいものもなく、こういってはなんだが、模範的な高校生の作文のような文章である。作文と思って読むと、日頃、ウチの娘の日本語の体をなしていないひどいものを読まされているせいか、素晴しい出来映えだと感心できる。……なんて、そんな失礼な。これは小説である。瀬尾まいこの他の作品を読んでみないとわからないが、主人公の言語レベルで物語を展開させていく、ということに本作は非常に成功しているといっていい。高校生の作文のような文章、と読み手が感じるとしたらそれは、他ならぬ主人公の知能と想像力がその高校生程度でしかないと設定され、その主人公の一人称で話を語っていくからには、突飛なあるいは極端に知的な表現や語彙、文章構造ではそぐわない、と著者が判断して書いているからに他ならない。本作『天国はまだ遠く』の主人公・千鶴23歳の発想は稚拙である。医師に処方してもらった睡眠薬14錠で死ねると思って自殺を決意する冒頭からすでにそれはバレている。何かにつけ考え込んで考え過ぎて自ら深みにはまって精神を病ませている、というととても知的に悩んでいるようだが、単に考え足らずで優柔不断なためにその時その時の最良の方法を見逃しているだけである。とはいえ、若い時にはそんなことはしょっちゅうあって、しょっちゅう袋小路に追い詰められた気分でもうダメだあ、なんて繰り返すものである。そしてたいていはひょんなことで立ち直る。そんな「ひょんなこと」すら主人公・千鶴23歳には訪れなかった。というより、考えようとしない人には、取っ掛かりやきっかけのようなものはまるで見えてこないのである。考えないことは人を盲目にするのだ、よく覚えておけ若者たちよ。主人公・千鶴23歳は、短大卒業後、おのれの適性も考慮せず(考えろよ)保険会社の外交・営業職に応募して就職し、「要らないと言われているのに強く勧めるなんてできない」性分であるという自覚はあるにもかかわらず、ノルマを達成できない(当たり前だ)、どうしよう、もうこんな仕事できない、みんなに叱られるし(当たり前)厭味いわれるし(当たり前)といいながら自己啓発とかスキルアップのためのスクール通いなんぞは一切しないまま3年間勤め続けて(……長いぞっ)、死ぬしかないと決意する。なかなかのツワモノである。本書はそんな主人公・千鶴23歳の目の高さと言葉で綴られた、「落ち込んだ若者の立ち直る図」である。たいへんわかりやすく、言葉遣いや言い回しはとても現代的で、文字遣いは、だけど文学的。そのせいか、誌面が綺麗に見える。字面がいいのである。文学的、というのは先に述べたように、仰々しい表現や難読語彙を連ねているということではなく、主人公・千鶴23歳の等身大の言葉でありながら、ほどよい分量で漢字と熟語が配されていてうまく響き合っている。それが文学的な様子で眼に映るのである。

《私は民宿の前でずっと、久秋のタクシーが見えなくなるのを見送った。うっすら色づいた木々の中を走っていく車をとてもきれいだなと眺めていた。久秋がいなくなる姿を、不思議なくらい寂しいとは思わなかった。一つのことがゆっくり終わっていくような静かな心地よさを感じた。》(85ページ)

《「な、すごいやろ」
 「本当にすごい。気持ち悪いほど、星がうじゃうじゃしてる」
 真っ暗な夜空には、星が数え切れないほど、浮かんでいた。星はそれぞれ頼りなく微かにきらめいている。空に近いこの集落では、星がすぐそこにあるように見える。
 「今日は月もないで、その分よう星が見えるねん」
 「すごい数。本当にすごい」》(112ページ)

