この恨み、はらさでおくべきかあぁぁぁぁぁ、という話ではない。2009/03/11 18:52:48

ずっと昔、たしか風邪薬のコマーシャルだったと思うが、「エヘン虫」というキャラクター、というほどのものでもないと思うけど、そいつが喉にひっかかって暴れるから咳が出るのだ、ということを示すために、栗のイガほど細かくなく、まっくろくろすけみたいに可愛げもないけど、球体にいっぱいトゲトゲの出っ張った、尖った「もやっとボール」みたいな、赤くて見るからに触ると痛そうなやつ、があった。

たしかスギ花粉ってのも、それに近い形状だ、と何かで見たような記憶があるのだが、もしどなたかご存じならご教示願いたい。杉に限らず、花粉というのは虫の体にくっついたりして運ばれる必要があるので、ウチでも洗濯機に入れている「くず取りボール」そっくりの、無数の突起のついた形状をしているはずなのだ(というよりもくず取りボールのほうが花粉の形状を真似して開発されたのだろうと思うが)。
そんな花粉たちの中でも杉や檜の花粉というのは、とりわけ突起がむっちゃイケズな感じにとんがってて、あるいは鉤(かぎ)状になってて、くっついた対象をグリグリぎりぎりしてくれるわけだなと想像している。「エヘン虫」は喉の中でめっちゃイケズな顔をして笑っていたが、スギ花粉も人間の体内のあちこちでそんな顔をしているに違いない。

あたしはさ、君たちに何もしてないよ、意地悪なこと。そりゃ、杉を切れーってつねづねぼやいてるけど、それはさ、君たちがより健やかに長生きするためと、君たちを私たちに役立てるためにいっているのであって。
なのに君たちの花粉はあたしをこんなに苛めるんだね。ううううう。

……ええ根性しとるやないの、オラ。

と、すごんでみたいけど、大自然相手では、奈良の大仏に蹴りをいれるアリンコみたいで空しいのだ。ただただ泣くしかないのだ。花粉は微粒子だが、団体でおいでになった日にゃ、ヒトは太刀打ちできないのである。

冬の終わりから初夏にかけてのこの季節、風邪にはおかげさまでほとんど縁がない私だが、毎年「エヘン虫」をイメージしては忸怩たる思いでいっぱいになる。
今年は昨年にも増して眼をやられてしまって、ひどい顔になっている。プチお岩って感じ? とくに左目が両瞼とも真っ赤に腫れあがって、なかなか久し振りだな、こんな顔!と感嘆している。いや、感嘆している場合ではない。仕事にも内職にも支障が出て、どもならんのよ。花粉症の特効薬の開発と、眼球洗浄器(ってちょっとホラーだが)の開発とどっちが早いだろうか。けっこういい勝負ではないかと私はみているのだが。

※プチお岩、と表現したからといって、私がお岩さんのように別嬪だということをいいたいのではなくて単に眼の腫れ具合の形容として採用したまでである。……あ、ご承知でしたか、すんまへん。

以上、どの本について書こうかなと悩んでは更新を先送りしているうちに幾歳月という状態になってしまっておるので近況報告してみた。
プチお岩の私に会いたい人はメールください(笑)。

こんなにいろいろ飲んでいては効き目が喧嘩して両成敗でけっきょく効かなくなるんじゃないかという気がしないでもない、という話2009/03/12 18:22:52

お岩の続き、じゃなくて花粉の続き。

頭痛がひどいのに耐え切れず定期的に神経内科を受診して(いたのだが、医師の都合で予約をキャンセルされた12月以来、忙しすぎて新規予約をとれなくてサボっているんだけどね)、医師から熱心に勧められたのがフィーバーフューというハーブティー。予防になるから常飲しなさいって。

でも、ハーブティーのお店って……と頭の中でいつもの行動範囲をマップにしてたどっていると、「グランマル百貨店の4階にありますよ」と先生。

その神経内科クリニックとグランマル百貨店はとても近かったので、その日の診察のあと訪ねてみた。
フィーバーフュー、あったけど、げっ高い!
フィーバーフューだけじゃなくて、カモミールだろうがレモンバームだろうがローズマリーだろうが高い高い。
ハーブティーなるものが世に出だした頃から、私はけっこう好きで好んで買って飲んでいたんだけど、とはいえそんな趣味からしばらくご無沙汰だったけど、ハーブってこんなに高いもんだったかい?

