Bonne année 2011!2011/01/01 22:31:23

あけましておめでとうございます。
平和で穏やかなお正月をお過ごしのことと存じます。
本年が幸多い佳き一年となりますよう祈念いたします。

私はことあるごとにへろへろじゃもうダメよしんどい限界絶不調などとぶつくさ申しておりますが、以上体調不良はただただ寄る年波と更年期の症状以外のなにものでもないと思われ、それが証拠にどんなにコテンパンにやられたぜええ、と打ちひしがれても、寝て食えば復活しているのでありまする。まったく頑丈に生み育ててくれた親に感謝するのはこんなときですね。
それでも、です。一昨年は訳本に時間を費やしてけっこう体力を消耗しましたが、昨年は会社の仕事だけで危うく「カローシ」(今や国際語)しそうになりました、というと大げさだけど、苦労知らずのお嬢様育ちの私には苛酷すぎる一年でした。だいたいね、ほんとうに仕事するのって嫌いなのよマジ。
本年は、もう少し、まともな人間らしい生活をしたいと思います。だって、娘に言われたんですよ。「お母さんって、仕事、好きやんな。ウチ、そんな状態が続くのって絶対耐えられへんもん。そんな目に遭わされたら絶対辞めるわ。お母さんは文句は凄く言うてるけど、仕事、楽しそうやん」……ってあーたね、いったい誰のために顔で笑って心で怒って泣いてゲロ吐いて(あらお正月から失礼)働いてると思ってんのよっ……なんつーことは口が裂けても言わず、ただただ「おみゃーも大人になったらわかるだぎゃー」なんて茶化してみるのですけれど、ヤツはふんと鼻で笑って「わかりたないし」なんていうんですよ。ったく可愛げのないことと言ったら。でも、彼女のほうが実は正しいんですよね。連日仕事で午前様になる母親がどこにいます? いや、いらっしゃるでしょう水商売に従事してらっしゃれば。でも、私はそんな勇猛果敢な仕事ではなく、朝9時過ぎに出社する薄給のサラリーマンですのよ。残業代とか健康診断とかいう言葉は弊社の辞書にはございませんわ。働きすぎて具合悪くなっても診てもらう時間もなく、費用も捻出できずという日常ですから、娘は母を心配するというよりは、何が悲しくてそんなところにしがみついてんのあんたは、という感覚でものを言っているのです。何が嬉しいのよこき使われて。そう言いたいのでありましょうね。
ま、もともとがそういう体質の会社ですから、このご時世、下請けの足元見て単価を下げてくる顧客ばかりですから、経営が苦しくなるのもしかたないことですのよねー。好きでしがみついているわけでなく、この歳で転職は博打よりも危険ですから、しがみつくというよりは、苦境にあっても針の穴ほどの楽しみと幸せを糧に日々の業務をこなすのみと肝に銘じていますのよ。
自分を見失うことなく歩いていればよいのではないかしらね。
願わくば娘にも、苦境にあっても簡単には壊れない頑丈な体を、と思ってしっかり必要十分な栄養を摂らせるようにしています。


『愛と痛み 死刑をめぐって』
辺見庸著
毎日新聞社(2008年)

