もうこの知性が生きて躍動することはないのだと思うとやはりどう考えても悲しいばかりなのである(その1)――チェチェンニュースから2009/11/05 15:52:18

■アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺3周年・追悼特別上映会のお知らせ
ドキュメンタリー映画『アンナへの手紙』
エリック・バークラウト監督作品(83分)
情報ページ
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20090821/1250863763
日時 2009年11月20日(金)19:00~21:40
会場 文京シビックホール・小ホール
http://www.b-academy.jp/b-civichall/access/access.html
参加費 1,000円
共催:チェチェン連絡会議/(社)アムネスティ・インターナショナル日本
★上映後、トークイベント開催!
特別企画:鼎談「アンナ・ポリトコフスカヤを語る」(仮題)
林 克明(ジャーナリスト)×寺中 誠(アムネスティ日本事務局長)×大富 亮(チェチェンニュース)
チラシ
http://chechennews.org/dl/20091120_anna_leaf_omote.pdf
http://chechennews.org/dl/20091120_anna_leaf_ura.pdf

■『アンナへの手紙』に寄せて ──私たちの希望のためにも
大富亮(チェチェンニュース)

ロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ。彼女は1999年に始まった第二次チェチェン戦争を偶然取材するようになり、幾度となくチェチェンに潜入しては、軍事侵攻を続けるプーチン政権を痛烈に批判する記事を書いた。
 「どうして私が生きているのかわからない──奇跡だわ」と語る彼女。悲しいことに、その奇跡は世界の見ている前で取り消された。2006年にモスクワの集合住宅で、彼女は暗殺されたのである。
 この映画は、生前のアンナへのインタビューや、一緒に独立紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」で働いていた同僚たち、人権活動家などへの聞き取りを通して彼女への「手紙」を編もうとする。
 ソ連崩壊後、ロシアではほんのわずかの間の民主化と言論の自由があったが、94年にチェチェンへの侵攻が始まって失われ始め、2008年現在、ほぼすべてのテレビ局と新聞は政府の管理下にある。
 チェチェン戦争は、南ロシア・コーカサス地方というロシア全体から見ればごく小さな場所で起こっている地域紛争だ。独立を宣言したチェチェン共和国に対してロシア軍が侵攻を開始し、ここに住んでいた100万人ほどのチェチェン人のうち20万から25万人が殺戮され、今は親ロシア派のチェチェン人、ラムザン・カディロフによる傀儡(かいらい)政権が支配している。
 生きていた頃のアンナがスクリーンの中で笑っている。あのハスキーな声で議論をするのが聞こえる。講演の合間に、ヨーロッパのどこかの公園を逍遥している姿は、戦争とロシアの現実を訴えて回り、それが「上品な拍手」に迎えられながらも何の結果にもつながらないという絶望をにじませているように思える。
 人の死は徐々に忘れられていくけれど、大勢の人を代弁し、その命を救おうとした人の死は忘れられてはならないものだ。それは私たち自身も、そんな人間でありうるという希望を忘れないためでもある。
 なお、日本では彼女の著作は「チェチェンやめられない戦争」「プーチニズム 報道されないロシアの現実」「ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳」の3冊がNHK出版から刊行されている。

●アンナ・ポリトコフスカヤ
 ロシアのジャーナリスト。1958年生まれ。1980年、国立モスクワ大学ジャーナリズム学科卒業。モスクワの新聞「ノーヴァヤ?ガゼータ」紙評論員。1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝えてきた。「ロシアの失われた良心」と評され、その活動に対して国際的な賞が数多く贈られている。2004年、北オセチアの学校占拠事件の際、現地に向かう機上で、何者かに毒を盛られ、意識不明の重態に陥った。回復後、取材?執筆活動を再開する。2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパートで、凶弾に倒れた。著書に『チェチェンやめられない戦争』(NHK出版)など。

もうこの知性が生きて躍動することはないのだと思うとやはりどう考えても悲しいばかりなのである(その2)――チェチェンニュースから2009/11/05 18:11:43

(すこし前のメールマガジンから抜粋。尊敬する米原万里さんのこと)

2009-09-03
#306 米原万里さん三周忌、プーチン政権への評価

〈記事について〉
 安東つとむさんという人が季刊で発行している、『nudei』(ヌーディー)という雑誌がある。美容の業界誌として、今年初めに創刊された。業界のかかえる問題点や疑問を、消費者視点や社会的視点からとらえて提言するというもので、名前から想像するより、ずっと硬派な雑誌だ。
 業界誌・・・という括りは無理かもしれない。ウイグル、チベットなどの、マスメディアがあまり報道しない問題も、積極的に掲載しているくらいだから。ミニコミがインターネット上のものになり、マスメディアが衰退していく中、こういう形で船出する人がいるのだ。
 そのヌーディーに、米原万里さんと、プーチン政権についての記事が載ったので、許可を得て転載する。メディアの転換に果敢に取り組む人にしか書けない、触れば切れるような鋭い一文。(大富亮)

