Mon amour qui s'installe sur mes genoux.(2)2014/08/15 00:17:35

毎日とても暑いけれど、それでも私の膝に来る猫。

娘が幼い頃、いつも私の膝の上にいた。そこにいるのが当たり前、そここそが自分の場所とでもいうように。猫が膝に来るとそんなことを思い出すけれども。

決定的に違うのは、猫はモノを言わないということだ。

私の膝に来るときは、たいていそこでしばらくくつろぎたいときなので、ただ黙ってしっかり踏ん張って座るのである。

こんなふうに、しっか!と踏ん張って。

それにしても貫禄のある前足だ(笑)。誰に似たのか(笑)。

いっぽう、しっぽで優しく飼い主の太腿を撫でることも忘れない。

そして、私の膝に居座るにはもっと必要なものがある。けっしてどかないわよ、という強い意志である。

どかへんで、という意志の表明。

動くもんですかっ。

ここにいたいのよあたいは!

あたいに構わないでよねっ ……と主張する両の耳(可愛い〜。笑)。

娘は私の膝に来る時には、よく絵本を一つ二つ携えて「読んで」とせがんだ。何も持たずにただ自分の椅子に座るようにして私の膝に座る時には、「ひとりお話ごっこ」をえんえんと続けたり、保育園で習ってきたばかりの歌を壊れた蓄音機のように歌い続けた。壊れた蓄音機だなんてひどい言いかたかもしれないけど、だって、音程も変だしエンドレスに同じフレーズが鳴り続けるんだもんさ(笑)。
ともかくそんなふうに、私の膝の上で娘はひたすら賑やかだった。
「ここからけっしてどかないよ」という強い意志があったのはいうまでもない。

いったいいつから娘は私の膝に座らなくなっただろうか。
いつから娘と手をつないで歩くことをやめただろうか。
私たちはいまでもよく二人で出かけ、並んで座っては写真を撮り、周囲から仲良しだねと羨ましがられるけれども。
娘が膝に来なくなった日。
娘と手をつながずに歩いた日。
それが、思い出せない。まるで、覚えていない。それら瞬間はごくごくしぜんに訪れて流れていった。毎朝の挨拶のように。お弁当包みを選ぶときの心境のように。脱ぎ散らかされたままの靴を揃える時の 溜め息のように。

記憶というものは曖昧で、儚いものだ。

私の膝に飽きた猫は、もの言わずすっと降りて、もっとくつろいで眠るにふさわしい場所に移る。
そうした場所を、猫はよく知っていて、一日のうちの時間帯によって眠る場所を使い分けている。夏にはいちばん涼しい場所。冬にはいちばん暖かい場所。

一日のほとんどを、寝て過ごす(笑)。

可愛い……。ちなみに、テーブルの上なんです。ひんやりして、きもちよか。

こんどはおばあちゃんのクッションの上。

こういう 、無防備な姿を見ては、肉球をぷにぷにしたり、足をすりすりして、飼い主は猫に媚びるのだが、そのたびに嫌がられて避けられる。なによ、すぐに私の膝に来るくせに。

……そんなふうに、ずっと変わりなくこの猫が我が家で暮らしているように思っているけれど、猫はいつのまにか戸棚の上には昇らなくなった。ペットクリニックで処方された薬を飲ませるための注射器にリボンをつけた飼い主お手製おもちゃが一等のお気に入りで、来る日も来る日も、それがしまってある箱の前でにゃあにゃあ啼いて遊んでとせがんだけれど、いつのまにかそんなことももうしなくなった。
いつから遊びかたが変わっただろう。
いつから遊ばなくなったのだろう。
思い出せない。

どうでもええやん、あたいは寝る。


風化するに任せていい記憶もあれば、断じて風化させてはならない記憶もある。
風化させないというのは記憶にしがみつくという意味ではない。各々が記憶を礎に思考をけっして停止しないということだ。
数字で書けば毎年同じ日付は繰り返すけれど、去年の今日と今年の今日はもちろん同じではあり得ない。一秒として「同じ」時間は存在しない。一秒一秒が各々の心の中でそのときどきなりに意味あるものでありますように。

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