故障中2010/06/08 17:08:40

何が故障中かというと、この私である。
とはいっても大げさなものでなく、花粉のせいでネジが一本二本落ちた程度のことなので、年中行事である。
花粉が原因で、必ず「一日寝込んでしまう」という日がある。例年それは五月のGW真っ最中に起こる(笑)。ま、GWなんつう時期に行楽地へ出かけたりするような暴挙はもう数十年慎んでいるので、しんどくなるとわかっていてGW中に外出したりすることは、けっしてないのだ。
花粉症を患ってるかたにはおわかりいただけると思うが、症状を予め抑えるために早めに対策を講じるとすると、早い人だと2月の初めから服薬しないとならないだろう。そしてそれは中断することなく継続しなくてはならない。
私はスギに対しては軽症なので、例年ヒノキ対策として3月から薬を飲み始めていた。本当はそれだと少しだけ遅いのだが、とにかく医者に診てもらう時間を捻出するのがひと苦労だから、2月の終わりくらいから「行かなくちゃ行かなくちゃ」と思い始めてやっと3月中旬あたりになって抗ヒスタミン薬を入手する。私の場合、服薬を6月の下旬あたりまで続けるわけだが、花粉症の薬というのはけっこう身体に負担がくる(と思う)。はっきり効果が出なければ三文の値打ちもないので、しっかりと効果が出るようにつくられている。そのぶん、副作用は避けられない。ぎょえーというような副作用は、私の場合はないけど、普段飲み薬と無縁の生活を送っているので、なんであれ内服薬というもんはカラダにコタエルようである。
3月から飲み始めた薬に対してカラダはひと月もすると悲鳴をあげようとする。そもそも、遠いお山から飛んできて24時間浮遊し続ける花粉のせいで、すでにカラダは悲鳴をあげている。花粉飛んでるから、服薬中だからって仕事をセーヴするいいわけにはならない。(なんでならないの?病気だよ、れっきとした。……と思うんだけどねえ)
必死で引っ張って、踏ん張って平気な顔して適当に仕事捌いて、その引っ張り続けた糸が一度ぷつんと切れるのがGWの頃だ。
発熱するわけでもどこが痛いわけでもないが、ただ苦しくてしんどくて一日中寝る。
掃除も洗濯もご飯も全部パス。

しかし、今年は少々事情が違った。
どうもスギさんもヒノキさんも例年のようにダイナミックに飛行しておられなかったようだ。症状が出ないわけではなかったけど、なんとかやり過ごせる程度であった。
それに加えてかかりつけの耳鼻科医院が閉院してしまったので、どうしよう、と思いつつアクションをおこせずにいた。
五月はイネ科の雑草の類いが活発になる。私にとっていちばん手ごわい敵が、実はこのイネ科である。「医者に行かなくちゃ」と危機感を募らせてはいたのだが。
例年になく機嫌よく過ごしたGWが終わり、雨が続いた。
雨があがって、ピーカンの五月晴れ。

きたっ

どうやらカモガヤに代表されるイネ科の雑草がにょきにょきと伸びてせっせと開花したようである(泣)
朝から晩までクシャミしっぱなし、という土日を過ごし、意識朦朧としたままただ座っているだけという月曜日を終え(そんな状態でもこの日はオフィスにいなくてはならなかった)、翌火曜日、とにかく這うようにして出社したが。

「すみません、早退します」
「まあ、どうしたの」
「眼も鼻ものども機能しないんです。どえらいミスをしないうちに」
「まあまあ。そんなにしんどいの? 気の毒ねえ」
「今日特効薬もらって、明日必ず復活しますので、すびばせん」
「あらあら、もうしゃべらなくていいから、早うお帰り」

娘の中学校近くに見つけた耳鼻科で診察、「よく効きますからね」と太鼓判を押された薬を飲んだり差したりしている。

クシャミもハナものどのイガイガも改善した。
見た目、別人のように立ち直ったが、実は思考回路は壊れたままである。
「へ」でもない仕事がフィニッシュできず停滞している。
会議討論を録音したテープ(カセットテープですよ、あーた)の中身を誤って消去してしまった。(討論記事はほぼでっちあげで何とか提出)
今週中にお出しします、と約束した「今週」はいにしえの彼方に。(先方が怠惰と重度健忘症を粘土で人形にしたような人なので大怪我はしないで済むと思う)
今日アップ予定のポスターのキャッチコピーがぜんぜん、これっぽっちも思いつかず、ひと文字にすらならないので、目先を変えようと思ってブログを書いている。

故障している間に、世の中ではいろいろなことが起きていて、身内にもいろいろ起きていて、読書だけはハイペースで進んでて、書くことは山ほどあるけれど、「考える」あるいはもっと控えめに申し上げると「思いめぐらす」という行為が続かないのである。
ぐだぐだほげほげと愚痴や雑言を吐いているようにしか見えないだろうけど、この拙ブログだって、いちおう頭を働かせてはいるのである。
いろいろの、起きた出来事ひとつひとつに反応して、思考回路ストップ状態で書けば、非人道的な暴言と、およそ大人の女としてはサイテーな泣き言繰り言に終始して、目もあてられないのである。

ここ数日は、サイードの本を読んでいた。今は亡き、愛しのサイードである。彼が白血病と闘いながら何とか発言を続けていた頃のインタビュー集。彼の死を知ったのはインターネット上でだったと記憶しているが、パソ画面に焦点の合わない視線を投げたまま、私は激しく泣いていた。涙がとめどなくあふれ出て、止まらなかった。あとから思えば、その頃ひとつ恋を失くしてからあまり時が経っていなかったが、目まぐるしい日々を消化するのに必死だった(という状況は今も同じだが)ところが、サイードの訃報によって緊張がいっぽん切れて、こぼれた感情が滝になったのかもしれなかった。
怒涛のごとく喪失感が突き上げて、長いこと、長いこと泣いていた。

泣いた記憶を呼び戻したくて、書架から文庫本を引っ張り出したのだった。(書物の内容に言及し始めると暴言の連続になりそうなので、また今度)

父を亡くしたときは事実の重さに呆然としていて泣けなくて、アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺はショックが大きすぎて涙が出なかった。エメ・セゼールのことは数年前から覚悟していたし。誰かを亡くして泣くということは思っているよりずっと希少なことなのである。
今度、怒涛のごとく泣くときは、喜びで泣きたいなと、故障中の頭で、思う。