■"かくも長き不在" プーチンのロシアと米原万里三周忌
  (安東つとむ/nudei編集長)
 米原万里さんが、わずか56歳でガンに倒れ、惜しまれながら逝ってからもう3年過ぎた。
 小・中学時代の5年間をプラハのロシア学校で過ごしたときの友情や思い出をいきいきと描き、政治に翻弄されたこどもの悲劇の真実を浮かび上がらせた『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』。かつてのダンス教師の謎を追いながら、いまもなお本質的には変わらぬロシアの権力者たちの醜さおかしさを描いた『オリガ・モリソヴナの反語法』。もうこんな傑作に、わたしたちは会うことができない。
 3年目の5月、米原万里が生涯を終えた鎌倉市の鎌倉芸術館で「米原万里 そしてロシア展」が開催された。連休中には特別講演会もあり、井上ひさしさんの講演と「米原万里、そしてロシア」のシンポジウムが開かれた。
 会場の小ホールの定員は600人だが、開会前から周辺は黒山の人だかり。キャンセル待ちの列まで長く伸びているのには驚いた。東京ならともかく、鎌倉にもこんなに万里さんのファンはいたんだ。そんな感想は、実はとても不遜だったとあとから気がつかされるのだが。
 井上ひさしさんの講演は、米原万里の反語法の意味を、戯作者らしく愉快に素敵に語る魅力的な講演だったが、今回のテーマではないので、それはまた別の機会に。
 この日の白眉はシンポジウムだった。万里さんの恩師でもあるロシア文学者の川端香里男さん、元NHKロシア支局長・小林和男さん、それに万里さんに励まされ続けたロシア文学者・沼野恭子さん。
 シンポ全体が白眉だったとはいわない。そのある瞬間から、それは劇的に変わったのだ。
 小林氏は元NHK支局長の人脈を活かして最近プーチンに会ったそうだ。そこで「びっくり仰天の体験」をしたという。
 「プーチン元大統領・現首相のことを皆さんは嫌いでわたしもそうだったが、ロシアの若い女の子はプーチンが大好きだ。プーチンは官邸に柔道場をもっていて、そこには加納治五郎の等身大のブロンズ像や写真があり、彼は毎日拝んでいる。プーチンは柔道は単なるスポーツではなく、日本の文化や伝統、精神から生まれたもので、柔道を知らなかったら、自分はここにいなかったと言う。日本人はそういうプーチンのことを知らない。もっと理解すべきだ」
 わたしは体が震えるほど怒っていた。では、万里さんがあんなにも憤り、死ぬまで「わたしはチェチェン病だ」と言っていたほど同情していたチェチェン人の民族的悲劇を起こし武力制圧と民族浄化さえ推し進めているのはいった誰なんだ! ロシアではプーチンに批判的で反体制的なジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんやリトビネンコが次々に殺されているのを、どう考えているのだ!
 すると、可憐にさえ見える沼野恭子さんがこう反論した。
「ロシアの文学者たちは、ずっと権力と闘ってきた。ロシア人の反骨精神、反権力、そしてロシアの中の良いものや文化を守っていこうとす気持ちを、万里さんも認めていた。アンナ・ポリトフスカヤさんのような優れたジャーナリストが頑張ってきたのに、わたしにはプーチンがどうしてロシア人に圧倒的に支持されているのか、知りたい。こんな大変な歴史をもっていて、こんなに悲惨な思いをしてきたのに、また同じ道を歩むのかと、悔しい気持がします」
 シンポジウムをただ黙って聞いていた会場の人たちの中から、大きな拍手がわいた。それは明らかに、プーチンに手もなくあしらわれて趣旨替えをして権力におもねる元ジャーナリストへの強い非難を含んだものだった。
 シンポから2ヶ月後、かつてアンナ・ポリトフスカヤさんの仕事を手伝っていたジャーナリストのナターリア・エステミローワさんが、チェチェンの自宅前で誘拐され銃殺死体となって発見された。ロシアと同じく、プーチンの傀儡カディロフ政権の下では、反体制ジャーナリストを殺した犯人は発見されないし、罰せられもしない。そのことを、メディアは大きくは伝えない。継続的なニュースすらない。体制側に乗っ取られたロシアの「国営」テレビはもちろん冷淡な扱いだ。そして日本のジャーナリストはこのざまだ。
 米原万里逝って3年、"かくも長き不在" を感じさせるシンポジウムだったが、しかし、あの600人の拍手の意味を考えるとき、希望がないわけではない。ロシアの文学者・ジャーナリストにもそうであってほしい。

「ヌーディ」は一般の読者にも販売している。定価840円。
連絡先
〒167-0054 東京都杉並区松庵3-21-10クレッセント西荻窪102
株式会社街風通信 「ヌーディー」編集部
TEL 090-4914-4597 FAX 03-6772-5560
e-mail  machikaze@jcom.home.ne.jp

フランス語へ導いてくれた偉大なお兄さま2009/11/13 08:25:06

昨日、ラジオを点けるとサリフ・ケイタがしゃべっていました。
すぐにサリフ・ケイタとわかったわけではもちろんなくて、なんかおっちゃん二人がしゃべりながら、ときどきサリフ・ケイタ、という単語を会話に織り込みつつ、会話が途切れるごとにサリフ・ケイタの歌を挟みつつ、というような番組だったので、サリフ・ケイタを紹介していることは瞬時にわかったのですが、ご本人もそこでしゃべっているということに気がつくのに若干時間を要しました(笑)

