Qu'est-ce qu'ils sont beaux les cerisiers de la nuit illuminés...2012/04/16 02:03:44

『優雅なハリネズミ』
ミュリエル・バルベリ著 河村真紀子訳
早川書房(2008年)


著者夫妻は京都在住だそうだ。とはいえそれは2009年時点での話なので、今もずっと変わらずいらっしゃるのかどうかは知らない。左京区に家まで買って腰を落ち着けたという情報もあるし、著者本人のコメントとして「もうどこにも行きません。世界でいちばん好きな場所に住んでいるんだから」というような台詞が散見される。いいわねえ、よいご身分だわ、本が売れて儲かってそれまでの職を捨てることもできちゃって。なんてひねくれてみせるのはやめとこう。そこまで愛されるまちに住んでいるということを無邪気に喜びたい。

とかく私たちのまちはよその人に愛される。ここひと月ほど、休日平日を問わずまちは観光客と花見行楽客でこれでもかというほど賑わっている。一年前はあんなに閑散としてたというのに。数日前、悲しい事故がよりによって祇園の真ん中で起こってしまったが、一年前だったらこれほど犠牲者を出さずにすんだかもしれないのに、と不謹慎なことを思った私である。事故当時私はとある要人のインタビューのためにとある場所へ向かっていたが、上空を旋回する何台ものヘリコプターの轟音に辟易した。応接室へ入ってもヘリの音は窓ガラスを突き破るかと思うほど大きく響いていた。録音に差し障るじゃないか。私が考えたのはそんなことだった。どうせまたどこかの位の高いかたが御苑へ向かっているのだろう……。要人は奇しくも、京都が愛されるのにはわけがあるんです、だってね……と、我がまちの魅力について切々と語っていたのだが、同じ頃、わがまちを愛して観光に来てくださったかたたちが亡くなったのである。理不尽である。

いっぽうで、わがまちは、けっこう毛嫌いもされる。たぶん、ジモティーがいちばん毛嫌いしてるんじゃないか(笑)。私もこのまちを出たくてしょうがなかったが、先祖代々のDNAは恐ろしいもので、あんなにあちこち旅をしたのに、もはやここ以外で暮らすことはできなくなっている自分にふと気づいたのはいつのことだったか(笑)。京都人はどこまでいっても京都人であることをやめられないから(いや、どこの人だってその点は同じなのだが)どこへ行っても水が合わずになんだか座り心地のよくない椅子に長時間座らされているような、居合わせる人たちとは「間」の悪い会話しかできなくて、あけすけで、ざっくばらんで、歯に衣着せぬ、直球勝負の、正直な人たちってなんてつきあいにくいのだろう(笑)ということを思い知ってスゴスゴと撤退するのである。京都でうまくやっているよその人は、その腹黒い京都人との会話のさじ加減をマスターした人々であり、素直な返事をよこさず考えている振りばかりして本心を見せずに取り繕ってばかりの煮え切らない態度に対して、ストレートな物言いで勝利した人々である。惨敗を喫した人々は四面楚歌に陥り村八分に遭い(申し上げておくがこのかたがたに非はないのである)、よりどころをなくして転出を余儀なくされ、二度と行くかあんなとこ、と悪態をつく。それがわがまちである。

『優雅なハリネズミ』を読んで、私のまちにも、あるやんか、よう似た話、と思ったのだった。下層階級は知性を持つ必要がないけれど、それなりの地位にある人が教養なく下品であることは許されない。成り上がりはその点で不足していることが多々あるので、取り巻きたちはうわべでは褒めそやしてみせるけれど裏では舌を出している。金はあっても礼儀と分別をわきまえない輩(この手がやたらと増殖中だが)は敷居を跨ぐことすらできない世界が歴然とある。じゃあ、教養豊かで礼儀作法もわきまえた知性あふれる貧乏庶民はオッケーかというと、もとより金がないと門前にさえ立てないので勝負にならず最初から問題外である。

本書の主人公、貧乏な下層階級出身のルネは高級アパルトマンの管理人をしている。この管理人をフランス語でコンシェルジュという。今日本では「コンシェルジュ」なんつう職業名が闊歩していて聞くたび私は笑いたい気持ちを抑えることができないのだが(早い話が聞くたび吹き出すのじゃ)、フランスでアパルトマンの管理人と言えば学のない貧困層出身者が他にできることがないからやる仕事なのだ。あの人ったらまったくコンシェルジュよね、というときそれは「がさつでおしゃべりな人よね」を意味する。「職業に貴賤はない」という言葉はかの国の辞書にはない。※「不可能」はある。

