九月の空、じゃなくて8月終わりの空なんだけど2010/09/02 08:53:16



BBが雲の写真をたくさんアップしているので負けじと数日前のケータイフォトを置いてみる。

この風景はホームセンターへ自転車を走らせている途中で撮った。川を渡るたび、この川がこのまちにあってよかったなと思う。これがなかったらなんと雑多で小汚いことだろう。川は、まちと人を浄化してくれる。

相変わらず、ものすごく太陽の悪意を感じる暑さだが、何となく空は日増しに澄みわたり、秋色を帯びてきたように思う。夏バテしてるみなさん、もうすぐ楽になるよ。

と思ってたらさ。
物干しにこんなもんができたたんだよ————!!!
きょえーどーしよー
BBの真似じゃないよ。笑)

空の青さを眺めてて、『九月の空』を再読したくなったけど、ちょいそれどころじゃないわけですわ。おろおろ。(でももう放置して数日)

キンスキーも死にました2010/09/07 18:34:07

わが最愛の長寿金魚キンスキーが静かに逝きました……。

……。……。


昨夜、夜中までまだ息がありましたが、今朝、息絶えておりました。
埋葬しながら、彼と歩んだ12年余を、ほんのわずかな時間でしたが思い起こしていました。

山あり谷ありだったね。
我が家でない、どこかほかでもっと幸せな暮らしがあったかもしれないのに、よくウチへ来てくれたよね。
長生きしてくれたよね。

キンスキーがいてくれて、みんな、幸せだったよ。



ご想像いただけると思いますが、今日は意気消沈甚だしく仕事になりませんでした。
明日もたぶん、なりません。
とうぶん、なりません。
ここ数日はずっと看護(って何もしてないけど)状態でしたので、覚悟はしていたんですけれど。



キンスキーとの日々は子育ての日々にほぼ重なります。
彼はいつも、私のドタバタを静かに水の中から見守ってくれていたのです。誰にもわかってもらえなくても、キンスキーは知ってくれている、そう思い込むことだけで私は歩んでこれました。

キンスキーは金魚です。
ただの金魚です。
でも、私の支えでした。



そんなわけですが、ご心配には及びませんからね。
後追い自殺なんか(笑)しませんから。
ニューアライヴァルの金魚さまたちがまだ4匹、美しく水槽を彩ってくれています。

おつかれさまです2010/09/12 22:48:14

毎日めまぐるしいんですが、今日は娘のバレエの発表会だったもので、さらに輪をかけて忙しい日々を送っておりましたんどす。娘ときたら相変わらず親の手が必要で自分「だけ」のことで精一杯なもんですから縫い物やら買い物やら使い回されておりましたんどす。家は散らかしっぱなし埃はたまりっぱなし郵便物は山積みのまま。だって会社からは早くても22時にしか帰れないんですもん。

おまけに発表会前々日の金曜日まで期末考査でしたからいつになく学習モード(でもレッスンは休まないんですけど)になんかなっちゃってオソネハヤオキの生活を娘までがしてたもんで(なんだってテスト直前にしか勉強しないのよアンタは)、もう仕事抜きでも疲労困憊なのに、当然ながらお仕事は待ったなし状態ですからこりゃもう拷問と呼ぶ以外におまへんのどすわ。

ちょっと蝶子さん、障子の桟に埃がたまってるザマスわよ、なんていうお姑さんと同居してなくてつくづくよかったと思う今日この頃(笑)。

我が家がゴミ屋敷と名指しされてご近所から訴えられたり役所からなんとか状みたいなもん突きつけられたりするか、私がぶっ倒れるかどっちが早いか、って感じですけど、このままいくと確実にゴミ屋敷のほうが達成率高いな。だって、こんなにしんどいとかなんとかゆってますけど、アタシ、全然ぶっ倒れないでしょ。頑丈なんだなー悲しいくらいにさ。

さてさて、お嬢さんは今日無事に踊りきりまして、かなりの達成感あったようでございます。わたしもほっと胸なで下ろして。ま、応援のしがいもあったっつーもんです。
(もうちょっと大腿部の筋肉を落とさにゃならんなと思ったが)

おつかれさん、さなぎ。
おつかれさん、あたし。

「そこまでよ」といわれたら「あともう少し」と思うもの2010/09/26 03:19:15


『ハチ公の最後の恋人』
吉本ばなな著
中公文庫(1998年)


この本は、数か月前に娘が誰かからもらってきた本である。

「行きの新幹線の中で読んでしもて、まだ時間が余ったよ」
「なんでそんなん読んでんの」
「アンタがせっかくもらってきてくれたしさ」
「へ、いつ? 知らんでぇそんな本」
「え、忘れたん? いうてたやん(と私はこの本が我が家へきたいきさつを語る)」
「あーそんなことあったような……気もする」
「ほんまにアンタの記憶は頼りないなあ。吉本ばななやから欲しいっていうてもろてきたんとちごたん」
「そんなことあり得へん」
「そうなん? なんか話違うなあ」
「……なんでウチが吉本ばなな読みたいって思うん?」
「そうかてそういうてたもん、さなぎが」
「ぜったいあり得へん。全然興味ない」
「そうなん?」
「あのときのことは、なんか適当にがさがさっと取ってきたことしか覚えてへん」

