Je suis vivante, eh oui, quand meme... (à suivre)2011/12/02 21:34:00

生きてます。
本も、読んでます。
だいじょうぶやしね。また連絡する。(誰にゆうてんのやら)

Voici le sapin de Noël de chez nous...2011/12/04 22:17:03

むさくるしい部屋に今年もまたクリスマスツリーを出したのである。ウチではいったんツリーを出すと片づけるのがおっくうなので、クリスマス、お正月、あたしの誕生日、娘の誕生日、を祝ってから仕舞うことにしている。約3か月間、電飾がツリーを美しく照らしてくれる。節電? 聞いてません(笑)。
底冷えのするまちの古いすきま風だらけの借家で、高齢者を抱えながら、それでも我が家は毎年どこより節約して冬を生き延びているという自負がある。いったい何枚重ね着してると思う? 3人ともなかなかのタマネギぶりなんだぜ、ふっふっふ。暖房もガスストーヴメインですもん、電飾にくらい電気使わせてくれ。

寒くなったねえ、なんだかんだいって。ぶるっ。

今日、昼間は取材だったんだが、なんと美しい空の色、紅と黄の葉がそれに映えて、なんでこんな美しい日にあたしは見たくも会いたくもないそんなこんなを追いかけているんだろう? と一瞬かなり自暴自棄になったが気を取り直し、笑顔で取材を終えたのだった。いや、やはり笑顔で仕事を終えるということは大切だ。つくり笑顔でも偽笑顔でもいい。相手や周囲に「あなたとの時間は幸せでした」と伝えることが肝要なのだ。それは相手や周囲やクライアントや会社のためではなく、もちろん仕事や業績のためでもなく、自分が過ごす残りの人生のためなのである。あたしは帰宅したら娘とクリスマスツリーを飾る約束をしていたから、その時間のために幸せを装い笑顔を振りまいてきたのである。
すると気分は上々で次なる時間を過ごすことができるのさ。


つっても……なあ……。

いろいろなことが一気に押し寄せて、どうにも不器用な私は捌くのに手間取ってどんくさいとしかいいようがない。
何も前に進まない虚しさ。パキッと綺麗に線引いて、新しい歳迎えたいもんだけどなー……なんだかなー……


 
『文章のみがき方』
辰濃和男著
(岩波新書新赤版1095/2007年)


世の中、今は日本語について何が語られているんだろうかと、例の小論文塾をつらつら考えながら、ちょっとのあいだ手当り次第に「日本語もん」をざっと読みしてみた。おもしろいモノためになるモノ読みやすいモノ、といろいろな本に巡り会ったが、塾のこととか、日本語の乱れとか論文書きのテクニックとかそういったことはまったくヨコへおいといて、この本が気に入った。「みがき方」とあるが、いわゆるハウツーもんとは言いがたい。どちらかというと著者のエッセイと言った感じだ。著者の、日本語、文章、書くことへの愛情にあふれている本である。冒頭と終わりの数行を紹介するが、著者の書くことへの愛が凝縮されていて、なおかつ本書の執筆意図を示したものである。

《いい文章のいちばんの条件は、これをこそ書きたい、これをこそ伝えたいという書き手の心の、静かな炎のようなものだということです。大切なのは、書きたいこと、伝えたいことをはっきりと心でつかむことです。そのとき、静かな炎は、必要な言葉を次々にあなたに贈ってくれるでしょう。》《自分の心に向き合うことが難しいように、自分の文章に向き合い、自分の文章ににじみでている邪心を見つめるのも難しい。いい文章を書くための道には、果てがありません。自分の文章の拙さ、思いの浅さにのたうちまわってくやむこともあるでしょう。しかし、幸いにも、「いい文章」を書くための道は、果てしないが、つづいているのです。そして、その道を地道に歩きつづけるものだけが、それなりの果実を手にすることができるのではないでしょうか。》(まえがきより)
《渾身の気合いで書く。
 そして、肩の力を抜いて書く。
 この二つをどう融合させるか。矛盾するようで、これは決して矛盾するものではありません。》(239ページ)

