LIBERTÉ2011/08/01 20:06:08

大学ノートに
教室の机に 樹々の幹に
砂に 雪に
ぼくは君の名を書く

読み終えたすべてのページに
何も書かれぬすべての白いページに
石に 皿に 紙に そして灰にも
ぼくは君の名を書く

金彩の絵画に
戦士が抱える武器に
王らの冠に
ぼくは君の名を書く

ジャングルに 砂漠に
巣に エニシダに
わが幼き日のこだまに
ぼくは君の名を書く

夜ごとの不思議に
昼の白いパンに
結びつながれた季節に
ぼくは君の名を書く

青空の記憶の断片に
金色に輝く黴臭い池の水面(みなも)に
月が生きて映る湖面に
ぼくは君の名を書く

夜明けの風のひと吹きごとに
海の上に 船の上に
とてつもない山の頂にも
ぼくは君の名を書く

苔むす雲に
汗かく嵐に
降り止まぬ鬱陶しい長雨に
ぼくは君の名を書く

きらめくものかげに
多彩色の鐘に
肉体的な真実に
ぼくは君の名を書く

目覚めたあぜ道に
拡げられた街道に
はみ出す広場の数々に
ぼくは君の名を書く

灯もるランプに
消えるランプに
集まったぼくの家々に
ぼくは君の名を書く

鏡に映したように二分された
果物と 貝殻の形した
ぼくの部屋のぼくの寝床に
ぼくは君の名を書く

食いしん坊で優しいぼくの犬に
ぴんと立ったこいつの耳に
よたついたこいつの肢(あし)に
ぼくは君の名を書く

玄関のバネ戸に
慣れ親しんだものたちに
祝福の流し灯籠に
ぼくは君の名を書く

さし出された肉体に
友のいる戦線に
差し伸べられたそれぞれの手に
ぼくは君の名を書く

マネキンだらけのショーウインドー
注意深そうな唇
だんまりのその向こうに
ぼくは君の名を書く

壊されたぼくの避難所に
崩れたぼくの灯台に
憂鬱の壁のあちこちにも
ぼくは君の名を書く

欲望のない不在に
剥きだしの孤独に
死の階段に
ぼくは君の名を書く

取り戻した健康に
消え去った危険に
記憶のない希望に
ぼくは君の名を書く

たったひとつの言葉のちからで
ぼくは人生をやり直す
君を知るために ぼくは生まれた
君を名づけるために

「自由」。



(自由/ポール・エリュアール Liberté / Paul Éluard)
※書かれたのは1942-1943とされる。


ポール・エリュアールはフランスの詩人。
Paul Éluard, poète français (1895 – 1952)


原文はコレ。
いろんな人が訳しているようだけど、原詩を読むべし。
今日、初めて、私の言葉にしてみたくなった。
拙訳を読んでくれてありがとう。
だけど、原詩を読むべし。



Liberté


Sur mes cahiers d’écolier
Sur mon pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J’écris ton nom

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J’écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J’écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l’écho de mon enfance
J’écris ton nom

Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J’écris ton nom

Sur tous mes chiffons d’azur
Sur l’étang soleil moisi
Sur le lac lune vivante
J’écris ton nom

Sur les champs sur l’horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J’écris ton nom

Sur chaque bouffée d’aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J’écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l’orage
Sur la pluie épaisse et fade
J’écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J’écris ton nom

Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J’écris ton nom

Sur la lampe qui s’allume
Sur la lampe qui s’éteint
Sur mes maisons réunies
J’écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du miroir et de ma chambre
Sur mon lit coquille vide
J’écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J’écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J’écris ton nom

Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qui se tend
J’écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J’écris ton nom

Sur mes refuges détruits
Sur mes phares écroulés
Sur les murs de mon ennui
J’écris ton nom

Sur l’absence sans désirs
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J’écris ton nom

Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l’espoir sans souvenir
J’écris ton nom

Et par le pouvoir d’un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté.

Si cela vous intéresse...2011/08/02 06:14:33

よく虫に刺されるのでキンカンは夏の必需品。こないだ肩を刺されたのでそこに塗ったら、おおおっ快感! 見ると「肩こり」に効くと書いてある! なんと。というわけで凝ったところに塗って刺されたとこに塗って(笑)キンカンまみれ。猫が嫌がる嫌がる(笑)。



大阪で今中氏の講演。今週末だ。知るのが遅かった……。
もし、事情の許す関西の方は、ぜひ。
今中さんは小出さんの仲間。

***
今中 哲二 先生の講演会

私たちの暮らしとエネルギー
わかりやすい原子力のお話
~ 福島原発事故:科学・技術の発展が私たちにもたらしたもの ~

講師:今中哲二先生(京都大学原子炉実験所・助教)
月日:2011年8月7日(日)
開場:13:15
講演:14:00 ~ 16:30
場所 : 大阪女学院 ヘールチャペル
大阪市中央区玉造2丁目26番54号