サリフ・ケイタのオフィシャルサイトはここみたいです。
http://salifkeita.artistes.universalmusic.fr/

でもサリフ・ケイタって?
まずは聴いてください。(便利な世の中だね)
http://www.youtube.com/watch?v=bqDnoSNq6Qc
http://www.youtube.com/watch?v=3ksr18dZTgc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=z1pqUKWfFl4&feature=related

三番目のはあこがれのマリの風景がでてくるので好きなクリップです……。

大学時代からアフリカに傾倒していた私は、けっこう節操なく手当たり次第聴いてたんですけど、雑誌かなにかでサリフ・ケイタの名前を見て、たぶんレンタルか何かで彼の音楽を聴いてノックアウトされました。でもそのときの曲がなんだったかもうわからない。一枚も、LPにしろCDにしろもっていないので、何年のことだったかわからない。
手探りでアフリカアフリカといいながら、大学を卒業して、社会人になって、アフリカとは別のきっかけで仏語教室に通い始めました。
大阪の繁華街の、キタかミナミかもう覚えていないんですが、とにかくもうおそらく今は無き、倉庫を改装したライヴハウスで、サリフ・ケイタのライヴを観ました。
その日から彼は私の神になりました。
彼がMCで話していたのは、フランス語でした。何を言っていたのかわからなかったけれど、最初のボンジュールくらいは聞こえたし(笑)

彼はとても、白かったんです。
周囲に、真っ黒な肌に極彩色のアフリカンな紋様の布をまとったダンサーや、伝統的な装束の要素を取り入れたすっごいかっこいい衣装に身を包んだやはり真っ黒な肌をしたコーラスを置いて、彼自身は真っ白な肌に真っ白な衣装を着けて、両手を胸の位置で時折合わせながら、澄んだ伸びやかな声で歌いました。神々しいほどの、いえ神ですからまさに神そのものなんですが、存在がそこにあって、ノリノリの観客たちをよそに、私はなんだかぽつんとそこに、たったひとり暗闇に立ち尽くし、何となく、サリフ・ケイタに厄払いのご祈祷してもらっているような気分でした。ちょっとうまく言えないけど。

サリフ・ケイタについて上手にまとめておられる文章を見つけました。
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/salif-kaita.htm

フランス語をマスターして、サリフ・ケイタに会いにいく。
それがわたしの、仏語学習における目標となりました。
ということを、昨日のラジオで思い出したのでした。

ラジオでは、パーソナリティがサリフ・ケイタを呼ぶときに必ず「mon grand frere Salif Keita!」というふうに「我が兄よ」と言っていたのが印象的で、そうだな、と思いました。仏語と日本語とでは「兄」のもつ意味や語義の範囲とか語源が異なるので短絡的に考えてはいけないのですが、確かにこの人って兄さまよね、お父様じゃないわよね、と妙に納得したのでありました。

サリフ・ケイタ、みなさんもぜひ親しんでくださいね。

誕生日とお正月準備の話2009/11/13 20:24:28

今日は何の日?

今日は13日の金曜日である。
マイ母の誕生日である。73回目だ。
父が亡くなったのと同じ年齢になったけど、幸い彼女はとりあえず元気である。私の母の場合、カラダは大変頑強である。母のきょうだいはみな、問題を抱える者もいるが、カラダは元気である。今年の夏、長姉のさよ伯母が亡くなったけど、およそ病とは無縁の人であった。長兄は認知症が始まっているけれど、カラダのほうはまるで大丈夫である。
8人きょうだい(うち2人は夭逝しているから実質6人)の末っ子の母は、やはり末っ子だけあって、というと世の中の末っ子からブーイング来るかもしれないけれど、自分で道を切り開けないというか、主体性がないというか、人に頼ることしか知らないというか、そのくせ叱られるのが怖いから(まずいことは)黙っているとかそんなとこにだけ智恵がまわるというか。
母は姑(私の祖母)の嫁いびりにも耐えたし、父の女遊びにも耐えたし、染め工場の専従者として仕事と家事を両立させてきたし、なかなか図太くて根性入ってて、立派な女性なのである。だからもっと自信をもてばよいのである。なのに発想も発言もネガ志向である。まじめに喋っていると気が滅入ることしばしばである。面倒だから書かないけど。
そのわりにはもうちょっと真剣に考えてくれよ、というようなことをすーっとスルーしちゃうというか問題視しないというか忘れるというか。

私は出来合いのおせち料理の広告が大嫌いである。
ちっとも美味しそうに見えないということがひとつ。
もうひとつは実際に美味しくないのに決まり文句で過剰に飾り立てて御節を作るという日本文化を破壊しようとしているからである。

