「ゆ」音のここちよさ2008/02/27 18:55:18

『中原中也詩集』
河上徹太郎 編
角川書店 角川文庫(1968年改版初版、1979年改版24版)


高校の終わりごろからアングラ劇団に入れ込み始めて、その究極ともいえる寺山修司の世界にどっぷり浸かろうとしたのが大学生になってから……。でも、時すでに遅かった。寺山修司は1983年に亡くなってしまう。同様にどっぷり浸かっていた唐十郎の状況劇場は健在だったけど、私たちは心の支え棒を外されたように虚ろになり激しく落ち込み、親が死んでもそんな顔はしないだろうというような服喪中モードで授業に出た。寺山とほぼ同世代の教授たちも少なからずショックを受けていたようで、「これでひとつの時代が終わったってことだな」みたいな発言をしていたのを憶えている。演劇実験室・天井桟敷の公演はたった一度観た(寺山の追悼上演はその後何度もあり、幾度か足を運んだ)。私は、芝居は状況劇場のほうが好きで、寺山作品はどちらかというと映像のほうが好きだった。人力飛行舎だったか実験飛行機だったか、そんな名前のついた彼の映像作品群はどれも、関西弁でいうと「けったいな」「なんやようわからん」ものでありながら、胸にジーンと沁みてきて、払拭不可能な残像を刻みつけてくれるのだ。
寺山の長編映画作品も、そうした印象の延長線上にある。彼の長編は先に『ボクサー』を観た(これが私の「初」寺山だったが、観賞当時はその意識はなく、主演の清水健太郎が好きだったのである)。その後『田園に死す』も観て、とにかくこういう映画でないと受けつけない身体になろうとしていた、それを自覚しつつあったとき、『草迷宮』を観た。「こういう映画でないと受けつけない」、『草迷宮』を観つつそのことは再確認したんだが、同時にこの映画は「こういう映画以外だって観ていける」ように私に道筋をつけてくれたのである。なぜならそのスクリーンには若き日の三上博史がいたからだ。
撮影時に15、6歳であったろう三上クンは、主人公「明」を演じて美しすぎた。色っぽすぎた。私は、私以上に寺山フェチの女友達とその上演会場にいたが、二人して垂涎とどまるところを知らずという体(てい)であった。寺山の映像美を堪能した以上に、私は三上クンに完全ノックアウトされた。友達のほうは、終わってしまえば俳優陣のことなど忘れたようだが、私は彼女とは異なり、寺山修司を引きずるのを止めた。三上クンは(三上博史さん、失礼。私はずっとこう呼んでいるのです)『草迷宮』で注目されたのか、その後しばらくして一気にスター俳優となった。メジャー扱いされると距離を置きたくなるという哀しい性(さが)で、人気者になった三上クンなんか見たくなかった私は、三上クンの動向を追おうとしなかった。

ある日、中原中也を描いたドラマがテレビで放映された。(注:かなり昔です)

私は中也の詩が好きである。はっきり言うが、何を歌おうとしているのかわからないもののほうが多い。それでも好きになったのはたぶんクリクリおめめの中也の肖像写真のせいである(可愛いもん)。中也を知るきっかけは、学校の国語の授業に違いないが、教科書(もしくは参考書)に採用されていたのが「サーカス」だったか「汚れっちまった悲しみに…」だったか忘れたが、この二つの詩が好きで、中也の詩集を文庫本で買い求めた。
詩は、わからない。リズミカルに韻を踏んでいたり、言葉遣い文字遣いが面白いともうそれでよし、と思ってしまう。「サーカス」の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のくだりの「ゆ」の音がこの上なく愛しく、よくぞ彼は「ぶらーん」とか「ぐりーん」とかそういう書き方をしなかったものだと、それだけで中也は唯一無二の存在になりうるのである。「サーカス」は「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」と現代人にとっては胸を刃物ですうっと刺されるような始まり方をするのに、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」で読み手の胸の刃物はとろけてしまう。きちんと読む人はさらにその先へ深読みをするのであろうが、私は「だから中也って可愛い」と片付けてしまうのであった。
中也は若くして亡くなった。赤子を愛でる詩もあるので、放蕩した時代もあったが最後は家庭人として振る舞っていたのかな、つまんねと、本書巻末にある大岡昇平も制作に参画したという年表を眺めながら適当に想像していたが、ある日、件のドラマを見てしまったのである。

このドラマのタイトルは「汚れちまった悲しみに」。中原中也を演じるのは三上博史。

大人になった三上クンは、中也を超越してオトコマエだった。うーん、色気ありすぎるんじゃないか……などとあーでもないこーでもないといいつつ、ものすごく楽しくこのドラマを見た。
中也がのちに小林秀雄にとられてしまうという恋人・長谷川泰子を樋口可南子が演じていたと記憶している。
三上クン演じる中也は、今わの際で妻(女優は忘れた)に手を握られて、苦しい息の下から子どもを頼むとか何とかいいながら、最後の最後に、「やすこぉ……」。
このときの、妻役の女優さんの演技がとってもよかった。直前までぼろぼろ泣きながら、中也の手に頬ずりしながら、あんたあんたっていってたのに、「やすこぉ……」を聴くや、すーっと真顔になって手を離し立ち上がり、冷徹な視線を上から中也に投げるのである。このドラマのクライマックスは彼女の表情にあったといっていい。
三上クンは、ことこの場面に関する限りこの女優さんに存在感で負けていた。三上クンは中也を表現して余りあったけど、この今わの際のシーンでは、残念ながら妻役女優の演技の前に鈍くかすんで見えた。
ドラマのほとんどのシーンは忘れてしまったが、ここだけは、『草迷宮』の妖艶な少年「明」と同じくらい強烈な印象で私の脳裏に残ったのであった。マイナス評価とはいえ。

で、去年だったか、ジャニーズ系アイドル(ウチの娘はやまぴーと呼んでいる)の主演連ドラを一瞥して思わず私は「うわ、久しぶり!」と叫んでいた。
そこにはええオッサンになった三上クンがいた。
「うわ、久しぶり!」と叫んだけど、一瞬名前が出てこなかった。道で昔の同級生に出くわしたときのあの感じ。こいつ知ってるけど誰やったっけ、みたいな。
三上クンは不思議な立ち回りをする役どころで、やまぴーに「最後のチャンスを与えよう」とか何とかいっていた。ドラマの内容はどうでもいいんだが、彼を三上クンと認識するやいなや、中也の臨終シーンと『草迷宮』が眼前に走馬灯のごとく浮上して、進歩のない自分を苦笑した。私の中で三上クンは永遠に「妖艶な明」で「冴えない死に方をした中也」でしかないのだろう。テレビの中の三上クンを見ながら、中也があと十年生きていたら、こういう色気も渋みもあるええオッサンになっていたであろうに、などと思った自分が中也の肖像写真をかなりいいほうに解釈していることにも気がついた。

テツポーは戸袋
ヒヨータンはキンチヤク
太陽が上つて
夜の世界が始つた
(『ダダ音楽の歌詞』より 本書214ページ)

時代は少しも変わらないと思う。2007/12/30 16:22:15

『十二月八日』
太宰治 著
筑摩書房〈ちくま日本文学全集「太宰治」1991年刊所収〉


過日、パキスタンの元首相ベナジール・ブット女史が暗殺された。それを伝えるフランスのラジオ放送(RFI)がしきりに「カミカーズ」という言葉を用いている。「カミカーズ」はアルファベットで「kamikaze」、語源は日本の「神風」である。よく知られたことだけれど。

昭和16年12月8日は、日本海軍が太平洋のハワイ島に停泊していた米国の戦艦を攻撃した、俗にいう「真珠湾攻撃」の日である。太宰のこの短編は、ひとりの主婦のこの日の日記である。

《昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。》
《私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。》

太宰(らしき作家)の妻(=美知子)の視点、一人称で書かれている。太宰の作品はとても私小説的であったり限りなくエッセイみたいであったりするのだが、本書巻末のあとがきを書いた長部日出雄によればそれらはすべて紛れもないフィクションであるらしい。だから『十二月八日』も、妻に取材をして妻の見解を綴ったものでもなんでもなく、近所のラジオから聴こえる開戦の報、朝の支度に追われながら赤子に乳をやる妻、隣家と交わす他愛ない会話を材料にして仕立てた「ある家庭の一日を描いた小説」なのである。

《(……)帝国陸海軍は今八日未明西太平洋おいて米英軍と戦闘状態に入れり。」(……)それをじっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。(……)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。》

暖冬が恒例となった現在では想像もつかないが、12月8日はとても寒いようである。

《いいお天気。けれども寒さは、とてもきびしく感ぜられる。昨夜、軒端に干しておいたおむつも凍り、庭には霜が降りている。山茶花が凛と咲いている。静かだ。太平洋でいま戦争がはじまっているのに、と不思議な気がした。》

いつもと同じ一日が始まって、いつもと同じように朝餉昼餉の用意をし、子の世話を、夫の世話をする。それでも、洋上で攻撃を仕掛けた帝国軍のニュースに身を震わせる。隣の夫人にこれから大変になりますわねと声をかけると、《つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、「いいえ、何も出来ませんのでねえ。」と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。》

あることを念頭に話しているのに相手は違うことを考えている、だけど会話はきれいに成り立ってしまって、相手と自分の関係を損なわないが、「私はちょっと具合がわる」い、なんてことはいつだってどこにだってよくあることである。

12月8日、のちに軍神といわれる9人の特攻隊員が米戦艦に突っ込んで果てた。坂口安吾は彼らへの畏怖を『真珠』という一編にこう書いている。

《十二月八日以来の三ヶ月のあいだ、日本で最も話題になり、人々の知りたがっていたことの一つは、あなた方のことであった。
 あなた方は九人であった。あなた方は命令を受けたのではなかった。》

私はどちらかというと太宰よりも安吾が好きで、とはいえどちらも同程度にしか読んでいないけれども、そこそこ大人になってから読み返したときも、安吾の文章が鈍器でぐりぐりとお腹を押される感じがするのに対して太宰の文章は「ただそこにある」という感じがして、やっぱり安吾が好きだなと思ったものだった。この感じ、これらの作家をよく読んでらっしゃる方にもわかってもらえる感覚ではないかと思う。昔、ある場所に安吾評を書いたことがあって、彼の文章を「鈍い鉱物的な重い光沢を放つ」などと表現した覚えがあるのだが、今、さらに歳を重ねた大人になって、もう一度安吾を読み返しても、それはやはり変わらない。
ところが、安吾の鉱物的な重い光沢に対し、太宰の、「そこらにある乾いた石ころ」のような文章が、文字どおりそこらにあるだけのようにしか感じられなかったのに、今は、だからなおさらなのだろうか、とても、心地いいのだ。どうだ、そうだろ?と問いかけ考えさせる安吾に対し、じゃ、そういうことだから、と読み手を置き去りにしていってしまう太宰。

「半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。」で始まる安吾の『堕落論』は、今も色褪せずに読み手を引き込む魅力をたたえている。しかし、太宰は、『堕落論』の二か月後に『苦悩の年鑑』と題した一文を、こう書き始めるのだ。

《時代は少しも変らないと思う。一種のあほらしい感じである。》

第二次大戦を境に多くのことが激変したと語り継がれている。だが、いちばん変わったのは人間自身の「ものを見る目」であった。誰もが戦前と戦後をまるで何かの特効薬の使用前使用後のように語るのを、太宰は「ばーか」とつぶやいてやり過ごしていたのだろう。
現代社会も激動している、たしかに。私たちは、よくまあこんなにいろんなことがあるよなあと呆れるほど事件事故の多い時代を生きている。もういちいち、出来事に振り回されてはいられないよという気分に、とっくになっている。
同列に考えてはいけないと思いつつ、「あーあほらし」とつい感じる私たちの気分は、「当時の」太宰に近い、たぶん。だから、彼を今読むのは心地いいのだろう。

『十二月八日』では、「私」の背中には一歳に満たない園子という名の赤ん坊がいる。隣家にも五歳くらいの小さな女児がいる。子らは無邪気で、屈託ない。ああ、この子たちなんだな、のちに私たちの母親世代となるのは、と、私は前エントリで取り上げた岩村さんの著作を思った。

「いいなあ、こんな恋してみたい」と素直に思えた若さよいずこへ2007/12/25 10:29:53

『恋文物語』
池内紀著
新潮社(1990年)


昨夜はクリスマスイヴであった。
したがって今日はクリスマスである。
そこで。



Joyeux Noel...
decembre 1989

この世でいちばん大切な慎吾様
80年代最後のX'masを
こうして慎吾と過ごせるなんてとってもとっても不思議
それから最高に最高に幸せです。
16歳から26歳までの(まだ25だけど)僕の80年代はまさしく青春そのもの
ではあったのですが、自分で云うと変だけど
自分が 生き生きと のびのびと 活動している、楽しんでいる、輝いている
という実感は20歳を過ぎてからやっとあったのです。それ以前は
心の中でいつもミケンにしわ寄せ 顔は世間に合わせてとりつくろう
という技を若いくせに持っていたのでした。20歳を過ぎて
やっと人間が大好きになりました。見ること、聞くこと、
歩くこと、食べることが大好きになりました。自分に似合うものが
わかるようになりました。僕の遅咲きの青春がここにあります。
慎吾も、僕の側に居ます。
そんな80年代を見送るのはとってもさびしい…
だから慎吾にも僕の80年代をおすそわけして
想い出にひたるのにつき合ってもらお!
と、上手におぜんだてしたところで 今年のプレゼントは
♪ガラクタ・バザール!!

1)えんぴつ 鉛筆に凝っていた僕のコレクションの中から1本。
2)絵本 絵本作家になりたかった頃買い集めた中の
いっとうお気に入りの“zebby”シリーズから1冊。
3)アロマキャンドル いつか煙草のにおい消しをあげたよね。
あれと似ているよ。森の香り。でも買ったのはだいぶ前だけどね。

何年も何年も持っていたものや、大切に大切にしまっておいたものたちです。僕だと思ってご存分に…

100年分のkissをこめて 蝶子

Je t'aime,
et toi?