交通アクセス :
環状線『玉造』下車 西500m 空堀町 交差点北入 徒歩8分、 地下鉄 長堀鶴見緑地線『玉造』下車 ① 番出口西へ 徒歩3分、 中央線『森ノ宮』下車西500m青少年会館西側入 徒歩10分、 市バス 幹線85系統(玉造-杭全)『玉造2丁目』下車すぐ正門
、『清水谷高校前』下車北100m徒歩3分

対象:大阪女学院の生徒・学生、職員、同窓生、保護者と友人
(上記以外でも、この講演会を聴きたい方は参加できます)
参加費:無料 (カンパ制)
問合せ:Eメール ahau60[あ]gmail.com     
        ※[あ]を半角の@に置き換えて下さい。

***

……ほか詳細はこちらで。チラシのダウンロードもできる。
http://ameblo.jp/ahau60/entry-10959249500.html

今中さんも小出さんも、ええお年なのに、「助教」である。どなたかが准教授と勘違いしておられたのではないかと思うが、助教である。原子炉研で脱原発を唱えるような変わりもんは出世とは無関係なのである。

C'est pour les victimes des désastres...2011/08/07 01:59:54

去年も写真をお見せしたかと思うが、「京乃七夕」、今年も8月6日から始まった。初日、さっそく歩いてきた。展示物は、今年向けにリニューアルされていて、芸術系大学の学生さんたちの作品はなかなか力が入っていて微笑ましい。出来のよしあしは別にして(笑)。
あ、若者たちに言っとくけど、「善し悪し」とか「良し悪し」と書いて「よしあし」と読むんだからね。ヨシワルシなんて言ってるセンセイガタの真似しちゃいけませんよ。

8月は世界にとって鎮魂の月である。でしょ?
とりわけ日本は二つも原爆を落とされて何十万人と亡くなった月なので、よそさんの何倍も祈らなくてはならない。

一家でクリスチャンだという、娘の友達のひとりがちょうど投下時刻にコンビニにいたが、その場で十字を切って黙祷したそうだ。
「偉いなあ」と私。
「そうか? 周りから見たらおかしいで、コンビニで十字切んの」と娘。
あほ。人の目なんぞ気にしてはいけないのだ、こういうことは。






東北への祈りと励ましのメッセージの書かれたおびただしい数の短冊が、地元の子どもたちがつくった、数十本もの笹飾りそれぞれにびっしりと結びつけられていた。
子どもたちの願いを実現するのは、私たち大人だな。

L'Analphabète2011/08/15 02:47:57

『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』
アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳
白水社(2006年)


ずっと『悪童日記』三部作を読みたいと思いながらけっきょく、作家の存命中には叶わなかった。アゴタ・クリストフの訃報を目にしたその日かあるいは翌日か、別の用事で出かけた図書館で『文盲』を見かけたので借りた。

「自伝」というサブタイトルがついているけれど、エッセイ集といったほうがよい程度の内容である。軽いという意味ではない。たぶん、アゴタ・クリストフの自伝というならよほど『悪童日記』そのもののほうが近いはずだ。自伝、だろうと、他伝、だろうと、伝記というものに対して読者はもっと詳らかな内容をふつうは求めるものだと思うので、エッセイといったほうがいいんじゃないかと思ったのだ。本書は、彼女が郷土を離れ、やがてフランス語で書かざるをえなくなるまでの彼女の人生を「つぶさに」書いているわけではないから。
だが、敵語の習得を強いられ、家族は離散し、スイスへ脱出し、腹をいためたわが子とは母語ではもはや話せない……という、およそアイデンティティをもぎ取られびりびりと裂かれるような半生を送りながら、それらをなんでもなかったように綴る作家の筆致は、どんなに詳細な伝記が語ってみせるよりも、アゴタ・クリストフという名に代表されるすべてのディアスポラ※たちが負った傷と覚悟と祖国愛を行間ににじませて、読者に動悸を覚えさせる——それが本書である。

