L'âge de chat2014/11/07 01:53:55

出張から戻って、猫を引き取りにクリニックヘ行った。愛猫のかかりつけ医ではペットホテルを併設しており、2泊や3泊の短い不在のときはこれを利用している。1泊3800円ちょっとだが、高いのか安いのかよくわからない。このクリニックの患者でない動物の場合は、もう少し高くなる。

少し待合室で待った。クリニックのケージから出されて、預けてあるバスケットに入れられて連れてこられるだけで、べつに私めがけて飛びついてくるとか、すがりついて会いたかったとニャンニャン泣くとか全然するわけがないのだが、それでも再会が待ち遠しい。最初にどんな言葉をかけてやろうか、ただいま、お母さんよ、かしこうしてた? などと思い巡らす。

持ち帰り自由のフードサンプルの入ったかごのそばに、小さなフライヤーが置いてある。猫の飼い主に宛てたその内容は、猫も年をとるにつれ病気になる確率が高まりますよ健診を受けましょう、というありきたりなものだったが、猫と人間の年齢比較表がついていて、見ると愛猫と私は今ほとんど同い年なのだった。我が愛猫は来月またひとつ歳をとるが、すると私より四つも「お姉さん」になる。しかし、とりあえずそれまでは同い年なのだ。なんだか最近私たち仲良しだと思ったわ、ねえ、りーちゃん。娘がいなくなってから、じゃれる相手が猫だけになり、以前にもましていっそう私は猫といつもじゃれているのだが、猫のほうが私に対して寛容になったというか、包容力が増したというか。二年くらい前まではくっつきにいくと嫌がって逃げることのほうが多かったような記憶があるのだが、最近は、しょうがないわねはいはい一緒に居たげるわ、と受け容れてくれるのである。猫はしょっちゅう私の膝に来るけれども、私も、床や椅子に丸まって寝る猫のそばに頭を置いてしばし休憩することがある。猫は薄目を開けて私を一瞥し、ふんと鼻息をひとつたて、またくるると丸まり直して私の耳のそばで寝息を立てるのだ。

「お待たせしました」
獣医院に勤務する、獣医以外のスタッフをなんと呼称するのだろう。看護師さんでいいのかな。ともあれ看護師さんがバスケットを抱えて待合室に現れた。
「にゃー」
かごの中から愛猫のいつもの声がした。大きな安心感に満たされる。
「にゃー」
「帰ろうね」
「にゃー」

同世代の者どうしだけが共有するある種のシンパシー、たとえ知り合いや友達でなくても同い年だというだけでわかりあえるような錯覚を覚えるあの感じ。愛猫と自分の間にそんな呼吸を感じながら、曇った夜空のもと帰路につく。

Mon chat qui dort comme un bébé2014/11/07 21:39:38

飼い猫と同世代なう、みたいな話をしたばかりなんだけど。
でも私の猫はやはり私の娘。末娘。
いつまでたってもあかんぼのままの、ちっちゃなちっちゃな ma petite jolie fille なのだ。今日も私の膝の上で暖をとる。

幼い頃娘が(←人間のほう)愛用していた袢纏を猫の布団にしている。私の体温で温まった椅子の上に広げると、そこで丸まって眠りこける。

ペットホテルでの3泊、あまり眠れなかったのかもしれない。左のケージにぎゃんぎゃんうるさいワン公、右のケージには周囲に色気ふりまくメス猫、向かいにはブサイクで目もあてられないオス猫……たちがほんとうにいたとしても我が愛猫にはきわめてどうでもいいはずだが、我が家でのようには眠れなかっただろう。

少しの気配でもすぐに瞼を開く愛猫だが、つついても耳もとで呼んでも知らん顔で寝ること寝ること。

……可愛い。

可愛すぎる。

娘が(←人間のほう)生まれたばかりの頃、産院の個室で、そして帰宅してから寝室で、私は彼女の寝顔を撮り続けた。その頃のアルバムを見ると、ほぼ同じ写真が延々と台紙に連なっている。猿から少しばかり体毛を間引いただけのような、赤くてちっちゃい生き物。一日中ほとんど目を閉じたまま、その瞼をくっとしぼったり、ゆるめたり、口許に笑みを浮かべたり、ヘの字にしたり、すぼめたり、何かを噛むように顎を動かしたり。顔全体を延ばしたり、縮めたり、しかめたり、目尻を下げたり上げたり。私には一秒ごとにその表情が変わって見えた。そして一秒前の表情にはこの先もう二度と出会えないのだ、と追いつめられた気分になって、今しかないこの奇跡の表情を残すのだと次々とシャッターを押した。毎秒、娘は成長している。毎日体重が増え、身長が伸び、耳と鼻をはたらかせ、空気の匂いと風の音、私の匂いと声を覚えていく。私には、その成長は目を瞠る勢いに思え、一日の大半を眠って過ごす娘の寝顔にダイナミックな変化が見てとれたのであった。けれども、その頃撮ったおびただしい写真の数々は、幼い娘の安らかな寝顔のヴァリエーション、というにはあまりにも、ほとんど、同じである。題名をつけるとしたらひとつしかない。「寝る子」。

寝る子。寝子。ねこ。

私のガラケーの中には、膨大な数の、この手の愛猫の写真が納まっている。私の猫は、初めてウチにやって来た頃、私の布団の中で私の手首に小さな顎を乗せて眠った。知らない世界へ来ておびえていたが、寒さには勝てず(冬だった)温もりを求めて布団に潜り込んできた。きゅっと体を縮めて、赤ん坊のくせに、一分の隙もない様子で、しかし温もりに気をゆるして、くうくうと眠った。

あの頃に比べたら、猫は体が大きくなり、あまり遊ばなくなり、ますます寝てばかりの毎日だ。避妊手術(卵巣摘出)をしたら大人にならないから子どもっぽいままだとか聞くけれど、無邪気な赤子のような愛らしさはさすがに影を潜めた。が、寝顔は少しも変わらない。猫の寝顔を見ると、夢中で写真を撮った昔をつい思い出す。

そして今日、同じことをしている。

うるさいなあとでもいうように、前足としっぽで顔を覆う。

耳に触れると耳のてっぺんを器用に平たく倒す。
しっぽに触れるとあっち行けとでもいうように左右に振ってみせる。
額に触れるとかゆそうに手でひと掻き。手、じゃなかった、前足。
首や背中に触れても知らんぷり。あ、べつに、触っててくれていいよ、みたいな。

寝返りを打って、少しだけこっちを見たけれど

またすぐに寝た。

寝る猫とともに居るとき、おそらく私はいっさいを忘れて猫への愛に溺れている。かつて赤子の娘を見つめ続けたあの至福の瞬間の連続のように、少しの表情の変化も見逃すまいと凝視し続け、一秒ごとにその愛らしさにKOされ続け、ダウンしては起き上がり、自分の中からほとばしる愛に逆らえず、対象たるいとおしい存在をまた見つめ続ける。対象への愛に酔いしれ、この至福のときが未来永劫褪せることなく続くことをすべてに優先して願っている。この世の垢や滓、汚れた澱やはびこる愚などのいっさいを忘れて。

命が限りあるものだなんて、信じないのだ。猫はまるで生まれたばかりの赤子のように、みずみずしい生命の泉を湧き立たせ、私に幸福をくれる。ずっとずっと、永遠に、この愛に浸るのである。いつかは終わりが訪れるなんて、信じないのだ。

(BGM:「空と君のあいだに」中島みゆき)