なんとなく、娘の高校の校長ブログを読んでいる気分だ。文章の雰囲気がよく似てる(笑)。

小論文、というと、高校入試、大学入試対策の印象が強い。ウチのさなぎも、高校入試に備えて学校で小論文特訓を受けていたが、こういう際の指導で最も欠落しているのが上記でいわれているような書き手としての心構えである。時間配分も、文字数をクリアするためのテクも大事だが、なにより書きたい、伝えたいという情熱をもって臨まなければ、小論文だろうと大論文だろうと書き手の意思の見えない薄っぺらなものになってしまうのである。
静かな炎だの渾身の気合いだの、そんなもん磨いたって点取れないよ。そんなことを言う人に私は用はないが、できればそう言わずに「書く」ことに立ち向かっていってほしいなと思うのである。私たちが日本人であり、日本語の文章をちゃんと書きたいと思うとしたらそれは気持ちや望みではなく「血」がそう思わせているのだ。点数云々ではなくて、君が日本人であり自分の言葉でいい文章を書きたいなと思うとき、それは本能なのである。

本書の具体的な紹介はこちらで。


さてさて。
先月最後の日曜日には手づくり市へ行った。



可愛いものがいっぱい売ってあったけど、それらをふんふんなるほどこういうふうに作るのね、と、さんざん観察して、私たちは挽きたてのコーヒーとシフォンケーキをいただき、ジモティーのとれたて野菜を買って帰ったのだった。手づくり市参加の近隣の農家さんのつくるお米や野菜は本当においしい。ここ何年も、手づくり市はほとんど欠かさず足を運んでいるが、目的はほとんど食材なのであった。

さあ、寝よ。

Je suis vivante, eh oui, quand même... (à suivre)2011/12/18 10:49:54

生きてます。
本も、読んでます。
ちゃんと、食べてます。今朝はごぼうの笹がきして、きんぴらつくったし。
洗濯機も3回(週末恒例)、回したし。
だいじょうぶやしね。
会いたいし、また連絡するからね。(誰にゆうてんのやら)

Je t'aime toujours, je te souhaite des jours prochains merveilleux...2011/12/27 22:24:19



『呪いの時代』
内田樹著
新潮社(2011年)