ところがルネは超一級の知性の持ち主。あふれる教養で高級アパルトマンの住人たちの程度の低いおつむの中を透視して憂う。このルネの独り語りに、もうひとりの主人公・12歳の少女パロマの日記が絡む。読者が読まされるのはどちらかというと二人のヒロインの頭の中ばかりで、よく憧れの対象として引き合いに出されるパリのアパルトマンの暮らし・その悲喜こもごも、みたいな空気は微塵もないのに、なぜかぐいぐいと引き込まれてページを繰ってしまう。

ただ日本人男性のオヅが出てくるところで、日本人としては嬉し恥ずかし痛し痒し(なんやそれ)、ちょっとなーちゃうやんなーこんな人いそうやけどいいひんで。とでも言っておこう。

この本のことを私の前で口にしたのはろくこさんである。たしかS高近くの小さなカフェで。知ってますかと聞かれて私はにべもなくううん知らんと答え、この本についてはその場の話題にすらならずに消えた。でも、じつはさ、それからずっと気にかかっててん。忘れへんかってん。やっと読んだのよー。というか、こないだ久しぶりに仏文学の書架の前に立ったら偶然目の前にあったん、ほいで、見つけたあーって思て。

毎年恒例、お城の夜桜を先週観に行った。よく見れば毎年桜の表情は異なるのだろうけれど、私たちは花を愛でるというよりは、夜の空気と薄暗いイルミネーション、青空の下で観たほうがはるかに美しいはずの数々の桜の、千年前にはあり得なかった「電気に照らされて闇夜に浮き上がる」幽霊のような立ち姿と、シルエットだけがかろうじて見える枯山水との奇妙な調和を、大勢の行楽客の砂利踏む足音をBGMにして、しばし非日常の休息を楽しんでいるのである。私たちもまた、知性ある下層民である。ルネのように知性のないふりまでしなくてもいいけれど、その人によりふさわしいしかたで表出されるべきものが知性であるのだからして、階級の上下を問わず、殊更にインテリぶるのは下品、というのは古今東西変わらない。

Elle va partir, demain matin. aux Etats-Unis!2012/03/08 19:13:39

とある雪の朝。寒かろうがなんだろうが実をつける我が家の苺。見習わないといかんなあ。

疾風に勁草を知る。娘の座右の銘である。彼女はなぜこれを座右の銘にしているのかというと、中学生のときの陸上部の顧問が、彼女を評してこの言葉を使ったのがきっかけである。疾風に見舞われようとも逆風しか吹きつけなくとも、娘はこうべを上げて前を向き、自身の不調にへこたれないどころかむしろそんなときこそチームメイトを励ましまたは開いた穴を埋め、時に先導し時に縁の下の力持ちであったりした。過分な褒め言葉をもらって嬉しいと同時に、自分の人生、ずっとこうで在りたいと肝に銘じたのである。疾風に遭っても倒れず勁草で在れ。

娘が幼いとき、フランスを中心にヨーロッパ旅行へ何度も連れていったので、海外旅行は初めてではないのだが、自分の意志で行き先を選び、自分たちで行動計画を立てて、自分でトランクに荷物を詰めるという経験は初めてだ。最後のフランス滞在からもう9年経っている。長時間のフライトの退屈なことなど「覚えてへん」。

「先生は飛行機の中では寝てろっていうけど、そんなに寝られへんと思うしなあ。何してよかなあ。ipodの中身も変わりばえしいひんし、ずっと聴いてても飽きるしなあ」
「お嬢さん、そんなときこそ読書です」
「うん。文庫もっていくっていう友達多い」
「アンタもやたら本もってるやん。睡眠薬やと思ってもっていき」
「なんかさーアメリカ旅行に携帯する本、って感じがしいひんやん」
「確かにアメリカムード高まる本なんぞはウチにない」
「……」
「……あ、お母さんがこないだ誕生日にあげたやつにしー」
「あ、そうや。そうしよ」
「うんうん。2冊とももっていき」
「よし、これで着陸まではなんとかなりそうや」

2冊のうちの1冊は、過日取り上げた:

『16歳 親と子のあいだには』
平田オリザ編著
岩波ジュニア新書567(2007年)