なんと、これはラヴレターだっっっ(赤面)
しかし、何でここにあるんだ(苦悩)。
いきなり出てきたのである。だからって公開するなよ(アホォォッ)
差出人は僕だ。僕って、おい。何で一人称を「僕」にしてるんだ(謎謎謎)。

とにかく古いものが片づかない我が家。私はもう何年も、曽祖父の代からのガラクタの整理に追われている。何で私がやんなくちゃいけないんだよ、これ、どうすんだよ、こんなもん、置いとくのかよ、先行世代が責任持って処分しろよな、などとぶつくさいいながらおびただしい遺品廃品を両親の前にでんと置いたりしたけど、彼らはへえ、ほお、なんていいつつ懐かしがって作業が全然進まないから、ええいわかった、とにかくまとめとくからいつか必ず片づけてよっ……と私は言い放ったが、そうこうするうち父が亡くなり、また要処分品が増えたのだった。そんなモノどもも、どうにかこうにか、容積を減らしつつあり、昨今は自分の持ち物の処分にシフトしている。私は物を捨てない性質(たち)だ。何でも残っている。自分でも驚くが、えっこんなもの、うっそんなもの、みたいなモノまで残っている。70年代の生徒手帳とか(笑)。

それらの古いモノどもとは扱いが異なるが、人とやり取りした手紙の類も、とくに美しいカードだったりすると取っておくほうである。自分も素敵なカードで人に手紙を出したくて、少しずつ買いためて保管している。そういう新旧のカードを放り込んでいる引き出しがある。で、久しぶりに整理しようと底のほうから掘り出すようにしたら出てきた。それが上の手紙である。



本書、『恋文物語』は、ここにある慎吾(仮名)との関係を「これからどうしようかな……」と考えあぐねていたときに買って読んだような気がする。洋の東西、架空も含めて著名な人物のラヴレターを取り上げて、著者が「推論」している。
本書を読んで、さまざまな人のさまざまな恋文のありようにいたく感動し、我がことのように胸ときめかせその奥を熱くしたものだった。だが、今読むとなんとつまらないことだろう(笑)。文学的素養のない人間には、作家や文人の書簡の重要性というものがまずピンと来ないのだが、何よりも、恋愛をしていない状態というものはこれほどに人間を、他人の色恋沙汰に対して無関心にするものかと、我ながら感心した。

買った当時は「神父ガリアーニ」や「プラハの殺人者」などがしたためた恋文とやらを、おおおふむふむじーん……とわかりもしないくせに、とはいえどこかで恋する者たちの気持ちが腑に落ちたのであろう、そうよねそうよねと感動しながら読んだ覚えが微かにある。

今、あらためて読み返してみて、唯一関心を惹くのが「岡倉天心」の項である。池内紀が取り上げている人物の中で日本人はこの岡倉天心だけで、しかも相手はインドの詩人。天心は亡くなる最後の一年足らずの期間、詩人と長い手紙をやり取りしている。恋情がどの程度だったかはわからない。だが、どれほど熱に浮かされても、母語でならこの時代の日本人男性がけっして書かないであろう文章が、遠く海を越えた異国の女には向けられた。たとえば書き出しに「水の中の月なる人へ」。ロマンチックだなあ。天心は余命あとわずかというときになって幾通も書いており、そして詩人からは彼が亡くなった後も幾通も届いたという。
天心と詩人の間には、男女の愛情がかよっていたのだろうか。



さて。
慎吾には申し訳ない(ことは別にないと思う)が、この手紙をしたためたときの自分の心情はもう思い出せない。私は91年の夏に渡仏したが、それを機会に慎吾とは切れた。というよりも、切れるために渡仏を決めたのだったと思う。もう、そろそろやめちゃおう。だけど慎吾には切り出せない。切り出せないけど自分の中では感情が収束に向かう。留学先の選定、留学資金の見積り、仏語習得レベルの現状確認などなど、準備しなくてはならないことはいっぱいあった。だから、たぶん、私は89年後半から身辺整理も心の整理も始めていた。渡仏を口実に。そしてそんなわけで、89年の慎吾へのクリスマスプレゼントは、新たに買い求めたりせずにウチにあるガラクタを処分しちゃえということにしたのであろう。なんとまあ。我ながら、●▽■!!。

手紙の中で言及している絵本「Zebby」のシリーズは、洋書絵本展で3冊セットで買ったものだ。シマウマが主人公の、言葉のない絵だけの幼児向け絵本。何年ものちに娘が生まれて、私はこの本を見せようと家中探したが2冊しか出てこないのだ。そりゃそうである。残る1冊を慎吾にあげたんだった……と思い出したとき、どれほど大きな後悔が私を襲ったか、ご想像いただけるであろうか。乳幼児が小さな絵本からどれほど無限のストーリーや空想世界を広げることができるか、その可能性の大きさに鑑みて、あのキュートな絵本を、そうしたものの鑑賞ゴコロなどとっくに失ったおっさんに与えてしまったことの罪深さ。あがががが……と本気で数日悔しがったことを思い出す。アホだけど。

さらに最初の問いに戻るが、なぜ、この手紙がここにあるのだ?
下書きではない。けっこう高そうなカードにちゃんと書いている。ガラクタプレゼントに添付されるはずの手紙。
ラッピングし忘れて……当日相手が包みを開けてから気がついて……私は上記の内容を口頭で説明したのであろうか。マヌケだ……。で、入れ忘れた手紙を後生大事に捨てずにとっておいたってか。アホだ……。
そしてなぜ、一人称が「僕」なのだ? なぜっ???

それにしても、なんと、ときめかない手紙であろうか。だからなんなんだよ、何がいいてえんだよ、と、受取人が自分なら毒づいたことであろう。慎吾は優しかった(ほんとだよ)。
あ、でもこれ、受け取ってないのか。ああ、もう、バカッ。

カミサマの居ぬ間に洗濯?2007/10/15 16:17:03


『新訂 徒然草』
西尾実・安良岡康作校注
岩波文庫(1928年、1985年改版)


本当に涼しくなった。朝晩、寒いくらいだ。我が家はまだ扇風機を出しっぱなし、玄関先の間の建具は葦戸のままで、風通しがすこぶるよいままであるからして、朝夕寒いのである。我が家はオスは金魚だけなので、そうした力仕事は私の仕事だが、その私がいちばん時間がないときている。ごめんねみんな、朝晩は一枚よけいに着込んで、もう少し我慢してくれ。

秋深し。読書の秋。ちとテンプレートを取り替えてみた。
あさぶろさんからは毎月新しいテンプレートが提供されているが、あまりキモチにフィットするものがないのである。
とりあえず今は、読書の秋期間限定テンプレである。

仕事で資料をあさっていたら、兼好法師の『徒然草』にいきあたった。
なんと懐かしい。冒頭の「つれづれなるままに……」を習うのはいつだっけ? 中学生か高校生か?

第二百二段で兼好法師は「十月を神無月と言ひて……」、その理由は神事によるというけど確証はないんだよ、てな話をしておられる。
なんでも、10月は神様に号令がかかり、皆さん出雲に大集合されるらしい。それで巷から神様がいなくなってしまうのだが、神様がいなくなって下々はどうなんだろう、不安な日々をおののきながら過ごすのか、それとも目の上のたんこぶのしばしの留守に羽を伸ばすのか?
おおかたの現代人にとって、神様は都合のいいときだけ祈願の対象になる便利グッズというか便利ゴッド、だけど、昔の人々にとってはどうだったのだろうか。この国には八百万(やおよろず)の神様がいるから、いつも一緒にいてほしい神様も、「元気で留守がいい」神様もいたであろう。

『徒然草』には、わが町の地名がたくさん出てくる。
今は舗装道路になって国際マラソンのコースになっているような道を、草履でてくてく歩いた人のことを思うと、それはけっして千年も昔のことなどでなく、こないだ亡くなった隣町のじいさんの伯父さんだった人、くらいに思えるのでまた不思議である。

でありながら、古典を読むよさは、やはりその書き手が古(いにしえ)の人であることに尽きる。同じことを、現代の自称知識人や詐欺師まがいの文化人なんかが言うのを聞くと「るせーよテメー黙ってろ」とすぐ毒づきたくなってしまうが、千年も前の人の仰せのことは、単に「虫が啼く、いとをかし」みたいな文でもありがたく思えて心穏やかになるのだ。

《筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たんことを思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。》(第百五十七段)

筆を取れば自然と何か書くようになるものなのであると仰せである。

「星」の意味2007/06/29 10:04:04

どこかで撮ったお星さまたち(クリスマスツリーだな)。


『星の王子さま』
アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリ著
内藤濯訳
岩波書店(岩波少年文庫53/1953年初版第1刷、1971年第34刷)