どさりと投げ出すように置かれた文庫本の山からひとつまたひとつと抜かれていくのを眺めながら「あ、それ欲しかったあ」とか「あの本はないのかな」とか「うーん重松なら他の本がいいな」などとはこれっぽっちも露ほども思うことなく、ホントに何も考えず、近場にあったのを、適当にわしづかみにし、そのまま取ろうとしても誰も遮らないから、そのまま3冊もって帰ってきた、というのである。

「むうーそんな話やったかなあ。ま、どっちでもいいけど」
「それ、面白い?」
「ハチ公? うーん。なんともいえん」
「お母さん、こんなんを2時間以内で読んでしまうねんな。すごいな」
「すごないて。字、大きい。1行の字数少なすぎ。行間あき過ぎ。したがって1ページの文章量少なすぎ」
「《ハチ公》ってあのハチ公、犬の?」
「ううん、若い男の子」
「ほな《最後の恋人》は女の子?」
「うん。中学3年生の」
「いー。ウチぜったいついてけへん」
「ついてけへんやろなあ」


《「ハチ、抱いて。とにかく、時間が。」
 ない、のではなくておしい、のでもなくて、たちすぎてしまったのを埋めたくて、でもないその中間の言葉にならない地点の描写なんて、できなかった。》(41ページ)

なんだか空港みたいな品川駅。


本書の感想をとにかくとっとと言え、といわれたら。
つまらない、のではなくて面白い、でもなくて、自分とかけ離れすぎているからそのギャップを埋めたくて、でもないその中間ですらない言葉にならない地点の説明なんて、できない。
とでも、いっておこうか。

よしもとばななの作品は、あるいは文体は、綺麗、とか美しいとかいわれることが多いが、ほかに『白河夜船』しか知らない私は、べつに全然綺麗だとも美しいとも思わないのである。だから綺麗さや美しさを云々する気はない。もっと、文章・小説の構成といったところによしもとばななの技術力が生きていると思うのである。

物語は、「私」がハチと出会ってから別れるまでの生活。「私」は胡散臭い宗教団体の家に生まれ、超能力を持つ祖母から「お前はインドから来たハチという男の最後の恋人になる」と予言され、祖母が死んだ後嬉々としてその団体を切り盛りする母に嫌気がさして夜中にミスドでボーとしていたときに「ハチ」と出会う。「ハチ」はまだそのとき恋人と一緒だったが、「ハチ」がその恋人から「ハチ」と呼ばれていて、インド育ちであると聞いて、促されるままに彼らについていき、彼らの家に住み着く。互いの身の上を語り合い、「ハチ」がやがてまた育った国インドへ帰るつもりであることを知る。まもなく「ハチ」の恋人が事故死する。「私」はその人をとても慕っていたので喪失感甚だしく、とても彼らの家に住み続けることができない。一度実家に帰る。「ハチ」が恋しいが、再び会いに行く勇気のないまま高校生になる。宗教団体に出入りする男の一人となんとなくデキてしまいセックスフレンド化する。17歳になった頃、ふと「ハチ」が現れた。聞けば今「ハチ」に恋人はいない。私がハチの最後の恋人になる。ハチはインドに帰ったら修行の日々に埋没し、世俗の恋愛などと無縁となる。そしてハチの出発はもうすぐ。いまハチについていくのはこの私。とか何とか思いが頭を駆け巡り、「私」と「ハチ」の生活が始まった。二人だけの濃密な時間、ほかには何も要らない、友達なんて必要ないと思えるほど、《ハチは私の内臓の延長みたいなものだった》なんて思えるほど心身がひとつになったと互いに感じる相手。それは、結局、今生の別れとなる「ハチ」のインドへの出発があるからこそ、「私」は無条件に「ハチ」を愛し、いま持てるものすべてを「ハチ」に注ぎ込むエネルギーを発することができるのだ。「ハチ」の「私」に対する感情も然り。

「はい、そこまで」と号令をかけられたら、「えーっ、お願いもう少し」なんて台詞がつい口に出る。永遠に存在を約束された対象には高ぶった愛情も、ありがたみも、いずれなくなりそこにそれがあることが当たり前になり不幸なときは邪魔にすら思うようになる。しかしいずれ手放さなくてはならないものには深い愛着がわき、いよいよ手放すというときには愛は最高潮となる。失ったものの大きさを失ってからしみじみと思い知り、失ったものをいかに愛していたかという思いに浸り、注いだ愛の大きさと美しさに酔いしれる。そして、そうは言っても、いずれ、その失ったもののことも忘れていく。人間の常だ。