である。つまらんと書いたが、著名人が「僕の私の“16歳”」を語っているので、当の16歳自身にとっては読みようによっては興味深いはずなのである。昔の16歳は、今みたいに必殺ワード「学力低下」「理数離れ」「国際競争」に教育現場が翻弄されたりしない中でのびのび育っていたので、高校時代に自転車で全国縦断したとか、海外ひとり旅に出たとか、肉親の誰かが死んだのを機に覚醒したとか、今だったら「そんな暇があったら英単語覚えなさい」と親が言い募りそうな、そんな行動を、自分の意志で、好きなようにとっていた。現代との乖離が現代の16歳には若干理解しづらいであろうと思うし、また、収録されている「16歳バナシ」は破天荒なケースばかりではないので、また文体もさまざまなので、たまにイラッとくるのだ。ま、それは私の感じかた。むしろ私がイラつくケースのほうが娘にはフィットするかも知れぬ。

もう1冊は、角田光代の『くまちゃん』。新潮文庫である。恋愛小説短編集なのだが、すべての短編はリンクしていて、第1編の準主役が第2編の主役になり、第2編の相手役が第3編の中心人物……とこういうぐあいにリングチェーンのように話が絡み合い、第1編の主人公、20代の恋愛下手な女の子は最終編で存在感のある脇を固める中年女として登場する、という具合。
手の込んだストーリーや、複雑な人間関係を理解しないと物語がわからないような、そういう読み物が大の苦手な娘にはよい手引きになると思ったのである。まだほんものの恋を知らない彼女だが、今恋愛経験のないことはべつにどうってこと全然ないんだよということを(すでに彼女の母親が身をもって示しているとはいえ)わかってほしい気持ちもある。

とにもかくにも、『くまちゃん』、大人の皆さんにももちろんオススメ。わざわざ立ち向かうような本じゃないけど、暇なら読んでたも。

といってる間に、明日の出発時間は刻々と迫るのだわ。
うううーーーー
めっさ心配やめっさ寂しいわめっさついていきたいわー後ろからこっそりぃーーー
あたし、もうアメリカ25年も行ってへんーーー(行きたいんかいな)

さ、頑張って荷造りしよう。
思い出とお土産のスペースはしっかり空けて。

Bon anniversaire mon chéri!2012/02/10 01:49:14

『特別な一日』
山田稔著
平凡社ライブラリー(1999年)


誰もが特別な日というものをもっている。それが誕生日だという人もいれば結婚記念日である人もいるだろう。私はといえば、あの日もこの日も、自分にとって大切で特別な何かが起こったり何かに出会ったり何かをもらったり、ということがてんこもりで、毎日「特別な一日」のオンパレードだ。そんなふうになっちゃうと特別でもなんでもなくなってしまう。わかってるさ。

今年の始め、大学院時代の恩師に会った。私は修了してから見事にお目にかかっていなかったので、なんと12年ぶりでご尊顔を拝したのである。御髪は真っ白だが、電話で言葉を交わした時に若干お耳が遠くなっておられるように思っただけで、会って会話してみると、ゼミ演習の頃の先生とぜんぜん変わっておられなくて、嬉しいやら恐ろしいやら(笑)。私の母と同い年だということを初めて知ったが、脳をフル回転させて生きているのとそうでないのとではこんなにも年のとりかたが違うのかと嘆息する。私の母は足を悪くしてから行動範囲が狭くなり活力も萎む一方なので、ともすれば80代半ばに見られるのだが、まだ後期高齢者デビューが済んだばかりである。かたや恩師は白髪と皺のせいで70代だろうと察しはつくが、せいぜい70歳になったとこくらいだろう、そんなふうに誰もが思うのではないか。とにもかくにも若々しい。

恩師の年賀状に中国に凝っています、などと書いてあったので弟の著作(最近の新書)を贈ったら、嬉しそうな声で電話がかかってきて「本をありがとう。僕、この著者の本いくつも読んでるよ、ファンなんだ。君の弟さんだったんだね」。
世の中、何がどうつながるかわからないもんである。
いつか初の訳書ですといってダリ本を贈ったときも電話で話して盛り上がり、飲もう飲もうとはしゃいでいたのだが、引退してもいろいろと活動が活発でお忙しくて、結局時機を逸してしまったのだった。今回は「じゃあまた連絡するね、なんて言ってたら結局また飲めないから今決めちゃおうよ」と強引に先生は私とサシの飲み会をセッティングし(といっても店を探したのは私なんだけど)、晴れて12年ぶりの再会が実現したのだ。

