T'es bizare...2011/09/28 02:36:24

『とおくはなれてそばにいて――村上龍恋愛短編選集』
村上 龍著
ベストセラーズ(2003年)


本書の表紙、とても素敵だ。どっかから拝借したこの表紙画像には帯が巻かれてあってその半分が隠れてしまっているのが何とももったいない(ああ、マータイさん亡くなってしまわれたわね……合掌)。私はこういう絵が大好きだ。本書には、何葉も、おそらく同じ画家の、似たタッチの油絵がカラーで挿してある。どれもが美しく、切なく、力強くて、悲しい。何も言葉では言おうとしていないのに、絵を見つめているとメッセージが迫りくるような錯覚にとらわれる。たぶん、こうした絵を見ても、これぽっちもなあああんんとも思わない人もいるのだろう。絵だとか音楽だとかはこのように受け手によって解釈も感動もまるで異なるのが面白く、絵だとか音楽だとかが生き残っているゆえんであると思う。
さて、こういうトーンをもつ絵を描く子が、美大のときの仲間にいた。清美(仮名)という名前だったのになぜか愛称はおシマ(仮称)だった。なぜ彼女はおシマだったのか。一度訊ねたが、おシマは「さあ、なんでかなあ。昔からおシマって呼ばれてきたからもうわからない」と頼りない。名字に「島」や「縞」や「嶋」や「志摩」があるわけでも、母親や祖母や姉妹や従姉妹に「しま」という名の人がいるのでもなかった。岩下志麻という女優がことのほか好きな私は、清美のようなその名前のとおりの純で飾り気のない子と岩下志麻との間に何の共通点も見いだせないのに彼女がおシマと呼ばれるのが不思議でその由来にけっこうこだわってみせたが、おシマは「さあ、なんでやろぉ」しか言わないのであった。おシマは、岩下志麻ではなく鈴木京香がセーラー服の女子高生の頃に戻ってかりっと痩せてスッピンになって、そんでそこからもう一度、一、二年、歳を重ねて、制服から生成りのワンピースに着替えて麦藁帽子をかぶらせたらホラ、おシマになったよ、というくらい、可愛かった。清楚できれいな子だった。男子学生はみなおシマが好きだった。おシマのことを好きであることは男子学生の間ばかりでなく女子学生の間でも常識であった。常識というより当大学生の心得というか、まず何を置いてもおシマが好き、それは暗記必須英単語集のマスターに近いというのはきっと喩えが変だが、誰もがすっと黙って静かに越えるべきちっちゃなハードルだった。女子はそんな男子を赦すしかないのである。だっておシマだから。おシマは何も目立ったことはしなかった。いつも楚々とした笑みをたたえて、すごい絵を描いていた。そう、私は、おシマの油絵が大好きだった。さっきの話じゃないけど、アブストラクトなその大画面は、美しく、切なく、力強くて、悲しい。おシマの卒業制作作品は、圧巻だった。私はこの絵に出会うためのこの大学に入ったんだな。しみじみと、本気でそう思った。
本書を読み進みながら、ときどき挟み込まれた挿画に、おシマを思い浮かべて、あの絵を思い浮かべて、あの絵はどこに行ってしまったのだろう、おシマは今どこにどうしているのか、そんなことを考えた。

さて、村上龍である。なんでこの人はこんなに変態ばかり書くのだろう。ページをめくれどもめくれどもヘンタイしか出てこない。ヘンタイオヤジばかりではない。ヘンタイねーちゃんも山のように出てくる。そのヘンタイ度も普通の秤では測りきれずに針を振り切って壊れてしまうくらいである。数々の名峰を極めてありとあらゆる頂きを登り詰めた超一級のヘンタイだ。ってそんなこというと、あんた素人だねえ、ぷっ。と笑う人がいるだろうか。私は好んで官能小説や性愛小説を読んだりしない。だから村上龍の変態小説と他の作家のそれとの比較検討はできない。子どもの頃、西村寿行のミステリーが好きだった。そこに描かれるのは犯罪と欲情との見事な絡み合いで、究極の事態に追い込まれると人間ってどんなモノでもどんな条件でも、欲しいものは欲しいんだな、ということが味わい深く描かれているのがとても好きだった。つまりは、性描写なんて、その場に犯罪の匂いがしたり、その後に凄惨な流血シーンが待っていたり、罪の意識や捨て去った尊厳に心を惑わされながらそれでも「やってしまう」どうしようもなくダメな性(さが)を描いたものでなくては、まるっきりつまらないのである。普通の官能小説なんてもんは(ほとんど読まないので批判めいたことを言える立場じゃないけど)「それ」しか書いてなくて、「それ」に終始しちゃってるもんだから、私としては「それ」がいったいどないしたっちゅーねん、としか言えなかったりするのである。しかし、村上龍の場合は、もう、げんなりさせられるほど変態シーンばかりなのに、物悲しさが目の前に立ちこめて、変態ジジイの変態プレイに心の中で口をポカーンと空いたまま、でも、その変態プレイの裏の、隠せない心の傷みたいなものを覗こうとしている純真な読者たる自分を発見するのである。こういう気分にさせてくれる作家は、村上龍だけだ。本書は変態短編集だが、村上龍じゃなければとても最後まで文字を追い続けることができなかっただろう。村上龍であるということがまず私を辛抱強くさせている、それは事実だ。理屈抜きに好きな作家の作品には、出来不出来は棚上げしても、中身にのめりこむ。
本書に出てくる変態たちはニューヨークや南仏に出かけ、高級料理や超一級ワインに舌鼓を打つ。いけすかないすけこましなわけであるが、そのいけすかなさも少し大目に見てやりたい、そんなふうに思ったのは、ある短編で南仏の田舎町の描写に触れたときである。広がる葡萄園、頂上まで家に覆われた小高い丘。私に郷愁の念をかきたてたその一編は、小説としてはたいして面白くはなかったが、私を一瞬過去に連れ出してくれたので、よしよしオッケー、なのであった。