「書くということ」の崩壊(1)2010/06/12 20:13:33

所感は改めてアップすることにして、まずはほぼ全文を読んでいただく。長くなるけど最後までヨロシク。



『加速する日本語の崩壊
  ——「書く」教育で表現水準の再現を』
書家 石川九楊
京都新聞2010年6月11日(金)刊 11面

(冒頭一段落省略)
 「書」という名詞は「書く」という動詞で裏打ちされている。作者が言葉を書くことと、その言葉の書きぶりを再現的に鑑賞すること—この関係に書の美学は成立する。文字の書きぶり(=スタイル)である書体は、文の書きぶりである文体と密接な関係にある。つまり書は、世で漠然と考えられているような美術、ましてや舞踊ではなく、文学に属するのである。
 日本語では「キカイ」と発音しただけでは、言葉は伝わらない。「奇怪」か「機械」か「機会」か「鬼界」か、文字を思い浮かべて会話する。「文字を話し、文字を聞く」言語だからである。このような文字(=書字)中心言語においては、習字(「文字=語〈ことば〉」とその書法〈かきかた〉を習う)教育が重要かつ必須である。
 英文は語を構成するアルファベットを横につづるが、漢字文では点画や部首を一個所にまといつけるように組み合わせて「文字=語」とする。語の構成法こそ異なるものの、このように漢字の点画は、アルファベットの一文字に相当する。アルファベットを知らずに英文はつづれない。同様に、漢字の点画とその数や長短、構成位置等の規範書法を知らなければ満足な漢字文は書けはしない。そして、活字体は印字用の俗体。書字の規範は、唐代初めの楷書〈かいしょ〉体を基盤とする筆記体にある。
 たとえば、明朝体では、「口」と「日」の第二画は同じように直角にデザインされているが、「口」字では折釘〈せってい〉といって、横筆から転じた縦筆は左下へ進み、「日」では曲尺〈きょくしゃく〉とよんで垂直に下方に進むように書くのが歴史的な綴字〈ていじ〉規範である。
 パソコンとそのネットワークの普及により、やがて書くことは終焉〈しゅうえん〉し、子供たちも画面上で漢字を学習するようになると空想する人もある。だが、筆記具の尖端〈せんたん〉が紙と接触・摩擦・離脱する筆触〈ひっしょく〉—その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」—を伴って、意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない。書くことが稀薄〈きはく〉になれば、政治、経済、思想、宗教等の表現を担う漢語から日本語は急速に崩壊する。
 一九七〇年代半ばまで「書くことは大切」という社会的な暗黙の合意が広く存在し、家庭でも学校でも社会でも文字に対して口うるさかった。それが壊れた今、日本語の崩壊は加速している。
 (一段落分 中略)
 信じがたいという人は、子供の鉛筆の持ち方をのぞいてみるといい。そこに、書くことを忘れた世界最悪のぞっとするような光景を目撃することになるだろう。今必要なのは、のんきな「ダンス書道」や「漢字遊び」ではなく、鉛筆の持ち方、基本点画の書法に始まる抜本的な書字教育の再建なのだ。



信じがたいという人は、ウチのさなぎの鉛筆の持ち方も見てやっておくれ(泣)世紀末生まれの子どもたちの、文字どおり世も末の恐るべき「書きかたの崩壊ぶり」。それでもヤツは鉛筆、しかも2Bのしか、使わないので許してやってくれ。手紙書きまくり、交換日記回しまくりの古風な中学生なので許してやってくれ。筆記用具を用いて字を書くということのほとんどできない子どもを私は知っている。

キーを叩いているだけにすぎないのに偉そうに「書く」ことを云々する傲慢を自戒する。するけど、続く(笑)。

「書くということ」の崩壊(2)2010/06/13 22:48:55

フランスに語学留学していたときのことである。クラスにはさまざまな国籍の学生がいて、そのときのクラスには韓国の女の子が二人いた。授業の一環で、何でもいいから故郷のことをプレゼンするという課題が出されたとき、彼女たちは二人で組んでハングルの説明をした。そのクラスはフランス語レベルでいうとけっして上級ではなかったので、彼女たちのフランス語も拙いし、聞く側の理解力も相当低かったんだけど、それでも彼女たちの懸命なプレゼンは、ハングルがいかに論理的で完成された文字であると同時に語句であるかということを伝えるに十分であった。とりわけ欧米系言語エリア出身学生たちからは歓声が上がった。素晴しい! そんな丸とか四角の組み合わせで! 丸とか四角がアルファベットの文字にあたるってか! すげえ! などなど。
お隣の国だというのに私はまるでハングルを知らないが、その説明を聞いてほんとうに(欧米系の彼らじゃないけど)なるほど納得、という気分だった。

前エントリで九楊先生の短い寄稿コラムをわざわざ写して掲げたのには、いくつか理由があって、ひとつは、漢字の点画がアルファベットの文字に相当するという、その九楊先生の指摘が、20年近く前の「ハングル体験」を呼び起こしたからだ。私は当時彼女たちのプレゼンに感心したが、では漢字が同様の「文字=語」であるかどうか、自問してもみなかった。韓国人の彼女たち自身も、もはや韓国には漢字は存在しないかのような、漢字にはまったく触れずのプレゼンであった。

ハングルを発明した人のことは知らないけれども、その人はきっと、漢字の成立パターンや構成を、しゃぶりつくすように研究したに違いない。

もうひとつ、さらに古い記憶が甦ったのだが、それもハングルがらみだ。まだ駆け出しの頃にどこかで観た韓国の芸術家の展覧会。彼の作品にはハングルがびっしりと描き込まれていた。その彼が画家を名乗っていたか書家を名乗っていたかが思い出せない。図録を買ったはずなのに見つからないし。
ただ、作品はハングルの読めない私たちにも鬼気迫る勢いで韓国の被支配時代の苦難を訴えていた。ハングルの文字ひとつひとつが、人にも顔にも声にも見える。文字として読めない私たちにとってそれはやはり書ではなく絵であった。あったが、文字が書かれているという前提が、観る者の心に声なき声をつかみとろうという意図を生むこともまた事実だった。

