Nuclear Free Now!2012/12/14 09:42:41

明日です。
Nuclear Free Now
Nuclear Free Now 2012.12.15-16
12月15日は、日比谷野外音楽堂に集まろう!
Nuclear Free Now さようなら原発世界大集会

↑ お近くの方はご参加くださいませ。


えー続きまして(笑)こちらのご署名、まだの方、どうぞよろしくお願いします。
子どもたちを福島原発事故による被ばくから守るため、集団疎開の即時実現を求める署名のお願い
↑ 宛名が「日本国総理大臣 野田佳彦殿」になったまま(笑)ここ数日署名数が伸びていないのはそのせいだよね、きっと。

で、今日はこれ。

『さがしています』
アーサー・ビナード文 岡倉禎志 写真
童心社(2012年)
*表紙写真:「鍵束」寄贈者・中村明夫(広島平和記念資料館所蔵)

先月かその前かにアーサー・ビナードのことを少し書いたけど、この本を入手したくて、この本の制作にまつわるエピソードとかが聞きたくて、トークに足を運んだのだった。だけど、イベントそのものは丸木位里、俊、スマの作品展であり、丸木作品との出会いについて話すのがトークショーの趣旨であったゆえ、この本は今年の新刊なのでもちろん話題には出たが、期待してたほどの裏話などはなかった。

私たちは本書を通じて、写真に撮られた「ヒロシマの遺品」に触れるわけだけれども、詩人も写真家も「実物」の「ヒロシマの遺品」にじっさいに触れているのであり、遺品から聞こえてくる声にならない声を、じかに聴いているのである。ビナードも岡倉も、印刷物となって読者が本を開くときにその声にならない声を届けようと、工夫を凝らし苦労を重ねたことが窺える。
しかし、その意図は、伝わってこない。というより、いや、違うんじゃないの、というほんの少しのズレを感じる。著者たちの意気やよし、なんだけど、ビナードの詩は胸を打つけれど、遺品の声そのものではない。写真に撮られた遺品も、その写真が遺品の姿すべてではない。そのことはどうしようもないし、それで当然なんだけど……

なんといえばいいのだろう。

ピカを体験した遺品たちは、「さがして」いるのだろうか、突然失くした日常を?
自分の持ち主だった人を、まだ待っているのだろうか?
その人の命は無残に焼き尽くされて跡かたもなくなってしまっていることを知らないまま?

本書では、この遺品たちを「カタリベ」と呼び、原爆投下から65年以上、その瞬間の姿のまま在り続けながら、昇天しない思いを語っている。
ビナードと岡倉はその代弁者であるわけだ。
書籍の帯にあるように、「未来へつづく道」を探しているのだろうか?

あの日の朝も、「おはよう」「いただきます」「いってきます」「気をつけて」と言葉を交わして一日が始まったはずだった。たしかに。
突然遮断された時間と空間を、「さがしています」と、カタリベたちは言っている。
そういうことらしいけど。

私には、尽きることのない諦念しか感じられない。もう、どうしようもなく深い、たとえば洞窟とかマンホールの底とかの、闇の中で、絶対に脱出できない状況に置かれたまま、でも死ねない。いっそ命が尽きればいいのになのになぜか生かされている、脈のある屍。その屍(脈は、ある)から蛇口からこぼれる水滴のように少しずつ落ちて、そこに溜まることなく乾いては、また滴る、諦念。

「さがしています」よりもふさわしいタイトルはたぶんこっちだ。

「あきらめました」

あきらめました、わたしを持っていた人に再会すること
あきらめました、ピカに遭う前のきれいな姿に戻ること
あきらめました、ピカを使わない世の中も
あきらめました、ピカをつくらない世の中も
あきらめました、わたしたちを忘れずにいてもらうことも


だからね、なんだかちょっと違和感はあるわけだけど、でも私はこの本を大事に大事にしている。慈しむようにページをめくっている。だってさ。
うっふっふ~~~♪