ローズマリーやミントはウチで植えてるし、わざわざ買おうと思わないけどフィーバーフューなんつう聞いたこともないような葉っぱはやはりここで買うしかないなあと、ほんのちょっぴり(50g)購入。

2月になって、そのショップからDMが来た。
「花粉症に泣かない!」ブレンドティーだって。
高いとわかっていたけど私はまたふらふらとそのショップへ出かけ、今度は話し上手なきれいな販売員の口車に乗り、100gも買ってしまった。
花粉に効く葉っぱは、ネトルとかエダーフラワーとかいう、これもまた聞いたことのない名前であった。それらとおなじみの口当たりのいい葉っぱやフルーツピールなどを混ぜてある。
美味しいです。

かくて、私は起きぬけにその「花粉に泣かない」ハーブティーを飲み、朝食時にはマイブレンドのりんご酢ドリンクを飲み、食後は耳鼻科で処方された錠剤を飲み、会社にはルイボスティーを1リットル水筒持参で持っていき、帰宅したら夕食時に紫蘇漬けニンニクを食べ、またハーブを飲み、就寝前にはちみつかりん酒を飲む。

以上の合間にコーヒーも緑茶もはさまれる。

必要な成分が必要なところにちゃんと吸収されているのか、はなはだ、心許ないのである。

若い頃は庭をハーブガーデンにして、収穫したハーブでドレッシングやオイルやワインヴィネガをつくったり、ハーブ染めしたシャツを着てブーケガルニを入れたスープ・ド・ポワッソンを煮たり……という生活を夢見ていたなそういえば、と思い出したという話2009/03/13 20:37:23

安物の伊達眼鏡でも割れちゃうと悲しい……。


お岩じゃなくて花粉じゃなくてハーブの続き。

いろんな種や苗を買っては育て、収穫しては料理やお茶や、お風呂に使ってきたけれど、そおゆう若い女の子モードの趣味が後退していくとハーブの鉢植えも滅びてゆく。が、滅びない強い種もあって、ウチではスペアミントとローズマリーがそれである。

ミントは種を買ってきてちょっと大きめの鉢に蒔いたらぐんぐん伸びて、最初はアップルミントも寄せ植えしてたんだけどいつかスペアミントがアップルミントを駆逐してしまった。そしてスペアミントは今、となりの小さな椿の鉢や、私の祖母が大事にしていた古い小梅の鉢にまで進出し、根つこうとしている。これを放置するとやがて椿や梅はミントに駆逐されるであろうと危機感が募るが、一方で好奇心も募って、どうなるか見てみたい気もするのである。
毎年ちゃんと新葉を出すが、元気に繁る年と、なんとなくよわっちい年とが交互に来るようだ。一昨年はすごかった。だからどんどん切って家の中のあちこちにミントを飾った。昨年は葉も茎もしょぼかった。ので、散髪程度に刈っておいたが、さて今年はどうだろう。

ローズマリーは、自分で苗を買ってきた匍匐タイプのと、親友の小百合から昔もらった立ち木タイプの二種類が別々の鉢でしぶとく生きている。匍匐タイプのは、よく花を咲かせるが、鉢を小さいもののまま放置しているので大きくなれず、新しい茎が出てこないので、あまり料理などには使えていない。時々葉をちぎって、香りを楽しむ程度にしている。小百合がくれたほうはよく伸びるのでよく刈り取り、炒めものや蒸し料理などにふんだんに使った。さんざん刈ったので、今、メインの幹だけが残ってちょっと枯れ木モードに入っておられる。このまま枯れちゃうのかなとちょっと心配。しかし。
二種類のうちのどっちが種を飛ばしたのか知らないが、枇杷の鉢や、ミントに割り込まれている梅や、たくさんある苺の鉢の中で、ローズマリーらしき植物の新芽が出ているのである。えらいなあ。ただでは転ばんってか。植物の生命力に感心しきりである。