※ここでは「パレスチナ人」の意味ではなく、一般的な「離散移住者」の意味で使っている。


《私が九歳のとき、家族で引っ越しをした。引っ越し先は国境に接する町で、その町では、住民の少なくとも四分の一がドイツ語を話していた。ハンガリー人であるわたしたちにとって、ドイツ語は敵語だった。なぜならそれは、オーストリアによるかつての支配を思い起こさせたし、しかも、当時わたしたちの国を占領していた外国の軍人たちの言語でもあったからだ。
 一年後、わたしたちの国を占領したのは、また別の外国の軍人たちだった。ロシア語が学校で義務化され、他の外国語は禁止された。
 ロシア語に通じている者など一人もいない。それまでドイツ語、フランス語、イギリス語といった外国語を教えていた教師たちが、数カ月間、ロシア語速修のための授業を受ける。しかし、彼らはそれでほんとうにロシア語に習熟したわけではなく、しかもその言語を教えたいという気持ちなどまったく持ち合わせていない。そして、いずれにせよ、生徒たちの側にもロシア語を学びたいという気持ちがまったくない。
 そこに生まれたのは、国を挙げての知的サボタージュ、申し合わせもなく、当然のことのように始まった自ずからの消極的レジスタンスであった。
 ソビエト連邦の地理、歴史、文学も、同じように熱意の欠けた雰囲気の中で教師たちが教え、生徒たちが学んだ。無知なる世代が一つ、多くの学校から巣立っていった。
 そんなわけで、二十一歳にしてスイスに、そしてただただ偶然に導かれてフランス語圏の町に辿り着いた私は、まったく未知の言語に直面させられた。そして、まさにそのとき、私の闘いが始まった。その言語を征服するための闘い、長期にわたる、この懸命の闘いは、この先も一生、続くことだろう。
 私はフランス語を三十年以上前から話している。二十年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
 そんな理由から、私はフランス語をもまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、私の中の母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。》(40〜43ページ、「母語と敵語」より)

と、このようなくだりを読むと、ゆとりとか何とかいって教える量を減らし学べる子らにみすみす学ばせないという愚策を弄したどっかの国とか、入学式には国歌を絶対歌え、起立して斉唱しなければ罰するだのなんだのいっているどっかの国とか、ほんまにアホやんな、としみじみ思うのである。

《まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人などこの先一人も現われないだろうという気がしても。たとえ、書き上げた原稿が引き出しの中にたまるばかりで、別の原稿を書いてるうちに前の原稿のことを忘れてしまうというふうであっても。》(75ページ、「人はどのようにして作家になるか?」より)

《さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである。》(83ページ、同)

作家という職業人は、やはりすごいのである。最近YA小説づいていて、けっこう片っ端からいろいろな作品を読んだのだが、ヤングアダルト書いてても、書き手ご本人がけっしてもうヤングアダルト世代でなく成熟した大人である場合、作品は安心して読まれる仕上りである。だがご本人がまだヤングであると、用字用語に破綻が見られたり、ストーリーの軸がぶれたり冗長になったりと、よほどの物語好き本好きでなければとてもページをめくり続けられないぞと思うようなシロモノだったりする。それでも本にしたのだから、出版社も編集者もこの子を一人前に育てる覚悟と気概があるんだろうなとついドアを蹴り破って凄みに行きたくなってしまう(笑)。

1935年生まれのアゴタ・クリストフがフランスのスイユ社から『悪童日記』を出版したのは1986年のことである。50歳を過ぎてのデビューである。4歳にして新聞をスラスラ読めた聡明な少女は、時代に翻弄され、母語ではない言語で書いた小説を世に問うまで数十年を要した。彼女の成功は、本人の言を借りれば、信念を失わず執拗に書き続けたことにある。つまりしつこくこだわって書き続けろってことだ。作家は自由である。何からも束縛されず、何によっても拘束されない。自分をシメるものがあるとすればほかならぬ自分自身だろう。すなわち自由であるとは簡単なことではない。ないが、自由でなければたぶん、信念を失わずになどいられない。
アゴタ・クリストフは、学ぶ機会と言語を奪われ、生き延びるために郷土を捨てた。父と母と兄弟と離散し、祖国を列強に占領され続けながら、彼女はけっして心の自由を捨てなかった。自由とは崇高な概念であり状態である。生きる時代と場所が異なっても、作家というからには、この「自由」をもたなければ、自由であり続けなければ、作家ではありえない。



数日前、エリュアールの詩、「自由」を試訳した。
前からこのリベルテという語について思っていたことがある。

リベルテというフランス語は、他の何ものにも侵蝕されない。
このことは、言語の違いからくる要素もあるのだが、だからしょうがないのだが、かなり大切なことである。
日本語の「自由」は他の語と連結したとたん陳腐になる。
自由党 自由主義 自由大学 自由人 ……などなど、どれも胡散臭くて嘘臭い。何かと繋がるとそんな怪しい語になりさがる。
「liberté」は名詞だからこの形のままの場合、修飾されることはあっても他の語を修飾することはない。
自由党はparti libéral
自由主義はlibéralisme
自由貿易はlibre-échange
自由市場はmarché libre
※自由大学とか自由人なんつう意味不明な語は存在しない。