一度、社用でどうしても某超有名ホテルの割烹による御節三段重を注文しなくてはならなかったので注文し、間違いなく大晦日に届いたのでお正月にありがたくいただいたのであるが、私たちの郷里の御節とはまるで異なるものが入っていて(そのホテルはよそさんでしたの)、どうすればこんなけったいな味付けになるのか、というような代物ばかりであった。その地方では定番の名料理なのかもしれないが、なじんでいない、口に合わないということをあれほど思い知らされたことはなかった。やはりその土地のものはその場所へ行って、その土地の地を踏み空気を吸って、その土地の人と話をしながらいただかないと美味しくない。その経験もあって、我が家では、主に母が、であるが、御節はやはり自分の家と、地元の気心知れた商店街とで準備したほうがいいという意を強くしたのである。
去年、ひいきの魚屋さんのおじちゃんが亡くなって、棒鱈の下ごしらえを頼める人がいなくなって、母は何年ぶりかで自分で戻すところから始めたのだったが、手順がどこかで欠落したのか、棒鱈はかなり硬いままであった。味付けはバッチリだったので、やはり戻してから煮るプロセスで「ちょっと面倒くさくなった」のがいけなかったのだと母は反省し、今年は完璧な棒鱈をつくると張り切って、隣近所のオババどもにリサーチしている。
お正月準備は、その気心の知れた商店街のいくつかのお店にリストを渡し、配達してもらうのが慣わしだ。私は掃除と飾りつけ係であるので、注連縄などの買い出しには自分で行く。とはいえ去年あたりからどこにでも背が届くようになった娘が、飾りつけもほとんどやる。重詰めもする。そのうちばあちゃんと一緒に煮炊きもするかもしれない。けっきょく私には料理当番はまわってこないかもな、と思っている。ま、そのほうが、母は元気で長生きしそうである。まだまだ家事の大部分を引き受けてもらわないといけないのであるから。
「おばあちゃん、いんようになったらホンマ困るよな。生き延びれへんかも」
こら、真剣にいうな、娘。

というわけで、ハッピーバースデー母ちゃん。

ひと雨ごとに寒くなる、なんて全然そんなことのない秋2009/11/14 06:12:54

朝練に出かけた娘がしばらくして戻ってきました。
誰も集合場所に来ないからやめた、と言って。
そりゃあそうだ、だってひどい雨だもん。5時頃はたたきつけるような土砂降りだった。少し雨足弱まったから、きっとなんだかんだ言って朝練、あるよ。そういっていつものように5時55分に出かけたのでしたが。

中2の秋から飛躍的に記録が伸びた娘は陸上にかなり本気です。
学校の顧問、副顧問に加え、ボランティアでコーチをしてくれているお兄さんも、「必死に頑張れば全国大会を狙える」というんですが、その「必死に頑張れば」がミソだな。「狙える」も引っかかりどころだな。「いける」とはいわないんだもんな。
でも、数字だけ見ると去年からものすごくタイムが縮んだので、それはやはり練習の賜物だ、ということで、朝練始めました。
実は朝練は、娘の中学では禁じられていて、私的な自由活動にしかならないんです。そんなこともあって、部員がある程度まとまって朝練するには、それなりのモチヴェーションがいるし、誰かの監視も要る。娘は中1のときから、早く明るくなる夏の朝や、いつまでも明るい夏の夕方とかに近くの城跡や商店街(アーケードがあるしね)へ走り込みに行っていましたが、冬場はどうしてもそれができなかった。
でも、先述したボランティアのお兄さんが朝練コーチするからと呼びかけてくれたこともあって、9月半ばからほぼ毎日、5時半に起き55分に出ていく生活を続けています。
1時間くらいしたら帰ってくるので、その時点で朝ご飯をスタンバイしておくのが私の役割です。朝からディナー並みに食っていくので(笑)けっこう大変です(笑)

一度朝から土砂降りにもかかわらず、みなさん走りに行ったことがありました。そのときは我が家の前が集合場所になってて、みなさん来てるんだけど、あまりの雨に「今朝はないよお」と娘は寝ておったのです。コーチ兄さんは「すぐ支度できるなら待ちますよ」とゆってくださいましたが、申し訳ないので行ってもらった、ということがありました。
そんなことも覚えていたので今朝、娘は「絶対あるよ」と言って出かけましたが……。

あの日は駅伝の予選前だったね。今とは気合いが違ったな、たぶん。

駅伝の予選で惜しいタイムで負けて、みんなで大泣きしたのは先月のこと。オフの体づくりが来シーズンを決める!とばかりに、負けた翌日のみオフで、それまでよりいっそう練習に力が入りましたが……
その後部員がばたばたと新型インフルエンザに倒れていきよりまして。娘も例外でなく。
駅伝の予選でうつったんじゃないかい?
陸上部員だけじゃなく、学校全体が9月の大流行(このときは学級閉鎖や学年閉鎖になったけど、娘はうつらなかった)以来二度めの大流行に見舞われてたいへんだったのだが、これ以上閉鎖すると授業日数足りなくなって学習範囲消化できないとかの理由でクラスの出席者が10人くらいでも学級閉鎖にはしなかったのです。

そんなこんなで、部活も一時停止、朝練もしばし停止。最近になってようやく再開したんですけど……
シーズンオフに緊張を持続するって易しいことではないですね。
スポーツ選手って、ほんと偉いんだなあ。
ますます雨が強くなってきました。
今日は洗濯してもしょうがないよなあ、どうしようかなー
昨日のぶんも乾いてないし。
さて、朝ご飯の用意します。