昨日言及したハーブティー屋さんでは、ミントスプレーも売っていた。お湯にシュッとひと吹きすると、蒸気でミントの香気が立ちのぼり、鼻が通るのだ。試させてもらったが、ほんとに、スーーーーーーーーーーーッッッッと通る。すごい威力なのである。
もちろん、それで花粉による鼻づまりやアレルギー性鼻炎が治るわけではない。ほんのひとときの、慰めである。それでもこの爽快感。感動。よし、ウチのミントにも働いてもらうぞなどと考えたのであった。

それにしてもこういう一瞬の爽快感を、目でも味わえないものだろうか。点眼薬は沁みて痛いだけ。爽快感のあるものは症状改善の役には立たないし。
私は、コンタクトレンズができなくて、四半世紀前にこしらえたおっきなフレームの眼鏡をかけて出勤している。若い同僚に「うわっむっちゃ昭和!」と笑われた。度の入った眼鏡をコンタクトと併用していたのは高校から大学時代だけなので、その頃の眼鏡しかもっていないからしょうがない。新しくつくる気は、毛頭ない。

同じように、教え子からどんなに笑われても「昭和」の眼鏡で頑張っていたウチの弟は、印刷物に出る機会がたびたび発生したのでイマドキの眼鏡を「お願いだから買ってよ」と妻に懇願されてしぶしぶ新調した。……余談でした。

といいつつも、今日はどしゃ降りの雨なので、花粉害はあまりなかった。明日は娘とチョコクッキーを作る約束をしている。ベストコンディションに整えなくては。ではまた来週 or 再来週 or 来月 or...and so on.
この次はきっと本の話をしよう。

なんつーか、友達って大事よな、大事にせなあかんよな、ということをやたら考える昨今であるのはどうしたわけかと思ったの巻2009/03/16 18:56:54

文藝春秋社『文藝春秋』2009年3月号338ページ所収
『ポトスライムの舟』
津村記久子 著


親友の小百合は、私の誕生日近くの土日あるいは祝日に、用事と称してウチの近くまで来てくれたり、他の友達も誘って飲み会を企ててくれたりして、必ず私と会う時間をつくろうとしてくれる。会えば必ず、ささやかだけど、プレゼントをくれる。私の誕生日は年明けの気の狂うような多忙の真っ只中、ということが多いので、なかなか、そうはいっても小百合の手配にひとつ返事で答えられないことが多いけど、それでもできるだけ応じている。小百合は、みんなに会いたいだとか用事のついでやしなどと口実をつくるけど、私に会わなくちゃ、と思ってくれていることがわかるのだ。誕生日だから、というのではない。それが証拠に、小百合は私の誕生日の正確な日にちを覚えていない(笑)。「だって今日、チョーの誕生日やもんな」「ううん、あさって」「へ?」というような会話をした数は、大学1年の時に知り合って意気投合して以来実に25回ほどにも達する(ごめん、ちょっとサバ読んでる)。
じゃ、私はどうなのか、というと、なんとも不義理なことに小百合の誕生日を祝ったことがない。メール一本送ったこともない。なぜなら、小百合の誕生日を知らないからだ。6月か9月かどっちかのはずなのだ(「く」という音に記憶がある)。6月になると、小百合誕生日だっけ、と思い、あ、ちがう香澄と間違えてる、と思ってそれを確かめもしないで9月まで忘れ、9月になると、小百合誕生日だなあ、あ、違う10月だった。と、10月8日が誕生日のジュディットと間違え、間違ったまま9月を通過し、10月になってジュディットに誕生日のメッセージを送る時に、あ、小百合、と思い出す。
ひどい親友である。

小百合が私と周期的に会ってくれるのは、私がどこか頼りなく人生を生きているからだろうと思う。
小百合は私を評して、チョーはしっかりしてるから心配せんでもええねん、という。
心配していないのは本当だと思う。
だが小百合の中のアンテナの一本が、「チョーから目を離すな」と命じているのだろう。小百合は私のことをけっしてほったらかしにはしないのである。ほとんど本能的に。

私の中のアンテナも、時々小百合のほうを向けと命じるようである。
いま自分はある岐路に立っている、そう感じたとき、私は小百合に電話をしたり会ってくれと頼んだりしている。といっても私は迷って決められなくて相談する、という行動様式はとらない人間なので、会うにしても話すにしても、それはいつも決めてからで、決定事項を報告するだけなのである。私の決定について、もし感想があれば述べてくれ、みたいなもんである。だから小百合はいつも呆れる。ほな、それでええやん、と笑ってくれる。それでええやんと笑ってくれることがどれほど私の力になっているかを、彼女はほとんど自覚していないだろうが、たぶん私には、彼女のその「アンタ大丈夫なんそれで」と言いたげな微笑が何より必要なのである。