岩波書店の翻訳権が切れたとかで、近年、怒涛のように新訳が出版された『星の王子さま』。著名な翻訳家や作家による訳も出たので、手にとった方、読んだ方も多いことだろう。

でも、こんなことをいっては何だが、こういうものは最初に読んだものの印象がとても大きいのである。ことに子どもの頃に読んだとしたらなおさらである。

私の持っている『星の王子さま』は、私が小学生の頃、当時大学生だった従姉妹からプレゼントされたものだ。素敵なお話なんよ。当時は気づかなかったが、のちに奥付を見たら定価240円とある。小さいけれど、ハードカバーでケース入り。240円だよ。
その従姉妹のお姉さんは私が中学生になったときに、自分の使い古しの英和辞書をくれて、辞書はぼろぼろになるほど使うほうがいいんよ、といった。中学何年生のときだったか忘れたが、洋書店で『The Little Prince』を見つけて買い、お姉さんにもらった『星の王子さま』とお古の英和辞書をめくって見比べて必死に読んだのを思い出す。

しかし、サン=テグジュペリという作家に特別な興味をもつことなく、私は大人になった。フランス語を学ぶようになっても、サン=テグジュペリの肖像が刷られた50フラン札を手にして喜ぶというミーハー精神は発揮しても、サン=テグジュペリの他作品を読むことはしなかった。でも、フランスの書店で、巻末に物語の関連学習クイズが付いて朗読CDもセットになった『Le petit prince』を見つけたときは小躍りして買った。そのCDに出演しているのは「ぼく」の声優さんと「王子さま」の声優さん(たぶん子ども)の二人だが、あまりによくできていて泣きそうになった。
彼らの声を聴いて、お姉さんにもらった、内藤さん訳のあの『星の王子さま』が、私の脳裏にはありありと浮かんだのだった。


—— S'il vous plait... dessine-moi un mouton !
—— Hein !
—— Dessine-moi un mouton...
(page 11)

「ね……ヒツジの絵をかいて!」
「え?」
「ヒツジの絵をかいて……」
(11ページ)

Et j'ai vu un petit bonhomme tout a fait extraordinaire qui me considerait gravement. (page 12)

すると、とてもようすのかわったぼっちゃんが、まじめくさって、ぼくをじろじろ見ているのです。(12ページ)

—— Adieu, dit le renard. Voici mon secret. Il est tres simple : on ne voit au'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux.
—— L'essentiel est invisible pour les yeux, repeta le petit prince, afin de se souvenir.
(page 72)

「さよなら」と、キツネがいいました。「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「かんじんなことは、目に見えない」と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。
(115ページ)


L'essentiel est invisible pour les yeux(かんじんなことは、目に見えない)。これとほぼ同義の文章がこれ以降何度か出てくる。

「そうだよ、家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ」と、ぼくは王子さまにいいました。(125ページ)
「たいせつなことはね、目に見えないんだよ……」(142ページ)

夜空に瞬く星を見て、星の美しさや大切さとは、ここまで届くあの光ではなく、こうして満天のかがやきを地球人に見せることではなく、たぶんあの星やこの星に一輪の花が咲いたりヒツジの餌に心をくだく住人がいたりすることなんだろうなと、私は思っていた。そしてたぶん、友情や愛情という目に見える形にはなりえないものが、この世ではいちばん大切なのだ、ということを、作者はいいたかったんだろうな、と思っていた。
それ以下ではなかったし、それ以上でもなかった。

冒頭の献辞にあるレオン・ウェルトという作家の親友がナチに捕らわれたユダヤ人だということも大人になってから知り、星を覆いつくした3本のバオバブの木が日独伊という枢軸国を表現しているという説があることも最近知った。
しかし、そんなこと知らなくたって本書は十分に含蓄に富み、たくさんのメッセージを届けてくれる。

ノンフィクション作家の柳田邦男さんも、この本には特別の思いを持っておられる、という。『星の王子さま』は、読んだ人の数だけ物語を紡ぐ。もちろん、それは『星の王子さま』に限ったことでもない。お話に、「定説」や「正論」は、要らないのだ。

いつかも書いたけど、作家や作品と真剣に向き合うことはその対象を切り刻み、えぐりとり、裏からも表からも透かして見ることに等しいから、それは、対象への情熱がたぎっている人に任せよう。

『星の王子さま』の「星」の意味は、家かもしれないし国家かもしれない。それはもはや誰にもわからない。しかし私にとって星は、空に浮かぶ、あの「ぼっちゃん」が住んでいるかもしれない場所であり続けるし、そのような思いの馳せかただって無意味ではないと思っている。

蛙の次は蛇?という話ではない2007/05/18 08:41:54

『蛇つかい』永井荷風著
「ちくま文学の森13 旅ゆけば物語」所収
筑摩書房(1989年)


私はなぜか「ちくま文学の森」を別冊を除いて全巻持っている。
古今東西の名作名文をそれぞれ何かしらキーワードをたてて、その趣旨にそって各巻計20編余集めてあるものだ。
殊勝にもちょこちょこと買い揃えたのであるが、それはただただ、カバー絵が敬愛してやまない安野光雅氏の絵だったからである。私はこの画家にめっぽう弱い。安野さんの絵は、何を題材にしてあっても哀愁と洒落っ気が漂い、胸にじわりとこみ上げるものを感じるのだ。大好きなのである。
筑摩書房からは文庫サイズで日本文学全集みたいなのが出ていたと思うが、それにも安野様の絵がカバーに使われているので、中途半端に5、6冊、いや7、8冊持っている。全巻揃えてはいないけど。内田百けん(「けん」は門の中に月)とか、宮澤賢治とか。賢治なんかそれをわざわざ買わなくてもすでにいっぱいあれこれ持ってたというのに。
私は死刑廃止論者か?(大した意味はないのでいきなり何やねん、と思わずそのまま進んでくれ)そうであるともいえるしそうでないともいえる。……という、まことに微妙な立ち位置にいるというよりも、どっちが正しいのかわからないから、自分で結論出せるほど考えようとしたことがないから、どっちだとはいえないんだけど、にもかかわらず死刑廃止キャンペーンをしているアムネスティインターナショナルのグッズを購入するのに余念がない。いうまでもなく、安野光雅大先生によるオリジナルグリーティング・カードや絵葉書があるからだ。
それはともかく、そうして買い揃えた「ちくま文学の森」の中身については、全部読破したとはとてもいえない。好きな話は何度も読むし、関心を引かない巻は一度も触らないまま麗しき表紙カバーが色褪せたりしている。

この13巻も、アンデルセンの『御者付き旅行』しか読まないまま、長きにわたって書架のアクセサリーになっていた。それを今取り出したのはわけがある。

最近、スタンダールに関する研究論集を頑張って(なかなかに難しかったので)読んでいたのだが、その最初のほうにこういう一文があった。

《明治四十一年(一九〇八)七月、永井荷風は欧米滞在から帰国する。四十一年十一月、『早稲田文学』に、短編『蛇つかひ』を発表するが、それには題辞として『アンリ・ブリュラールの生涯』第十四章の文章が引かれている。
 「(仏文省略)
   われは其のまゝに物の形象を写さんとはせず、形象によりて感じたる心のさまを描かんとするものなり。——スタンダル」》
(『スタンダール変幻』慶應義塾大学出版会、7〜8ページより)

なんつうええ言葉や。ものを書く者の心に響くではないか。私はこの「題辞を冠した『蛇つかひ』」をなんとしても読みたいと思った。ところが、「蛇つかひ」で図書館を検索してもひっかからない。現代仮名遣い「蛇つかい」で探してみると見つかった。「ちくま文学の森13」。へ?
灯台下暗し。我が家に15年以上前からある本ではないか。私は嬉々として13巻を取り出した。
目次を見て、ページをめくる。『蛇つかい』。よしよし。
しかし。
そのスタンダールの題辞はなかった。