そういういろいろなことを抜きにしても、その展覧会は、作品の美しさがものをいって非常に盛況だったと記憶している。ああ、なんで覚えてないんだろう。

私はグラフィックの世界で生きていたので、若い頃は文字をデザインするという仕事をさんざんやった。漢字の点画を部分的に太くしたりはみ出させたり、セリフ体の欧書体のヒゲを伸ばしたりカールさせたり。

「口」や「日」の第二画の下ろしかたには本来違いがあるなんて、今回九楊先生のコラムを読むまで(さんざん白川静先生の辞書にお世話になっているのにさ)知らなかった。けれども、それは血肉のように私の中にあったのは確かだ。「口」のときは少し左下に、「日」ではまっすぐ下に。それはお習字通い始めのごく初期に先生から何度もいわれることである。学校の国語の時間にも、習字の授業でも、いわれることである。私たちの体の中に当然のように流れ込んできた漢字の点画の在りかたは、現在、意識する人も教える人もほとんどない。子どもたちの体には漢字の血が流れていかないのである。

文字を思い切り崩して遊んでみる、ロゴデザインの仕事ではそういう作業が必要だが、見る者が文字として読めなければ意味がない。その最低ラインのところで仕事ができるかどうかは、その血が流れているかどうかが問われるところだろう、と思ったことが、九楊先生のコラムを取り上げた理由の二つめ。
今はデザインワークがコンピュータ化されてしまったので、手描きでレタリングするなんてことはもうないのだろう。
文字の血を失ってしまったら、つまり、文字文化の基本情報を習得しないままで文字で遊んだりデザインしたりなんて作業はいずれにしても不可能だから、もうそれはそれでいい、ということなんだろう。

2Bで、とはいわないが、鉛筆で紙の上に字を書くという時間を、子どもたちのためにもっともっと無理矢理にでも増やすべきだと、真剣に思う。

「書くということ」の崩壊(3)2010/06/14 20:38:57

しつこいんだけどあとひと言。

地元の映画館では不発でとっとと上映が終わってしまった『書道ガールズ』や、ちょっと前にやっていた高校の書道部を描いたTVドラマ『とめはね』なんかで、箒みたいな大きな筆を持って音楽に乗って走り回りながら字を書く書道パフォーマンスに打ち込む若者が描かれていた。
最近人気の武田なんとかさんというダイナミックな筆さばきの書家さんもいるし、なにかと「動」の要素の大きい書道がもてはやされている。
そのことじたい、悪いことではないし、活動として、文化として、芸術として成立するとしたらこんなに素晴らしいことはないと思う。
ただ、なぜそんなにもてはやされているのか、は考えとかないといけないだろうと思う。けっきょく、筆で字を書くことからあまりにも日常が乖離してしまって、あまりにも習字も書道もどうでもいいものに成り下がってしまったから、派手めのああいうもんに注目が集まるのだ。
書道パフォーマンス甲子園っていうものがほんとうにあるんだけど、それは実際高校生の青春の1ページであろうから打ち込む子どもたちの気持ちや活動そのものにケチをつける気はまったくない。
ただ固い頭で思うことは、奇抜な衣装やアクションで書をしたため、その「パフォーマンスタイム」の出来ばえも云々されるようだが、それでも、もし優劣をつけるのなら実際に書かれた「書」の美しさを基準の根幹においてほしいもんだということである。
日本人が書を美しいと思うとき、それはやはり、九楊先生が触れておられた点画の規範に則っていながら書き手の精神が存分に表れる書きっぷりだと感じられるときであろう。
やっぱし、下手でも元気に書けてればいい、じゃなくて、上手でなおかつ創意工夫がある書が美しいであろう。
そしてなにより、「書」とは「書く」ことである以上、「書く」ものは文字だけでなく語句であり文章であるわけだ。だから《文字の書きぶり(=スタイル)である書体は、文の書きぶりである文体》と切り離せない。だから《文学に属するのである。》

絵手紙ブームというのがあった。私自身はあまり好きではない。絵は絵だけで、書は書だけで勝負しようよ、といいたかった。でもべつに、個人的メッセージの域を超えないものだから、あれはあれでいいのだ、ということにしておく。

しておくが、絵手紙は絵が大きな要素を占めるため、書の(つまり、文字と文章の)巧拙があまり云々されないことは確認しておきたい。だから絵手紙(やそれに類するもの)は文学には属さない。

ということをいい始めるとあれはどーなんだ、こっちのこういう表現はどーなのよ、みたいないろいろな芸術表現がこの世には氾濫しているので私の頭の中も世の中も収拾がつかなくなるからこれ以上はこの話題に触れないでおく。

で、実際に「文学に属して」生きていこうとしている方々へ。
作家さんがどんなふうに一編の小説を創りあげるのか、私は皆目見当がつかないけれど、たぶん、筆記具と手帳を片時も手離さず、思いついたことを次々とメモしていってるんじゃないか、あるいはこまめに取材をし、見聞したことを細かく記録しているのではないかと想像する。それをあとから見直して、物語の題材にするのだろうけど、手書きのメモは、書き留めたときの気分や体調が筆跡に表れているから、そのことがネタにする際に与える影響は少なくないと思うけど、どうなんだろう。同じメモを取るのでも、ケータイのメモ機能を使うより1万倍くらい有用な気がする。
みなさんは、どうしてますか。
メモだけでなく、実際に書き始めるときも、最初の数行、つまり小説は書き出しが重要だとよく言われるようだけど、その数行だけは手で書いて、試行錯誤するほうが、「いい書き出し」にめぐり合えるような気がするんだけど。門外漢の外野席からの野次ですが。

私は文学に属さないけど、ICレコーダもONだけど、つねにメモを取る(Bの鉛筆で。2Bじゃないのよ、さすがに。笑)。ひどい殴り書きが並んで、解読不可能だったりするが、どういう気持ちで相手の話を聞いていたかなども思い起こせるので、書き留めてある分量が多いほど、書き留めてある内容が使える使えないに関わらず、原稿はすんなりまとまる。書いた記憶が手に残り、脳裏からも消えていないとき、実際にはキーを叩いて作成するのであっても、その文章は生きて立ち上がってくれる。
短いキャッチを考えるときも、私は紙やノートにいろいろな大きさの字で言葉を書きまくる。紙屑の山ができて、山を眺めていてふとナイスな一句が思いついたりもする。

