On se perd, sans le future!2012/12/28 12:49:12

12月1日の押小路通。紅葉楓(もみじばふう)がまだ葉をつけている。


《暗い時代が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
 3・11以後、初の国政選挙で自民党が政権復帰。諸外国には、日本国民が原発継続を選んだ、と見えるだろう。東京電力福島原発事故に関しては、前政権の危機対応のつたなさがあげつらわれるが、もとはといえば、フクシマの事故を招く原因を長期にわたってつくったのは、元の自民党政権である。責任者をだれひとり追及せず、処罰せず、原因究明すらできていない状況で、いわば事故の「戦犯」ともいうべきひとびとを、有権者はふたたび政権の座に就けてしまった。》

昨日の地元紙の夕刊に掲載された、コラム「現代のことば」の冒頭である。この日の書き手は、ご存じ上野千鶴子。
上野はいつも正しい。いつだって正論だ。彼女の言い分が、つけ入る隙のないほど完璧に正しさの鎧をまとい、どんな尖った矢も鋭利な槍も硬い鉄砲玉も跳ね返すほど強靱であるとわかっていても、それに反論せずにいられぬ気持ちになる。というか、ちゃんと話し合うための語彙を当方持ち合わせないので、「反論せずにいられない」ったってまともに議論などとてもできやしないのである。したがってこの場合、「闇雲に逆らいたくなる」「難癖つけたくなる」「つつけるもんはないかと重箱の隅々を箸や楊枝でほじくる」(笑)とでもいったほうがよかろうか。

大学院に籍を置いていた時、社会学部の教授陣にフェミニストがちらほらいて、彼女たちの音頭取りによるジェンダー論関係の研究会や講演会がよく開催されていた。そのいくつかに出席を試みたことがある。しかし、どうにも居心地が悪かった。
必ず「非」フェミニスト系の研究者、学者(たいてい男性、そして一人だけ)が招かれて、その人による講演または報告があり、続いてフェミニストチームから同様に報告や発表が行われる。たいていは複数である。その後ディスカッションとなる。しかしディスカッションというよりも、まるで集団言論リンチ……といったら言い過ぎだろうけど、フェミニストチーム研究者がよってたかって、その招待し報告させた学者の発表内容にとどまらず(「本日のご報告内容はとうてい受け容れ難い内容でしたがこれについて問題点を列挙したいと思います」)、言葉の選びかた(「そもそもそういう言葉づかいに男尊女卑思想が表れているという自覚がないから困りますわ」)、果ては立居振舞までやり玉に挙げて(「その手の使いかた、女性をバカにしてません?」「わたくしこれ以上耐えられません」「同じ空気を吸いたくないわ」「退席します」)、一点集中の攻撃をしかけるといったぐあいだった。
私と同じように、居心地悪く感じた学生は少なくなかったと思う。男らしく・女らしくといって育てられた私たち。そのように育てられた親に育てられた世代。不平等を刷り込まれたとかそんな話ではなく、男として女として、纏う衣も違えば日々の慣わしも書く文字も異なるという文化が連綿と続く国に生まれたのである。そりゃ、誰だって、男尊女卑思想はまっぴら御免だ。しかし、オス・メスの生物学的身体能力は歴然としており、もって生まれた生殖能力の違いからくる役割分担も明快である。男女平等は当たり前だが、男女は同じ種類の生物ではない。

私は「女も学問する時代やねん」という祖母と、「ちゃんと花嫁修業しとかないかん」という母とともに暮らしてきたせいか、ずるがしこく育った。口では女性の権利や能力活用を言いながら、実際には、力仕事はもちろん重い役割やのちに責任を問われるような立場はひたすら男性に譲って生きてきた。しんどくて骨の折れそうな仕事は「わたくしでは力不足でございます」などといって逃げ、何かのプロジェクトリーダーなんぞに任命されようなものなら、そのプロジェクトの問題をあれはどうするこれはどうすると積み上げて、提案した上司に「わかったよ、なんか起きたら俺が責任をとるから」と言わせ、いかなる場合も無傷で逃げられるめどが立つまで粘った。私のこうした行動様式は一貫していて、子を産みひとりで育てている今でも変わらない。
シングルマザーをやっているのは私が選択した結果であって、なぜ選択したかというとこっちのほうが快適だと確信したからに他ならない。快適だと確信したのは、べつに殿方が嫌いだからでも(むしろ好きやん)、疎ましいからでもない。
子育てを誰にも邪魔されたくなかっただけである。私にとって子育ては、つねづね言うように、芸術作品制作に似ている。芸術は孤独な戦いだ、しかも通底する信念に基づいた。そのような創作活動と同じものを子育てに求めると、「共同制作者」だとか「コラボレーション」なんぞ不要になるのは自明である。

(ついでにいうと結婚しなかったのは姓を変えるのが嫌だったとかじゃなくて、単に縁がなかったのである。あ、聞いてないって?)