私はいっとき、当時の連れの影響で永井荷風の『断腸亭日乗』を何度も読んだ。世の中に日記風の文学は多々あるが、私にとってはこの『断腸亭日乗』がダントツで傑作だ。荷風は別名断腸亭主人と名乗ったと(あるいは後世にそう名づけられたかは知らないけど)いうけれど、私にとっては○○亭主人なんて小粋に名乗って許せる物書きは荷風だけである。それほど『断腸亭日乗』は面白い。
『断腸亭日乗』にはたびたび「曝書(ばくしょ)」という言葉が出てくる。初めて目にした時はその語感から「本を読みまくる」ことかと思ったがそうではなく、蔵書を虫干しすることだった(笑)。なんと風流か。私も曝書したい、と思ったが同時に気が遠くなったものだ。
新しい東京の地名の付け方なんぞにもいちゃもんを述べていたりする。『断腸亭日乗』、ほんとうに面白かった。どさくさにまぎれて連れに本返さなけりゃよかった、と後悔するくらい面白かった。面白すぎて、荷風は何でも面白いのだと思って『ぼく東綺譚』(「ぼく」はさんずいに「墨」)にチャレンジしたら死ぬほど退屈だった。
荷風はいくつか仏語訳も出ていて、向こうにいたときこの『ぼく東綺譚』の仏訳を見たけど、こんなものに耐えられるフランス人がいるのかと叫びたくなるほど、仏訳の流れは和文に忠実で、アルファベットの隙間から退屈がにじみ出ていた。
いや、私にこれを読む素養がなかっただけなんですけど。
連れは言ったものだ。「荷風はこれ(断腸亭)で価値があるのさ」
まったく知ったかぶりにもほどがあるけど、いたいけな乙女だった当時の私は露ほどにも疑わずそれに頷き、『断腸亭日乗』以外の荷風はけっきょく読まなかったのである。

そして『蛇つかい』。
スタンダールの引用はないけれど、短い話なので私はその場でふむふむと読み始めた。

美しい。

舞台はリヨンだ。ジャガード織、西陣織のふるさと。
教会のある高台からは街を全望できるが、ローヌとソーヌという二つの河が街の骨格をつくっているのがよくわかる。
機織工が多く住んだ界隈は、今もその佇まいを残しているはずだ。
長く滞在したことのない街なので、荷風が描く風景を記憶でたどることはできないし、市民の生活風景のこまごましたところ、通りに出した床机に腰掛けて編み物をする女たちなど、現代フランスが失ったものについては映画で見たシーンを思い浮かべるしかない。けれど、フランスの街は、例外はあるが、日本ほどには変貌していない。リヨンを思い出せなくても、ほかの田舎町に重ねて、荷風の見た風景を、フィルムを編集するようにして、追いかけることは可能だ。

美しい。
描かれる情景も然り。だが何より荷風の記述が冴えているに他ならないのだろうが、当時の言葉の連鎖の美しいことよ。

物語は、リヨンのはずれで見た見世物小屋の蛇つかいの女を通して、語り手=荷風が感じた生活の哀愁、のようなものを描いている。
《自分はなんだか妙に悲しい気がした。(中略)それが原因であろうか。そうとも云えるしまたそうでないとも云える。(中略)悲しいような一種の薄暗い湿った感情を覚えたとでも云直しておこう。》
この「そうとも云えるし」のフレーズ、やたら使いまわされているのではないか? どこで、と聞かれても例を挙げられないが。そうなのか、オリジナルはここだったのだ。

この一編は『ふらんす物語』という短編集に収められて出版されたそうだ。もはや、学校では荷風作品は習わないだろうし、大学でも荷風をことさらに取り上げて研究しようという人は、もういま、いないだろう。こういう作品は、私のようにフランスの端っこをちょっとつまみかじりした者だけが、たとえば熟語の横に仏語をカタカナにしてつけてあるルビや、貼り紙の文句(仏語)の抜き書きに付記した時代錯誤な訳文をみて、くくくと笑うことができる。くくく。

ところで、先のスタンダールの研究論文集だが、自分の文庫本を整理していて『赤と黒』なんぞが出てきて、ちょっと読み直そうかななんて気になってたところにたまたまこの本の存在を知って、借りてトライしたというわけである。興味深い論考もあったが、貸し出し期間延長しても全部は読めなかった。だが、スタンダール云々の前に『蛇つかい』という思いがけない拾いものをしたことが嬉しくてしかたがない。
押入れの奥にしまわれていて気づかなかった祖母の指輪のような、よそには値打ちがないものでも自分にかけがえのないもの、そういうものを見つけた気分である。

湧き出る泉のような「結婚力」2007/05/11 16:37:28

『モル・フランダーズ』(上下全2冊)
ダニエル・デフォー作 井澤龍雄訳
岩波文庫(初版1968年)


もう数週間ほど前になるが、日経新聞の夕刊に、最近の結婚の実情についてまとめたレポートが載っていた。晩婚化がいわれて久しく、また離婚率も上昇の一途だ。世の中シングルの(生活を楽しむか寂しがっているかを問わず)男女が大変多いようである。
そのレポートは、昨今増えている《バツイチ女性と初婚男性の組み合わせ》について述べていた。結婚仲介業(という業種名が正しいかどうかわからないけど)やお見合いパーティー(よく「ねるとん」とかいったけど、今でもそう呼ぶのかな?)企画業者などにリサーチした結果、先述の組み合わせでの成婚率が急上昇中らしい。
その理由について述べられていたのだが、詳細は忘れてしまった。だいたいこういうことだったと思う。
(以下は記事からの引用ではなく、こんな内容だったなというあやふやな記憶に基づいて、私見を書き出したもの)

【女性のキモチ】
そもそも現代女性は一度失敗したぐらいではへこたれないというチャレンジ精神が旺盛。
一度経験してしまえば離婚なんか怖くないし、経済力もあるからまたやってみっかな、と、初婚時よりも結婚に対する精神的ハードルが低い。
一度結婚していることで、自分は結婚できる女性だという自信、自分の女性的魅力について自覚している。
離婚の経験から男性に対して許容範囲(個人差あり)は広がってはいるが、同時に同じ失敗を繰り返さないに越したことはないとの思いから、前夫への不足感(個人差あり)を補う要素(個人差あり)を持つ男性を求める傾向がある。その要素とは、容姿や経済力、社会的地位ではなく、思いやり、優しさ、女性を尊重し敬う心を持っていることである。

【男性のキモチ】
昨今、俺について来い、なんて台詞はとても言えない。
正規雇用で安定しているように思えても、いつ会社が倒産するか、自身がリストラされるかわかったもんではない。だから経済的に自立している女性と結婚したい。
だけどそういう女性は理想が高いのが普通だ、たぶん俺なんか眼中にない。
でも。
バツイチ女性は、男は顔じゃない、男は身長じゃない、男は学歴じゃない、男は収入じゃない、ということを知っている(と思う)。
バツイチ女性は、経済力があるから離婚に踏み切った、または離婚後に経済力をつけたという人が多い(と思う)。
バツイチ女性は、その離婚経験から、結婚生活を円滑に進めるため、つまり幸せになるため、より努力をしてくれる(と思う)。
だから俺、結婚するならバツイチ女性がいいな。そのほうが初婚の若い女性よりリスク回避できると思う。俺は結婚に失敗したくないし、だいいち失敗できないよ、この年だし。親も年だし。

とまあ、こんなところだろうか。
記事は、とりわけ未婚の男性側の、バツイチ女性を要望する傾向の大きさを指摘している。結婚相談所や仲介業者を訪ねる男性の中には最初から「バツイチ希望」とする人が増えている、「バツイチ女性と未婚男性限定」のお見合いパーティーの開催が盛んである……というふうに。
そして記事は、とりわけ女性を意識して、これからは結婚経験が豊富な者と未経験者がはっきり分かれていくであろうと締めくくられていた。こういうふうに。

《これからは、「結婚力」のある人は何度も結婚する一方で、ない人は未婚のまま生涯通すという結婚格差が二極化していくかもしれない》

「結婚力」だとおおおおーーーー!
なんでもかんでも「○○力」っていうなああああーーーーー!
※《》内は正確な引用ではないが、「結婚力」はカギカッコつきで用いられていた言葉である。
なんでもかんでも格差化するなあああーーー!!!
経済格差、教育格差、家族格差、結婚格差! こちとらぜーんぶ二極化の「下」のほうだよっ 悪いかバカヤロー!