不治の病の物語はいつも残酷2009/11/16 06:05:25

『私の中のあなた』というアメリカ映画を娘と観た。

キャメロン・ディアスが初の母親役、というので話題を呼んでいたそうだが、別にどこもおかしくなくて、ちゃんと仕事していた。というより、看病や心労でくたくたになっている表情なんかはすごくいい味出していて、はまり役だと思った。でもよく考えればディアスの他の作品をそれほど観ていないということに気がついた。あの『チャーリーズ・エンジェル』をテレビかなにかで見ただけだ。なのにどういうわけか私はいろいろな役を演じるディアスを観た気になっている。たぶん映画館やテレビでのさまざまな予告編、それを実際に観た友人の話、映画雑誌の記事などで観た気になっているのである。それほどディアスという女優の露出度が大きいということだな。

映画についての詳細はこちらで。
http://watashino.gaga.ne.jp/about/

若者が病と闘う姿のひたむきさ、彼らを取り巻く医療の現実。家族の心模様などよりは、そちらがうまく描かれていて、なるほど、そうなんだ、ふーんということが多かった。幸いにも病気と無縁の我が家では思考がそっち(病気や病院とか)になかなか行かないから、こういう類いの映画やドラマはいつも他人事だ。

四、五年前のことだけれども、近所のサエキさんちのリョウ君が白血病で亡くなった。六歳だった。就学目前の二月、彼は天に召されたのだった。サエキさんちには、リョウ君の上にお姉ちゃん、お兄ちゃんがいた。きちんと挨拶するいい子たちだ。とくにお姉ちゃんはよくリョウ君を連れて公園に来ていた。
リョウ君が闘病中だと知ったのは、遡ること一年くらい。リョウ君はウチの子が通っていたのと同じ保育園に通っていた。たしか何か所用で職員室を訪ね、ついでに懐かしい遊戯室を覗かせてもらった時のことだ。「リョウ君がんばってます」とか何とか書いた画用紙に、病室とおぼしきところで痛々しく頭にバンダナを巻いたリョウ君の写真がたくさん掲示してあったのだ。

リョウ君のお父さん、つまりサエキ氏は同級生の兄である。妹とは中一の時によく遊んだが、中二になると遊ぶ友達が変わって、高校は分かれて、その後は疎遠になったままだった。地元にいるけど独立して店をしている。お兄さんのほうは家業を継いで現在に至る。お兄さんとは子どものときは喋ったこともなかったが、お互い親になり地域行事などで顔を合わせるようになり、娘も参加していた子ども陸上クラブのコーチ役もしてくれていたので、よく話すようになった。

しかし、彼の口からリョウ君の病気のことは、当然、出てこなかった。偶然保育園でその事実を知ってからも、私は尋ねるのが怖かったし、こちらから何も訊くことはしなかった。
リョウ君が何歳で発症し、どの程度の治療を受けたのか、そういうことも知らない。

『私の中のあなた』では、ケイトは二歳で発症する。白血病との診断を告げる医師の表情は穏やかだがそれは、もう諦めなさいという死の宣告だ。考えうる限りの治療を試みるが、医師は、移植手術しか道はない、それも適合ドナーが現れなければ望みはない、といい、ただし適合ドナーを「創る」方法はある、と夫婦にもうひとり子どもを産むことをすすめるのである。
もちろん、遺伝子操作による試験管ベビーだ。
そして生まれた娘・アナは、生まれたその日から姉のドナー役として、体のさまざまな部分に注射針を射しメスを入れ、自分の身を提供する。
アナは今11歳。ケイトはアナのおかげで白血病と診断されたときから11年生き延びたのだ。

私は観賞中、やはりリョウ君を思った。サエキさん夫婦を思った。もしも選択肢としてそのような方法を提示されたら、彼らはその道を選んだだろうか。

ようやく字幕つき映画に慣れてきた娘が隣で鼻をぐずぐずいわせて泣いていたし、場内でも鼻をすする音がよく聞こえた。泣かせるシーンは随所にある。終了後会場から出るとき、若いカップルが「隣のオジサン号泣してて参ったよー」なんて話しているのを聞いた。子どもが複数いる家庭のお父さんやお母さんだったら、それぞれの子に固有の人生のあることをあらためて思い知らされて感動するかも。

「石炭はどこにあるのですか」「地の底」2009/11/17 18:18:02

藤原書店『環』Vol.38(2009年夏号)
248ページ
〈小特集〉『「森崎和江」を読む』


昨日、こんなイベントがあったのである。
【対談 姜尚中×森崎和江】
お二人とも大好きなので、近かったら仕事ほっぽり出して駆けつけるところだ。
いいよなあ、東京は何でもあって何でも開催されてさー。
つーても、どこにいようとそんな文化的生活、謳歌できないけどなあ、今のありさまじゃ。
あーあ。でも愚痴んのやめよ。

姜尚中って誰?とおっしゃるみなさんに。『悩む力』というベストセラー本の著者である。
森崎和江って誰?と問うかたがたに。『からゆきさん』というノンフィクションの書き手である。

イベントの告知ページはここ。
http://fujiwara-shoten.co.jp/main/news/archives/cat17/

私は、『悩む力』も『からゆきさん』も読んでいない。姜さんの本はその昔論文集として出された『オリエンタリズムの彼方へ』しか読んでいない。しかも読んだとはとてもいえない。小難しくて睡眠薬にしかならなかった。『オリエンタリズム』にノックアウトされていた後だったので、サイードつながりで読んだけど、姜さんの筆致はサイードの訳書とはぜんぜん違って難解だった。森崎さんの本は一冊だけ、『まっくら』を持っている。面白い本である。私にとって森崎さんはこの『まっくら』を書いた、女性ルポライターの魁(さきがけ)みたいな人であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。『まっくら』の初版は1960年だから、時代背景からも世代からしても(森崎さんは1927年生まれ)書くことを仕事とする女性の鑑なんである。『まっくら』はすごく面白い。身につまされる。男どもに腹が立つ。女を、しかし男をも、人間を、愛しく感じるようになる。