知的な人と知的な会話に溺れるのはとても幸せである。言っておかねばならないが、この恩師はまったくの大学人ではない。とある大新聞所属のジャーナリストで、特派員として各国を渡り歩いた人である。早期退職を選んで、ぶらぶらしていてひょんなことから大学教員として「勤めることになったんだが、ったく柄じゃないねえ、こんなところは」とよく笑っていた。彼に言わせると「学者は伝えるための日本語を知らないからな」。恩師のゼミにはやはりジャーナリストや海外勤務を希望する学生が寄ってきたようである。頭でっかちになって考え込むより行動すべし。でなければどんな美文も生きてはこない。そういう意味のことを、とりわけ若い学生たちにはよくいっていた。私は院生当時すでに30代半ばだったので、先生は私に対しては教えるというよりも、共通の話題を持ち寄って会話の花を咲かせようよ、といったふうだった。先生に比べれば私の経験など塵ほどもなかったが、私が一定期間フランスに滞在しそれに続いてフランス人たちと長期間ともに仕事をしていることの意義を認めて、自分のパリとヴェトナム駐在の経験を重ね合わせて、「今話してくれたようなことを、自分の言葉で書き続けなさい」というような言いかたで指導してもらった。

山田稔は恩師よりも七つ年長だそうだ。恩師がパリ特派員だった時期に、パリで知り合ったそうである。山田稔といえばフランス語系人にとっては神様みたいな存在だ。そんなことを言うと当の山田先生は言下に否定されるだろうが、少なくともダラダラとものを書くことを日々のなりわいとしている者には、その文章、その言葉は天啓なのである。というようなことを言うと、私の恩師は我が意を得たりという顔をして「ホントに山田さんは素敵な人なんだよ。お元気なうちに会っとかないとなあ。それにしても君とは好みが合うよね」「ついでに申し上げると先生、私、鶴見俊輔さんも大好きです。神様のまだその上の御大、という感じかな」「そのとおりだよ。僕は鶴見さんの書いたものを読んできたから生きてこれたようなもんでね。いやあ、ホントに君とは嗜好が同じだよね。僕はね、思ったもんだよ、君は僕にとって最初のゼミ生のひとりだけど、この学生とはもっと早くに会いたかったよなあって。思ったもんだよ」

いま手許にあるこの『特別な一日』は、この夜先生が私にくださったものである。「読みさしだけど、よかったら持ってて」。山田稔は神だが、私の蔵書には一冊もその著作はない。図書館に行けば彼の著書・訳書はいつだって揃っているから、買い損ねてしまっていた。
先生にもらったこの本を改めて読むと、人と命とその書き残されたものたちへの優しい眼差しに涙が出るほど心を揺さぶられるし、真摯で厳しいその書くことへの向かいかたに襟をたださずにはおれないのである。もっと早くに会いたかったよなあ。確かにそうである。フランス語とも、恩師とも、鶴見俊輔とも、山田稔とも、もっともっと早くに会っていれば人生変わっていたのかもしれない。しれないが、早くに会わずに生きてきて、「いまさら」な時期にようやく出会ったからこそ、こんなに心が震えるということも、あると思っている。



2月10日は私にとって特別な日である。その日を前に、特別な日の張本人が下記のリンクを送ってきた。ったく何考えてんだあのバカ。他に言うことあるやろっつーの。
あ、失礼。みんな、ヒマだったら聞いてあげて(撮影場所は鴨川河川敷みたい)。私のブログに来てくださるみなさんにとっては言わずもがなの内容だけれど。

http://youtu.be/_5NZDlJ2CBU

若いっていいな。ただ単純にそう思う自分が、なんか、やだ(笑)。

C'est pas facile, les histoires des ados...!!!2012/01/05 19:48:04


『きみが見つける物語 ティーンエイジ・レボリューション』
アンソロジー(椰月美智子、あさのあつこ、魚住直子、角田光代、笹生陽子、森絵都 著)
角川書店(2010年)


仕事始めだった……。
ぜんぜんアタマが仕事モードにならないのなんのって……。
こんな新年は初めてだぞ。毎年、雑煮やらカルタ取りやらDVD鑑賞やら深夜映画やらでどろどろぬーぼーぐでんぐでんになったアタマも、しゃきっとするのにさ。歳かあ。ちきしょー。

