わたしとあなたと彼と彼女と もうひとりの「私」2010/08/10 21:12:45

『第四人称』
外山滋比古 著
みすず書房(2010年)


第一人称 わたし
第二人称 あなた
第三人称 彼、彼女 あるいは わたしとあなた以外のすべて

ある文章世界がある。
そのなかに第一人称「わたし」と第二人称「あなた」がいる。会話は第一人称と第二人称の間で起こり、その話題は第三人称についてである。こうして文章世界は第一人称と第二人称と第三人称とでつくられていることがわかる。
ではその文章世界を外から眺める、あるいは読むこの「私」は。

本書では、こうした場合の「私」を第四人称と名づけ、ケースバイケースの考察を試みている。第四人称である「私」は、書物を外から読む者に限らない。人の噂を又聞きする人も第四人称的性格をもつ。映画や芝居の鑑賞、スポーツ観戦もしかりである。伝記、評伝の書き手や、または読み手。翻訳者。見知らぬ土地を訪れる旅行者。かつて異人と呼ばれた、日本人とのコミュニケーションのすべを持たなかった外国人。裁判の傍聴者。

裁判員という制度ができて、第四人称に甘んじていられた「当事者でない市民」は、第三者として判定を下す立場を与えられたために裁判において「第三人称」として振舞わなければならなくなった。裁判は原告と被告、検察と被告、弁護人と原告、検察と弁護人、また裁判長と被告といういくつもの第一人称と第二人称の組み合わせが錯綜するスペクタクルである。第一・第二人称に目撃者や関係者が第三人称として絡みつくように振舞う。第一人称、第二人称から最も遠い第三人称が裁判員であろう。
裁判員は傍観者や観客ではいられない。精神的・思想的にコミットしなければならない。しかし第一人称や第二人称の個別領域にまでは足を踏み入れることはない。そればかりか、第一人称や第二人称が、第三人称として裁判員を語ることもない。裁判員は、ときに第一人称である被告や原告にとって第二人称へとせり出すことがある。しかしそれは一時的なことで、あっという間にまた第三人称へと後退する。裁判長という大きな第二人称が第一人称たちの前に立ちはだかるからだ。裁判員はこうして、半歩足を踏み外せば第四人称へと転落しそうな、突き出されて第二人称にされたかと思えばはじき返される、あやふやであいまいな彼我のあわいに立ち、毅然と前を向いて職務を遂行せねばならない。
この、中途半端で微妙な立ち位置の裁判員という在りかたを、よくも創造したなと思う。これって、すごく余計なことだったんじゃないのか。裁判員制度は、「とっとと裁判を終えられる」こと以外に何かメリットを生んでいるのか。第四人称である傍観者からは、まるで判断がつかないのである。

外山のおじさまは「翻訳」について一章割いてくださっている。
《独立翻訳は訳者の理解し得た限りのことを材料にして新しい作品、書物をつくるくらいの覚悟をもたなくてはならない。いちいち原著者の顔色を伺っているようではいくら原文忠実であっても翻訳の資格を欠くことになる。訳者の全責任において新しい作品、著述を創出する気概と決意が求められる。》(71~72ページ)
そうよね、おじさま。
とても勇気づけられましたわ。
わたしの歩んできた道は間違いなかったのね。
おじさま、わたし、おじさまの教えをけっして忘れないことよ。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010/08/11 17:30:48

  逢えぬ悲しさの奔流に沈みながら、愛しい仕草に隠された喜びが光の指標となって、愛の隆起に巻き込まれ、あなたの見る景色が、私の近くにと願った。

  時間と場所を問わない愛の、縁故に触れる時節、灯された跡を偲びながら続く夢を追う。それは真の意味で邂逅であり、逆説的な無条件への条件である。

  瞳の奥の逃れられない輝く光に、永遠の美を知ったのは、あなたがはにかむように微笑んだ瞬間だった。私は、時空の取り締まりから解放され、永遠の命を授けられたのだ。

    とおくして
    あなたのゆめの
    ひびきして
    ただあいおもい
    いのちのいのり

  慈しみの宇宙は、誰も指定しない。そしてそれ故に、誰もが「わたし」である。「あなた」というのは、もう1人の「わたし」であることを容認すれば、世の中に争いが無くなるだろう。
  しかし容易ではない、そもそもこの世界の成り立ちが、私、あなたという分離から創造されたのだから。
  そして、認識だけでは意味を成さずに、世界の潮流に流されるだけである。
  真の意味で、世界を変えるのは、これも逆説的に「気づき」であり、知覚に及ぶ認識なのだ。