平易である。凝った表現はひとつもない。しかし、私たちには主人公・千鶴23歳の瞳に映った風景とそれがいかに彼女の心を揺さぶったかが、ストレートに伝わって余りある。

と、ここまで一気に書いて、いかに日頃、ひねくれた本しか読んでいないかを思い知らされた気がした。こういう素直な小説(子ども向けに書かれた児童文学とはまた違うもの)をたまには読まんとイカンのだと思った。本書はファンタジーではなくリアリティである。昨今大流行りの「大人のおとぎ話」なんて形容されるような、死んだ恋人が目の前に現れてしばらく一緒に過ごしてくれる、とかいうあり得ねー話ではない。現実的である。が、現実的ネタをここまで素直に綴ると心地よい小説に変容する、という具体例である。アタマの中を掃除してもらった気分である。

ま、何よりも、普通に流通している小説を、普段私があまりにも読んでいないからこんな感想をもつのであろう。小説慣れした人には物足りないかもしれない。ウチの娘でも読めると思ったくらいであるので。



節分も過ぎましたね。
みなさんの地域ではどのような風習が残っていますか。
昨夜も雨でしたが、我が家では豆まきをしました。猫がそれを見物していました。
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あ、今年に入って一度くださった方は、もういいですよ。

あたしもトリツカレるほど惚れたいし惚れられたいよ、でももう面倒だよねそうだよねと同年代の取引先の女性と立ち話をしましたの巻2009/02/10 19:34:41

なまけものさんに負けじと写真をアップする。黒胡麻パンでーす。


『トリツカレ男』
いしいしんじ 著
新潮文庫(2006年)


前回の『天国はまだ遠く』と前々回の『潤一』と一緒に買った本。これは380円。……って、もうわかったって?

いしいしんじの名前は、図書館の機関紙に紹介されていたのを見たのが最初だったと思う。その次に、たぶん童心社の機関紙『母のひろば』に寄せられていた本人の文章を読んだ。以後、気になりつつも、読む機会を逸していた。一度『ぶらんこ乗り』を借りたが、忙しくて一度も開かないまま二週間の貸し出し期限が過ぎて、読まずに返却してしまった。それからまたしばらくして、誰かが恩田陸という作家がいいよといっていたのを思い出し、その恩田陸の作品が巻頭に載っている『本からはじまる物語』(メディアパル 2007年)というコンピ本を偶然書架に見つけて借りてみたら、そこにいしいしんじの「サラマンダー」も収録されていた。内容は全然覚えていないが、文体にとても好感をもったことを覚えている。
(※ちなみに『本からはじまる物語』の中では、普段あまり好きでない今江祥智作品がいちばん私にはじーんときた。巻頭の恩田作品はへえ、ふーんと楽しく読んだ。でも全体に、期待外れだった。コンピタイトルが非常にそそるものだったので非常に期待したのがまずかった)
よしこの次は単著を読むぞ、必ず読むぞ、きっと面白いぞ、と、それ以来いしいしんじの名はいよいよはっきり私の頭に意識されてきた。こういうことは珍しい。気になるなあと思って借りるなり買うなりして読んだ作家はたいてい私とはそりの合わない作家だったりすることが多い(さのようことかなしきかほとかえくにかおりとかしげまつきよしとかいしだいらとか)ので、普段作家を意識するということは全然ない。とはいえ、いしいしんじにしても、もう少し時間が経てば気になっていたことなど忘却の彼方へ葬られていたはずなのだ。新潮文庫のYondaマーク集めようなんて話になってよかった。この本が新潮文庫でよかった。380円で売っていてよかった。もし500円なら買っていなかった。

中身を吟味しないで買って、それでもああ買ってよかった、と思える小説本なんてめったにない。だいたい買う冊数はほとんどゼロに近いんだけど、それでも私だって小説本を買う。絶対ほしい、手許に置いて何度も読みたいと思ったら(予算が許せばだけど)買う。
家には何でこんな本があるんだろう、これを買うとき私は何を考えていたのだろうとと思われるような、つまらないことこの上ない小説本がけっこうあるが、それらはたいてい、若気の至りで、訳わからないまま買い込んだものたちであって、今となっては青春の傷跡みたいなものであるからして、それらはそれらで私には愛しい本たちである。