熟語を自在に形成できるのは漢語の良さだが、言葉ばかりが立派になって実をともなわない「造語」に甘んじている語も多い。
日本語の自由という語は、そもそも生まれが翻訳であるせいか、翻弄されて勝手な用法を許してきた。そんな芸当ができるのも日本語の良さとはいえ、この「liberté」のように崇高な意味を保ったまま敢然と他の語を圧倒してヴォキャブラリーの海上にすっくと佇むのを見ると、連結自在の漢語の駆使にも節操が求められるよな、それにやっぱ日本語の「自由」って虐げられてきてるよなと思う。



ああ、8月15日だ。敗戦記念日だ。敗れてあの戦争を終えたことに、日本人が誇りを持てるようになるのはいつのことなのか、と問い続けて、60年以上経って、その議論も少しずつ実をともなうものになろうとしていた矢先に、未曾有の大震災と、ポンコツ原発の故障が起きてしまった。独裁と独占と癒着の末に綻び穴だらけになっていた原発は、たとえ大打撃を受けても地震と津波によるものだけだったら何とか立ち直れたかもしれない美し国東北をずたずたにした。非を認めてもう一度やり直す、そのための、なにものにも依らない迎合しない「自由」を、わたしたちは持ち合わせているのか。

Il fait plus en plus l'automne, n'est-ce pas?2011/08/17 02:57:48


百貨店へ行き、買い物を済ませて普段用のないほかの売り場をうろうろしていると、どうぞどうぞお座りくださいと半ば強引に椅子に座らされマッサージ機器の試用を勧められた。あ、いえ、う、などと五十音図のア行しか口に出せないまま、そのおじさんの有無を言わせぬ様子に否応なく機器に足を突っ込んで、スイッチを入れられたとたん、おおおっ(やはりア行)。ふくらはぎから下をくまなくこれでもかとマッサージしてくれるだけでなく、床に寝転んで足を投げ出し、今ふくらはぎをあてている箇所に太腿をあてれば大腿部のリンパマッサージも可能だという。これはすごい。約10分間のマッサージで、まるで全身がほぐされたような効果がある。「肩こりにも効きますよ」「足のマッサージが?」「そおなんです!」ほほー。久々に感嘆したが、製品に値札がついていて、105,000円。そりゃそーだよなー。


すったもんだした挙げ句、何ともかっちょわるい結末に終わった五山送り火なんだけど、今日、例年のように静かに行われた。
いや、「静か」なのは先祖の霊を送る側の「気持ちだけ」なんであって、実際には見物人たちはビール片手に「おっ灯った灯ったきれいやなー」などと口々に叫ぶので騒がしいのである。

あるかたがご自身のブログに「大文字焼き」と書いておられた。こう表現する人が多いのは知っているし、だからどうだっつーことは別に何もないんだけど、今この時期にこのタイミングで著名なかたのブログに堂々とそう書かれると、「五山送り火」が「大文字焼き」という珍称でしっかり記憶されるではないか、と、郷土行事をこよなく愛する私は危機感を覚え、抗議のメールを送った。



京都市民として、今回の五山の送り火にかんして、「被災地の薪」をめぐっての顛末はただただ恥ずかしい限りです。

実は、私は被災地の松を薪にして送り火に使うという計画があったことを、「中止」(最初の)が報道されるまで知りませんでした。知って驚き、申し訳ない気持ちになりました。と同時に違和感も覚えました。

五山送り火は全国的に知られるお盆の行事かもしれませんが、当地に住むわれわれにとっては、先祖の魂を迎えてまた送るとき、天への案内をするためにまちを取り囲む五山に灯をともし、霊が迷わず帰るためのしるべにほかならず、それ以上でもそれ以下でもありません。
わずかな時間ですが、送り火の灯るあいだは亡くなった身内、ご先祖さまに思いをしばし馳せます。静かな時間です。

どなたが立てられた計画かは知りませんが、あのように未曾有の大震災で気の遠くなるほどのかたがたが亡くなられ、あるいはその生死の判明しないままの方がまだ何千人とおられる、その事実と、五山の送り火の意味は、正直申しまして少し異なるように思いました。震災で亡くなった方がたを思わないわけではけっしてなく、その魂はきっと私たちのまちをも見守ってくださっているでしょうし、われわれも、安らかに眠られんことを祈る毎日には違いないんですけど、ここ(京都のまちなか)に代々住んでいる者にとっては盂蘭盆会は、「ウチのお盆」でしかなく、五山に灯る火で浄土に帰るのはウチのじいちゃんばあちゃんたちだけなんです。排他的なことを言うのではなく、そういうもんなんです。地域の伝統行事の要素のひとつでしかないんです。