  抱くあなたの密かな鼓動が、宇宙の愛の根源に共振して、小さな渦の無限の抱擁力で、私を救い、癒し、豊穣なる夢を授けた。

  あなたにありがとう。

_ コマンタ ― 2010/08/12 15:06:50

なんで裁判員制度に参加しなくちゃならないのか、めんどくさいのにとぼくも思っています。国民のひとりひとりが司法制度にアクセスしやすくなることにより、たとえばなにかトラブルがあったときに、行政や町の顔役(ヤクザ?)に頼むのではなく法律に則って解決をはかるようになる、そうやって法の支配が社会にゆきわたることで自由でフェアな、責任ある社会にしていくことができる、という考えが根にあるらしいんです(四宮啓というひとがいってました)。
第四人称のことをよく理解できてませんが、裁判員にピックアップされて第四人称でいられなくなった、という例はわかりやすくかんじました。

_ midi ― 2010/08/12 23:17:45

こんばんは。
預言者さま。毎度ご贔屓にありがとうございます。
コマンタさん。ご無沙汰です。文面を拝するのがとても嬉しいわん。

考えてみれば私の仕事(売文屋)も第四人称的な場所にあるんだなあ、と、今日さんざんクライアントから文句を言われて感じました。広告主、広告の中で語り手となるモデル消費者。第一人称と第二人称はこの二者ですね。それをアレンジする広告代理店が第三人称。ほんらい主眼に置かれるはずなのに実際は一顧だにされない読者(広告の受け手)と、代理店からアゴで使われる私たち下請けが、その広告世界のカヤの外にいるという意味で第四人称。

_ コマンタ ― 2010/08/14 01:31:48

電車に乗っているぼくをたくさんの人が囲んでいます。彼ら・彼女らは、みな赤の他人です。ぼくにとっての第四人称は、そんなひとたち(のイメージ)なんです。
いや、ちがう。いま、蝶子さんにお話ししているので、蝶子さんが二人称です。その蝶子さんに話す都合上「彼ら・彼女ら」と三人称化している、そのひとたち。もし蝶子さんにも(まただれにも)そのひとたちのことを話さないのなら、そのひとたちを「彼ら・彼女ら」と名指すことはないでしょう。だれにも名指されない、でも存在していると想定される人間、のことをぼくはいいたいんだと思います。
たとえば目の前にすわっている女性が蝶子さんだとします。ところが奇妙なことに、それが蝶子さんであることをぼくは知らない。当然ひとに「今日会っちゃった!」などと語りつぐことはできません(心のうちで、こういう人間がいた、と帰り道に思うかもしれませんが)。その女性(高橋真梨子に似ていたかもしれません)のかがやき。それが第四人称のかがやきです。名指さず、記憶にも残さない、そういう状態でしかし自分を取り囲んでいる、名も知らぬ他人。ぼくはそういうひとたちを、今夜だけ、第四人称といいたいのかもしれません。

_ midi ― 2010/08/16 09:06:22

今このブログ上でコマンタさんと私、そして私たちが話す都合上「彼ら」とされている第三人称の人たち。この関係をべつの場所から眺めている人たちが第四人称なんでしょうね、理論的には。

けれども、面と向かって(顔を見て)話しているわけではない私たち二人を第一第二と規定できるのと同じで、たとえば駅の待合室のようなところで、電車の座席などで、実際に顔を見て向かい合っているその人の存在を第四人称として措ける。それはそのときに第一人称である自分次第であるのでしょうね。

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