筆記具と紙との接触は、今のところ私にとって貴重な創作の一要素だ。そんなわけで、九楊先生の《筆記具の尖端が紙と接触・摩擦・離脱する筆触――その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」――》が重要だとの言に激しく同意するものである。

でもさ、ブログの記事は手書きで下書きとかぜんぜんしてないよ(笑)いきなりだだだっ、以上って感じ。

よく降りますね2010/06/15 18:59:06

降るべき時に降るのはよいことです。梅雨あってのニッポン列島じゃ。私は雨そのものは嫌いではない。しつこい花粉を流してくれるしさ。ざまみれぇどっかいっちまえカモガヤ花粉めぇ。ただ、チャリンコ通勤なので若干辛いのと、我が家がもはや「雨の日は家の中も雨の日になっちゃう状態」なので非常に不快なのである。長雨による湿気ってなかなか抜けてくれないんだよね。恥ずかしいから詳しくは書かないけど、つねに天井裏に水がたまってる状態なわけよ。あーあいよいよ本格修理かなあ。コンクリートで固めちゃってるのが難だよなあ。なんでそんなつくりかたしたんだよクソ親父ぃ、つーかクソ親父から受注したクソ大工ぅ。次世代が泣くような家つくるなよバータレ。自分の家でもないのに(借家なのよ4代前から)この家にどんだけお金遣わされてるか、おめーらちゃんと見てんのかっ先祖っ

腹立たしいことこの上ないので気分直しに可憐な花をどうぞ。
なーんにも世話してないのに毎年この時期ちゃんと咲く時計草。えらいよ、えらい。

金魚が2010/06/17 23:55:42

死にました……


……
……

べつにどこも悪そうではなかったのに、突然、今朝浮いていました。どうして……どうして。そうなったからといって突っ伏して号泣するとか頬をすり寄せて抱きしめるとかはしていませんが、朝からひどく衝撃を受けて、今日はこんなに暑くてピーカンだったのに、心は真っ暗な雨雲と豪雨。現実を直視できません。とても受け容れられない。いったいどれほどの歳月を彼女と(勝手に雌にしているが)過ごしてきたことだろうか。永遠に生き続けるわけはないとわかっていても、幕の上がった芝居がいきなり上演中止になって緞帳がどさっと下ろされるように、理由も告げられず、私たちと彼女の暮らしが終わってしまうなんて思ってもみなかった。明日から彼女のいない水槽。寂しい。寂しいよ……。

んなことですのでしばらく喪に服します。

コーヒーは好きですか2010/06/23 20:54:38

ドーニャが死んでしまって(あ、ドーニャっていうのは先頃他界した金魚です。ええ、名前ついてましたの。なによ、文句ある?)やけっぱちになっているわけではないのだが、やたらコーヒーばかり飲んでいる(なんだ酒じゃないのか、といわないでくだされ)。
あんた、一日に2リットルくらいコーヒー飲んでるでしょ、と昔、ある人にいわれて初めてホントだぁホントにコーヒーばかり飲んでるよあたし、と気づいた、という経験があり、それ以降コーヒーの飲みかたを少しずつ変えてきた。私は、就寝前にコーヒーを飲んでも睡眠の妨げにはならない。また、朝はやっぱりホットコーヒーよ、というタイプでも、なかった。コーヒーを飲み始めたごく初期(中2くらい)から、夜寝る前にブラックを飲む、これが私のコーヒーの飲みかただった。最初からそんなだったので、眠気覚ましにコーヒーを飲むとか、あるいは夜はコーヒーを飲まないわだって眠れないものとか、そんなふうにいう人の気持ちはわからないまま大人になった。大人になる過程で、朝食は毎朝この喫茶店のモーニングサービスなんだ、なんていう男とつきあったり、ケーキバイキング巡りが好きな女子と仲良くなったり、コジャレた店で最後にデザートとドリンクがつくようなディナーをゴチになったり、というようなことを繰り返すうちに、朝も昼も夜もコーヒーを飲む、みたいな生活になってしまっていた。男や友達や飲む酒や行きつけの店や働く場所が変わっても、コーヒーばかり飲む生活は続いていて、あるとき、一日2リットルなんて指摘をされたのだった。
本当は、それよりずっと前にすごく胃が痛かったことがあって、もしかしてコーヒーの飲みすぎかなあ、と、ちらりと思ったことがあった。当時、仕事がハードで睡眠不足気味で、また世の中は激辛ブームで四六時中辛いものを食べていて、食いもんが辛いと勢い酒量が増える、みたいなよくできたバブリーな話にあまりにも乗っかりすぎて、とうとう顔が吹き出物だらけになり、今すぐ刺激物の摂取をやめなさい!と他部署(美容研究部)の部長から指令が下った(化粧品会社のデザイン室に在籍してたのよ)。それで酒と煙草と激辛食を禁止した。それに加えて会社で開発中の海藻パックとかハーブパックとかなんとか化粧水とかの実験台にされつつ、吹き出物は治まった。でも、コーヒーのことを忘れていた。吹き出物より、胃が痛いほうが日々の生活を営むうえでは、とてもつらかったのだが、禁酒禁煙禁激辛期間中も胃の痛みは消えなかった。吹き出物騒ぎからしばらく経ち、酒も煙草も徐々に解禁したある日、なんかさずっと胃が痛いんだよと男にいうと、ん、じゃあちょっとコーヒー控えろよとこともなげにいうので、コーヒーをやめてみれば、胃の痛いのが治まった。
咽喉元過ぎればなんとかで、吹き出物騒ぎも胃痛も過去のイベントとなってしまったある日、イマイチ体調がすぐれない気がしていたら、どうも肝臓が弱っていることがわかって、またしても禁酒を言い渡された。今度は医者に。世の中はバーボンブームを経過した頃だった。私はビールや安ウイスキーの水割りを浴びるほど飲む、というアルコールライフをやめて、飲みに行けばジンかウォッカかバーボンのロックしか飲まない、というスタイルを貫いている頃だった。カクテルにするとかさ、もうチョイ薄めて飲みなさいよ、とまたしても男に言われたが、そんなのマズイもん、と私は、薄めて何杯も飲むという選択はせずに酒量そのものを減らすようにした。ごくたまにお付き合いで飲んでいた日本酒もいっさい飲まないようにした。効果はてきめんで、私の肝臓は病気にならずにすんだ。この機会と、このあと何年も経って出産を経てから、私の酒量は激減していき、今ではすっかり飲めない人になってしまったが、おかげで肝も腎も元気(だと思う)である。
でも、胃は相変わらず、時としてすごく痛む。一日2リットル飲んでるでしょといわれて、よほど欲しいときにだけ、飛び切り美味しい極上のコーヒーを飲む、というふうに習慣を変えてもみた。でも、そういったコーヒーの質や量と胃の痛みとは直接関係がない。というのが長い長い年月を経てわかったことなのであった。過去にコーヒーをやめて胃痛が治まったのは偶然だったのだろうか。コーヒーを飲まない期間が続いても胃痛はいきなりやってきたりもした。したがって、胃痛はコーヒーのせいではない。
私は今回何を言いたいかというと、胃痛を恐れてコーヒーを飲まないという選択は、今はすべきではないということなのだ。何の話だと思われるであろう。説明する。勤務先にはコーヒー好きが多いので、コーヒー豆屋さんが御用聞きにやってきて注文をとってくれるが、今その発注担当をしている若い社員が、つい多めに(かなり多めに)コーヒー豆を発注してしまった。時折触れているように今勤務先の経営状態は火の車である。なもので、豆屋さんの納品書を見て社長が激怒し「こんなにいっぺんに大量にコーヒー買ってどうするのっ」と、その若者はこっぴどく叱られてしまった。コーヒー豆も食品であるから鮮度が命だ。いくら毎日コーヒー飲むったってウチはカフェじゃないのよ、消費量もしれているでしょ。営業思わしくないからできる範囲で節約もしましょうってこないだもミーティングで話したばかりでしょ。と、いろいろな理由でことあるごとに小言をいわれてこの若者がたいへん気の毒なので早くコーヒーを消費して、あら、あのときまとめ買いしたの、あながち間違いでもなかったのね、というふうに少しは社長に思わせることができたらと、いつにも増してコーヒー消費に励んでいるのである。以上説明終わり。今、やたらコーヒーばかり飲んでいる理由を話してみたくなったので、遠回りしたけど、余計なネタも披露したような気がするけど、ときどき在りし日のドーニャの姿が浮かんで涙ぐみそうになったけど、話し終えることができたようだ。
胃は痛くない。でも胸やけがする(笑)。おつかれさま。