姜さんは、院生をしていた頃に顔を見た。大学が開催したシンポに講演者・パネラーとしてやってきた。それはクレオールやディアスポラに関するシンポだったように思うが、もう忘れた。忘れたが、永遠に忘れられないと観念するほど印象に残ったのが姜さんの声だった。ええ声だった。酔いしれてしまった。姜さんはあのとき何を喋っていたのだろう。声の響きだけが記憶の奥底にへばりついていて、言葉というかたちを成して立ち上がってこない。彼が心に残らない言葉しか発しなかったわけではもちろん、ない。私のほうに、器がなかったのだ。シンポのほかの出席者の顔ぶれも覚えていないのだから、姜さんの声を美しい記憶として留めているのは奇跡なのである。

森崎さんのことは、何も知らなかった。
今年の『環』で特集が組まれなければ、何も知らずにいたかもしれない。
藤原書店では『森崎和江コレクション』という全集を出版していて、それは去年あたりから『環』誌上で宣伝されていた。それを見て、うわ、そんなに偉大な文筆家だったのだわ、とおのれの無知を恥じるのはいいけど、それと同時にてっきり「森崎和江は故人」と思い込んでしまったあわてんぼな私。

森崎さんは朝鮮半島の生まれである。17歳までその地で生き、「内地留学」で九州の学校へ渡り、敗戦を迎える。植民者二世の彼女にとって、生まれ育った半島の自然や、民族服を纏ったおおらかな人々の記憶とは、大違いの日本。「なじめない」どころではなかった。こんなところでどうやって生きていこう。本気で生きる術を探した。
……といった生い立ちについてはこの特集の冒頭を読んで知ったのである。
冒頭はご本人の筆になる。それに続いて11人もの錚々たる書き手が森崎和江を語る。だが冒頭の、森崎さんの、『森崎和江コレクション 精神史の旅』刊行の「ご挨拶代わり」の全5巻のレジュメに、まるでかなわない。いろいろな切り口から、森崎和江に絡めて時代を、半島を、戦後を、女を、炭鉱を、語っているけれども、既視感をぬぐえない。森崎さんの冒頭の短文が、すべて語りつくしてしまったのだ。あとは、コレクション全巻を読むしかないといわんばかりに。
たったひとり、三砂ちづる氏の「森崎和江――愛される強さ」はまるでアプローチが異なっていたので、楽しく読むことができた。

『まっくら』は炭鉱の町で生きる女たちの語りのかたちをとったノンフィクションである。
なぜこの本を買う気になったかというと、誰かが「枕頭の書」「いつもこの本に立ち帰る」「こういう書き手でありたい」などと新聞で語っていたのだ。その誰かについては、もう何年も前のことなのでぜんぜん覚えていない。たぶん、ジャンルはなんであれ、もの書きさんだった。まだ若い女性だった。『まっくら』刊行当時森崎さんはまだ30代だから、それに自身を重ねることのできる年頃のかただったと思う。その記事はいわゆる書評ではなく、インタビューでもなく、日替わりのショート談話みたいなものだったと思う。ただそこに示された『まっくら』というタイトルと、「炭鉱の女」という言葉が、私を惹きつけたのだった。その記事を読んでまもなく、私は書店に取り寄せを依頼し、手に入れた。

その後私は炭鉱にまつわるノンフィクションや小説を読んだことはないけれども、たとえば映画『リトル・ダンサー』や『フラガール』などを観たとき、『まっくら』の女たちや森崎和江のつぶやきを聞くような気が、少しだけしたものであった。

お母さん税金って何? 年貢。2009/11/18 11:18:37

去年の写真。ストーブの前の指定席。
今年はまだ暖房をつけていない我が家。


「中学生税についての作文」というコンクールイベントがある。全国納税貯蓄組合連合会と国税庁が主催しているそうである。そんなのぜんぜん知らなくて、夏休みの宿題のひとつだと思っていた。

月曜日。
「ウチの中学校から5人入選したんやって。ほいでその中のひとりに入ってん」「へーえ。そらおめでとさん」。
昨日。
「あんな、さなぎだけ何とかかんとか優秀賞で、みんなよりちょっとだけ格が上やねんて」「いーー?うっそ。なに書いたん」「ぜんぜん覚えてへんかったけど、今日原稿用紙が戻ってきてて」「なんで?」「題名書くの忘れてた。題名入れてくださいって」「題名ないのに入選したん」「うん」「それ、抽選に当たっただけちゃうん」「当選とちごて、入選!」「ほんでなに書いたん」「税金は人の生活の糧の一部をとっていくけど、それは人の生活に役立つようにまた還ってくる、みたいな」「税金にゴマすったんやな」「まあ、そんなとこ」。

