"La vie est ailleurs."2013/11/21 17:10:35

10月28日に、西川先生は亡くなった。
それを知ったのは3、4日後の、地元紙の小さな訃報記事だった。
二年ほど前だったか、大空先生にお目にかかった時、西川先生のご体調はあまり思わしくないようなことをうかがっていたが、その数年前には目を手術されたという噂も耳にしていたし、お歳もお歳であるからしかたのないことだろうと思っていた。
しかし、西川先生は昨年の11月、だからほぼ一年前ということになるんだけれども、胆管がんが見つかり、緊急入院され闘病生活を送られていたのだった。
それ以前は、寄る年波ということ以外に大きな不調はなく、奥様と二人で被災地を訪ねて歩かれるなど、変わらず思索と執筆に取り組んでおられたという。
西川先生は、フランス留学中にMai 68を体験され、それが以降の生きかたや研究生活に大きな影響を与えたことをずっと書き続けてこられた。
私は西川先生のゼミ生ではなかったし、入学前はお名前も存じ上げなかったが、大学院の同期生の中には、西川先生の講義を聴きたいがために遠方から通学しているという子がたくさんいた。
私の師である大空先生も、ゼミの初日、「西川先生に引っ張られてさ」、大学院の教職に就いたということをおっしゃって、ならば心して西川先生の講義は受けなくちゃと力が入ったものだ。
何度か接するうち、私はすっかり西川先生の虜になっていた。講義は難解であった。著作も難解であった。でも、発せられる言葉をじかに聞くときも、著作を読み進むときも、いずれにも共通するその物静かな語り口とは裏腹な、月並みだが「ほとばしる情熱」といったものを感じないではいられなかった。柔和な表情の向こう側で、その思索の無限に熱いさまが絵にならない絵となって仁王立ちし、迫ってくるようだった。
中途半端な社会人学生だった私は、大空先生ゼミでなければついていけなかったし、論文の落としどころもつかめなかったに違いないが、もし西川先生についていたら、研究生活をもっと続ける気になっていたかもしれない。西川先生には「終わり」や「線引き」はなかった。先生のテーマは文字どおり死ぬ瞬間まで考え続けなければならないものだった。結論など出せないのだった。思索の深淵の奥深くまで、一緒に潜ってみたい衝動に駆られたけれど、保育園児の子育て真っ最中だった私にはそれ以上学費も時間も用意できなかった。いまは無理だけれど、いつかまた教えを乞う日が来る。そう信じていたし、二年前に大空先生に会って、会おう会おうそうしようという話がまとまりそうだったのに、私はやくざな広告稼業に心身と時間をすり減らすばかりだった。悔いても悔いても、もう西川先生は天に召されてしまった。もう西川先生には会えないのだ。

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(略)
「現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」
『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より
(略)
父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆくような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれません。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考え、生き方も確認してゆきたいと思います。
(略)
Pianoman Rikuo [KIMAGURE DIARY]「父西川長夫の死に寄せて」より
2013/11/02(土) 19:05

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西川先生のことを書かなくちゃ、と思いながら、喪失の大きさに呆然として何も手につかなかった。先生がくださった著書『フランスの解体?』には、Mai 68のさなかに学生たちがパリ中の壁に書いたメッセージが記録されている。本エントリのタイトルはその中のひとつである。「生は彼方に。」