カフカは好きですか2010/06/26 20:13:25

『ミレナへの手紙』
(決定版カフカ全集8)
フランツ・カフカ著 辻 ■訳
(※訳者辻氏のファーストネームは玉偏に星)
新潮社(1992年)


カフカは好きですか。私は、すごく好きです。

『変身』しか読んだことのなかった私に「カフカが好きだ」という資格はないかもしれないが、たいして作品を読んでいないのにその作家が好きであるといえる数少ない小説家の、フランツ・カフカは、一人である。最近、これまで未邦訳だったものを集めたという短編集を手に入れた。まだ少ししか読み進めていないんだけど、切りのいいところでまたご紹介したいと思っている。

フランス滞在中、『カフカ』という映画を観た。観たけど何がなんだかじぇんじぇんわからなかった。だってドイツ映画でフランス語字幕だったもん(笑)。カフカの小説の映画化ではなくてフランツ・カフカを主人公にしてカフカ的不条理世界を表現したホラー映画だったらしい(怖そうに聞こえるけど実は怖くなさそう、みたいな映画だ)。モノクロで、ロケ地のプラハの町並みが美しかった。カフカを演じた俳優もやたらカッコよかった。話がわかっていたら逆につまらなかったかもしれない。何が語られているか聴き取れず、目は字幕を追えずで、とにかくただ映像美だけを堪能したという経験だった。(後から知ったのだが、『スターウォーズ』でオビ・ワン・ケノービ役を演じたアレック・ギネスも出てたけどじぇんじぇんわからなかった)

そんなこんなで知らないままのカフカだったんだが、去年、みすず書房から『ミレナ 記事と手紙』という本が出た。カフカ作品の翻訳者であり、ジャーナリストでもあったミレナの文章を集めた本だ。そしてミレナは、カフカの恋人だった。さっそく予約して読んだ。この本については次回書く。

ミレナがカフカの恋人だったという事実だけは早くから知られていた。ミレナはカフカから受け取った手紙をそっくりヴィリー・ハースに託したが、ハースはそれを完全に保管していて、カフカもミレナも亡くなった後に書簡集として世に出したからである。(カフカが受け取っていたはずのミレナの手紙は一通も残っていないのだが)

1920年、カフカはメラーンに療養にきていた。もうすでに、病気だったらしい。

《(…)脳髄が、自分に課せられた心労と苦痛にもはや耐えることができなくなってしまった、というのがそれです。脳髄がこう言ったのです、「俺はもう投げた。だがまだここに、身体全体が保持されなくてはどうも困るというものがいるのだったら、どうか重荷を少し引き受けてくれないか。そうすればまだしばらくは何とかいくだろう」と。そこで肺臓が志願して出たというわけですが、肺としても悪いのはもともとで大した損失ではなかったろうと思います。私の知らないうちに行われたこの脳と肺との闇取引はおそろしいものであったかもしれません。(…)》(8ページ)

シンプルでどうってことない事柄をことのほか難しくぐちゃぐちゃにするのが得意技と見受けるが、自分の病気や不調も込み入った闇取引物語にしている(笑)。
と、笑うのは簡単だ。だが、大人になると角膜が濁るごく普通の人間には滑稽としか思えないような、純度の高い透徹な視線をカフカがもっていることをミレナは敏感に感じとり、カフカにのめりこんでいくのである。カフカの作品を翻訳する過程で、あるいはカフカの手紙を毎日読む過程で。

《(…)おっしゃるとおりチェコ語は分ります。なぜチェコ語でお書きにならないのか、と今までも何度かおたずねしようと思いました。と申しても、あなたのドイツ語が不完全だから、などというわけではありません。たいていの場合はおどろくほどうまく使いこなしておられます。そして、ふと、あなたの手に負えなくなると、かえってそのドイツ語の方で、進んであなたの前に頭を下げているのです。その時のドイツ語がまた格別に美しい。これはドイツ人が自分の言葉であるドイツ語からはとうてい望み得ぬことで、思いきってそこまで個性的な言葉使いで書くことができないのです。しかし、あなたからはチェコ語でお手紙をいただきたいと思っていました。なぜなら、あなたの母国語がチェコ語であるからであり、そのチェコ語のうちにのみミレナ全体が息づいているのであって(翻訳がそれを裏書きしています)、(…)》(10ページ)