一度だけ、結論を出さずに小百合に電話したことがある。それはフレデリックとベルナールの板挟みになっていた頃で、その当時流行っていたドラマの、三角関係に右往左往しているヒロインになぞらえて、どうしたらええかわからへん、というと小百合は「どっち(の男)でも、ええやん」といった。そして「(そのヒロインの立場や状況とは)全然違うやろ。(そのヒロインと)同じように考えたらアカンって。チョーはどっちともアカンと思う(=どちらを選んでもうまくいかないと思う)」
小百合は正しかったのである。

電話での会話を傍聴していた母が、「チョーちゃん、結婚したかったらしいや。どこなと行ったらええ」といった。私は29歳だった。


以上、『ポトスライムの舟』を読み終えた私の脳裏に浮かんだことである。
主人公のナガセと、ヨシカはじめ大学時代の友人たちは、私自身にも、小百合ら友人たちにもまるで似ていないけれど、その距離の保ちかたやかかわりかたには、とても共感するものがある。作者の津村さんやナガセたちと、私たちは世代が大きく異なるけれども、ともに、女が大学を出て働くのが当たり前になった世代である。いつの時代にも、キャリア志向でありながらぽんと嫁入りして主婦業に専心することをよしとする女性たちもいる。家庭に入りたいと思いながら、生きていくために必要以上に働かざるを得ない女たちもいる。私みたいに。
ナガセが結婚できなかったら養子でももらおうか、と同居する母親に問いかけたとき、母親は、いらんわそんなん、という。そのリアクションはウチの母でもそうだろう、と思った。なんでよその子の面倒見んならんの。孫を溺愛する母だが、よそはよそ、知らん子は知らん、なのである。ナガセの母親は還暦くらいでウチの母ともちろん同世代ではないが、「他」へのまなざしにはけじめをつけているという点では共通している。
ただし、たぶんナガセの母親は、娘に無理に結婚してほしくないだろうし、年齢で女の価値は決まらないと思っているだろうが、私の母が29歳の私に「結婚したかったらしたらええ」といったのは「早よせな商品価値なくなるんやさかい、親の許しをいちいちとらんでもええ」という意味であった。彼女たちにとっては女が独身で30歳を超えるなど言語道断だった(笑)。

そういう若干のずれはあるけれど、おおむね『ポトスライムの舟』は、うんうんそうだよねとうなずきながら読める小説であった。ただ、これが芥川賞といわれると、ふうん、としかいいようがない。『沖で待つ』のときも思ったが、審査基準がわからない。面白くないとはいわない。むしろ、面白い。でも、芥川賞ってもっと「おおおすごいものを読んだぞ」みたいな読後達成感を味わわせてくれるもんじゃないとやだなあ、なんてわがままをつい思ってしまう。選にもれた他の候補作を読んだことがないので比べようもないけど、該当者なし、という選択肢はないのかな。

あたしの父さんはお礼を言うとき必ず「アリが十匹」と言った……なんてのに比べてなんと重く切なく深い父の思い出であることよ、とちょっと羨ましいと思ったの巻2009/03/19 18:42:53

『父さんの銃』
ヒネル・サレーム 著  田久保麻理 訳
白水社(2007年)


ユベール・マンガレリの本で見知った翻訳者さん、田久保さんの名前が見えたので借りた本。
つっかかることなくすすっと読める現代フランス小説は、原書を読みたくなる。古典の場合は反対で、ガチガチで古くさく感じられるほうが、原書への興味が高まるのだが、現代ものでガチガチだと、書籍そのものへの関心を失ってしまう。