購読している地元紙の、土曜日の夕刊に辺見庸は月1回の連載をしている。その文章が、とてもいい。漢語をあまり使わない、やたらと行換えを行わない、という、文章の見た目が私好みなのである。辺見庸がそういう書きかたをする人だとは思っていなかったので、新鮮に感じるせいもあるかもしれないが。今はその月イチの長めのコラムが楽しみでしかたない。ただし、取り上げるテーマはとても重い。あるときは老人の孤独死、老老介護、病んだ若者、テロリスト、破綻国家、破綻政府などなど、読み進んでいくほどに、あ、今日のテーマはそこですかと文章半ばで気づかされるのだが、それがこんにちの社会が抱える数々の病巣をえぐりとっていて見事なのである。書き出しのイメージはのどかな公園の風景や窓から見える青空だったりする。内容の道しるべ役には路傍の露草や道を這って転がる枯葉、小石で広がる水面の波紋だったりする。優しいイメージに潜む記憶やその裏側に隠れる苛酷な現実を、辺見庸独特の(あるいはこのコラム独特の)筆致で、いかにも、足元のふらついた危うい精神状態の筆者の手になるものというふうに思わせぶりな文体で、しかし硬派な、彼の信念、彼の思想、彼の怒りを行間に込めている。美しいものを美しい言葉で表現するのは簡単だ。だが、醜いもの、鬼畜のような人心、おどろおどろしい現実の在ることを、清新で美しく澄んだイメージとともに読ませる技は誰でもがもてるものではない。そんなわけで私は、辺見庸の、とくべつ冴えた文章を読む幸福を味わっているのである。
辺見庸の著作をあまり読んでいなかったが、吉本隆明との対談本をずいぶん前に古書店で入手し読んだことがあったので、辺見庸ってこういう語り口の人なんだと思っていたら、くだんのコラムの文体はそれとは全然違うのであった。この対談本は古いものなので、辺見庸のスタイルがその後変化したとしてもおかしくないし、たしか重病を患ったとも聞いたような気がするので、そのことも大いに影響したのかもしれなかった。
『愛と痛み』は講演録である。だから、くだんのコラムとは自ずと文章は違ってくるけれども、講演しているのはそんなに昔の辺見庸ではないので、おそらくは編集で形がきれいに整えられているであろう本書の文章とも、そんなに差異は感じられない。
本書は、死刑制度廃止を目指したいとする立場でありながら、そのことを議論すること、信念を曲げずに在り続けることの難しさを書いている。また、なぜ死刑制度廃止へ向かわなくてはならないないのか、なぜ重罪人を殺してはいけないのかを、考えることすらしない人々を振り向かせることの困難を書いている。
難しい問題ではある。死刑制度廃止を言うとき、じゃあ死刑にしないならどうするのよ、という話に必ずなる。なんぴとも故意に命を奪われることがあってはならないからとか、基本的人権を侵害しているからとか言っても、とてつもない凶悪犯罪の前には説得力を持たない。代わりに終身禁固重労働なんつっても、それこそ人権侵害にならんのかという、堂々巡りの議論になるのがオチである。
ロベール・バダンテールは「死刑制度は廃止する。我が国は、国家の名においての殺人を二度と行わない。それだけである」と言った。代替案はなかった。ただ死刑はもうしないのだ、それを決断することから始めなくてはならない、というスタンスだった。根強い反論があったがフランソワ・ミッテランは死刑制度廃止を公約にして当選し、大統領在任中に実現した。
たぶん、こうでなくては死刑制度廃止にはこぎつけることはできないだろう。代わりにどんな罰を与えるのか、という話をしていては進まないだろう。本気で死刑制度を廃止するつもりなら、まず止める、そして、そこからスタートする。もう死刑はない。そういう社会にまずしてから、凶悪な犯罪が起こったときに、その時点で考えうるあらゆる重い刑罰を被告に与える、というのではいけないのであろうか。最近は死にたいから人を殺したとか、早く死刑にしてくれとかいう犯罪者が増えている。そんな輩の「願い」を叶えてはならないと思う。国家であれ誰であれ、人を殺してはならないから、人を殺した者を罰するのだ。「極刑」の意味するものが「死」ではない他の別の何か、それを英知を結集して検討すべきではないのか。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2011/01/03 22:50:08

いのちの祈りが続く。夢が愛を歌う。
生きる事、それは抵抗である。
葛藤が、意味を創造する。

ひとつ。たったひとつ。
でもそれは全てを含んだひとつ。
だから、抵抗する。
そして、葛藤する。

生きることは、ある意味で、死ぬことである。
いのちと私が、相克するのだ。
風に揺れる花になりたいと思いながら、
それを眺めながら、どうしても体験したいと。
断絶と孤独の、闘いの始まりである。

戻りたい。でも戻れない。
そして、それが真実でないことを知っていながら。
忘れたことを忘れて、自分を探すのだ。

いのちは続く。夢は愛を歌う。

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