何がいいたいかというと、若気の至りで衝動買いすることがなくなった現在、また物理的スペース経済的余裕の有無という問題も手伝って、よほどのことでない限り、文庫であっても本は買わないのに、Yondaマークほしさにエイヤ!で買ったら、ぱんぱかぱーん当たりくじだった!と表現したいくらい楽しい本だった。

ジュゼッペは何かに凝り始めるとそれしか見えなくなってしまうほど熱中してきわめてしまうので、トリツカレ男とあだ名されている。最初、このジュゼッペのトリツカレ武勇伝なのかなあ、だったら単調だなあ、と思わせるのだが、もちろんそうではなくてちゃんとお話は正しく盛り上がっていき、これでもかこれでもかともったいをつけて読者をじらしながら、トリツカレ男もここまでやりますかという展開を見せて一気に結ぶ。話はやたら飛躍するし、脇をしっかり固める多様な登場人物の描き方にも、物語に厚みをもたせようとする余りといっていいのか、若干無理があるようにも思うけれど、ある意味ありえねー話なのだからこれはこれでいいのであろう。ありえねーけど、嘘くさくない話。突拍子もない展開だけど、描かれるその一途さは、けっきょく、古今東西いつでもどこでも読む者を泣かせるピュアハート。ジュゼッペみたいなヤツって、それにあの人物、それからこの人物、こいつらって、あっちにもこっちにも、いるじゃんいたじゃん、みたいな気持ちになれて、何だか万人を愛せそうな、そんな読後感がある。

文体もストーリーも挿画もいっぺんに、まったく先入観なしで味わってほしいので、引用はしないでおこう。



じつは今週、娘の誕生日なんですよ。
出産予定日はバレンタインデーだったんだけど、けっして故意にではなかったんですが、はずしちゃいました。でも毎年、バレンタインというビッグイベントで周囲の友達はさなぎの誕生日どころではなかったりする(笑)

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なぜかというと(以下、前々エントリに同文。ずぼらしないでちゃんと書けって? すんまへん。……あ、「ずぼら」って方言?)

「コックリさん」に代わるコワオモシロイ修学旅行用の遊びを流行らせたかったわけだなと妙に感心したの巻2009/02/17 19:41:03

抹茶&煎茶パンと全粒粉レーズンパン。パンはもういいって?


『親指さがし』
山田悠介 著
幻冬舎(2003年)


超怖がりのウチのさなぎが同じように超怖がりの友達・しのぶちゃんから借りてきた本。
「お母さんこれ読んで」
「へ? ホラーを読み聞かせろって?」
「違う、読んでみて。感想を聞かせて」
「なんで」
「だって……」
「そんな怖いもん、何で借りてくるんよ」
「だってしのぶが……」
「面白いから読めって?」
「ううん、怖いからもう持っていたくないって。もらってって」
「はいぃぃ?」
「夜寝る前に読んだら、眠れなかったって」
「で、しのぶがそんなに怖がっているモンをおめーはなんだって引き受けるんだよ」
「どの程度怖いのかお母さんで試そうと思って」
「あほ」
「だから読んでよ」
「読んで、全然怖くないよっていったら、おめーは読むのか」
「……」
「あほ」

可愛い娘の望みを叶えないわけにはいかないからハイハイと読んだのだが、どう拡大解釈しても深読みしても裏の裏まで探ろうとしても、怖くもなければ面白くもなかったのである。いちおうホラーでミステリーなので内容には触れないでおくけど、全然ストーリーを変えた映画の原作(原作っていっていいのかこの場合)にもなったので、あらすじをご存じの方も多いと思う。