田久保さんの訳文は、マンガレリを通してしか触れていないし、そのマンガレリの原書を読んでいないので推測でしかいえないのだが、原書のもつ空気を損なわず醸し出し、でしゃばらない表現で、なおかつ作者の意図を必要十分に読者に伝える役目を果たしている。原作者は作曲家で翻訳者は演奏家、僕が書くのは楽譜、といったのはたしかジャン=フィリップ・トゥサンだったが、演奏の際によけいな即興を入れたり、独自解釈による演出を差し挟んだりしないことも、訳者には求められる。
私のように、まるで呼吸の如く「よけいなひと言」を発し、人様の言うこと書くことの裏の裏の脇腹まで探り入れほじくり出し拡大解釈しないと気が済まないような人間は、性格から変えないとよき翻訳者にはなれないのであろう、と落ち込むことしばし。

ということで手にした『父さんの銃』。
声を大にしていいたい。「日本人よ、これを読め。」

私たちは、よその領土に踏み込みその地にもといた原住民を虐殺して征服して建国を宣言した、という歴史をもたない国であり、民族である。戦時にはたしかにアジア各地でいちいち書くのが恥ずかしいほどの悪行三昧だったが(そしてそれは永遠に許されることのない大きな行為だったのだが)、その果てにその地に建国して現在に至る、ということをしていない。今、日本国内にいる在日をはじめとする他国籍の人々は、日本人に強制的に連行されて、あるいは騙されて連れてこられて、あるいは自らの意志で、入国した人々である。直接接触する当事者でなければ、そこにその人たちがいるということを、私たちは意識することがない。
こういう国の成り立ちや歴史の重ねかたが、私たちに特有の国民性、「弱者への無関心」を形成してきたと思う。

私たちは弱者を見ようとしない。
私たちは弱者が抱える問題を知ろうとしない。
見ていないもの、知らないものについて議論することは、目撃したことやよく知っている事柄についての議論でさえ苦手もしくは遠慮する日本人にとって、至難の業である。

在日のこと、部落のこと、水俣のこと、炭鉱のこと、らい病のことエトセトラを「あ、そうなんですか、知りませんでした」でスルーしてきた私たちが、ましてや枯葉剤の後遺症だとか、ラーゲリ帰還兵のその後だとか、新疆やチベットで起きている迫害や、チェチェン紛争の実態や、ガザの崩壊などについて、報道されていようがいまいが関心をもつはずがない。

『父さんの銃』はクルド人の物語である。
あらすじは白水社のサイトに詳しいのでそちらを検索して読まれたし。
私は中東をよく知らないので、その風景をうまくイメージできない。ただ荒涼とした砂漠が浮かぶばかりだ。読了したのは去年の夏だったが、読んでいてずいぶん暑い思いをしたものだった。
が、物語には、山も川もあり果樹園も広がる豊かな大地が描かれる。主人公・少年アサドは故郷を愛し、クルド人としての誇りをもって生きようとするが、サダム・フセインの圧政のもと西欧へ亡命する……。

それにしても、クルド人って誰のことかを知る日本人が、いったいどれくらいいるだろう。
若い頃ドイツの友達を訪ねたとき、ドイツ在住のトルコ人は差別されているが、そのトルコ人はクルド人への差別意識でアイデンティティを保っている、という話を聴いた。どこの国でも、根拠のない弱い者いじめの環ってあるよねと、力なく情けなくため息をついたことを思い出す。だが、日本に住む日本人である私は、トルコ人やクルド人に対する認識をそれ以上高める必要はないし、よほどの専門書でも読まない限り、彼らについて知る手だてはない。

そういう意味で、本書は、世界中で弱者が虐げられている事実をそれとなく何気なくさりげなく、しかし説得力のあるかたちで告げており、それは一冊の本として実に大きな役割を果たしているといっていい。著者が逃れたサダム・フセイン政権はもう存在しないけれど、昔も今も、クルド人は迫害され続けている。

WBC(ダブルビーシー)って何の略? ワールドベースボールクラシック。えっワールドベースボールカップとちゃうの? という会話が懐かしい。侍ジャポン、おめでとう♪の巻2009/03/24 17:52:32

『勝利投手』
梅田香子 著
河出書房新社(1986年)