夏休みの宿題のうち、どっさりある数学や漢字のプリントは見てやるけど、作文とか自由研究とか工作とかそういう余興の部分はほったらかしている。小学生の、とくに低学年の頃は手伝いもしたし、アイデアも出したし、一緒に考えたりもしたけど、それはただただ本人の好奇心をあおるためだったし、学校から出された宿題はこなしてナンボじゃということを叩き込むためだった。いまは、それが功を奏したかどうかはわからないが、ほうっておいても、好きなテーマを見つけて何のかのと資料を探して体裁整えるところまで自分でやっている。出来映えはたいしたことはないし、だいいち母親をアシスタントのように使う実態はあまり変わってないともいえるのだが(たとえば去年は氷の解け方をレポートするからと会社のカメラ借りてきて、というので自分で撮るのかと思ったら撮影係もさせられた)、抜け目なくすべての宿題を提出している。

ただ、別に興味もないのに人権だの税金だのを主題に作文を書かされるのには、親としてもやめてよという気分だった。人権とはという問いを立てると話は一日で終わらない。教育現場は人権の定義を誤っているし、世の中は人権というワードを拡大解釈している。といってそんなことを考えても先生のほしがる作文は書けない。だからって「弱い人をいじめるのはよくないと思います」なんてもん、たとえその場しのぎでも書かせたくないし。とつい、母はあれこれ持論をぶってしまうので、子どもも、もうえーわ、状態になってしまう。
で、税金って何と問われて年貢じゃと答えた記憶はあるが、もちろん答えはそれだけでは終わらない。お母さんの給料はいくらで、そこからいくら引かれてて、買い物をしたら消費税を払って、お酒に酒税、煙草にタバコ税……。「税のしくみ」という絵本(!)借りてきて、いっぱい種類あるよーと途中で悲鳴あげていたが、たぶんな税金ってこんなにたくさん種類があるんですよチャンチャンという作文じゃ先生アカンっていうやろな、というアドバイスはしておいた。

けっきょく何をどう書いたのか知らないけど、今度、題名ついたヴァージョンの作文が戻ってきたら読ませてもらおう。来週、表彰式があるそうだ。会社の一眼レフデジカメ持っていこっ。

明日って11月20日やん(原稿締切日!という話ではない。締め切りには違いないんだけど)2009/11/19 19:26:05

ちょっと見づらいけど、開いた辞書の上で愛猫が寝てます。


昨夜帰宅すると、仮面ライダー電王の主題歌CD(クライマックスジャンプがえんえんと入ってるやつ)ががんがん鳴っていた。
「なんでそんな懐メロ」
「だって眠たい……」
私の帰宅はけっして早くはなかったが、でもまだ21時を少し過ぎたところ。でもまあ、たしかに朝早く起きてたもんね。
「電王は眠気覚ましになるの?」
「ほかに思いつかへんかった……」(←というか、他にはマツケンサンバくらいしかない娘のCD)
娘の手許には数学のプリント。数学に向かうとたいてい睡魔が襲う。小学校のときも算数は眠たいといっていたので、そもそも数字や記号を受け容れない脳ミソなのであろう(笑)。数学教諭は担任だが、四六時中うるさい他の生徒に気を取られがちで娘がこっそり居眠りしているのに気づかないそうだ。気づいてないわけないでしょーが、と私は思っていたけど個人懇談のときも何も言われなかったので、やはり気づいていないようである。

いーじゃん♪いーじゃんすごいじゃん♪と鳴り続ける音を背景に、猫はあっちへうろうろ、こっちへのしのし。おもむろに、過去の問題を調べるために娘が開いたプリントの束の上によっこいしょと座る。
「こーらーあ」

猫は紙の上に座るのが好きである。ウチの猫に限ったことではないらしい。くれびさんちの猫さんも紙の上に好んで座るそうだ。
しかも「今現在」使っている紙もん、テーブルに広げている新聞や雑誌の類いの上を狙って座る。いまそこ読んでんのに!というところを足で、お尻でふさぐのである(笑)。
机の上でノートPCを開け、本を開き、左側に辞書を開く。そうして人が仕事にいそしんでいるとニャーと寄ってくる。膝に跳び乗って、断りもなく机に乗っかる。でも、猫はけっしてノートのキーボードの上を歩いたりはしない(なぜだろう?)。ノートの後ろ側の狭いところを上手に通って、傾けた私の頭のすぐそばへ来て、私の視線が落ちる原書の数行の上に前足を置き、おもむろに座る(笑)か、または、ご丁寧に今読んでいる箇所の上を上手に四本足で押さえていったあとさらに進んで辞書へ到達し、その場で座り心地を確かめ、場合によっては方向転換などして、辞書の厚みに体を預けて、寝る。
机の上には用なしになったメモや書付、見終わった資料が積んであるのに、また足許にはそれこそ古い紙の束がやたらと山をなしているのに、そういうのには目もくれないのが猫である。
ウチの猫は、来たばかりの頃、こたつで宿題をする娘の邪魔ばかりしていた。私の記憶だととくに漢字練習帳が好きだったような気がする。あるいは書写の硬筆練習帳か。大きなマス目に大きく字を書こうとすると、ぴょんとこたつに跳び乗って、そのマス目に前足を差し出し、そのまま座るのだ。四六時中知らん顔をしているのに、宿題を広げたら必ず寄ってくる。最初はノートに乗っかられるたびに相手をしていた娘も、いいかげん嫌になって「お母さあああん(涙声)」(笑)

教科書やノートを家で開くことのほとんどない娘が、居間も食卓も教材やノートをいっぱいに広げるのがテスト前の7日間である。ほんとに7日間以外は――そりゃまあ日々宿題はあるんだけど要領がいいのか短時間で済ませているので――そんなものが散らかっていることはない(散らかっていないという意味ではない)。しかし、早朝夕方深夜と部屋中が教科書副読本ノートファイルプリントetc.だらけなるのはこの7日間だけ。猫は妙にはしゃいで紙から紙へと渡り歩く。お気に入りの紙の上で座る。寝る。それはたいてい「使用中」のものたちである。なぜ気に入るのだろう。体温の痕跡を感じるのかな?