被災地の松云々は、まったくブサイクな結末というしかありませんが、そもそもいったいどなたがそんなズレたことを言い出したのだろうか、とも思いました。

で、メールを差し上げた趣旨は実はこれとは関係なく。
お盆に京都の五山に灯をともす行事は「五山の送り火」、中でも左右の大の字に特化して「大文字送り火」と申します。
「大文字焼き」ではありません。せんべいやどら焼きじゃないんですよ〜。「大文字焼き」と記載されている箇所を直していただけると一読者として望外の喜びです。



なんなんよ、「大文字焼き」のくだりは最後の数行だけじゃんか、と言われる貴兄に。ごもっとも。
そうなのよ、なんかさ、ファンメール書いてるうちに、今回の騒動っておかしくね?と思えてきてさ。で、途中でわれにかえってああそうだ用件は「大文字焼き」だったと気がついたんだけど。
ま、いいや。

こんな記事を見つけた。

http://getnews.jp/archives/135466

このページの下のほうにある参考リンクでようやく発案者のかたの名前などを知った次第。
「がれきマラソン」の顛末に通じるもんあるよね、ね、よっぱさん。



5月に同窓会があったが、同級生全員の消息を調べて現住所の名簿作成をするという作業をしていた世話役グループに、今でも仲良くしている朋美が入っていたので、進捗状況をよく教えてもらった。3月頃、私の娘の卒業祝いを手に家を訪ねてくれたが、そのとき、早くも物故者がいることを聞かされた。
ひとりは知っている。高校に進学して間もなく、心臓発作で亡くなった男の子だ。校舎内に倒れていたのを発見されたがもう手遅れだったと聞いた。とんでもない秀才だったので、日本は国の将来を担う重要な頭脳を失ったと本気で思ったものだった。
だが、私の知る限り、早世したのは彼だけだった。物故者の名前を聞いていて、ああそういえばこのひと病弱だったなと思い当たるのが約2名、え、そんな同級生いたっけ?とまことに不謹慎ながら顔を思い出せない名前がひとり。そしてもうひとりの名を聞いて驚いた。雅彦。彼とは小・中学校とも一緒で、よく遊んだしよく話した。私の当時の思い出の中で非常に多くを占める友人のひとりだった。朋美のように、卒業後も友人として会い、付き合い続ける同級生がいる一方で、雅彦のように、中学を出てぷつんと縁がなくなって疎遠になった友達もいる。中学の同級生たちはけっこうまめで、頻繁に同窓会を開催していた(らしい)が、私はほとんど行かなかったので、疎遠になっていた友達はますます疎遠になっていた。雅彦がそうした場に姿を現していたかどうかは知らない。雅彦は全然来てなかったんじゃないか、ふとそんな気がした。
朋美にとっても、雅彦の死はショックだったと思う。
「びっくりしたよ、トシちゃんから聞いて」
雅彦は三つ子のひとりなのである。瓜二つの利彦と、少し顔立ちの違った光彦。双児ですら珍しかったので、三つ子の彼らは何かと注目されていた。揃いも揃って今の言葉で言えばイケメンで、勉強もできて、運動会ではスターだった。当然女子によくモテた。草食系などでは全然なく、彼らにはいつも女の子の噂がついてまわり、実際にいろんな子とそれぞれが付き合っていた。私は、三つ子をそういう目で見たことはなかった。どっかすましている光彦とは話が合わず、プレイボーイの利彦とは接点がなかった。同じような顔をしてたのに雅彦だけは、ふざけ合いっこから真面目な話までよく言葉を交わし、時間を共有した。彼は私の好きな男の子と仲良しだったので、何かと面倒を見ようとしてくれた。その子に全然脈がないことがわかってしょぼくれる私に、別の男の子を紹介してくれたりした。わかってないヤツだったが、私は雅彦のとぼけた行動が好きだった。つい何でも頭でっかちに考えてしまう私に、ええやんけ、そんなん、みたいなひと言二言を投げて、パンパンに入った力をすっと抜いてしまうような不思議な存在でもあった。人差し指と親指でつくった鉄砲を私のこめかみにあて、「おまえ、考え過ぎ。」と言った後、「ところで桜井はやっぱあかんのけ?」と終わった話を引っ張り出して笑わせるようなやりかたで。(桜井は例の紹介された別の男子)

同窓会には、三つ子のうち利彦だけが出席だった。
「昨日,一周忌やったんや」
まだ一年しか経っていない? 雅彦が亡くなったのはそんなに最近のことだったのかと私は動揺した。いったいどうして? 訊ねた私に利彦が「いや、長患いでね」とか「交通事故でなあ」とか何でもいいからもっともらしい理由を言ってくれていたらよかったのに、利彦は「いや、その……いろいろあってな……」と含みのある言いかたをして話を止めてしまった。問い詰めてもそれ以上は何も言ってくれなかった。私ではなく、仲の良かった親友らには何か話しているのではと思って同窓会後数人と連絡を取り合って聞いたけど、利彦は雅彦の死について誰にも何も語っていなかった。

