NO NUKE!2014/05/15 19:53:48

グリーンピースからのメールマガジンを転載する。

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差出人:  国際環境NGOグリーンピース
件名: 川内原発再稼働に関して緊急のお願い
日時: 2014年5月15日 19:30:03JST


いつもグリーンピースの活動を応援してくださり、ありがとうございます。
核/エネルギー担当の鈴木かずえです。

鹿児島県にある川内原発について、緊急にお願いしたいことがあります。

現在、鹿児島県の薩摩川内市にある、九州電力川内原発の再稼働審査が原子力規制委員会によって優先的に行われています。
昨年9月以来全国すべての原発は停止中ですが、この審査に合格すると、川内原発が全国初の再稼働に大きく近づいてしまいます。

審査合格に加えて再稼働に必要なのが「地元同意」。
「地元」とは、川内原発の場合、鹿児島県知事と薩摩川内市長。
残念ながら、お二人とも再稼働に前向きな姿勢が報道されています。


そこで、鹿児島で長年川内原発に反対されてきた地元のみなさんを中心に「避難計画を考える緊急署名の会」が立ち上がり、6月議会に向けて、隣接市町村であるいちき串木野市の全世帯13000戸を訪問して署名を集めています。
いちき串木野市長と市議会議長に対して、「九州電力と鹿児島県に再稼働しないよう申し入れること」を求める署名です。
とにかく人手が必要です。
ぜひご参加・ご協力をお願いできないでしょうか。

集合日時: 2014年5月10日(土)9:00~毎週土日(6月8日まで)
(平日可能な方は、現地事務所にお申し出ください)
集合場所: いちき串木野市署名の会 現地事務所
いちき串木野市住吉町134番地(市役所東隣/山側)

TEL:0996-32-9726

ご参加される場合は、現地事務所にお電話か反原発かごしまネットへメールinfo@nanpou.comでご連絡いただければありがたい、とのことです。

もちろん、鹿児島に行かなくてもできることもたくさんあります。

 ・再稼働審査をしている原子力規制委員会にはたらきかける
 ・地元グループを支援・拡散する
 ・メディアに「川内原発再稼働の問題点を報道して」とお願いや投書をする

具体的な連絡先などをブログで紹介しています。
http://www.greenpeace.org/japan/news/blog/staff/blog/49213/

7月にも再稼働か、と言われた川内原発が、市民の声で、今は9月頃か、と報道されています。
このまま止め続けることも不可能ではありません。

是非ご協力をお願いいたします。

鈴木かずえ
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というわけなので、6/8までの署名活動に参加・協力可能な方は
いちき串木野市署名の会 現地事務所へ連絡を!
電話:0996-32-9726
メール:info@nanpou.com

Bravo! No Nuke!2014/05/21 15:28:24

大飯原発の再稼働差し止め判決が出たって!
なんて喜ばしい!
いやっほー!!!

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大飯原発、再稼働差し止め=福島事故後初、住民側訴え認める―福井地裁
時事通信 5月21日(水)15時11分配信
 関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の安全性が確保されていないとして、住民ら189人が関電を相手に再稼働の差し止めを求めた訴訟の判決が21日、福井地裁であった。樋口英明裁判長は住民側の訴えを認め、関電に差し止めを命じた。
 原告弁護団によると、2011年の東京電力福島第1原発事故後、各地の住民が集団で提訴した原発運転差し止め訴訟で初の判決。原発の運転差し止め訴訟で住民側が勝訴したのは、金沢地裁が2006年、運転中だった北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の差し止めを命じて以来。 
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活断層の有る無しが問題じゃないのよ。
原発の存在自体が非人道的なの。
目指せ全原発廃炉!

★追記★2014.5.22
http://www.news-pj.net/diary/1001
(判決文掲載ページへのリンク)

Ecrire2014/05/31 21:14:50



『エクリール 書くことの彼方へ』
マルグリット・デュラス著 田中倫郎訳
河出書房新社(1994年)


実をいうと、デュラスをほとんど読んだことがなかった。
あまりに大家すぎて、私のようにそもそも小説に興味のない人間が、ちょっとばかしフランスをかじったからといって読むのは恐れ多かった。私の持っていた印象では、フランソワーズ・サガンよりも「情念」の濃い人が、デュラスだった。フランソワーズという名前はなんとなく(全世界のフランソワーズさんごめんなさい)軽薄な感じがし、マルグリットという名は情熱的な感じがするのだった。
でも、私はそんなにフランソワーズさんもマルグリットさんもたくさんは知らないから、この「感じ」は、それぞれの作風に拠るものだ。作風といったって、サガンは短編集だけ、デュラスは『インディア・ソング』しか読んでない(しかも当時はじぇんじぇんわかりませんでした。笑)のだから作風を云々する資格なんかないのだが、サガンは都会の曇り空、デュラスは田舎の灼熱の太陽、みたいな。