吉本ばなな(この小説の発表当時は、まだ苗字が漢字だったみたいだ)は、人間という愚かしくも崇高な生き物がどういうときにどのような対象に満身で同類を愛するかを描いた。作家本人に似た経験があったのか、もしくは近しい人をモデルにしたのか、入念な取材によるものなのか、それはわからない。が、とにもかくにも、主人公の登場時年齢を中学3年生に設定し、その家庭を奇妙で胡散臭い宗教団体にし、祖母を霊能者に設定した。恋人にハチなどというふざけた名前を与え、インドの山奥で修行をするため日本を発つという設定にした。単にオウム真理教をヒントにしただけなのかもしれない。だが、まともで平凡な人物たちの物語にせず、読み手を小馬鹿にしたような(作家は大真面目かもしれないけど)都合のいい展開が、むしろ人間の本質を再認識するために有効に働くという効果を生んでいる。


「私」は絵を描いて生きていくらしい。なんとなく描き始めた絵がそこそこいけるもんであるらしい。素描を何百枚と描き、色彩学や絵画学の本とにらめっこして練習作品の山を築いて美大受験に挑んだ人間からするとこんな主人公にはシンプルにむかつく。それでも、「私」が「ハチ」に生命100%の愛を注ぎ、愛しぬき、失って、「ハチを忘れるだろう」と予感していることに、激しく共感する。
そして、よしもとばななという作家の力は、こういったところにあるのだろうな、と漠然と思ったのだった。


主人公の「私」は中学三年生で父親を知らず祖母の影響が大きい。今のさなぎそっくりだ。だがウチは幸か不幸か怪しい宗教団体ではないし、おそらくさなぎは夜中のミスドでクダを巻いたり、近づいたカップルについていったりはしないだろう。だからといって全身全霊で人を愛し無償の愛情を注ぐ経験ができないということではけっしてない。ないけれど、もしかしたらある種「けったいなひとびと」のほうが、やはり、かけがえのないものと出会い希少な恋愛体験をするのかも、とも思う。
そんなふうに大の大人をうろたえさせるのも、この作品の力の一部である。

早い話が、大して面白くなかったんだけど、なんか悔しい。そんな読後感であった。そんなもんを抱えて、出張先の顧客のもとへ参上した、罪なワタクシ。

本書とは関係なく、気分悪い一日であったのである。

やっぱ小説はこうでなきゃ2010/09/28 22:59:34


『ムッシュ・クラタ』
山崎豊子著
新潮文庫(2009年)


去年買った新潮文庫。だからこれは借りたのでももらったのでもないれっきとした私の本である。えっへん。
私は山崎豊子を読んだことがなかった。といって、山崎豊子を読みたくなったからこの本を買い求めたというわけではない。山崎豊子といえば『白い巨塔』とか『沈まぬ太陽』とか『大地の子』とか超・長編作家しかも社会派であるという印象が強くて、私など、読者に名を連ねるべきではないというかお呼びでなかろうというかカンケーねえだろっみたいなところにいる、偉大な作家であった。
『ムッシュ・クラタ』は分厚くない。しかもこの表題作の他にもう3編が所収されており、短編集の体をなしている。総ページ数210余の本に4編が所収されているのであるからどれもコンパクトな小説である。どれも短いのに、味は濃厚である。

例によって、新潮文庫の100冊シリーズに応募したくて新潮文庫の書架を書店で眺めていて、目についたのだった。ムッシュというくらいであるからきっとフランス人がなんらかのかたちででてくるんだろうな。そう思ったけれども、じっさいフランス人は全然登場しなかった。

倉田という名のフランスかぶれが亡くなるが、彼の生前を知る人々によって語られるムッシュ・クラタ像はさまざま。いくつものかけらをつぎはぎしていきながらひとりの人物の人生をたどる、短いくせに中身の濃い一編なのである。

いちばん好きなビールと同じ名前の駅


『ムッシュ・クラタ』は昭和40年にすでに文芸誌上に発表されている。この時期に書かれた作品に登場する人物の常として、倉田も戦争を経験する。兵隊ではなく従軍記者として。同様に従軍記者としてマニラに派遣されていた他社記者の、残した日記が倉田の一面を語る。何人もの紳士が倉田を語るがこの日記は結構重要よ、という設定である。
他社記者は当初倉田が目障りでしかたがない。しかし苛酷な状況におかれながらも自身のスタイルを崩さなかった倉田を、最後には尊敬の対象として書いている。

短い作品だが、こういうのを読むと「小説だっ」という思いが強くなる。出張の際、『ハチ公』と一緒にこれももってったのだが、「帰りの車中」という貴重な時間を顧客に奪われてしまったので忸怩たる思いだった。土日で読んでしまえたが、やはりよしもとばななと比較——なんてするもんじゃないけど――すると、本書のほうが考え込まないと前へ進まないようにできていて、その分、頭の体操になり、どちらかというと神経や感性を試されているようなよしもと作品よりは体育的に読後感がよい。というより、重い。