チェコ語とドイツ語は似ていない。しかしヨーロッパ言語を体系づけたらたぶん同じエリアにくくられる言語だろう。プラハには何度か行ったけど、街の人たちは、外国人に道を尋ねられたりしたときはまず「ドイツ語はおできになりますか」と聞いて、相手の答えが「はい」ならドイツ語でさらさらっと説明してしまう。今はおそらく事情は異なるだろうけど、25年前はそうだったし、17年前もそうだった。それは、チェコという国の生い立ちが人々にそうさせていたのであって、かつて一緒の国だったスロヴァキアではまたまるで言語事情は異なっていた。
それはさておき、ミレナはプラハ生まれの誇り高きチェコ人であった。プラハという町はそのからだを微妙にドイツ人エリアとチェコ人エリアに分裂させてしまっていて、どういうわけか(そりゃそうなんだが)ドイツ人が偉そうに振る舞っていた。
ミレナはプラハでエルンスト・ポラックという10歳ほど年上の男性と恋に落ち、父親の反対を押し切って結婚し、ウィーンに住んでいる。最初にカフカと出会った場所はプラハのカフェと解説に書いてあったように思うけど、とにかく、二人の手紙はメラーンとウィーンを頻繁に行き交った。カフカは翻訳者としてのミレナの仕事を高く評価し、ミレナもそれに励まされ次々とカフカ作品をチェコ語で紹介していった。カフカは、幾つかの新聞や雑誌に記事を寄稿していたミレナの文章を、読みたがった。二人は互いに、互いが書いたものを読み尽くすことでその精神と肉体を征服しあおうとしていたかのようだ。

《(…)二時間前にあなたのお手紙を手にして、おもての寝椅子に横たわっていたときよりは、気持が落着いてきました。私の寝そべっていたほんの一歩前に、甲虫が一匹、あおむけにひっくりかえってしまい、どうにもならず困りきっていました。体を起こすことができないのです。助けてやろうと思えば造作もないことでした。一歩歩いて、ちょっとつっついてやれば、明らかに助けてやれたのです。ところが私はお手紙のせいで虫のことを忘れてしまいました。私もご同様に起きあがることができなかったのです。ふととかげが一匹目にとまったので、それではじめてまた周囲の生命が私の注意をひくことになりました。とかげの道は甲虫をのりこえていくことになっています。その甲虫はもう全然動かなくなっていました。じゃああれは事故ではなかったのだ、断末魔の苦しみだったのだ、動物の自然死という珍らしい一幕だったのだ、と私は自分に言いきかせました。ところが、とかげがその甲虫の上を滑っていってしまい、ひっくりかえった体をついでのことに起してやったあと、なるほど甲虫はなおしばらくの間、死んだようにじっとしていましたが、それから、まるで当然のことのように、家壁を這いのぼっていきました。これが何か少しまた私を勇気づけてくれたようで、起きあがってミルクを飲み、この手紙を書いた次第です。フランツ・K》(15ページ)

本書のこのくだり、私のいっとうお気に入りであります。カフカってばほんとうに虫が好きなんだね。(いや、そうじゃないかもしれないけど)

《「あなたのおっしゃる通りです。私は彼が好きなのです。でもF、あなたのことも私は好きなのです」とあなたは書いています。この文句を私は実に念を入れて読みました。一言一言です。特に「のことも」のところでは長い間立ち止りました。みんなそおのとおりです。これがそのとおりでなかったら、あなたはミレナではないでしょう。そして、もしあなたがいなかったなら、一体この私は何なのでしょう。(…)しかもなお、何らかの弱さから私はこの文句と手を切ることができずに、際限もなく読みつづけています。そして、結局それをもう一度ここに写して書き、あなたがこの文句を見て下さるように、二人が一緒にそれを読むように、額に額をよせて(あなたの髪が私のこめかみに)、と望むのです。》(78ページ)

ミレナは、夫、エルンスト・ポラックとの結婚生活がとっくに破綻しているのに、解消できずにいた。大恋愛の末駆け落ち、みたいな感じで結婚したのに、いざ結婚生活に入るとずっと満たされないまま日々が過ぎていった。エルンストは「互いに拘束せず好きにやろう」という主義の男で、事実派手に女遊びを繰り返したようである。ミレナは、かといって自分も男遊びをする気にはなれなかったが、金遣いは荒かったようだ。互いの愛情だけでなく経済的にも枯渇していくポラック夫妻。カフカとの文通はそうした状況と並行しているのだ。ミレナはきっと、カフカがウィーンに来て、ご主人と別れて僕と一緒になろうとはっきり言ってくれるのを熱望したはずだ。しかしカフカは病気もちであり、まるで文通のせいで伝染したかのようにミレナも肺を病み、気力体力を失っていく。

《どうも私たちは絶えず同じことばかり書いているようです。あなたは病気かと私がたずね、するとあなたがそれと同じことを書き、私が死にたいと言えば、あなたがまた死にたいと言い、あなたの前で小僧のように泣きたいと書けば、私の前で小娘のように泣きたいと書いてこられる。そして、私が一度、十度、千度、そしてひっきりなしにあなたのそばにいたがれば、あなたもこれと同じことを言う。》(113ページ)

《あなたは私のもの、と言われるたびに、私はもっと別の言い方を聞きたいと思いました。なぜこの言葉でなくてはならないのでしょう? この言葉の意味しているのは愛情ですらなく、むしろ身近かな肉体と夜なのです。》(156ページ)

ミレナは女として男であるフランツ・カフカを欲したであろう。一人の男を愛する女としてその男のすべてを貪り食うほどに愛し、手中に収めて支配するほどに征服し彼と一体化したかったであろう。カフカはこれにかろうじて答えるように、手紙の末尾にフランツとかカフカとかFとか書く代わりに「あなたのもの」と記して手紙を終えることもあったのだが……。