《私が孤独になるのは家の中にいるときよ。家の外じゃだめで、家の中に閉じこもっているときね。庭だと、鳥や猫がいるでしょ。》 (「書く」9ページ)

なんで「よ」とか「ね」を語尾につけるんだろう。「でしょ」とか、なによ(笑)。そういう情緒的な文章なのだろうか。なんだかなー。いえ、田中先生の訳にケチつけたりしませんよ、けっして。それを差し引いても、デュラスの魅力を伝えて余りあるもの。


デュラスは、書くことは孤独だという。というより、孤独でなければ書きえない、といっている。孤独であることは、書くことに必須だと。

《書くことにともなう孤独というのは、それがなかったら、書きものが生まれないか、なにを書こうかと探しあぐねて血の気を失い、こなごなになってしまうようなものよ。》(「書く」11ページ)


《本を書く人間のまわりにいる人たちと離れていることが常に必要なの。それが孤独。作家の孤独、書きものの孤独よ。(中略)肉体のこの現実の孤独が、侵すことのできない、書きものの孤独になっていくのよ。(中略)レイモン・クノーが下した唯一の判断はこの言葉よ、「書きなさい、それ以外のことはなにもしなさんな」。》(「書く」12ページ)


《穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと。本の主題なんかなにもなく、本にするという考えもまったくもたないこと、それが一冊の本にとりかかる前の、自己発見、自己再発見なのよ。広大ながらんどうの広がり。できあがるとは限らない本。無を目前にしているのよ。》(「書く」21ページ)


とりとめない文章のようだが、ひと言ひと言が、じつに深みを感じさせる。やっぱ情念の人。濃い気持ちがこもっている。短いセンテンスに、毅然とした意志が見える。
《書くことが私から離れたことは一度もない。》(「書く」13ページ)
《書くというのは語らないことよ。黙ること。》(「書く」33ページ)
《絶望しているにもかかわらず、それでも書く。違う——絶望とともに書く。どんな絶望かといわれれば、今感じているものは名づけられない。》(「書く」35ページ)


書くことは、原始的なことだという。
生命以前の原始性に立ち戻ってしまうことだという。肉体の力がなければものは書けない、ともいう。
《書くことに近づくためには、自分より強い力が必要で、書かれること以上に強くなければならない。たしかに奇妙なことね。》(「書く」27ページ)
《原始的な自然で起こる出来事のあいだには脈絡がなかったでしょう。だからプログラミングなんかありえなかったのよ。そんなものは私の生活で一度も存在しなかった。ただの一度も。(中略)私は毎朝書いていたわ。でも、時間割りなんかなにもなかった。》(「書く」41ページ)


本書は、書くという動詞が書名になっているが、書くということだけがえんえんと語られているわけではない。 デュラスは「書く」のなかに、かつての愛人への思いを書き、息子への愛を書き、映画への情熱を書き、ナチスドイツへの憎しみを書き、蠅の死を書く。彼女は多くの作品を映像化したので、というより、映像化するために書かれた作品が多かったといったほうがいいだろうか、だから文章が色濃く映像的なのだろう。本書には「書く」のほかに「若きイギリス人パイロットの死」など数編の短編が収められているが、どれも、ページを繰るたび、一枚ずつ、絵画が提示されるような、明快な風景が瞼に浮かぶ。寺山修司の映画を見る感覚に似ている。
いわゆるライトノベルというジャンルを、私はあえて読まないが、ライトノベルには、センテンスごとに絵画が立ち上がってくるかのような力はないのではないか。映像が浮かぶというのは説明的であるということでは、けっしてない。横道にそれるが、やたら説明的に感じるという理由で、村上春樹などは、力強さといった意味で私にはもの足りないのである。


だからデュラスのほうがいいとか好きとか、比較できるほど読んではいないし、この本で感銘を受けたのはそういうことではない。映像的だとか絵を見るようだとかそういった印象とは関係なく、激しく同意するのは次に引用したような箇所だ。書く人間は、書き始めるときにはなにももっていないのだ、これから書こうとすることについて。書き始めて、やっと、なぜ書こうとしていたのかがわかり、書き終えて初めて書きたかったことがわかる。

「よ」とか「ね」は要らないんだけど、引用するわね(笑)。

《書くという行為は未知なるものよ。書く前は、自分が書こうとしていることについてなにも知らない。しかも、まったく明晰な状態においてね。》(「書く」73ページ)
《これから書くものが何かがわかっていたとしたら、人は絶対に書かないでしょうよ。》(「書く」74ページ)
《書かれるものの到来の仕方は風に似ていて、むき出しで、それはインクであり、書きものである。その移行の仕方は、この世のほかのどんなものとも違う特異性をもっているだけだけど、ただひとつ似ているのは命そのものよ。》(「書く」74ページ)


※出演:我が家の時計草 たち。今年もよく咲いてます〜♪