若さがうらやましいなっ。
あの頃にはもう戻れないのだ。

なかなかの秀作を集めた「きみが見つける物語」シリーズ、紹介する本書は文庫じゃなくて単行本。売れっ子さんたちがずらり。きりきりきゅんきゅんの10代マインドを描いてみせる。私は魚住直子に惹かれて借りたんだけど、んー、本書への収録作品はそれほど好きではなかったな。月並みな評価かもしれないが、角田さんと森さんが突き出ているかな。で、この中でいちばん冴えないのはあさのさんだ。あさの作品はもともとあまり好きではない。何だったか超ブレイクした長編を手にとって、書き出しが違和感あってすぐ閉じたのを覚えている。もちろん、読了したのもあるが、いずれも、じゃ次行ってみよー、みたいな勢いを保てない。当分読みたくない感じ。本書収録作品はどれも短編だが、それぞれ著者の個性はよく出ている。本音を言うと森さんの作品もあまり好きではない。面白くて一気に読んでしまうのだが、的を射すぎているというと変な表現だけど、青春のツボをつかみすぎているというのか、もう少し外してくれたほうが(笑)オバサンは読みやすい。だーーーーっと読んじゃうわりに、読後感がよろしくない。そっか?そんなもんか?そう終わっていいのか?みたいな。「17レボリューション」も大変面白い。切り口も展開もさすがだ。だが最後はちんまりまとまってしまったな感が否めないのだが、それは過剰要求かもしれぬ。


「世界の果ての先」角田光代(初出:『野性時代』2005年7月号)
「薄桃色の一瞬に」あさのあつこ(初出:『野性時代』2005年7月号)
「電話かかってこないかな」笹生陽子(初出:『野性時代』2005年7月号)
「赤土を爆走」魚住直子(初出:『野性時代』2006年10月号)
「十九の頃」椰月美智子(初出:『Feel Love』2007年vol.1、「19、はたち」を改題)
「17レボリューション」森絵都(初出:『野性時代』2006年4月号)


で、何が好きだったかというと「十九の頃」なのだ。
ヒロインが十九の頃を思い出して語る。突飛なストーリーではない。物語の展開や結末も見える。だが、ヒロインの語りがどことなく舌足らずで、読み手はよそ見せずに聞き耳を立てなくてはならない。そのあたりが、タンタンターン!と展開していく森作品とちょっと(かなり)違う。
私はこういう、行間がしっとり湿っている物語が好きだ。たとえば、岩瀬成子さんの筆致がそうなのだけど、じんわりと、読み手の指先から心にかけて物語の色が染みていくような、そういう湿り気を含んだエクリチュール。
YAというジャンルに入る文学はおしなべて、本書収録の「電話かかってこないかな」「赤土を爆走」「17レボリューション」のように鋭さとテンポよさと意外性を持ち合わせていることが多く、それゆえに若者に受けているのが事実なのだろう。
本書の中では、角田さんの「世界の果ての先」が、少しだけしっとり感を醸し出している。だが、この作品のよさはそうしたしっとり感とは別のところにある。したがって、私が好きな岩瀬さん作品との共通点、といった言い草をするのは角田さんに失礼だろうな。それは椰月さんに対してもだが、この方の作品を本書で初めて読んで、他作品をまだ知らない。本作だけであれこれいえないが、本書の中では好感が持てた。

早いもので、娘の高校生活も10か月めに突入。親ばかりがあたふたしている間に気がつけば卒業、なんだろうな。高校時代、私は突然エリック・カルメンが好きだったが(そして卒業すると聴かなくなった)彼女が陶酔するのはなんだろう。何でもいいからそういう対象を持つがよろし、なんだが。

C'est rigolot, l'histoire des ados !2011/11/15 19:21:30


『空色メモリ』
越谷オサム著
東京創元社(2009年)


いたってありきたりな高校生たちの、日常のありがちなひと騒動をユーモラスに描いた学園ミステリーである。けっこう面白い。何でも読んでみるもんだなあ、とつくづく思う今日この頃。この越谷さんという書き手のことも、私はぜんぜん知らなかった。ノリのいい筆致で、とても人気があるようだ。本書も、主人公の「桶井陸」という少年が軽妙な語り口でストーリーを引っ張っていく。語りは軽妙だが、彼は90キロを超えるおデブさんで、口の悪いクラスメートからはブーちゃんと呼ばれていたぶられている。彼が自身を形容するとき、読者はたしかに暑苦しいおデブキャラを思い浮かべるのだけれど、デブを十分すぎるほど自覚し、自分のデブさのせいで他者に与える不快感を少しでも軽減しようと身だしなみを整える努力をするさまはとても微笑ましいというか涙ぐましいというかはっきり言うと滑稽であったりするのだが、自虐的なところまでいかないのが高校生らしい爽やかさを残していて好感がもてるのである。