遺族が話そうとしないものを追及するわけにはいかない。

以来、雅彦が私の脳裏に、小学生や中学生の雅彦の姿で、現れては消える。屈託ない笑顔やすっとぼけた表情がフラッシュバックする。何とも落ち着かないこの状態を収拾できずに困っている。私は身内のことはそっちのけで、ただ雅彦のことだけを考えていた。そんな盆だった。

Elle était juste une des petits rats...2011/08/19 16:17:40

9月初旬に、娘の通うバレエ教室の発表会がある。9月のアタマといえばまだまだ暑いが、いちおう毎年「秋のバレエコンサート」と銘打っている。まだ習い始めた小さい頃から欠かさず観にきてくださる友人(私の)がちらほらいるけれど、知らせると「ええ? 9月の初めなんて、早いのねえ今年は」とおっしゃる。かつてはいつも彼岸の頃に行われていたので、「秋の」の語がしっくりきていたが、ここ数年、教室サイドの思惑どおりに会場日程の予約ができなくなってきて、9月初旬開催が続いている。
それはともかく、もう本番まで2週間余。
「シューズがやばい」
「まじ?」
「まじ」
「困ったなあ」
「お店から電話ない?」
「ない。1足でも先にくれ、とゆーてあるから入荷したら即連絡もらえるはずなんやけど」
「入荷してへんってことやんな」
「やんな」

「やばい」というのは、「つぶれそう」という意味である。もうそろそろ履きつぶす頃なのだ。
ウチのい草ゴザになんと不似合いなサテンのトウシューズたち……といいたいところだが実はトウシューズなんつうもんは綺麗でもなければ可愛くも美しくもないのだ。数回履くと先はボロボロになる。ここに写っているのは4月以降に費やしたシューズたち。後ろのピングーの袋にも数足突っ込んであるが、いずれにせよ多くはない。ワンレッスンで履きつぶすのがプロのダンサーは当たり前とよく聞くが、もちろんわれわれはプロではないので、ワンレッスンで1足なんてことはありえないけど、バレエ教室の生徒の中にはハイペースでシューズを消化する先輩も珍しくない。ある先輩の母親が、「部屋中シューズだらけ、シューズで山ができるくらいなんよ。アンタこれ、嫁入りに持っていきなさいよって言うてんのよ」なんて嘆いていたけれど、おおげさでもなんでもない。娘の履きつぶしたシューズは一足も捨てていない。段ボール箱に突っ込んでクローゼットにほりこんであるが、その体積はけっこうなもんである。単にウチがボンビーなので、また娘もそれをよくわきまえているので、もうこれ以上どうやっても使えませんよっとくたくたボロボロになるまでシューズを使うので、消化がローペースなだけである。
手前の数足には乾燥剤が突っ込んである。
いま使用中のトウシューズ2足とソフトシューズ1足。
写真は8月初めに撮ったものなので、数回履いただけの時点だが、このように爪先はボロッ。

レッスンは年齢を重ねるほどに厳しく激しくなってきた。
シューズの傷みの加速度も倍加した。
これまで一度に買うのは多くても2、3足程度だったが、5、6足注文しておこうかといつもの専門店へ行くと、
「工場が1か月休暇をとってましてね。8月に入らんと動き始めんのです。そこからの受注生産ですから……」
なんて店主が言ったのが7月だった。なにー? 由々しき事態である。
とりあえずそのとき店に在庫品があったのでそれを買ったが、7月下旬から履き始めたシューズはとても本番では使えない。まずい……。
まずいがとにかく5足注文して、1足でも早く入荷したらすぐに連絡くれと頼んでおいたのである。

他にもトウシューズ売ってる店はあるでしょうに、といわれるかもしれないが、私たち母娘がとりあえず動ける範囲で買いに行けるあらゆる店でフィッティングを繰り返し、稽古で試しては替え、試しては替えて、いま注文している店はようやくたどり着いた、ジャストフィットのシューズをつくっている店なのである。しかもこの店のオリジナル製造品なので他店にはないのだ。
グリシコやカペジオといった海外メーカーの既製品なら、どんな店でも年に2回は叩き売りバーゲンをするし、インターネットなら年中安く手に入る。だいたい4,000~5,000円台が主流だ。そうした既製品に足が合えば苦労はないが、残念ながら超成長期(笑)の娘の足はフィッティングごとにサイズが微妙に違ったし、早くから土踏まず矯正治療を続けていることもあって、足を(トウシューズに限らずどんな靴であれ)入れるたびに感覚が異なるというし、陸上で酷使して傷害もでていたし、などなど複合的多層的理由のもと、「あ、これ24.5cmね、足幅も足回りも合いそうだわ、これまとめて買っちゃえ」というふうには一度として買えなかったし今後も買えそうにないのである。