よく行く定食屋には巨大画面のテレビがあって、いつもは昼のワイドショーをガンガン鳴らしているのだが、高校野球のシーズンは例外なく高校野球中継をつけている。今日、高校野球のカードはどこどこだったっけ、なんて思いながらその店に入ると、店奥のテレビのまわりはもう食べ終わったとおぼしきオヤジたちが、黒山ならぬ黒ところどころハゲの山をつくっていた。黒ところどころハゲ山の向こうはとても高校野球には見えない派手なユニフォームが映っていて、ようやく私は、あ、今日がWBCの決勝だったと思い至ってこの店の混雑を納得した。女将が「みんなテレビ目当てやねん」と繁盛にもかかわらず疲れきった表情で苦笑いを見せた。
食事が終わっても試合は終わらない。めったに注文しない食後のコーヒーを頼む。ゆっくり味わって、飲み干しても、まだ終わらない。残念ながら昼休憩はタイムアウト。その頃には同様に仕事に戻らなければならないオヤジたちも多くいたと見えて、黒とこ(以下省略)はもうあとかたもない。私は駆け足で職場に戻りウエブで速報をチェック。便利な世の中だなあ、今どき「一球更新」なんてあるのね、と感心しながら。
歓喜の優勝シーンの映像は観られなかったが、長いこと野球の実況なんて見聴きしていないので、久々に興奮した。※仕事中でしたが(笑)

いつかも書いたかもしれないが、私は野球バカである。実況を見ていると人が変わる(と思っているのは自分だけかもしれないけど)。日本のナショナルチームがオリンピックで負けようがWBCで優勝しようがどうでもいいし、地元の高校が甲子園で勝てなくても問題にしないけど、試合を見始めたらどっちの味方をするでもなくただただ見入ってしまう。選手たちの一挙手一投足につい叫んでしまう。投げて、打って、捕るという動作そのものが好きである。ピッチャーセットポジションから投げました打ったああーーー三遊間抜けたああーーーサードコーチャーの手が回るランナー三塁を蹴ってホームイン!という実況中継アナウンスを聴くのが好きである。審判のストラッカウト!と告げるポーズがいろいろあるのも好きである。

野球は好きだが巨人というチームは幼少時から大嫌いである。別に巨人のどこそこが嫌だったというのではない。中学生のときには午後の授業をサボって高田繁や定岡正二のサイン会に百貨店の屋上へ行ったし、王さんがアーロンを抜いて世界記録を達成したときには感涙にむせいだ。単に私は、テレビをつければそれしか映っていない、という状況にあるチームの味方はしたくなかったのである。まったくどいつもこいつも巨人の話ばっかしおってからにぃセリーグは6球団、プロ野球は12球団あんだぞぉ巨人だけ巨人と呼ぶな読売と呼べぇ。というような屈折した少女心理にぴたっとハマったのが川上巨人V10なるかという年にそれを阻みペナントを獲った与那嶺中日であった。
昭和49年の中日ドラゴンズ優勝は、「中日優勝!」ではなく「V9常勝巨人V10ならず」という勝ち組視線の文言で語られ、長島引退というビッグイベントに完全にかき消されていたが、少ない情報の中から私は星野仙一や高木守道や木俣達彦の名前を引っ張り出して脳にインプットし、中日追っかけ人生を始めたのであった。

『勝利投手』はフィクションである。しかし主人公の野球少女は中日ドラゴンズに入団する。そこに登場する、少女の恋の相手となる選手以外は、すべて実在のプレイヤーや監督、コーチである。
そう、これは女の子がドラフトで指名されて中日に入団し、プロ球界にデビューするという話である。本気で水原勇気に憧れていた野球バカにとってはワクワクものの小説だ。本屋で見つけて飛びついて買ったことを覚えている。あの単行本、今も我が家の書架にあるだろうか。もしかして、置き場所に困って泣く泣くいくつかの本を処分したときの、古書店行きのダンボール箱の中に入れてしまったかもしれない。今見ればレトロ感昭和感たっぷりの、当時の中日のユニフォーム。それを着た少女投手の、キュートなイラストが表紙であった。
小説は、星野仙一が監督をしていた頃の中日が舞台である。実名を使っているが、きちんと取材を重ねたのだろう、小説の人物が実在の人物にきれいに重なり、読んでいて違和感もイヤミも覚えなかった。もちろんそれは私が中日ファンだったからに過ぎないのかもしれないが。女の子がプロ野球選手になるのは野球規則で禁じられている(いた?)ので、少女投手は、もし男であれば存在もしない幾つものハードルを、越えなければならない。何とか勝ち星にたどり着くシーンに、素直に感動した記憶がある。