単に、プライベートにおいてそういう事情であるだけで、私はつねに殿方に助けられてきたし、殿方をおだてて木に登らせるのが得意であるし、また私と同世代の殿方は気前よく木に登ってくださるので(笑)、私はいつもズルく楽して生きてこれたのである。
中途半端なフェミニズムの風にあおられてそっちを向いてしまった若者たちは、たいへんな生きにくさを感じているであろう。この国は、まだまだ女性を虐げている。閣僚に女性を二人入れただけで「どうだ」といわんばかりに大騒ぎしている極右アベシンゾー内閣を恥ずかしいと思うのは上野千鶴子だけではない。私も恥ずかしいよ。

《今度の選挙にあたって複数の女性団体と個人(12月10日現在で賛同人24団体280人)が連携して、「ジェンダー平等政策」全政党アンケートを実施した。12政党注10政党から回答を得た結果は「市民と政治をつなぐ」P-WANサイト上にアップしてある(http://p-wan.jp/site/)。》
《各政党の回答を分析してみると脱原発を支持する政党ほど男女平等にも積極的であり、また「9条」を守る政党ほど男女平等度が高かった。おもしろいのは規制緩和と自由競争を支持する政党は、「女性の活用」には積極的なのに、「女性の権利」を守ることには積極的でない、という共通点が見られたことだ。》

「女性の活用」はしても「女性の権利」は尊重しない、それはまさに今の日本社会そのものであり、参戦と核開発にまっしぐらの新政権が是とするところに違いない。
上野が言うように、不戦と非核は男女平等の大前提だ。貧富格差のない公平な社会実現の大前提でもあるだろう。しかし、極右ジミントーは不戦や非核など「それ何ですか」とすっとぼけてうやむやにし曖昧にしたまま闇に葬り去るであろう。平等とか公平とか奴らにはどうでもよいのである。
というか、階級社会を再構築しようとしているのかもしれないわっ。くわばらくわばらっ

《「自助」の重視という名目で社会保障を抑制し、弱者切り捨て路線を採用する新政権に、女性や若者、高齢者らの社会的弱者は、自ら合意を与えたのだろうか?》

すでに論じられているように、今回の、大差のついた選挙結果は、小選挙区制という選挙制度のなせる業であって、国民の意思を正確に反映したものではない。数えれば、極右ジミントーに投じられた票数を、それ以外への投票数が上回るのであるから。しかし、いずれにせよ、そうした小選挙区制の怖さを知ることなく、投票所に足を運ばなかった人々が結果的には極右ジミントー支持に回ったのと同じことであるからして、「日本国民は、軍隊をもち積極的に戦争に加わり原子力を推進し核兵器開発に突き進むことを党是とする政党を政権に選んだ」と世界に見られても仕方ないのだ。

上野はいつも正しい。その正しさの完璧さに辟易する。正しさというのは主観が左右するから、どんな時もどこかで中庸をとり、妥協点を見出さなければ、いくら潔癖な正しさであろうと裏づけのない脆いガラスに終わってしまう。だが上野の議論はいつだって脆く砕けようとも雪の女王がカイの瞳に投げ入れた悪魔の鏡の破片のように、ともすれば人心を虜にするほどの力をもつ。正しさゆえである。その正しさゆえに、彼女の書くものを読むたび「とてもついていけんわ」感を覚えてきた。
けれども、この私が、だんだん彼女の論にそうした居心地の悪さや違和感を覚えなくなってきたのは、上野が丸くなったのか、私が上野のように尖りつつあるからなのか。後者のような気もする、だって前者はちょっと考えられないでしょ。あら、でもあたし、殿方みなさんと仲良くしたくってよ、怖がらないでこっちへいらして、ムッシュ。

《 》内は、京都新聞2012年(平成24年)12月27日木曜日付夕刊「現代のことば」上野千鶴子「女性にきびしい政権の誕生?」から部分引用。