恋も仕事もうまくいかない。恋と仕事はまったくの別物だが、いくつものハードルを越えなきゃならないとか、ある部分、ある局面では妥協しなければ前へ進まないとか、けっこう共通点がある。自分の場合、対象をすべてどんな場合でもどんなシーンでも上から見下ろしているという点で、さらに共通している。このクセをなんとかしないといけないのだろうが、残念ながら世界で自分がいちばんエライと思ってしまっているこの人格はもはや変えようがない。私はあなたよりよくできた人間なのよ、誰ひとり私を跪かせることはできないし、私はその知性において他を凌駕しているの、だから愚かなあなたに腹も立たない代わりにあなたは私に従うしか道はないのよ。そんなこと、クライアントにも上司にも、男にも女にも、けっして、口が裂けても言わないが、持って生まれた私の本能はつねに内なる私の声で、対象たるすべての人々に向かってそう言っている。困ったものだが、私はその内なる声に抗ったりしないで、「そうよね。にっこり」てな調子で自己肯定しているものだから、幸い分裂症にもならないし自己嫌悪にも陥らない。
私が自己嫌悪に陥るのはひどく疲れた顔で男と逢っていたことが後から判明したりするときだ。あんなに作り笑顔してたつもりなのに疲れてたってばれてたなんてという敗北感と弱みを見せてしまったことで次回以降に向けて相手にアドヴァンテージを与えたことがわけもなく悔しいのである。こういうケースがままあるところが、恋と仕事との大きな違いと言えなくもないな。
弱みを見せてもいいと思える相手をやっとの思いでつかまえて、大事に大事に私への気持ちを育ててやって、ようやく自分たちの未来を考え始めたとたん、しゅっと消えてしまう。そんな恋の失いかたを、何度経れば学ぶのだろうこの私は、この「上から目線」で墓穴を掘っているに違いないということを。いや、私はとっくに学習している、「よしよしあんた可愛いわね一緒に居てあげてもいいわよ」という態度を貫く限り恋は成就しないことを。でも、やめられないんだもん、しょうがないじゃん。あなたのためなら何でもするわなんて、約束できないこと言えやしないじゃん。
私は遊びで幾人もの殿方を同時に相手にしたりはできない性質(たち)である。そんなに器用ではないのである。真面目におひとりを愛し抜くのである。だから愛情は一直線にそのかたに向かうのである。向かうけれど、向かう愛情はそのかたの身の回りの世話をするとか手料理や愛情弁当とか洗濯物を畳むとか物理的な形をともなってはけっして現れないし(だってあたし忙しいもん)、愛してるだのあなたがいちばんだのあなたのことで胸がいっぱいだの歯の浮く台詞に変身したりもしない(だってあたしはライターだけどスピーカーじゃないもん)。だけどあたしの愛情は殿方よりも一段高いところから殿方を俯瞰して愛情のシャワーを注ぐごとくのものであるから、殿方は私の愛情を全身に浴びておられるはずなのだ。はずなのだが、どうもそれではイカンようである。霧雨程度にしか感じてもらえんのだろうか。うーむ。
そんなこんなで利害をともなわない恋はひょんなことから破れたり崩れたりしてちゃんちゃん、と終わる。ここも仕事とは大きく異なるところで、利害がともなうと人間、簡単にチャラにはせず投資した分取り返そうと躍起になって働き続けるのであるが、恋はちゃっちゃと跡形もなくなる。
私はたぶん、惚れた相手を過剰に愛するので、ある時期からその容量を測れなくなってしまう。過剰な愛に対して等価といえる愛が返ってきていなくても気づかなかったりするのだ。恋が終わっても、私は相手を恨んだり罵ったりしたことがない。それに近い思いを抱いたこともない。いっそ憎めればよいのだろうが、惚れた男たちはみないつまでたっても美しく私の中で輝いている。負け惜しみや冗談でなく、私は彼らが幸せであってほしい、私が今幸せであるようにあなたも幸福に包まれていますようにと思うのである。べつにそんなことを初詣に祈願したりはしない(自分と娘のことしか祈願はしない)けれど、ご本人とそのお身内の無病息災、なにより自身が納得して生きて、その生を全うしてほしいと思うのである。
自分の意に沿わぬ行動をとる人を、それでも好ましく思い続けることは、ある人々やある年代には難しいことなのかもしれない。好意なんてもてないから無視する、無関心を装う。人目につくところではそれで済ませても、時に感情が高ぶってそれで済まなくなり、罵詈雑言を叩きつける。その格好の場がネットなのだろう。
どうでもいいことを長々と書いたが、50年近く生きてやっと隣人と地域とともに在らねばならないとの思いに到達した私は、好き勝手なことをうだうだ書き散らしてはいても、その言葉のもつ針や棘やヘドロ臭の醜さを超越して「人間」を愛している、そのことに気づいたのである。若い頃、人間ほど嫌いな動物はないと断言できた私だが、今は昔だ。
私がいつまでも内田樹を愛し続けることができるのは彼の発するさまざまな思考が、表現や言い回し、論調が変わっても、ぴたりと私のそれと波長を一致して響いてくることに、快感を得るからに他ならない。彼はいつまでも私の二、三歩先をゆく「ちょっと物知りのオバサン」である。押しつけがましくない分、つい、追随したくなる魅力をその腰つきからふりまく熟年のオバサン。そう、ウチダは私にとってどんなオバサンであるべきかを身をもって示してくれる先輩オバサンである。その思いを強くしたのは彼の講演をちょろっと聴いた経験からである。彼の著作だけを愛していたときは、いくら彼がオバハン臭い書きかたをしていてもオトコ臭かったが、彼の講演やラジオトークを聴いてからは、そのお喋りがとても女性的で井戸端臭いことがわかって、ツボにはまってしまった、というか、私のウチダ偏愛史の新たなページを開いたというか。
それをあらためて裏づけるのが本書だ。
