手を打たなければ、いつか誰もいなくなる2018/05/16 22:00:28

『パパにつける薬』
アクセル・ハッケ 作
ミヒャエル・ソーヴァ 絵
那須田淳、木本栄 共訳
講談社(2007年)


ドイツに長く暮らす友人(日本人女性)から聞いたことがある。「私も彼女も子どもをもつなら働かない、働くなら子どもはもたないという考えかたなの」

友人が「彼女」と呼んでいるのはその近隣に住む既婚女性で、4人の子どもを育てていた人のことだ。友人自身にも一女がいた。この話をした当時のわたしがまだ20代だったか、それとも娘を産んだあとだったか、もう憶えていない。わたしはわりと頻繁にヨーロッパを旅し、この友人宅にたびたび世話になっている。友人一家が住んでいたのはけっこうな田舎で、けっして便利とはいえないのだが、この友人は、不便な道のりを経てでも会いたい人だった。相談にのってもらいたいことがあるとかいうことはなかったが、会えば必ずなにかしら「またひとつ学んだぞ」という収穫があるのだった。つまりは、彼女の人生観に、わたしは大きく影響を受けていたのだ。本人にはそんな気はなかったと思うけれども、わたしは彼女のことを水先案内人のようにとらえていた。日本で生活した年月よりも長く濃い時間をすでにドイツで生きていた彼女は、異国での立居振舞にしろ、祖国への思いの抱きかたも、わたしにとってロールモデル以上の存在であった。

だから、冒頭に掲げたセリフを聞いたときには、いささか面食らった。
いっぱんにヨーロッパでは日本に比べて段違いに男女平等が進み、労働条件にしろ、人々の意識にしろ、職種を問わず機会均等であるというふうに思いがちだが、意外とそうではない人もいるし地域もあるということを、のちのちわたしも知ることになる。だが、このセリフは、わたしにとっては「女は家で子育て」という「旧弊」を積極的に支持する宣言にも思えたのだった。もちろん、じゅうぶんに稼ぐ夫がいるなら、という注釈がつく(友人も、近隣の女性もその夫はじゅうぶんに稼ぐ人だった)。しかし、だからといって、注釈つきにしても、それが前提となってしまうと夫が子育てを「手伝う」ことそのものが賛否の対象となる。
それじゃ、ダメじゃん。
いうまでもないが、「手伝う」のではなく、父親も子どもを「育てる」行為の主体でなければならない。

『パパにつける薬』はゾーヴァの挿絵も楽しい、パパの子育てエッセイである。
パパはフルタイムで仕事をこなしながら、休日を全面的に子育てに費やしている。喜びはもちろん大きいが、なかなかへとへとになっている様子がユーモアを交えて語られる。刊行当時は世の多くの男性の同意を得たことだろうと思われる。
ただし、いま内容を読むと、やはりそれは「手伝う」というスタンスに終始している点が「古さ」を否めなく、牧歌的である。この内容に感心したり驚いたりした時代もあったのね。

しかし、それにしても、この日本語版は2007年刊行である。
原書はまず1992年に出版されていて、2006年に更新されているらしいが、いずれにしても著者のハッケは、90年初頭に3人の子育てに奮闘していたのである。
このあと、ドイツ男性の子育て観はどのように変化していったのだろうか。
わたしの友人、そしてあの田舎町の女性たちは、いまも同じ考えでいるのだろうか。

約10年前に世に出たこの本の訳者あとがきにはこうある。
《大半のパパって、たまの休みに子どもと格闘し、へとへとになりながら、来週はなんとか逃げ出してゴルフにいくぞとひそかに画策したりしているのではないだろうか。もちろんママの疲労もわかっちゃいるのだけど……。》
10年経って、このような「大半のパパ」はせめて「一部のパパ」になっているだろうか。妻とともに日常的に家事も育児も頑張るパパが目に見えて増えてきたのは認めるが、それでもまだまだ少数派だ。相変わらず、「大半のパパ」が休日のみ手伝う、という状態のままではないだろうか?
パパの意識改革の道のりがまだまだ長いとしたら、パパをアテにはできない。働く女性が圧倒的に増えてきた昨今、社会の仕組みを多方面から根底から変えていかないと、母親はみな精根尽き果て、恐れを抱いた次世代は子をもたなくなる。いや、この状況はもうとっくに始まっている。手を打たなければ、いつか誰もいなくなる。

ま、そうなればなったでそのときにはそのときなりの、危機の乗り越えかたを全員で実行していることであろう。
でも、でも、だからといって、ぎゃんぎゃん言うのを止めてはイカンと、やっぱし思うのであった。