C'est l'âge de plaisir, soixante-dix-sept ans!2013/11/14 22:06:00

色づく室町御池。


色づくミュンヘン。


母の誕生日。


今年の誕生日で満77歳になった私の母である。
喜寿の祝いは数えでするべきだったけれど(喜寿に限らずこういうのはなんでも数えで祝うのが日本の慣わしだが、十三詣りくらいまでは数え年で祝うのよということを覚えていても、成人式あたりから数えだろうが満だろうがどうでもよくなり、人生が下り坂になると歳をとることにそんな先取りをするのを嫌うもんであるから)、去年はそんなこと露にも思わなかった。去年の秋、母は白内障の手術を受けた。さらに、だんだん足の具合がよろしくなくなってきて介護サービスを受けるための手続きに、私たちは追われていたところだった。正確に述べると私が追われていたのは仕事に、であって、手続きに追われていたのは弟嫁である。一緒に暮らしていながら、ほんとうに私ときたら毎日のルーティンホームワークが精一杯で、プラスαには何もできなかったのであった。私はこう言ってはなんだがそのへんの中途半端なサラリーマンの半分くらいしか給料はもらっていないけれど、彼らの100倍くらい忙しいのである。ひとり娘はバレエで生きていくことをおっかなびっくりながら決意した頃で、発表会やコンクールや、毎日のひとつひとつのレッスンの準備を、私におんぶにだっこ状態からなんとかひとりでこなさなくてはと試行錯誤していた。はっきり言って、足元の覚束ない母がよく転倒していたとはいえ、生来頑健にできているのでそれまで怪我に及んだことは一度もなかったし、怪我といえばよほど娘のほうが怖いのであった。一日も休めない状況の中ではささいな負傷が致命傷にもなる。毎日、娘の食事と体調管理と、疲労回復の手助けに私の時間と精神は費やされていて、その空き時間全部会社の仕事につぎ込んで、ごく稀に空く隙間風のような数分間を、母の様子を見るのに使ったくらいであった。弟夫婦とて笛吹けどちっとも勉強しない(笑)ひとり息子に手を焼いていたし気がかりでもあったに違いないけど、それを放置して、母の健康と身の回りのもろもろをよく見てくれていた。母がひとりでいる平日の日中はどちらかが来て、母に顔を見せてくれていた。そんななかで通過儀礼のように母の76歳の誕生日があり、75歳の時には後期高齢者になっちゃったねなんて笑っていたが、76歳というのはそれに1足したくらいの感慨しかなく、たぶん本人も、喜寿の祝いはまったくと言っていいほど思いつかなかったのである。

喜寿というのは、「喜び」という字の旧字が七十七と見えることに依るのだが、「77」とアラビア数字で並べても、たいへん喜ばしいものに見えるではないか。二つ同じ数字が並ぶのは、どの数字でもぞろ目といって縁起がいいけれど、「7」だとなおさらである。これでもうひとつ7がくっついて「777」になると誇り高いパチンコ文化の国の住民としては大勝利を想像せずにはいられない。野球では7回になると表でも裏でも風船が飛ぶし、サイコロの目は表と裏を足せばどれも答えは7だし、カラスは七つの子があるから啼くのである。
関係ないが、70年代後半をティーンエイジャーとして青春を謳歌した私は、77年というとピンクレディーの曲の中でも一等好きだったカルメン77とか、ジュリーの憎みきれないろくでなしとかが口をついて出てくる。くそ読売の中でたった二人例外的に好きだった王選手(もうひとり好きだったのは高田選手)のホームラン世界記録もこの年だったはず。
でも私は、数字は7より8のほうが好きで、いちばん好きな数字はなぜか5である。さてなぜでしょうか(笑)。当てたらエラい〜


母は27歳で結婚した。父が生きていれば金婚式を祝えたのになあ(親が金婚式だあ、なんて歳月を重ねたということは、私もそういう年齢になるのである)。しかし、今となってはたぶん母ももうどうでもいいと思っているだろうが、母は父との人生、幸せに満ち満ちていたとは言い難い。そんなもん50年もべったり一緒にいたとして何の嬉しいことがあろうか。娘を助けて世話をした孫も外国に行ってしまったことだし、母は今、それなりに身軽になった日々をスルメを噛むように楽しみたいと思っているはずだ。大事にしている植木と猫の世話を以前のようにできるようになりたいし、できればもう少しひとりであちこち出歩けるようになりたいであろう。母に母らしい日常をプレゼントし、「ああいっときより少し若返ったやろか私」みたいな喜びをたとえわずかな時間であっても感じさせるために、共生する私自身も、生きかたを少し修正する時がきたと思っている。