と、叫び終えたところで。
モル・フランダースである。
先述の結婚力記事を読んで即座に思い浮かんだのがモル・フランダースであった。
この言葉を用いて形容するに、モル・フランダースほどふさわしい女性はない。
「結婚力にみなぎる女性」
おおお、なんてパワフルなイメージ。
その力は現代日本女性の比ではない。なぜならモル・フランダースは経済力があるわけじゃない。結婚経験によって男性に対するキャパが広がっているわけでもない。
ただただ彼女は自身の魅力と処世術で結婚を繰り返して、食いつないでいくのだ。
まさに、尽きない泉のごとく溢れ続ける「結婚力」。
ああ、本当にあやかりたい(本音)。

冗談やまやかしじゃ、ないんですのよ。モルったら、ほんとに次々と結婚しちゃうんですの。
彼女は孤児でした。出生の顛末からジプシーに拾われますが、また捨てられ、その後孤児の世話をする女性の家に引き取られます。その、いわば里親に、幼少時から縫い物や刺繍など仕込まれて、贅沢さえいわなければつつましく生きていくことのできるくらいには、手仕事を身につけるのす。
それなのに、どういうわけか、《あたい、“奥様”になりたい》などというのが口癖で、貴婦人になる野望を持つのです。自分は貴婦人になるにふさわしい人間だと最初から思っているふしがあって、その信念から貴族の奥方たちを観察するのに余念なく、どうすれば貴族の気に入り目に留まるかをたえず考えている、そんな少女なんですの。
里親は彼女を諭すんですよ。貴族の生まれでないお前は貴婦人にはなれっこない。“奥様”(マダム)は、貴族に生まれた女が貴族に嫁ぐからこそ与えられる呼称だと。親切からそういう里親の言葉に頷いて見せるものの、彼女は心の中で《あたいだって》という気持ちを忘れないのです。

あ、いきなり「ですます調」になってますけど、というのも『モル・フランダース』はモルの一人称で、自身の人生を回想するかたちで語られますが、その語り口がとっても貴婦人チックなのです、最初から。私はとてもそんな貴婦人口調では語れないけど、ともすればすぐ○○だとおーバカヤローなんて口走る癖があるところを、モルの紹介くらいは多少なりとも丁寧に、と思ったもんですから。

モルは18世紀のイギリス女性という設定です。原書は1722年の出版らしいのですが、物語の終わりには1683年記すって書いてありましたわ。
私は、英国社会については中世も近代も現代も何にも知りません。だけど、人々は階級できちっと隔てられ、たとえろくでなしでも貴族は貴族として、いくら働き者でも貧民は貧民のまま、どんなに優しくても泥棒は泥棒のまま一生を終えるのが当たり前という時代だったってことはなんとなく想像ができます。ということは、《あたい、“奥様”になりたい》なんていうモルの願いなんてのは、身の程知らずも桁外れすぎるって感じじゃあ、ありませんこと?

作者のデフォーは、経済系のジャーナリストだったんですってね。私はまったく読んでいませんけど『ロビンソン・クルーソー』を書いたあとにこの『モル・フランダース』を書いたそうです。ジャーナリストとして取材した事実をもとにして書いたという体裁をとっているんですよ。
ちなみに英語の原題は:
The Fortunes & Misfortunes of the Famous Moll Flanders Who was Born in Newgate, and during a Life of continu'd Variety for Threescore Years, besides her Childhood, was Twelve Year a Whore, five times a Wife (whereof once to her own Brother), Twelve Year a Thief, Eight Year a Transported Felon in Virginia, at last grew Rich, liv'd Honest, and dies a Penitent. Written from her own Memorandums ...
『有名なモル・フランダースの幸運と不幸なこと。彼女はニューゲート牢で生まれ、子供時代を除く60年の絶え間ない波瀾の生涯において、12年間情婦、5回人妻、(そのうち一回は彼女自身の弟の妻)、12年間泥棒、8年間ヴァージニアへの流刑、最後に裕福になり、正直に暮らし……』
という長いもので、一般には最初の:
The Fortunes & Misfortunes of the Famous Moll Flanders
をタイトルとしているそうです。
訳者によりますと、こういうふうに数字を並べ立てるところは大変デフォーらしいんだそうです。

12年間情婦、というのは、間違っちゃいけないけど「娼婦」ではないんですよね。誰かの愛人だったわけで、現代なら愛人生活12年なんて人、珍しくはありませんよね(個人的には知らないけど)。すごそうに見えてモルは、男性に結構翻弄されてしまうのです、最初は。
で、そんなに愛人ライフやっていながら、5回も結婚してるんですよね。
これがすごくありません?
その結婚にいたるプロセスっていうのは、ほとんど結婚詐欺師やーん、とツッコミたくなるようなものなんです。でもモルはなんだかんだいって愛情感じていたり、逆に相手が詐欺師だったりして、なんだか可愛いのです。
うち1回は弟と、とありますが、これ、知らずに結ばれちゃって、真実を知ったときモルも相手もそれはそれは立ち直れないほど罪の意識に苛まれるんですよ。ちょっとこの展開は、読み手の胸を締めつけますわ。
ま、とはいえ、ええ年したおばさんになってから泥棒になったところは感心しませんけどね。最後に裕福になり穏やかな暮らしをするにいたるところは、なんでやねーん、って思わなくもありません。子どもも、ちゃんと数えなかったけど7、8人は産んでいるんですが、ひとりとして自分の手許に置いていないし、物語の中での言及もないんですの。そこは、現代の物差しではとても測れないところですわね。

本書を原作にして、映画もつくられています。1996年ですから、そんな古いものではないですね。映画のあらすじをどこかのサイトで読みましたが、原作を読んだ後だといかにも物足りない印象です。山ほどあるエピソードをすべて詰め込むのは無理であるとはいえ、そりゃちょっと違うんじゃございませんといいたくなりますわ。というのも、結婚回数を大幅に減らしているようなんですのよ。それでは尽きることなく湧き出る結婚力をみなぎらせ続けるモルの魅力が表現できていないんじゃないかしらと、思うんですの。
でも、聞くところによると、映画としての出来はすこぶる良いそうですのよ。モルを美しく強く演じているのは、つい最近も何かでの好演が伝えられていたロビン・ライトという女優さんだそうです。

実際、本書『モル・フランダース』は、モルの語り口のせいもありますが、少々メリハリのない構成で、人によっては退屈に感じられるでしょうから、まずは映画から試してみるのもよいかもしれませんね。DVDだかビデオだかも、出てるみたいです。


5回もしたくはないけど、死ぬまでに2回ぐらいは結婚してみたいなあと真面目に考えていたのだが、どうやら私には「結婚力」が欠如しているようである。本書は図書館で借りて読んだが、絶版にならないうちにバイブルとして購入しておこうかなと思わなくもない。バイブルってところ、マジ。