《(…)人間は今までほとんど私を欺いたためしがありません。しかし手紙は常に私を欺いてまいりました。それも他人の手紙ではなく、私自身の手紙が私を欺いたのです。(…)これは亡霊どもとの交際に他ならず、しかも手紙の名宛人の亡霊ばかりでなく、自分自身の亡霊との交わりであり、この亡霊は、書く人の手のもとで、書かれる手紙の中に書くそばから発育し、(…)一連の手紙のうちにも発育してゆくものです。人間が手紙で交際できるなどと、どうしてそんなことを思いついたのでしょう! 遠い人には想いをはせ、近い人を手にとらえることならできますが、それ以外のことは一切人間の力を超えています。手紙を書くとはしかし、貪欲にそれを待ちもうけている亡霊たちの前で、裸になることに他なりません。書かれたキスは至るべきところに到達せず、途中で亡霊たちに飲みつくされてしまうのです。このゆたかな栄養によって、亡霊たちはこうも法外な繁殖を遂げるのです。(…)郵便の後には電信を発明し、さらに電話、無線電話を発明しました。幽霊たちは飢える時を知らず、われわれは没落していくでしょう。》(200ページ)

カフカはあるときついに、もう手紙を書くなとミレナに告げる。厳しい状況下にあっても毅然と前を向き、旺盛に仕事をし、エネルギッシュに今と未来を生きようとするミレナの姿を前にして、自分はザムザのような虫の姿で彼女に寄生するしかないんだ……なんて自虐的なことをあのカフカが思うはずはないとしても、手紙のやりとりが情熱的になればなるほど双方向でその情熱は「飲みつくされてしまう」ばかりで、後には書き手という抜け殻しか残らないことを、カフカは知っていたのだ。
そしていみじくも未来を予言してもいる。“電信を発明し、さらに電話、無線電話を発明しました。幽霊たちは飢える時を知らず、われわれは没落していくでしょう。” 向かい合い、目と目を見つめ声と言葉で行う意思疎通からあまりに乖離した手段でコミュニケーションが事足りている(ふりをしている)今の世は、カフカのいう通り幽霊の繁殖の成果なのかもしれない。

カフカとミレナの恋は叶わないまま次第に疎遠になっていくという形で先細り、それぞれが新しい相手に出会い、やがてカフカの死を迎えて終わる。
カフカは、ミレナへの恋文の束という、おそらく自身の作品の中でも長編の、他に類を見ない文学作品を残した。ミレナの手紙がないから余計に、日付のない便箋や彼の文体、筆致の変遷が、憶測と推理ごっこと真面目な研究を煽ってきた。それでもまだ解明されていないことが多くあるという。カフカの手紙が山ほど残り、ミレナの手紙が一枚もない中で、はっきりしていることは、饒舌なカフカの文面を食い入るように見つめ、文字を、語句を、一文一文を、行間を、便箋の裏側をも、しゃぶりつくすように読んでその書き手を愛したミレナだけが、作家フランツ・カフカを深く理解した女性であったということである。

「フランク自身はもっと驚嘆に値します」2010/06/30 00:18:17

『ミレナ 記事と手紙 カフカから遠く離れて』
ミレナ・イェセンスカー著 松下たえ子編訳
みすず書房(2009年)

若さにまかせてヨーロッパのあちこちを旅したが、二回以上訪れたのは、留学や仕事でいったフランスと旧来の友達のいるドイツを除けば、ヴェネツィアとプラハだけである。ともにたいへんな人気観光都市なので、もはやいつ行ってもガイジンだらけだが、初めてプラハを訪れた80年代半ばはまだ「ベルリンの壁」も健在で、東欧諸国はソ連の監視下にあったときだったので、こう言ってはなんだが東欧のどの街も「手付かずの」「庶民の暮らしに煤けただけの」飾らない美しさに満ちていて、物を知らない若造だった私ですら、その美の純度の高さに感動した。プラハのカレル橋の途中で立ち止まり、モルダウ河をただ眺めた。生涯、あの風景を超えて美しい眺めに出会うことはもうないと思う。私は人通りもまばらな橋の、大きな彫刻の足許で、涙があふれてくるのを抑えられなかった。泣く理由は何もなかった。当時チェコや東欧の文化も歴史もなにも知らなかった。ただ日本人旅行客があまりいないだろうという理由で東欧へ行ったのだった(私は日本人が嫌いだった)。幾たびもの戦禍に遭い、平時ですらなお抑圧されている国の人々の悲哀などに思いは至らなかった。私はただセンチメンタルに、どんな絵よりも美しい風景を前にして、胸がいっぱいになって泣いたのだった。今でもあのときのモルダウの風景を思い出すことができる(ただし、二度め三度めに行ったときにも同じように橋に立ちモルダウを眺めたが、同じ風景には出会えなかった)。

フランツ・カフカが住んでいたという界隈も訪ねた。静かでひと気のない、質素な町並みだった。でも「ベルリンの壁」崩壊後はたぶん土産物屋ストリートになってしまったんじゃないかな。最初の静謐な雰囲気が印象的で、二度め三度めのプラハ訪問でも必ず足を運んでいるはずなのに、行ったかどうか覚えていない。ありきたりな、西側諸国の観光地と同じような風景になってしまったせいなのか。

さて本書である。みすず書房から来た本書の出版案内を見て、ミレナという女性がものを書く人であり、さらにプラハ市民であったとわかり、正直すごく親近感が湧いたのだった。本書の前半部分を占めるのは、彼女が新聞や雑誌に寄稿した署名記事である。それはあるときには家庭をもつ主婦の視点であり、あるときは快活に街を闊歩する職業婦人のそれであり、あるときはドイツ系市民の横柄さに憤るチェコ系市民の厳しい視線が書かせたエッセイだ。躍動感に満ち、また生活感にあふれた文章にはファンも多かったという。ミレナ自身は、こうした毒にも薬にもならない文章を、生活のためとはいえ書かねばならないことを少し恥じていた。それで文通相手のカフカにも、読まないでと告げていたのだった。だがカフカは、ミレナの書いたものをすべて読みたがった。病んでいたカフカには、ミレナの手紙だけでなく、彼女が書くものすべてがエネルギーの源だったかもしれない。


