Un jour, c'etaient les lunettes...2014/01/06 18:35:01

あいたっ、と思ったら眼鏡だった。
眼鏡はまっぷたつに割れて、一方はぱあんと飛ばされて落ち、歩道わきの溝のきわに転がった。
曲がりしなに後ろを振り返り、いま走ってきた路面を見ると、もう一方は一部がぐしゃっとつぶれて粉々になっていた。
わたしは、自転車で眼鏡を轢いたのだった。

安物のサングラスが、いつか自分の鞄の中でまっぷたつに割れていたことを、思い出した。安物でもわたしにはお気に入りの眼鏡だった。朝夕と真夏、太陽がいささかきつく感じられるときには必ず日除けのために眼鏡をかけた。日除け用の安グラサンはいくつも持っていたが、弦が外れたり、みすぼらしくなったりしていくと使わなくなる。鞄の中で割れた眼鏡は最も長期間愛用していたものだった。割れた姿を見たときは、愛犬を亡くした飼い主ってこんな気持ちだろうかと、とても悲しく大きな喪失感を覚えた。

わたしが轢いた眼鏡は、見誤っていなければ黒めのサングラスで、おそらくスポーツタイプの大ぶりなものだった。わたしの通勤路はジョギングコースでもあり、自転車、歩行者、ランナーが行き交う。そこそこ本格的な装備で走っている市民ランナーがつけていそうな、そんなサングラスだったように思う。走っていて、ふとしたことから外して、からだのどこかにつけていたのが、落ちたのだろう。

わたしは、自転車乗りは器用なほうだ。つまり、乗っているのはママチャリだが、そんな自転車の割に、スピードは出せる。もちろん、緩急をつけたり歩行者の間をすり抜けたり障害物をくいくいっとよけたり、はお手のものなのである。道に落ちているジュースの紙パックなんかはわざと轢いてつぶれる感触を楽しむ。缶の類はタイヤへのダメージが気になるので転がってきてもすんでのところでよけられる。
だから、舗道の上の眼鏡を遠目にでも確認していれば轢くことはなかったのだが、迂闊にもわたしはそのとき何も、いっさい、目に入らなかった。路上など、見ていなかった。いつものわたしなら、目ざとく眼鏡を見つけ、自転車を停めて降り、眼鏡を拾い、誰かに蹴られたり踏まれたりしないように柵の上に置くとか石塀のでっぱりに引っ掛けるとかする。必ず、そうする。
そのときのわたしの頭の中は何かに占有されていた。いや、ただ、ぼーっとしていたのである。一市民ランナーの紫外線防御サングラスはわたしの一瞬の夢想の、無残な犠牲になった。わたしには、この眼鏡が哀れでならない。原形をとどめないガラクタと成り果てたからには、もはやそれを眼鏡と認識する歩行者も自転車もない。ただ、踏まれ続けるだけだ。

翌朝には清掃人がきれいに始末をするだろうか。ああそうだ、そうしてくれれば、もしかしたら持ち主は愛用品の無残な姿を見ずに済むかもしれない。



書き始めたものの落としどころを見失ったり、意気込んで書いたけど急速に色褪せて見えてボツにしたり、といった文章を、ときたま、こんなふうにアップしようかなと思います。つまんないけどおつきあいくださいね。