翠のえんどう2007/03/04 18:42:35

『定本 尾崎翠全集 下巻』
尾崎翠著 稲垣眞美編
筑摩書房 1998年


 仕事のための調べものをしに図書館へ行き、「豌豆」をキーワードに蔵書を検索していたら、結果の中に尾崎翠の全集が挙がった。へえ、と思って内容細目を見ると、『浜豌豆の咲く頃』という一篇のあることが、わかった。

 『浜豌豆の咲く頃』は、尾崎翠の作品の中でも「少女小説」と呼び分けられている短編群のなかのひとつである。

  あの浜には、浜ゑんどうの花が咲きました。
  私がお優と知ったのは、その花の咲く頃でございます。

 『浜豌豆の咲く頃』の冒頭である。「少女小説」の多くの作品が今は無き「美しく上品な丁寧語」で書かれている。また、『拾つたお金入れ』は少女二人が財布を拾い、交番へ届けて一年後、落とし主がわからないので財布はあなた方のものになりますよ、と巡査に渡された財布を、思案の末、孤児院の募金箱へ入れる話である。

  「のり子さん。あのね、このお金を孤児院の函へいれてやりませうか。」
  と、のり子さんに言ひました。
  「あゝ好いわね。さうしませう。」
  のり子さんも嬉しさうにおつしやいました。(『拾つたお金入れ』より)

 物語の中心に小さな慈善行為が必ずある。年長の子が年少の子に、裕福な子が貧しい子に、できる範囲で少しだけ、親切にする。しかもけっして「つっけんどん」な態度などではなく、「ぶっきらぼう」な口調でもない。あくまでも丁寧で慎ましく奥ゆかしい。時代が要求する少女像が見えてくるようで、面白い。
 『少女対話 土曜日の晩』は、宿題の作文に頭を悩ます小学校4年生の少女が、通りがかりの村娘に親切にしたことを作文に書き、6年生の姉から褒めてもらうという一篇。4年生の少女は姉に「どんな風に書いたら好いでせう。」と尋ね、また村娘には「あなた何処へいらっしゃるの。」と声をかけ、提灯を貸してやる。村娘は、ひとりで帰れるか案じる少女に「灯があれば、大丈夫でございますわ。」と答え、姉は妹に「話して御覧なさいな。」と作文を読むように促す……といった具合である。
 実にほのぼのとしていて、滑稽なくらいに誰もがお行儀がよい。少女たちは無垢で純真で、勤勉で辛抱強い。
 大正時代の、「少女たちにはこういうものを読ませなければいけない」的な視点で創られる少女雑誌に掲載という形でこれらは世に出た。本書の黒澤亜里子氏の解説によると、尾崎翠の「少女小説」が発表された時期は彼女がまだ作家修業中だった頃に重なるそうだ。寄稿先の意向に沿う形で書かれたものだけに、優しく慈愛に満ちた裕福で上品な少女の善行、というヒナ型に嵌ってはいる。しかし、いま、この現代において読むからかもしれないが、なんと瑞々しく輝いていることだろう。尾崎の作品が貴金属の輝きを帯びるのはもう少しのちの作品であろう。これら「少女小説」群に見えるのは、月並みな表現だが、若葉の上から人知れず転がり落ちんとする朝日を受けた露のきらめきである。
 少女たちの台詞に、今どきあり得ないと笑いながら読むのも一興だが、試しに声を出して読んでみると、その言葉の美しさに、我が国語ながらうっとりしてしまうのである。ああ、嘘でもいいから、我が子やその級友たちの、そんな会話を聴いてみたいもんなんだが。
 尾崎翠は明治29年生まれだが、40年生まれの私の祖母は尾崎の「少女小説」を読まなかっただろうか。……読まなかったんだろうなあ……。

 件の、豌豆の原稿に挿画を描いてくれた私に友人が言った。
「新鮮な豌豆ってまるで春の真珠だね。久しぶりにこんなきれいな緑を見た気がするよ」
 尾崎翠と豌豆には共通点もあったわけである。

 ところで、検索画面で尾崎翠をヒットした時、仕事に役立つかどうかは二の次にして、なんとしても借りて読もうと思ったのは、あることを思い出したからだった。
 思春期、私は詩を書くことに没頭していた。また、詩のアマチュア投稿誌を読みあさっていた。ある時、何度も入選していたある投稿者が、「翠」という字を用いた自身のペンネームについて述べていた。いわく尊敬する尾崎翠から一字もらった、いわく作家で映画評も書いている、グレタ・ガルボやジョゼフィン・べーカーについても述べている、といったことだった。その投稿者の名は忘れてしまったが、「映画評も書く尾崎翠」という形で記憶の片隅に残っていたのだった。
 本書、『定本 尾崎翠全集 下巻』には映画評も収録されている。それらは「映画漫想」と題されていて、彼女は「漫想」を「丁度幕の上の場景のやうに、浮かび、消え、移つてゆくそぞろな想ひ」であり、「一定の視点を持つた、透明な批評などからは遠いもの」と定義し、ゆえに自分のような「漫想家といふ人種は、画面に向かった時の心のはたらき方までも映画化されられてゐるのかも知れない」といい、映画に心臓を呑まれてしまったと言ってその心理を説明している。漫想家は脚本家や監督のことよりも役者に興味が向かう、視野が狭いからだ、と言っている。
 尾崎は無声映画からトーキーへの移行時代にこの「映画漫想」を雑誌に連載の形で書いており、当初「声画」は「沈黙の領土を知らぬ泥靴」だと言って切り捨てているが、優れた映画に出会えば絶賛するのをためらってはいない。
 なんと幸せなシネフィルだろう。とにかく自分の好きなように映画を観て書いている。それに、視野が狭いどころか、実に細かいところまで画面をよく観ていることが読み取れる。とくにリリアン・ギッシュについて言及した一文はため息が出る。私は『イントレランス』と『八月の鯨』でしかギッシュを観ていないが、「リリアン・ギツシユの特殊さは線と容貌の中に潜んでる」という尾崎のギッシュ評は、この女優を表現するのにこれ以外に適切な表現があろうかと思うほど、ギッシュを的確に言い表している。
 「映画漫想」は、映画の古典名作に興味のある向きには、一読をお勧めする。タイムスリップする感覚で、楽しめる。

 しかし、しかし。本書『定本 尾崎翠全集 下巻』の目玉作品は巻頭の『琉璃玉の耳輪』である。これを読まずして、尾崎翠を語ってはいけない。これは面白い。涙が出る。いろいろな意味で。

 ところで「Apied」の次の号はこういうことになっているので興味のある方はぜひどうぞ。
http://apied.srv7.biz/apiebook/index.html

(↑ URLを訂正しました。2008.2.28)

「アフリカに行きます」2007/03/03 16:59:03

『アフリカ農場 アウト・オブ・アフリカ』
カーレン・ブリクセン著 渡辺洋美訳
筑摩書房 1992年


 アフリカはずっと憧れの大地だった。フランス語をなぜ学ぼうと思ったかといえば、それは西アフリカに行きたかったからに他ならない。当初私には、西欧列強の植民地主義、覇権主義、資本主義によってこの大地がいかに蝕まれてしまったかなどという知識はまったくなかった。
 私たちの世代は、「ワールドミュージック」なる言葉に飽きるほど踊らされたものである。夕べはセネガル、今夜はベネズエラ、あしたの晩は北欧系。強い「円」を稼ぎに、世界中からミュージシャンが押し寄せ、私たちは節操もなくライブのハシゴをして各々が通ぶった。こうしたことを、大学または駆け出し時代がバブルに重なる世代の人間は、大なり小なり経験しているのではないか。