夏場の購入は気をつけないとなあ、というのが今回の教訓だが、なんにせよ店から連絡がないのは困ったもんである。5足分の予算35,000円は使い込まないように別にとってあるんだけど(笑)。


パリ・オペラ座バレエ学校の幼い生徒たちのことをles petits ratsという。レ・プチ・ラと発音する。最後の「ラ」は限りなく「ハ」に近い発音である。小さなネズミたちという意味である。バレエ学校の廊下やスタジオをちょこまかうろうろする様子を表現したものだ。わが娘も、いまの教室で最初に経験した全幕バレエでは、主人公の少女の夢に出てくる小さなネズミの役をもらった。それから十年が過ぎ、ネズミというにはあまりにもでかくなりすぎた娘は、飼い猫にも教わった(笑)ステップ pas de chat(パ・ドゥ・シャ。saut de chat ソ・ドゥ・シャともいう。「パ」はステップ、「ソ」はジャンプ)を少しは華麗に踏めるようになった。毎回「元気な」演目だったが、9月の発表会ではかなり「エレガントな」演目を踊る。チャレンジの巻、である。

シューズ来い来い、早く来い~~~

C'est pas vrai!!!2011/08/25 22:07:43

今日から高校が始まった。正確には昨日からだったが、陸上競技大会があったので娘を含む部員は公休扱いだった。で、今日から。クラスのみんなの顔を見るのは、久しぶりだな。楽しみでもあり、憂鬱でもある。憂鬱なのはもちろん、ベンキョーしてないからだ。休暇明けには提出物のチェックが済み次第テスト攻めに遭う。そんなことは休暇に入る前からわかっていたが、バレエ三昧日本晴れ時々雨でも陸上の練習はあるのよね、というような毎日で、予習復習はおろか、宿題すらこなしていなかったので、ここ数日は凄まじい分刻みのタイムスケジュールでプリントを捌いていた。母の私はヤツの読書感想文用に400字詰め原稿用紙を会社で出力してやったり(手書きで縦書きという指定。家のマックでテンプレートのダウンロードはできてもプリンタがない)、ヤツの800字小論文を会社で出力してやったり(ワープロ打ちでA4横書きという指定。我が家にマックは2台あるがプリンタは1台もない)、相変わらず使われている(笑)。子どものことで時間を費やすなんて今のうちよねなんて自分に言い聞かせてせっせとなんでも手助けしてやってきたが、背丈も態度も「上から目線」になり、「お母さん、やっぱ居酒屋チェーン○○のご飯が安うておいしかったで。お小遣いで足りるし来月また行くねん」などと居酒屋通い(笑)を始めた15歳のデカ娘に振り回されるのは、いいかげん止めんとこっちは身が持たんぜよ、という気になってはいるのである。いるのであるが、ぜんぜん止まんのである。「お母さん、それって正しいけど今はまだするべきでない、みたいなことってなんて言う?」「お母さん、こういうのって変、おかしいと感じた、みたいなとき、なんて言う?」「二次熟語とかでな、知的に聞こえる言い方が知りたいねん」……あのなあ、コピーライターの私を「意味から引く国語辞典」代わりに使うなっつーの。といいながら、お弁当の卵焼きを巻きながら、「時期尚早、とかかなあ」「違和感を覚えた、かなあ」「茶番だ、滑稽な、とかいろいろあるけど意味はちょっとずつ違うで」などと解説してしまうのである。「おおお、今日のお弁当はなかなかカラフルよん」といった自画自賛つぶやきと混ぜながら。

トウシューズはどうなったん? とご心配くださるかたもいらっしゃるのではと思うので後日談。
「あのー予約していたシューズのことですが……」
「入荷予定は10月下旬です」
「へ? はい? 10月?」
「お待たせして申し訳ないですけどー」
「来月初めには舞台なんですよぉ」
「あら、たいへん(ウチの購入履歴を調べている様子)前にお買い上げくださったのはもうダメなんですねえ」
「ぐにょぐにょにやわらかくなっちゃって」
「同じ型番ので、ソールがワンランク硬いのでしたら2足在庫がありますけど」
「え、さらにまた硬いやつ?」
「はい。あ、前回ひとつレベルを上げはったとこなんですね」
「足にきつくないかなあ」
「お嬢さんの足ならいけるかもですよ。ほかには、スーパーソフトしかないですからね、ツーレベル下の柔らかいやつです」
「ほかに手はないですね……それ、硬いほう、ウチのために取り置きお願いします」