野球に夢中になり始めたのは星野がエースだった頃だ。彼よりいい投手はいくらでもいたけれど、彼ほど観る者の心を熱くしてくれた投手はいなかった。彼の次に中日のエースナンバー20番をつけたの小松辰雄で、私は彼が星陵高校にいたときから大ファンだったが、それでも20番をつけた小松には違和感を覚えた。それほど「中日のエース星野・背番号20」に入れ込んでいたのである。
星野が率いたチームがオリンピックで負けた時、寄ってたかって誰もが負けを彼のせいにしていたけれど、何も知らないくせにこいつら、と私はひとり毒づいた。何も知らないくせに。現役時代の星野の渾身の投球を、知らないだろお前ら。

原辰徳については、東海大学附属相模高等学校野球部のときから巨人に輪をかけて大嫌い×無限大(笑)であったが、泣き虫なので大目に見てやることにする(笑)。よかったな、侍ジャポン(と、あえてジャ「ポ」ン、といってみる。笑)。決勝打はイチローで、MVPは松坂で、けっきょく大リーガーたちに全部持ってかれてしまったのがなんとなく悔しいけどな(笑)

PS:『勝利投手』、ありました。今度写真見せます。2009.3.25

新年度町内会役員に当たっちゃったよと愚痴るだけのつもりだったがふと職場の書架で愛するウチダを見つけましたの巻2009/03/26 20:54:23

勝利投手の表紙。ぷぷぷっ。なかなか、派手でしょ。


文藝春秋社『日本の論点2009』(2009年1月刊)470ページ所収
『家族から個人にシフトした消費のかたちが、親族の再生産を放棄させた』
内田 樹 著


町内会の役員に選出されてしまった。
選出されたというよりも、各戸回り持ちなのでとうとう順番が来た、だけの話なんだが。これまでも小さな役員、たとえば何とか委員、何とか係は毎年のように引き受け、大した仕事もなく適当に捌いていたけど、今回は副会長兼会計(なんで兼ねるんだろう)という大役なのである。これまで回避されていたのは、ひとえに、ウチの父亡き後、母は高齢、私はまだ青二才であるというだけのことであった。

ある晩、帰宅すると母が言う。
「川崎さんが引継ぎしたいし時間決めまひょ、って電話してきゃはったえ」
川崎さん(仮名)は前任の方である。
「ほんで?」
「まだ仕事から帰ってまへんて言うたら、へ、そない働いたはりまんのんか、やて」
私がどんな日常を送っているかなど、町内会のお歴々がご存じのはずがない。私は笑ったが、母は憤懣やるかたない。「あんたのことをそこらのヒマそうな奥さんやらとおんなじように思たはる」
いいよ、一度こういう忙しい人間に役員させてみるのも。滞りなく済めば今後多忙を理由に断ってきた人たちも引き受けざるを得ないだろうし、逆に全然お務め果たせなければ二度とあたしには頼みに来ないだろうし。そういう意味のことをいってはみたが、母はほとんど聞いてはいない。町内役員会といえば飲み会と同義語だったので、のんべの父は毎年何かしら役員を引き受け役員会と称しては出かけて朝まで帰らなかった。父の行状は凄まじく(いや、上には上がきっとあるだろうし、いずれにしろ今となっては単に笑い話なので内容は書かないが)、母にはそれが、今の言葉でいえばトラウマになっている。でもさ、あたしが同じ行動するわけないでしょうが。

もうひとつは、私が日中ほとんど留守にしているということはけっきょく自分が全部代理で応対しないといけないではないかという不満が母にはあるのである。ま、そりゃたしかにそうだから、申し訳ないんだけど。

「チョーちゃん、会計やで」
「お金預かるだけ?」
「だけ、やないけど、まあ、そんなもんや」
「ならいいけど。あたし、朝から晩まで家にいいひんよ」
「お母ちゃん、おるがな。まだボケたはらへんやろ」

総会での役員決定に際しての会話である(笑)。
私の母がまだボケていないということが決め手となったのである。
町内会の面々の中には町内会費をジャラジャラと小銭でひと月ごとに持参する人もあれば、一年分をまとめて封筒に収めて納入される方もいる。いちおう、「町」の下部組織として「隣組」というのがあって、組ごとに取りまとめるのが決まりだが、日中全然いない独身さんなどから徴収する手だてがないときなど、会計役がじきじきに「はよはろてや」と言いに行かなくてはならないとか、挙げだすと小雑用がやたらあるのである。
「チョーちゃんのお母ちゃん、そんなん全部やってくれはるやろ」というのが長老方の一致した意見で、だったらあたしじゃなくて母ちゃんを任命すりゃよさそうなものだが(笑)。

