Les espérances ont fondu comme neige au soleil.2014/12/21 21:59:47

爆弾低気圧、だなんて直接的すぎて情緒もなければ風流(ふりゅう)も感じられない退屈なネーミングだが、ともかくその爆弾のせいで大寒波に見舞われ雪が降った。まったく寒かった。我が家の乏しい暖房器具ではとうてい追いつかないほど冷え込んだ。たくさん着込んだ母は縮こまるようにして椅子に座ったきりぴくりとも動かず(気温が高くても全然動かないんだけど)、動かないわけにいかない私はがたぴし鳴る床を踏みしめ膝を振り上げ腕をぐるぐる交互に回し大声で歌いながら台所仕事にいそしんだ。点けっぱなしのラジオからアップテンポの曲が流れる。おお今こそレッツダンスよ、知らん顔してうたた寝三昧の母と猫をほったらかしてランランランイエイエイエと歌詞はごまかしながら踊ったり飛んだり跳ねたりした。そんな滑稽な時間を過ごしても、からだは温まらなかった。寒かった。どうすれば温まるのか。答えは二つ。その1、体温のあるものを抱く。体温のある抱ける動物といえば猫しかいないので猫を抱きかかえるが猫がじっと腕の中にいるのはほんの数秒である。しょっちゅう膝に寝にくるくせに、それは私の忙しい時に限っていて、私が温めてほしいときは逃げるのである。飼い主不幸モノめ。さてその2。食う。明快だ、満腹は心身を温める。あまりの寒さに外へ出るのをきっぱりと拒絶した私のアタマとカラダは、今このとき家の中にあるものでほかほかに温まる食事を用意するためにフル回転するのだった。なぜ、人間のアタマとカラダは食うためにはこのように有効な仕事をするのだろう? なぜ、より稼ぐためのアイデアや、言い得て妙のドンピシャの訳語はちっとも浮かばないのに、信じられない食材の組み合わせを思いつき世界の果てのグランシェフも敵わない一期一会の珍味をうみだすのである。美味しいなあ。温まるなあ。母、猫、私、の寂しい食卓(しかも猫は足元で丸くなってるだけだし)も至福の時に変わるなら、爆弾低気圧も大寒波到来も悪くないのだった。

物干しから眺めた東の屋根


雪を冠った時、日本の瓦屋根は格別に美しい。すっぽり覆われるのではなく、うっすらと薄化粧したくらいがいい。組んだ瓦の陰影が透けるくらいが美しい。瓦の影は幼い頃のいたずら描きの線に似て目的地のないまま延々と続く。線の描くのは波。甍の波と雲の波、の歌を歌うまでもなく、穏やかな海岸に打ち寄せる波のようでもあり、光を浴びて揺れる湖面のようでもある。線の描くのは皺。帯を解き、きものを脱いで露になる襦袢についた縦や横の皺に見えたりもする。線の描くのは虫。もちろん、長い虫だ。いもむし、あおむし、けむし。みみず、やすで、ぼうふら、むかで。行列つくって歩いていると想像すればユーモラスで気持ち悪さなど吹っ飛ぶというものだ(だからといってウエルカムな気分にはなれないが)。


西の屋根

苺の鉢

苺に寄ってみた


寒かったのは木曜日だった。寒くても寒くても、家の外では普段どおりの日常が過ぎていた。お向かいも隣も三軒向こうも営業していた。郵便も宅配便も朝刊も夕刊も変わりなく届いた。これが去年なら私も寒さを呪い冷える手をこすり合わせながら、滑る路面にチャリを転がして職場へ疾走していた、寒さのあまりかじかんで思うようにならない手足を引きずり転倒するやもしれぬ母を家に残すことに罪悪感を覚えながら。今日一日休業したって世界は変わらない誰の命も取られないとわかっていても、勤め人は会社を休むわけにいかないのだった。遅刻や欠勤が許されるのは気象庁が警報を出しそのせいで交通が麻痺したことが原因となる時だけであって「寒すぎる」のはサボる理由にはならないのだった。私の経験から、木曜日というのは暇だ、いわば中日(なかび)で月曜や金曜の急き立てられ感や追い詰められ感がない、糸の緩む貴重な日。ヴィヴァ! 木曜日! それなのに勤め人は木曜だって月曜や金曜と同じように憂鬱な顔をして出勤し、ふた言めには忙しいと口にして、そのいっぽう、ほんらいどうでもいいはずの他人の愚痴を親身になって聞くふりをしたりして時間を潰すのである。そのような澱のごとき時間を消化する必要がなくなっただけでも、勤めを辞めた意義は有る。私は、今は、私が休むと決めた日に休み、働くと決めた時だけ働く。ご想像いただけるだろうけれども、働くと決めた時の、少なさといったら。怠惰だ。そこヘいくと植物の几帳面で勤勉で生きることに対し真摯なことよ。感服。


ローズマリー


ローズマリーは西洋の植物だと思うが、その花の清楚なことといったら。でぷっと厚い脂肪のついた、角質も厚そうな肌の西洋女とはかけ離れた、湯上がりの若い女のような、すっぴんチックな美しさ。ローズマリーは花をつけたらさっさと摘んだほうが若葉がよく伸びると昔聞いたけれど、花が美しすぎて摘む気になれない。なにがしかの変化が見えると必ず写真を撮る親バカ精神は音を立てることなく清々しく咲くローズマリーにもいかんなく発揮されるのであった。


バラン


椿




幸いにも私に踏まれず葉の上で少しだけ永い命を得た雪たち。雪は、解けてなくなるまでのあいだ、この下界の何を見て何を思うのだろう? 降り立つ世界の、変わり果てように呆れているのか、あるいはあまりの代わり映えのなさを鼻で笑っているのか。どこへ落ちてもそれが運命と納得ずくで解けていくのだろうか。こんなはずじゃなかったと、落ちた場所によっては空や風を呪うかもしれない。何もしてやれやしないじゃないかと、屍の上で泣くかもしれない。雪には雪の数だけ運命と経験があり、見た風景の数がある。汚いものをひととき覆い隠し、人びとの目を汚れから逸らし、よからぬ企みを潜行させる輩の助太刀を、望むと望まざるとにかかわらず、雪はしている。雪はあまりに美しくて、人を魅了するにあまりある。ぼーっと見とれているあいだに、雪に隠れた地下で悪事を働く者たちのあることを、私たちは必ず知ることになるだろう。私たちは雪の結晶のひとかけらほどの奇跡にすがったが、わずかな希望すら陽光を浴びた雪のようにとっとと解け去った。雪たちは、私たちを嗤うだろうか。それとも憐れむだろうか。