祝福したい。あなたのこともあなたのこともあなたのことも。
地球史上最低最悪じゃないのこの男、てな男に対しても、人類史上最低最悪の社会人じゃないのこの女、てな取引先の担当者に対しても、彼らの生に幸あれと願わずにいられない。
みみずだっておけらだってあめんぼだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ。
ウチダ自身がブログかなんかで紹介していた、茂木氏の書評をコピペする。茂木健一郎は嫌いだが、この文章はいい。こういう出来事に遇うと、えらいぞモギ、と祝福を送りたくなる。一生愛し愛され抜ける人に会うことはなかなかないのかもしれないが、人を愛することそのものはさほど難しくないと思うのである。
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波 2011年12月号より
呪いと祝福
茂木健一郎
 内田樹さんを評するのに、御自身がよく使われる言葉以上に的確な表現が見つからない。「その人が、何を教えてくれるのか判然とはしないけれども、なぜか慕われる人」。私たちにとっての「先生」とは、そんな存在だと内田さんは繰り返し書かれる。私にとって、内田樹さんとは、まさにそんな「先生」である。
 内田さんの魅力は、総合的な人格に由来する。これまで生きてこられた履歴、考えてこられたこと、感じてこられたこと、すべてが相まって、「内田樹」という書き手から、私たちに向かって流れ出してくるものがある。
 新著『呪いの時代』を興味深く読んだ。『日本辺境論』でもそうだったが、日本人の心性を腑分けする時の内田樹さんの手腕は、水際立っている。それは、技術的な例えを使えば「工数」の多い、緻密な論理構成に基づくもの。言葉の精密機械が、熱情という潤滑油によってなめらかに動いている。
 インターネット上にあふれている「呪いの言葉」。議論を先に進めようとするのではなく、むしろ相手の営為を無効化し、力を奪い、自分の優位を確認するためだけに吐かれる言葉。それは、確かに困った現象であると同時に、私たち日本人の今の「等身大」を映し出す、一つの「自画像」である。突出しようとする人がいると、平均値に引き戻そうとする同化圧力。共同体全体として発展するというよりは、むしろ「滞留」する中での「ポジション取り」に終始する。そのような空気が日本の社会にあることを、私も、自らの経験に照らして、ありありと思い出すことができる。
 「呪いの言葉」を吐く人たちは、自分たちで身体を張る必要がない。リスクを負って、発言することもない。後出しジャンケンで、「お前はこんなことを知らない」という指摘をすることは簡単である。そのような知的な負荷の低いふるまいが「賢い」のだと、日本の一部の人たちは思っている。
 どんな国、文化圏にも、固有の病理がある。日本だけが例外だとは、私は思わない。たとえば、イギリスでは、階級社会が未だにあって、人々を縛っている。アメリカ人の一部が銃器規制にあれほど慎重なのも、「自由」についての「信仰」の病理である。お隣の国中国が、「民主主義」とは異なる方向に発展しているのは、周知の通り。
 日本だけがとりわけ病的だとは思わない。それでも、日本の精神病理には、関心を払わざるを得ない。なにしろ、自分たちの国である。そして、その中で暮らすことが一体どのような体験であるかということを、私たちは熟知している。
 「呪い」が人から力を奪い、行為に投企することを妨げるとしたら、「祝福」はむしろ行為へと背中を押し出す。誰だって、失敗しようと思って何かをするわけではない。かといって、成功を保証しようとしたら、一歩さえ踏み出せない。
 幼き子が、初めて小学校に向かう日。就職が決まり、田舎を出て上京する前の晩。結婚式で、若い二人の幸せを祈るひととき。そのような時に人々が「祝福」の言葉を贈るのは、未来がまさに不確実であり、どうなるかわからず、ましてや成功など保証されていないからである。
 自らの身体をもって、何か具体的なことをやること。私たちは、今ネット上にあふれている「呪い」の言葉ではなくて、「祝福」の言葉をこそ必要としているのではないか。
 ネット上の「呪い」の言葉が、内田さんの言うように低い負荷で自分の「優位」を確保する試みだとしたら、これほど生命から遠いことはない。私たちは、そろそろ「呪い」から離れて、「祝福」の方に歩み出したらどうか。誰だって、一度きりの人生を、たっぷりと生きてみたいのだ。(もぎ・けんいちろう 脳科学者)
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年々イベントがしょぼくなる(笑)我が家のクリスマスだが、娘とチャレンジするクリスマスケーキづくりは欠かさない。今年はガトーショコラ。かなりの工程を娘が担ってくれるようになった。ただし、デコレーションは出来合いのもんだけどね。めっさうまかったでえ~~♪

で、お次は、長らく報告できていない「ある日のお弁当」。ところで我が家では12月29日までお弁当づくりが続く。なんなのよ、どういうことよ、そんな学校だったとわかってたら入学させなかったのにっ。わが母校ながらその変容ぶりに呆れる。ヤンキーの巣窟だったのにさ、ほんとにおベンキョ小僧学校になっちゃって、まあ。しゃあないから頑張れ、娘。
10月20日とりそぼろときんぴらゴボウ



毎年、12月早々にブログは年末年始休暇宣言をしていたが、この更新の停滞ぶり、何が休暇宣言じゃと我ながら思うので、ギリまで仕事の収拾がつかないのをいいことに、2011年最後の更新をいたしました。幸せのうちに今年が終わり、平和で穏やかなる来る歳を迎えられますように、心からお祈りいたします。寒いから体には気をつけてね。そしてまた笑顔でお目にかかりましょう。みんな、愛してるよ。