一緒に役員を務める面々は、一度は町内会長をもう務めた、というおっちゃんたちである。直近の会合では、「わしが会長してたとき」のエピソード披露会であった。結城さん(仮名)のおっちゃんが会長のとき、前代未聞というほどお葬式が多かった。
「あの年、ぎょうさん見送ったけど、それでも敬老会員減らへんなあ」
と誰かがいったが、他界された方々の多くはすごく高齢の、お迎えが来るべきしてきた人たちだったが、私の父もその年に亡くなった。なので、この手の話が出ると必ず「チョーちゃんのお父ちゃんが一番若うで死なはった」と誰かが言い、早すぎたと別の誰かが言い、涙ぐむおっちゃんもいたりする(笑)。オヤジは幸せなヤツだといちいち思わざるを得ない。やんちゃの限りを尽した親父の若い頃を知る人が、まだ町内に多く残っておられる。

私には配偶者がなく、したがって、新しい親族というものを生産しなかった。しかし子どもは産んだので、その子どもから「親族の再生産」がまた形成されるかもしれない。
たしかに私は親族なんてどうでもいいと思って成長した世代である。内田さんは、消費行動の活性化という「国策」のために家族の構成員は親族の再生産を放棄し、結果家族は解体し社会も解体されようとしている、ということを書いている。だからみんな結婚しろそして産めよ増やせよということを主張しているわけではない。
私のように、積極的に親族というものを無視した人間が大きな顔をして社会に胡坐をかいていられるのは、《圧倒的多数が親族制度を存続させているからである。》(471ページ)
一部の人間が、親族なんて要らないわ、という生き方ができるのは、親族という集団をモデルにしたあらゆる社会集団によって世の中が成り立っており、その制度の内部で生きているからである。親族なんて要らないといいながら、それでも人は人を愛する。大切に思う人と長い時間を共有したいと思うようになる。あるいは教え子の出来・不出来に責任を感じたり、ダメな部下を一人前にしなきゃと思ったり。訃報を聞けば葬儀に出られなくても通夜には行かなきゃとか弔電の文面はとか、思いをめぐらす。
《私たちは「扶養する」ことの有責感や「弔う」ことの重さを親族関係を通じて学ぶ。「傷つく」ことも「癒される」こともそこで学ぶ。》(473ページ)

私は身籠ったとき、家族の次には近しい親戚に打ち明けた。まず親族を味方につけなければという本能が働いたのである。盆と正月に会うか会わないかの人たちだったが、とにかく知ってもらわなければと考えた。そしてついでに使い古しのベビー用品などもゲットした(笑)。出産して退院して、腕に赤子を抱え帰宅した私に最初に遭遇したのは町内の面々であった。みんな、文字どおり開いた口がふさがらず仰天していたが、その次の瞬間には口々におめでとうを言ってくれた。私が仕事をしている間に子守りをする両親に、誰もが声をかけ、赤ん坊を一緒にあやしてくれた。

《「成熟」や「共生」(中略)といった概念はすべて親族制度の内部で発生し、経験された心の動きやふるまいを親族関係以外の関係にも比喩的に拡大したものである。(中略)「愛」や「嫉妬」といった情緒が単体で存立しているわけではない。親族制度の内部で、私たちはそのような人間的感情を学習し、それをそれ以外の場所に「応用」するのである。》(同)

とても当たり前のことなんだけれども、当たり前のことをこうして議論しなければならないところに、この国の危うさがあるのだろうと思う。私だって、子どもを通してしか、実感もできなかったし、今こうして「当たり前」だともいえなかったであろう。同様に結婚して初めてこういうことの意味がわかった人もたくさんいるはず。危ういところまできているけれど、立て直すことができるかどうかは、「結婚や子育てを通じてようやく理解した」私たちの世代が、「親族を形成すること」を次世代にいかに継承するかにかかっている。

《親族を形成することと成熟することが同義だからである。》(同)