20歳を前にした主人公が小学校6年生の頃に思いを馳せ、当時から抱えた謎を解き明かそうとする、という設定だ。
対象読者層としては十代の若者が思い浮かぶ。しかし。

そうした設定であっても、30過ぎた大人や、もっと上のオヤジやオバハンが読むに値する小説はゴマンとある。でも本書は、大人が読むものではない。なんだこれ、つまらない、と思うだけである。気の短い人は数ページでやめてしまうだろう。こんなものが立派な本になっていることに怒りを覚える人もいるだろう。
20代の皆さんは、就職活動あるいは就職した人ならなおさら目の前の仕事にいそしむばかりの日々で大変に忙しいはずであるから、こんな本は読まなくていい。
想像力たくましい小学生の中には、陳腐な表現でも恐ろしい鬼のような女の顔を思い浮かべてそのイメージのせいで悪夢を見て眠れない、などといったことがあるかもしれない。だから、小学生には読ませてはいけない。もっと良書を与えましょう。

部活でメインメンバーとなる中2、高校受験を控えた中3は、こんなものに呆けている暇はない。
高校1年、2年は高校生活が楽しすぎて読書どころではないはずだ(笑)。
したがって読者の対象年齢は限られる。12~13歳と17~18歳である。中1と高3。

多少考え方や会話がませてきて、友達どうしの情報交換も活発になり、なにかにつけて、ひそひそこそこそ……うっそーわーきゃーマジーやっばーありえねーと叫ぶ中学1年生あたりは、怖いもの見たさでつい突っ走るので、上のしのぶちゃんの例に見るように、ピンポイントターゲットである。

高3は、なぜかというと、これは自分の経験なのだが、受験勉強で疲れた頭を休めるには考える必要のないくだらない本がよく効いた。それと、もう1、2年であたしハタチのオバハンになっちゃうんだあ、という、今思えば甚だ不遜な考えが頭を支配していて、何かと子どもの頃を思い出したり、小学校を懐かしんだりというノスタルジーにひたることがあった。そういうココロをくすぐるためには別に悪くない本である(もっといいものはほかにあるよ、もちろん)。
私の頃の高校3年生と今の高校3年生とではいろいろなことが大きくかけ離れているし、必ずしも誰もが郷愁を覚えるなんてことはないと思うけど。

そしてなぜ19歳を外すのかというと、一般に高校を卒業しており免許をとる資格のある立派にオトナな19歳には、こんなくだらない本を読んでほしくはないからである。

いったいこの本、どういうところに位置しているんだろうと思ったら:
「限られた予算でいかに中高生の口コミを喚起するか」
ということを目的にした小説らしい。
インターネットには「呪いのバナー広告」が掲出され、クリックするとろうそくが灯るだけの「呪われたWebサイト」に飛び、
「親指をかえせかえせかえせ」……(笑)
と表示されるのか音声が流れるのか知らないが。
わーきゃーこわいーーーねえ、ちょっと、あれ見た?
と、噂になって中学生が「親指さがし」で遊んでくれればオッケー、ということなのだ。
文学的なあれこれには、そんなのカンケーねえ、と。

読み終えた私は本をさなぎに渡して、正直な感想を述べた。
アホな娘は「全然怖くない」との私の言に意を強くし、今本書を読んでいる。
数ページ読んだところで、「すっごい読み易い!」
あちゃ。
読み易い、ときましたか。
たしかにそうかもしれない。
表現に何の工夫もないので、引っ掛かることがない。この人物、いったい何を考えてるんだろうとか、このシーンはあとでカギになるんだろうか、とか、読者を立ち止まらせて文章を噛みしめさせたりすることがない。
すっすっすと読んでいくとだんだん「くるぞくるぞ、きたー!」という感じで見せ場が訪れるが、そこらあたりの描写が、12、3歳の、本を全然読まないで中学生になった子らはちょうどいいかもしれない。
だんだん怖くなってくるところで、臆病者のさなぎは読むのをやめるであろう。彼女には読了するという使命感は皆無だ。読み終える、という行為はけっこう大事なんだけどなあ。でもま、今回はそれでもよしということで。