Tu te souviens?2012/06/03 18:12:35

ポンピドーセンター。ちょうどマティス展をしていた(観なかった)。


『九月の空』
高橋三千綱著
角川文庫(1995年)


旅のお伴に文庫を3冊。ひとつは『私の身体は頭がいい』(内田樹)、もうひとつは『長靴をはいた猫』(シャルル・ペロー/澁澤龍彦訳)、そして本書。
なんでパリへ行くのにこの3冊なん? 共通点はたったひとつ、著者(訳者)たちは私の異常な偏愛の対象となっている方々であるということである。
と、いってみたけれど、実は単なる偶然で、機内じゃ退屈して寝るしかないに決まっているけどどうせ寝るなら睡眠薬代わりに何かあったほうがよかろうと思って文庫棚から適当にがさがさっと抜いたらこの3冊だったのだ。
偶然とはいえ、われながらナイスチョイスだわん、と手提げバッグに入れる。
いずれももうイヤになっちゃうくらい(でもけっしてイヤにならないのよ)繰り返し読んだ本たちである。いずれも、京都での日常とも目的地パリとも何の関係もないし、自分と自分にかかわるあらゆる事どもをどう並べ替えても、これらの本からは何ひとつ連想することがない。今の私と、昨日まで職場に埋没していた私を断ち、加えて、断った私をどこへも連れていかずユーラシアの上空に宙ぶらりんにしておくに余りある効果をもつ本たち。そして、今日までパリの非日常に溺れていた私を断ち、もういちどユーラシアの上空に放り出し、万が一そこで星屑に混じって消え失せてしまっても私自身の中には一粒の後悔も残らないほどパリの記憶から遠く隔離してくれるに余りある効果をもつ本たち。

『九月の空』は高橋三千綱の芥川賞受賞作品である。
小説というもんに精通していない私は芥川賞(に限らないけど)受賞作のよさがいまひとつわからない。何がどうだからこれが芥川賞で、何がダメだからあれは芥川賞でないのか。その違いももちろんわからない。文学賞はそれこそ星の数ほどもあるけど(……ないか。笑)、それぞれの賞の趣旨は違っているようで実は全然違っていないようにも思える。要は面白ければええんちゃうのとつい素人は開き直るのだが、面白いことは最低条件で、なおかつ時を経ても読者を惹き込む力のある小説――後年とある傑作を読みその作品の生い立ちを見ると、あ、受賞作品だった、というような――のことではないかと思う。芥川賞受賞作品と聞いて私が考え込むことなく瞬時に思い浮かべることのできるのは『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)だけなんだが、村上作品のいくつかは時代を反映しすぎていて、今読み直すといささか色褪せ感を禁じえないものが少なくないことを考えると、『限りなく――』の力強さはやはり群を抜いているといっていい。
角川文庫『九月の空』には、剣道少年・勇の青春三部作が納められている。『五月の傾斜』と『二月の行方』がなぜ芥川賞ではなくて真ん中の『九月の空』が受賞作品なのか、その理由は私にはわからない。わからないが、五月と二月は当時の社会背景が多少リアルに描かれているために、後年色褪せるかもしれないが、九月は、若干、昔の高校生って純情やったんやねえ可愛い♪な感じはもちろんあるけど、だからって思春期の男女の息遣いやためらいや好奇心の表れに昔も今もたいして変わらないことは、読めば妙に得心できたりするに違いない、だからこのあと何十年もこの作品は色褪せない、と、審査員は考えたのだろう。といったら審査員を褒めすぎか。

主人公・勇は、著者自身を投影したところもあるようだ。勇の生い立ちは、三千綱と重なるところがある。本書だけでなく、裕福だった家が一転貧しさにあえぐ状況となり各地を転々としなくてはならなかった三千綱の少年時代をモデルにした作品が多数ある。三千綱の実父である作家・高野三郎は、見ようによったら、アンタただの親馬鹿やなあ、然とした褒め言葉を息子の作品群に注いでいる(本書・解説)。たとえば、風の匂いや空気感の描写にとくに優れていることを指して、

《季節感が若者の行動と、心理を捉えて、強烈な躍動感を漂わせていた。》(262ページ)
《このように季節の風を、人物の心理面に敲きつけて、激写するように人間心理を外面的角度から描写する態度は》(263ページ)
《風や空、あるいは夜のネオンを単なる風景としてではなく、その中で、一瞬の行動にあらわれた人物の表情、心理をも閃光を当てるように瞬間描写している。》(264ページ)

などと絶賛である。
だが、その、著者の力量の根拠を、本人のアメリカ体験によるものだとしているところが、私は気に食わない。そうだろうか? 