《(…)あの人ときたことには、いわばすこぶる健康、すこぶる平静、といった類のことしか言ってくれません。わたしがお願いしたいのは、本当にお願いしたい、心からお願いしたいのは——あの人が苦しんでいる、わたしのために身体を苛んでいるのをご覧になったり、感じられたりしたら、どうぞすぐ手紙を書いていただきたいということです。フランクにはあなたからお聞きしたとは申しません。そのことを約束していただけるならわたしは少し心が落ち着きます。そうなった時どうやって助けるのかは分かりません。でもわたしが助けるのだということは、とてもはっきり分かっています。(…)》(226ページ、4 書簡より マックス・ブロート宛、ウイーン1920年7月21日付)

マックス・ブロートは前エントリで挙げた『ミレナへの手紙』も含む、カフカ全集の全体の編集・監修者である。フランツ・カフカとは友人であった。

《(…)ここにいた時はほとんど健康と言ってもよく、咳をするのも聞いたことがなかったし、さわやかで陽気でよく眠りました。(…)フランクはそれでもわたしのなかから何かを得た、わたしから何かを与えられた、それは何かよいものだったとあなたが書いてくださったのは、本当にマックス、またとない最大の幸福です。(…)どうしようもなかったら、わたしがこの秋プラハへ行きます。そうすればわたしたちはフランクを外へ出すことになりますよね。わたしもフランクがそこで心静かによい精神状態でいられることを望んでいます——(…)》(227ページ、同上、1920年7月29日付)

ミレナはカフカのことをフランクと呼んでいたようである。

《(…)この全世界はフランクには謎であり、その謎が解けることはないのです。(…)しかしフランクは生きることができません。フランクには生きる能力がないのです。フランクは決して健康にはなれません。フランクはまもなく死ぬでしょう。
 わたしたちがなんとか見かけ上は生きる能力を備えているのは、嘘、盲目、感動、楽天主義、確信、悲観主義、あるいはそんな何かにいつかは逃げ込むからにちがいありません。でもフランクはどんな避難所であれ、身を守ってくれる避難所に逃れたことは一度もありませんでした。(…)そしてフランクの禁欲は徹底して非英雄的です——だからより偉大で気高いものであるに違いないのですが。「英雄主義」というものはみんな嘘で臆病です。フランクは目的のために手段として禁欲を構築した人ではなく、恐ろしい慧眼、高潔。妥協のなさにより禁欲より他なかった人なのです。(…)
 フランクの本は驚嘆に値するものです。フランク自身はもっと驚嘆に値します。(…)》(231〜233ページ、同上、1920年8月初旬)


カフカがより自分自身であろうとすれば、それは禁欲を貫くよりしかたがなかった。ミレナはそういうのである。
カフカがミレナにもう手紙を書かないでと告げ、二人の文通が途絶えてしまってからそれほど時を措かずに、カフカは逝ってしまう。1924年6月3日。フランツ・カフカは療養所で亡くなった。


《一昨日ウィーン近郊クロースターノイブルクのキーアリング療養所で、プラハに在住するドイツ語作家、ドクター・フランツ・カフカが世を去った。(…)長年胸を病み、医者にかかってはいたが、病気を故意に育て、思索的に助長した。「魂と心が重荷に耐えられなくなると、肺がその半分を引き受けて、その負担が少なくとも均等になるようにするのです」とかつてある手紙(『ミレナへの手紙』一九二〇年春メランよりの四通目の手紙)に書いているが、自らの病気もそのような性質のものだった。(…)内気で、心配性で、柔和で、善良だったが、書いた作品は、残酷で悲痛だった。この世を、無防備な人間を破壊し引き裂く目に見えぬ悪霊に満ちたものと見ていた。生きるためにはあまりにも物が見えすぎ、賢すぎたが、高貴で美しい人々の常として、闘うためには弱すぎた。(…)カフカは人間を知っていたが、それは偉大な研ぎ澄まされた神経を持つ人だけが知り得る人間の姿だった。孤独な人で、ほんのちょっとした表情から、まるで予言者みたいに人を透視する力があった。世界を非凡で深遠なやり方で知っていたが、カフカ自身が非凡で深遠な世界だった。(…)
 その作品は、何かが象徴的に表現されているような箇所でさえ、自然主義的な感じを与えるほど、真実で、赤裸々で、痛い。この世を明確に見てしまったため、それに耐えられず、死ななくてはならなかった人間の、乾いた嘲笑と繊細な視点にあふれている。(…)他の人が何も聞こえないから安心だと思っているようなところからの物音をも聞きつける、繊細な良心を持った人間であり芸術家だった。》(98〜100ページ、2 『ナーロドニー・リスティ(国民草紙)』より——1921−1928年「フランツ・カフカ」1924年6月6日)

《(…)わたしは夫を見捨てることができませんでした。そして生涯、最も厳格な禁欲者であることを意味すると分かっているその生活にしたがうには、わたしは女でありすぎたのかもしれません。(…)こういうことについてはいつも何かを言えるでしょうが、何を言っても嘘にしかなりません。(…)わたしはもはや取り返しのつかない何かが起こったことがとてもよく分かりました。それだけがフランクを助けることのできるものだと分かっているたったひとつのことをしたり聞き入れたりするには、わたしは弱すぎたのです。(…)》

カフカを人間として、もちろん一人の男性として深く愛していながら、だからこそその厳格な禁欲を尊重せねばならない。カフカがいくら崇高であろうと高潔であろうと、女としてそこは、「そりゃないよ」って気分になるよね。
しかし、ふとフランツの身になってみる。彼はほんとうに禁欲者であろうとしたのだろうか? そんなポーズをとりながら、実は女が積極的に強引に自分を押し倒してくれるのを待っていたんじゃないのか? 生命の権化のようなミレナを前に、この女性なら自分の屁理屈を下手なハードル選手のようにバタバタと蹴り倒して突進してきてくれるんじゃないか、そう思わなかったとは限らない。


《「あなたの生活をそこまで深く本当に生きているあなた」——とカフカはあるとき手紙のなかでミレナに語りかけた。これほど適切な言葉はあるまい。》(『ミレナへの手紙』212ページ、編者あとがきより)※編者はヴィリー・ハース

その透徹な眼差しのせいで、何もかもが見え過ぎて、盲目的に命をぶつけるようには生きられなかったカフカの目に、ミレナはどれほど眩しく映ったことだろうか。
しかし、ミレナはその最期を信じ難いほど苛酷で寂しい状況下で迎えざるを得なかった。命の灯火の消える最期の瞬間、彼女は瞼の裏に何を見ただろうか。もう、カフカからは遠く遠く、離れていたのだ。