Il neige...2014/04/07 22:27:29

筆記用具、持ってる?
『書く力をつけよう 手紙・作文・小論文』
工藤信彦著
岩波ジュニア新書(1983年)


娘からぽつりぽつりと来るメールを読むたびに、ああほんまにお前は作文コンクールなるもので三度も賞を獲ったのか、ほんまにお前は出願時の自己PR書提出と試験日の小論文とで高校入試を突破できたのか、それって全部何かの間違いだったんじゃないのか、といちいち思う。それほどまでにヤツの文章には誤字誤変換が多く、口語と文語の区別ができてなくて、主従がねじれて、文章の主体が不明で、議論は支離滅裂である。今始まったことではないし、我が娘に限った話ではない。そんなことから、2、3年前だが、ここはひとつ青少年の未来のために小論文塾をやるぞという話が私の周囲で一度盛り上がったのだが、塾用のサイトをつくるぞ!と言っていた人の体調がすぐれず立ち消えになった。だがもし始めていたらどうだったか。どんな形で始めたにせよ、今の子どもたちの手の施しようのないほどの「書けなさ」に愕然とするばかりだったんじゃなかろうか。書けないだけではない。きちんと話せない。ひと昔前の日本人と違って今の子どもたちは人前で話すことを怖がらないが、それときれいに話せるということとは別問題である。ふだんラジオを聴いているのでよくわかる。若いアナウンサーたちは、アナウンサーを名乗るための訓練を受けている人たちである。美しい声の持ち主たちである。発音もよい。明朗である。しかし、話しかたは美しくない。ニュースを読んでいる時を除いて。はっきりと言葉を発音するが、例外なく「ら抜き」であり、必要以上に語尾が伸びる。とにかくなんでもどんな時でも最後に「で」をくっつけて、「それでぇ〜」「○○でぇ〜」「△△になったんでぇ〜」「なのでえー、それは違うということでぇー」……。
破綻しているのは娘の文章だけではない。日本全体の話し言葉と書き言葉だ。つまり日本語の遣われかたそのものが破綻している。
私たちの先行世代が育てて世に出した駆け出し社会人たちがこのていたらくであるということは、先行世代の日本語もアヤシイものであり、こうなると、私たちが育てて世に出さんとしている青少年たちはもっとアヤシく、私たち=青少年の親たちの日本語もアヤシイ。アヤシイもんたちがアヤシイもんたちを育ててアヤシさの二乗三乗にしたらアヤシイがふつうになりアヤシイのスペリオールが出現しさらにアヤシイものを求める世となってしまうだろう。アヤシイ日本語に歯止めが効かなくなる。

そんなところで、こそこそと小論文塾サイトを開いても、焼け石に水。

そうした絶望感に苛まれていたある日、仕事帰りに立ち寄った本屋で目に留まったのが本書である。

表紙がいい。
HBの鉛筆がある。万年筆もある。

著者の工藤先生は1930年生まれの国語の先生だ。
本書はとても真面目で地に足着いた、綴り方の学習書である。
日記を書くことの楽しさと、思わぬ効用を語る。
手紙を書く時の礼儀作法を説く。
感想文を書く時の、対象作品に対する心得を、丁寧に述べる。
奇をてらったテクニックや、必ず試験に出るテーマだとか、これを知っておけば試験はクリアできるとか、そんなことは1行も書いてなくて、文章を書くという行為のシンプルなよさ、楽しさを知らせたいという情熱にあふれている。

《みなさんは、文章を書くということを、どのように考えていますか。心のなかにもやもやと存在しているものを、ことばで書き表わしてみると、自分の感じたり考えたりしていることが、はっきりと見えてきて、それによって自分をあらためて見直すということがあるでしょう。文章には、心で感じたり考えたりしていることを、整理する働きがあります。
 また、文章を通して自分が考えたことを相手に伝え、相手からもまた考えを示されて、お互いに心を通じあって生きてゆくことができます。これは、人生において文章のもつ重要な役割です。》(2ページ)

冒頭のこの数行で、この先生がどれほど日本語と日本語で書くことを愛しているかがわかるというものである。なんと、文章を書くということは単純で素直な営みなのであろうか。こんなに単純で素直なことならなぜに私たちは文章を書くことにこれほど四苦八苦するのか。

《ことばは心を裏切ると、よく言います。感じたことや考えたことをことばで表現してみると、どこか気持ちとくいちがってくるのです。ことばはなかなか心を正直に伝えてくれません。ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしまいます。》(3ページ)

「ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしま」うだなんて、ああ、工藤先生、あなたは詩人ね。書けずに苦しみ、んんががががコンチクショウ、と叫ぶさまを、「ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしま」う、とこれほどまでに美しい表現で言い放った人がいたか? しかも、べつに美辞麗句を連ねているわけではない。
しかし私たちが日常ぶち当たっているのはまさしく「ことばを見出せないもどかしさ」なのである。

感想文の章で工藤先生は三好達治の詩を引いて、こう述べる。

《詩の読み方には、その作品を読む人のさまざまな読み方があっていいでしょう。この詩で注目したいところは、〈雪ふりつむ〉という表現です。
 みなさんの知っている雪はどのように降りますか。遠い異国となってしまったサハリン(旧南樺太)生まれの私の記憶の中には、雪は降らせるものではなく、降りゆくものでしかありません。(中略)雪の降り方が一様でないように、人びとの雪の感覚もまた、多彩なのです。したがって、いくつかの感じ方があるのではなく、一人の人間には一つの感じ方しかできないことを知ることが、大切なのです。》(113〜114ページ)

日本語は、雨や雪、風や陽射しなど天候や自然現象の表現に富むとはよくいわれるところだ。とはいえ、数多の表現のあることと、ある人間の感じかたのありようとはかかわりがない。降る雪をみてどう感じるかは雪を見る本人固有のものだ。
三好達治が「ふりつむ」と表現した雪は、三好が見た雪だ。三好の見た雪を想像する。もはや降る雪を三好と同じ時間空間では見られない以上、想像するしかない。ここで想像力が問われるが、「一人の人間には一つの感じ方しかできない」。とすれば、「ふりつむ」ってあんなんかな、こんなんかなと思い描くのではなくて、ただ三好が見た雪を三好になって心眼で見る。
そうすると、この詩を対象にした感想文なんぞ、シンプルにシャッと書き上がるであろう。
だが、けっして、近道をガイドする学習書ではない。そうではなくて、きちんと射るべき的を射ること、「コア」を見誤らないこと、回り道になってもたどるべき場所をたどること。それらのことは工藤先生も力説しておられる。

それにしても、工藤先生の文章は「の」がきれいだ。「の」を美しく使うこと。現在失われている用法のうち、いちばん忘れて欲しくないのが「の」である。どの「の」のことか、わかる?