「10月下旬入荷やて」
「最悪」
「今履いてるやつより硬いソールのしかないって」
「それならあんの?」
「2足」
「うーん」
「どうする? それ買うて慣らすしか、今回は他に道はないと思うで」
「そやな。わかった。買うといて」

トウシューズのソール(底板)は、皮をニスで固めたもので、力がかかるともちろん、しなる。皮の固め方によって硬さをレベル分けしている。メーカーによって呼称はさまざまだが、S・M・H(ソフト、ミディアム、ハード)の3種類にSS(スーパーソフト)やSH(スーパーハード)が上下について5種類くらいである。インソールの初期の硬度やしなやかさはたいへん重要だが、それだけがトウシューズ選びのポイントではない。柔らかいのを履くのが初心者で、硬いのはプロ、というわけでもない。ボックスの深さやプラットフォームの形、大きさなど要検討事項は政権与党ほどではないが山のようにあるのである。
娘は、インソールは柔らかいほうが好きで、長い間ソフトタイプを購入してきたが、今の店に替えたとき、同じソフトという表記だがずいぶん硬いタイプを買ったのだった。それが思いのほかしっくりきたので、以来、この店で買っている。2、3度他店他メーカーも試したが、やはり現在の店がいい。この夏に買ったときソールの硬さレベルを上げたのだったが、慣れるのに時間はかからなかった。で、これはよいぞと追加注文をしたのだったが。

取り置いてもらっていた2足を引き取った。
「硬いというより、分厚いだけって感じもする」
手にとってソールを叩いてみた娘の感想。
「明日、履く?」
「うん」
うん、といわれたので夜更けまでかかってリボンとゴムを縫いつけた。やれやれ。衣裳のサイズ調整も、シューズのリボンつけも、高校生になったら自分でするしな! と高らかにヤツは私に約束したはずだったが、すっかり忘れ去ったようである。慣らし始めたハードタイプのシューズは「うん、いい感じ」だそうだ。では、軽やかな猫のステップを楽しみにしているぞなもし。

Vent frais, vent du matin....2011/08/31 22:42:45

夏至を過ぎれば少しずつ日が短くなり、立秋過ぎれば陽光の色が少し秋めいてくる。五山送り火を終えると吹く風の匂いも秋を帯びる。地蔵盆までは大きな入道雲が立ち上って夕立もしばしばだけど、地蔵盆も終われば空の雲のかたちも秋らしくなってくる。少ししのぎやすくなったね、なんていっていたのが、ひどいぶり返し残暑がやってきて、いつまで続くんだろうねこの暑さ、なんつーてげんなりな日々を送るのがちょうど今頃。

今日も暑かった。いちばん暑いときに外をうろうろしなくちゃなんなくて、ったくもうたいがいにしてくれよお、と何度思わず口に出したことか。社に戻ればこれまた山がいくつも。
で、またつい。ったくもうたいがいにしてくれよおおおおお



疲れた。
もう帰ろうと思うんだけど、片付かない。
ったく、仕事の山がちっとも減っていかない。

今日で8月も終わりだ。
少し前なら「夏休み最後の今日は……」なんていって、最後の行楽、最後のプール、最後の宿題、なんかやってる子どもたちの様子を報道したりしたもんだが、最近はもうとっくに学校が始まっているので8月31日は特別な日でもなんでもなくなった。
ウチの子の高校なんか実質、夏休みは8/1~18しかなかった。そんなん、あんまりちゃうん?

遊興のまったくない夏だったが、娘は初めて甲子園球場というものを体験した(笑)。高校野球観戦に出かけたのである。たまたま座った3塁側のアルプス席。そこに陣取った応援団の学校が、その日はたまたま2試合とも勝って、上機嫌な一日だった。連れてってくださった友達家族に感謝。
球場の広さと、芝生の美しさ、打撃音、歓声。
地元の小さな球場で見た予選とは桁違いのスケールに、いたく感動した娘は、その日から数日高校野球病とでも言うのか、野球なしでは夜も日も明けぬような野球馬鹿少女に変身していたのであるが。

「お母さん、ウチ、バレエも大学もアカンかったらアストロドリームズのトライアウト受けるわ。うん、それがいちばんいい方法やと思う」

アストロドリームズは女子プロ野球団である。
いちばんいい方法って……。
アンタそれ、いちばん勝ち目ない話やで。


日大三高が優勝して数日。

今は、野球?それ何ですか?といわんばかりに野球のやの字もなくただひたすら踊る毎日である。文化祭でもダンスをやるらしい。
毎晩ぺたぺたどんどん踏みしめられて、ダイニングキッチンの狭い床がもういつ抜けるかわからない(笑)
アストロドリームズのトライアウト受けなくてもいいように、なんとか頑張ってくれ。