《日本の風土で小さくこり固まったものでは叶わぬわざとおもわれてならなかった》(263ページ)
《ユーモアが全篇に漲っていることでもあり、これはアメリカ体験が、彼の文学風土の中に強い生の姿を植えつけている》(263ページ)
《じじむさくぐじぐじと日本の風土に育った人間には、真似のできない速度化した描写タッチである。カリフォルニアの空を見あげて、アメリカの土地に蝟集してくるさまざまな国籍の白人、黒人、日本人以外のアジア人群と密着した体験が、彼の「青春」を色彩化している。》(264ページ)

いったい、日本の風土とはそんなに小さく固まってぐじぐじしているもんだろうか? 単に肌の色、目の色、髪の色も多彩な人々の中にいれば彼の青春は色彩化されるのか? 『五月の傾斜』は1977年、『九月の空』は1978年の発表である。日本社会を染める色彩は2012年の今とは比べものにならないほど、……どうだっただろう? 高度成長期の時代、意味なく根拠なく人々は未来に希望を抱き夢を描いて、グロテスクなほどに派手な色彩感が人心を覆っていたのではないかと、当時すでに青春時代だった私は思い起こすのである。たしかに、著者の思春期はもっと時代を遡る。戦後の呪縛から抜け切っていなかった頃の日本は当時の大人にとって狭くじじむさくぐじぐじしたもので、戦勝国アメリカは明るく華やかでカラフルでドライだったかもしれない。しかし、四つの季節の移ろいだけでなく、朝と昼、夕暮れと真夜中の湿度の変わりかたや皮膚に感じる気温の生ぬるさや厳しさの違和感は、日本の風土と真正面に向き合って生きなければならなかった経験が著者に覚えさせたもので、また、それを言語表現化する才能は、アメリカ体験のおかげなどではなく、作家である父から受け継ぐところ大であったに違いない。高野は謙遜しているのかどうかしらないが、ま、たしかに息子の文才はワシのおかげよハッハッハと書くわけにもいかなかっただろうが、波瀾万丈の幼少期を息子に強いた己の経済事情が幸いにして彼の豊穣な表現力を育てた、とも書けなかったのかもしれない。

現代日本文学作品は、よく外国でも読まれている。「世界の」村上春樹だけでなく、え、そんなんまで翻訳されてるの? と驚く事例はけっこうある。日本の文壇でもてはやされている作家はほぼ例外なく大なり小なり海外でも紹介されている。友達は今、フランスですでに定評を得ている川上弘美の未訳本を翻訳中だ(今回訪ねたとき冒頭3ページくらいで「挫折しそうよ~」と苦笑していた)。ただ、昨今の作品は、すべてがそうではないにしても無味無臭というか、無国籍っぽいというか、ボーダーレス時代もしくはグローバル化を映してニッポン色は濃くないといってよいであろう。三千綱作品のようなコテコテの日本色・日本臭はないから、文字どおり意味どおり訳せば翻訳作品に仕上がるだろうと思う。三千綱作品は、本書だけでなく、いつか書いた『カムバック』にしても、チョー日本的だ。英語だろうがフランス語だろうが、訳したところでいったい誰が作品世界を理解しうるだろう。

《半年前、刃を振りかざしてくる寒風に、身を縮めた。》(6ページ)
《躯が脹れ上がり、毛穴から熱気が発散する。》(8ページ)
《六時を少し過ぎたばかりの空は、深い森を横切る渓流の水をすくったように高い所で透み渡っている。校庭は森閑としている。》(10ページ)

訳せるもんなら訳してみろといいたい(笑)。