 私にとって「恋人」はビリー・ジョエルであったし、「愛人」はエリック・カルメン、「しもべ」はデヴィッド・ボウイであった。「兄」はボズ・スキャッグス、「いつもつるんでる遊び仲間」はスタイル・カウンシル、「忘れられない幼馴染み」は戸川純だった。
 誰でも知ってるメジャーなミュージシャンがアイドルだったのだが、何をきっかけにか忘れたが、ある時期から太鼓の音が気になるようになり、追いかけていくうちに、プリミティブな儀式や祝祭を記録した映像に行き着く。国立民族博物館で世界各地の楽器や演奏記録を見たり聴いたりしていると、当然ながら現地へ行ってみたくなるのであった。
 
「N社に決めます」
「そうか、それがいいだろう、君には。エディトリアルの求人がないのは残念だったがな。ものづくりという意味では、同じだからな」
「先生、それがいいだろう君にはってどういう意味ですか」
「N社のような大手のほうが、君は働きやすいはずだ」
「はあ」
「仕事は先輩の鉛筆削りだけ、なんて状態が3年も続いたり」
「はあ」
「寝袋が必携だったり。つまりいつでも徹夜、いつでも泊まり込み態勢」
「はあ」
「そんな経験をしてまで、デザイン事務所にこだわる気はないはずだ」
「ばれてましたか」
「福利厚生のしっかりしたところでしっかり勉強させてもらって、アフターファイブも楽しんだうえで、何か形にして世に出せたら、こんな素晴しいことはない」
「おっしゃるとおりです」
「三年くらい頑張れば貯金もできるさ。その後のことはその時また見えてくるだろう」
「アフリカに行きます」
「へ?」
「毎日定時にあがって、アフターファイブはフランス語学校へ行き、3年経ったら退職して西アフリカに渡ります」
「ほう。それで?」
「太鼓を持って帰ります。マラリアで死ななければ」
「君は死なんだろうな」

 大学のゼミの教授は私の性格をよく把握し、適切なアドバイスをくれ、私は教授がいうとおりの社会人生活を送った。真面目に働き、早々と退社し、独りであるいは連れだって夜の街を楽しんだ。独りの時は、(少女時代からのアイドルたちをしばし忘れて)アフリカ系ミュージシャンの音を求めて、どんなに怪しげでも、ライブやイベントに足を運んだ。私の中にはアフリカの、原始の音から西欧の手の入った垢抜けた音まで、ごちゃ混ぜになって鳴り響いていた。
 いっぽう、通っていたフランス語学校で、アフリカと西欧のかかわりについて書いた本を、読んだ。それは研究論集で、現地調査の結果と考察を淡々と書き連ねてあるものだったが、そうしたものを初めて読む者の目には実に新鮮に映った。その本で、私は、かの大地、アフリカはとうてい手に負えない場所なのだということを知る。今のアフリカ、西欧に切り刻まれた結果としてのアフリカを見るために、見て自分の中に何かを残すために、まず大陸発見以来の歴史について知識を蓄えなければならないと思った。
 フランス語を多少マスターして、日常会話に困らないからとセネガルやマリに渡っても、物見遊山で終わってしまう。
 それではだめだ。
 私は、サリフ・ケイタに会わなくてはいけない。彼の後ろでジャンべを叩いてた男や、巨体をうねらせ踊っていた女たちに。
 そのためにも彼らの背景を知らなければ。そのためにも西アフリカをかつて支配したフランスに、行かなければ。どのみち、フランス語学校だけでは全然フランス語上達しないし。

 N社を退職し、フランスへ渡ったが、アフリカには渡らないまま、現在に至る。

 懸命に勉強して、かの地に人類最大の不幸が、同じ人類の手によってもたらされたことをどうにかそれなりに知る。しかし、けっきょく研究者でもジャーナリストでもない私は、フィールドワークや現地取材のための時間と資金がなく、生来根性なしなので、安穏生活を手放すことができず、それなりの、実を伴わない知識があるだけだ。

 ブリクセンの『アフリカ農場』は、もはや私たちがどう足掻いても決して体験することのできないアフリカ、失われたアフリカ、しかし植民地支配のただなかにあったアフリカを、英国植民地で農場を経営する北欧人の目で描き出す。それは私たち、つまり現代の日本人とは同じ目ではあり得ない。とはいっても、もしも同時代人であれば、同じようにかの大地に魅せられたはずだと思うのだ。動物たちと原住民をこの大地の構成要素として捉えて。

 その場にいれば。
 もしも私が支配する側の人間としてアフリカにいれば。

 いくらアフリカについて学んでも、どうしても埋まらなかった空白が、この一点であった。現代人の私は、植民地を持つことの意味を、正確には測れない。
 本書は、読み手の私にあった空白に、すっぽりと収まったのである。若い頃から私が憧れ続け、音と記録映像でしか体験できなかったアフリカは、ある女性の生活体験を通して、くっきりと体格のある立体物として私の中に出現した。
 著者と私は、生まれも教養の程度も、生きざまも異なるけれども、ことアフリカを対象とした時に何を感じるかという点で、実際のところ、たいして変わらないだろうと思う。といったらブリクセンに失礼だが。なんせ彼女はデンマークのクローネ札に肖像が印刷されたくらいの人なのだ。いや、それは蛇足だけど。
 ブリクセンについては今後もっと研究が進むであろう。それは専門家にお任せするが、私は彼女の「アフリカ」を何度も読み返し、自身のアフリカ観に厚みを持たせることからまず始めたいと考えている。アフリカ上陸を、まだ諦めてはいないから。

 興味のある方は、こちらもどうぞ。
http://apied.srv7.biz/apiebook/index.html

(↑ URLを訂正しました。2008.2.28)

久女のふきのとう2006/12/26 19:09:43

『杉田久女句集』
石 昌子/編
角川書店(1969年)


甦る春の地霊や蕗の薹  杉田久女


ある調べものをしていて、この句が目に留まった。
そして、強烈に惹かれた。

蕗は雪解け前に、葉より先に蕾が顔を出す。
雄花と雌花が異株で、蕾のうちはどちらかわからない(咲いても素人目にはオスメスの区別はつかない)。
「ふきのとう」はてんぷらや味噌和えがおいしいけど、男を食べているのか女を食べているのか当方にはわからないのである、と誰かが書いていた。どっちでもいいけど、と思うけど、男(雄花)を食べたいかもな、と思ってから、でもこういうもの(植物)はメスのほうがおいしいのではないか、と思い直す。

蕗は地下茎で増える。地下茎は恐ろしく太くて頑丈らしい。
それだけでなく、タンポポみたいに種子も飛ばす。
生命力があるのだ。上からも下からも、増える。
「蕗」として私たちが食するのは、「葉柄」。茎ではない。
想像するのはたやすいが、だから葉は、大きい。すごく。

生き物の命がほとばしる、早春。
大地の生命を全部うけおった、一番乗りの覚醒が、蕗の薹。
見事に詠んだ久女に感激して、この句集を探したこと、探したこと。
普段俳句にはなじみがないので、一句一句、かみしめるようにして味わった。見たことのない風景が、ありありと目に浮かぶ。

久女の人生を論じたよい書物があるのでここでは触れないが、明治に生まれ、大正・昭和初期に、家庭主婦と俳人を両立させることに費やすエネルギーは現代の比ではなかったろう。
冒頭の句には、久女がもち続けようと願った命のエネルギーが見えるのだ。
地中からいち早く太陽の恵みを察知し、己が存在を示す、ふきのとう。

ふきのとうは、命のサイクルを振り出しに戻して再出発する姿でもある。
もし生まれ変われたら、久女は、俳人を選んだか、あるいは母を、妻を選んだか。同じように自問してみるが、答えは出ない。

本書の編者は、実の娘である。