S'il n'a pas dit "Non"...2012/11/16 18:18:22




『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』
ベン・シャーン絵、アーサー・ビナード著
集英社(2006年)


アーサー・ビナードのトークを聴く機会があった。声を聴くのも、ご本人の姿を拝するのも、この時が初めてだった。流暢な日本語に、間合いの取りかたも絶妙で、ひとつひとつのトピックにちゃんとオチをつけるところなど、下手な芸人なんかよりずっと冴えている。その数日前に、「舌鋒鋭い人生幸朗」ばりの(といったら失礼かな。といったらどっちに失礼かな。笑)書家・石川九楊の講演を聴いたところだったが、いやいやどうして、扱いネタは違うし話術ももちろん違うけど、笑いの取りかたも本質の突きかたも説得力もいい勝負。

何年も前、当時購読していた新聞の夕刊コラムにエッセイを連載していたのを、たいへん楽しく読んだ記憶がある。その中に、「旧」の旧字が「舊」だと知って小躍りした経緯を綴った回があって、とりわけ面白く読んだように覚えている。ヘンなガイジン。我が町には有名無名問わずヘンなガイジンがわんさかと棲みついているので、ヘンなガイジンに会っても驚かないけど、日本人よりも上手に日本語を操るガイジンは、じつはそう多くない。

むかし、零細仏系出版社で雑用をしていた頃、出版物に広告をくれるクライアントと電話で話す機会が多かった。広告主はたいてい仏企業の日本支社、当時は日本人スタッフを雇い入れているオフィスは少なくて、といって赴任しているフランス人スタッフが日本語できるかといえば全然そんなことはなかった。こっちが仏語誌だと知っていて、さも当然のようにフランス語で電話をかけてくる。いくら決まり文句での応対でも日本人だとすぐばれる。すると、「マドモアゼル、実はね……」と優しくゆっくり話してくれるケースもあれば、もうええわといわんばかりに「ムッシュ●●に電話くれって伝えて。ガシャン」で終わるケースもある。そのなかで、果敢に日本語でかけてくるハンサムヴォイスのフランス人がいた。「いつもお世話になっております」「弊社の広告出稿の件ですが」「スケジュールの変更はできますか」と、それはもう毎回、見事な日本語だった。ある時、出版物が刷り上がり、広告主への送付準備をしているとハンサムヴォイスから電話がかかってきた。「お送りいただく掲載誌の部数の変更をお願いしたいのですが」……。これ、ここまできれいに日本人だって言えないよ。ほれぼれするわあ。すっかり目と耳をハートにしながら「もちろん承りますよ。何部お送りいたしましょうか」というと、「ありがとうございます。では、イツツブ、お願いします」

……いつつぶ?

いつ、粒? いえいえ冗談よ、五つ部といいたいのだ彼は。
これほど完璧に日本語を操るビジネスマンが、「五部」を「ゴブ」といわずに「イツツブ」というなんて。

可愛いいいいいいいーーーーーーー!!!(笑)

ますます目と耳のハートが大きくなった私だがなんとかそれを引っ込めてつとめてクールに「ハイ、あのー、いま五つとおっしゃったのは、5部、ということですね」「えっ……。はい、そうですね。ああそうでした。この場合はゴブといわないといけませんでした」「では、たしかに5部、お送りいたします」「はい、よろしくお願いいたします」


と、いうようなエピソードは、アーサー・ビナードと何の関係もないのだが、日本語のチョー上手なガイジンが話すのを聴くとき、例のハンサムヴォイス君みたいな可愛い間違いをしてくれないかとそればっかり期待して耳をハートに、じゃなくてダンボにしている自分に気づいて呆れている。


ビナードはすでに数多くの著作を日本で出しており、明快なその反核アティチュードはよく知られていると思うので、今さらその主張については述べない。先日のトークで彼が言っていたのは、絵を鑑賞するとき、その絵の向こう側、深淵を見つめなくてはいけないし、向こう側から何も語ってくるものがなければ、鑑賞者にとってその絵はただそれだけのものでしかなく、何かを語ってくるならその絵にはそうした力があるということであり、また語ってくるものを受けとめる器を観る側が持っているとき、その鑑賞者にとってその絵は生涯唯一無二の存在になりうるほど大きな意味をもつ、ということである。


ベン・シャーンはビナードの父親がたいへん愛した画家だったそうだ。家にあったベン・シャーンの画集は、アーサー少年の心を捉えて離さず、力強い筆致の奥から湧き上がってくるかのようなパワーめいたものの虜になった。この第五福竜丸の連作を日本で絵本にしなくてはならない、という思いを、実現させたのが本書である。
私が所有するたった1冊のビナードの本。

反核反原発にかんする彼のアプローチは、やはりアメリカ人ならではの視点が効いているといってよく、そんなのちょっと冷静に考えればあったりまえじゃないの、というようなことすら気づいてこなかった日本人のお気楽ぶり、ノー天気ぶりを思い知らされる。

「福島の事故は、京都のせいだともいえるんですよ」

風が吹けば桶屋が儲かる、ふうに言うならそういうことだ。そんな喩えかたは不謹慎かもしれないが、第二次大戦で当初の実験計画に変更がなければ、米軍は間違いなく原爆を京都に落としていた。もし予定どおり京都に落とされていたら、戦後の日本の国土の在りようはもっと違ったものになっていただろう。

「(山に囲まれた)京都だと、爆発後の残留放射能の影響が大きすぎる、後年、ほぼ永久に土地は放射能に汚染されたままになる。そうすると日本人の反原爆、反核意識がとてつもなく高まるので、のちのち扱いにくいではないか」
「日本には毎年9月頃台風が上陸するからそれによって残留物質が海へ流されてしまうような土地が実験には適している」
「放射能が残らなければ、爆撃されたという記憶もすぐに風化する」
「……と考えたと思うんですよ。京都が美しい街だから、とかそんな子どもみたいなこと当時の米軍部が言うわけないでしょ」

ビナードはあくまで「僕の推測」としたけれど、おびただしい文献や証言にあたって導いた結論だから、的を外してはいないと思う。なるほどそのほうが自然だと、私も思う。京都は台風の被害がほとんどないから、まさに残留放射能は山と川と大地に留まり地下水に深くしみこんでいき、二度と人の住めない死の町となっただろう。その影響は、隣の滋賀、奈良、大阪、兵庫へも拡大しただろう。かつてロイヤルファミリーの本拠であった古都を爆撃し壊滅させそのうえ後世にわたって放射能で苦しめ続けることは、米国人の想像以上に日本人の中に対米怨恨を残すのではないか。せっかく戦争の後占領してもそれじゃあやりにくいじゃないか。
理に適っている。

だから海に面した土地をウランとプルトニウムの実験場にした。
そうして計画どおり、終戦後すぐの9月に上陸した台風が、残留放射能をあらかた洗い流した。まじめに放射線量などを計測したのは台風後である。そしてその数値なら「大したことないじゃん、ね?」と日米で確認し合い、海沿いにさえ建てとけば、何かあっても毒は海へ流れ出るからオッケーよ、というわけで日本の場合、海岸線に原発がボコボコ建てられて、計画どおり?に甚大な地震と津波によって壊れた福島第一原発から噴き出た放射能は、今太平洋中を航海している。内陸側の汚染に関しては皆さんご存じのとおりである。

あの時、ピカドンが来たのが予定どおり京都だったら、福島にも、大飯にも、伊方にも、原発は建っていなかった。……かもしれない。
で、私もこんなブログなんざ、書いてない。
本書については5年前に松岡正剛が詳しく述べている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1207.html