というわけで、娘はいま定期テスト前の勉強モードデイズ真っ盛り。朝は5時半に起き(だから朝練はお休み中)、放課後は各教科の補習に出て(部活も停止中)帰宅。夕食を済ませてバレエ教室へ(テスト前でもほとんど休まない)、そして帰って夕食第2ラウンド⇒入浴⇒勉強⇒就寝。
しかし昨夜のようにバレエを休んでまで勉強モードを続けると、動く食べる寝る、で成り立っている娘の体のバランスが崩れるのであろう、睡魔が襲うばかりで効率が悪いようである。加えて、数学や理科、技術家庭なんぞは睡魔製造機である。

早いものでもう11月下旬だ。このあともきっとあっという間に過ぎていくんだな。持久走大会が終わって、クリスマスが過ぎて、正月が過ぎ、節分も過ぎ、最後の定期テストも済んでバレエの発表会も済んで中学3年生になるんだな……。

後期中間テスト終了2009/11/26 20:32:12

税の作文コンクールでいただいた賞品についてた熨斗紙。

今日で三日間の中間テストが終わった。
毎回のことだが数学は必ず最終日である。
今朝も5時半起きで必死の形相で駆け込み学習。でも、昨日までは6時55分になったら片付けて朝ご飯タイムだったのに、今日はノンストップ、朝食のミニピザ(餃子の皮に具とチーズ載せて焼いたやつ)をほおばりながら関数の問題と大格闘。

で、
「お母さん、3分の2たす2ってどうやって計算すんの?」
……。……。
……あのなあ。
君はいま一次関数を解いているのではないのか?
その質問が5年前に投げられたものなら許してやろう。
中2のいまそれを訊ねる君のこれまでの人生は何だったんだ?

「分数の足し算引き算は分母を揃える。これを通分という」
「ええーーっまだそんなことせんとあかんのぉ?」
……。……。
……あのさあ。その「まだ」は何に対する「まだ」なんだよっ

今日から給食も再開、部活も再開とあって、ぎりぎりまで「わっけわからんっ」とぶーぶーいいながら格闘していたとはいえ、たいへんご機嫌で家を出ていった。夕方、これまた非常にご機嫌で帰宅したそうだ。おばあちゃんがテストはどうだったと尋ねると「ぜんぜんできひんかったー」と景気よく答えて、夕食をぱくぱくぱくっとぱくついてご機嫌でバレエのお稽古へ向かったそうである。

健康がいちばんじゃ。うん。

だいたい秋の3連休明けから定期テストだなんて、学校も意地が悪いよね。3連休遊ばず家庭学習しろってことだろうけど、そうはいかないよね。ウチの子なんか、けっきょく、土日は朝練再開したし、バレエは休まなかったし、バレエの先生の結婚式に参列したし、バレエの先輩の出場するコンクールも見物に行ったし。分数の足し算をやり直さないといけないようなレベルだから、こういうの全部返上してまで勉強漬けになろうとは思わないよね。

しかも、中間テスト初日の24日火曜日に例の税の作文コンクール表彰式が税務署であって。3時半から5時半くらいまでそれに費やしたし。
さなぎひとりだけ全国なんとかって賞だったので、他のたくさんの受賞者の前で朗読させられることになっちゃってて(笑)。「おかあさんどうしよー」って携帯鳴らして情けない声でおろおろしていたよ。
せっかくだから表彰式、見物に行って朗読聴いたけど、なんつーか、それを書いたのが3年前ならたしかに表彰もんだと思うけど、ちょっとなあ。いいのか、国税庁、こんなのに賞やって。
「こんな小学生みたいなこと書いてたんやなあと思てン」
ご本人の弁である(笑)。

賞品、何だと思います?
電子辞書ですよっ
しかもかなりチャッちい。(けっ)
つーか、中学生に電子辞書はアカンやろっ
紙の辞書を引けって、言えよ!
いいのか? 文部科学省?

25日水曜日は小学校の駅伝の予選に応援に行った。
自分たちのときも、その次の年も予選敗退した母校だが、今年はなんと予選を勝ち抜き、本大会に出場!と、大喜びで帰ってきたのであった。

ほとんど休暇中のノリのここ数日間(笑)。

分数の足し算ができないようなレベルであるから、一次関数を前にじたばたしてもしゃあないというのは、したがって、正解なのである。

ま、終わったな。とりあえずな。今夜から早寝しような。
母ちゃんも当分、質問攻めと鉛筆削りから解放されるし、嬉しいよ。