さて、主人公の陸は、メガネをかけた勉強小僧みたいな「ハカセ」こと「河本博士」くんの「文芸部」に、正式入部しているわけではないのに入り浸っている。ハカセと仲がいいからだ。けれども、自分が来なくなると文芸部にはハカセしかいなくなるし、それではハカセも気の毒だし、自分も文芸部の部室以外に居心地のいい場所はないし、来るのやめたら放課後の時間を持て余すし、などなど、消極的な引き算の結果、陸は文芸部に顔を出しているのだ。が、ほんとうは、ここが誰にも邪魔されずに「日記」のような小説を書くことができる貴重な時間であり場所であるからなのだ。陸は日々の出来事を、文芸部のパソコンを借りて綴っていて、それを、決してパソコンのハードディスクにではなく、自分のUSBメモリに保存している。

そう、「空色メモリ」とは、「青春色した思い出」のことではなく、陸が愛用している記憶メディアの名称なのだ。

空色メモリには、陸が毎日綴ったハカセとの会話、顧問の先生の口癖、誰も来ないと思っていたのにやってきた新入部員の「野村さん」、ひょんなことから知り合った女生徒たちの印象や評価や彼女らとの会話が記録されている。絶対に他人に見られてはならない内容、それが「空色メモリ」にはぎっしり詰まっている。もし読まれでもしたら陸は破滅する。

なのに、空色メモリは人手に渡る。そして「全校生徒に公開するぞ」と、陸を苛む何者かからの脅迫メール……。

ストーリーはそれほど突飛ではなくて、もしかしてこれがこうなるんじゃないのかな?という方向にちゃんと落ちていく。だが、これが越谷氏の技なのだろう、実に上手く高校生の会話をポジショニングして、それなりにスリリングかつほのぼのとした学園ドラマに仕立てているといっていい。作家は、男子の視点で展開していくのが得手のようだ。非モテ系の主要人物「ブーちゃん」「ハカセ」にデリカシーのない体育会系のクラスメートを絡ませ、さらに超イケメンのバスケ部の新エースや遊び慣れている風の自惚れ男子生徒など、人物設定に配慮が行き届いていて(行き届きすぎの感もあるが)バランスがいいように思われる。で、「元」女子高生の視点で読むと、対して描かれる女子高生たちの会話や行動に少し無理があるような気もしないではない。派閥をつくりたがり気に入らない子を無視するような典型的な女王様タイプも登場させるが、(重要人物ではないからだろうが)イマイチ描ききれていない。ま、とはいえそうした点が物語の展開を邪魔しているわけでは、もちろんない。

オバサン視点で読んでやはり違和感を覚えるのは、ひとつ間違えれば深刻な問題に発展するはずのひとつひとつの出来事が、「おおごと」にならないまま消化され、「とりあえずこっちへ置いといて」扱いされ、笑い飛ばされている印象をついもつからだろう。高校生の親の視点で読めば、こんなことが娘にあったらあたしゃ相手の少年をただじゃ置かないわよ、と思うようなこと満載。ま、小説だからよいのである。

C'est beau, l'histoire des ados...!2011/11/11 20:12:31


『ライム』
長崎夏海 著
雲母書房(2006年)


学校側からいわゆる「不良」のレッテルを貼られている中学生たちの物語。
長崎夏海という作家を、不勉強でまったく知らなかったのだが、思春期の少女たちの心模様を、キリキリと錐が鈍く光るように描く作家は他に類を見ないという評判である。へえ、そうなんだ。
思春期特有の危うい友人関係や壊れやすい脆い意志、鋭利な刃物に喩えるには軽すぎて、砕けたポテトチップスなどというと叱られるくらいには強い精神性。個人差はあるが小6あたりから高1までは、ひとつ間違うと、積木くずしじゃないけど崩れるジェンガのように、その心は壊れてしまう。もう子どもじゃないから崩れた破片による衝撃も馬鹿にならないほど大きくて修復にも時間がかかる。
幸か不幸かウチの娘は「積木くずし」にも「スケ番デカ」にも「シド&ナンシー」にもならなかったが(これからなるかもしれないけど。恐)、本書のような思春期ストーリーを読むと、母親(つまり私)の態度次第で彼女の青春はいかようにも翻弄されたに違いないと思わずにいられないのである。

日向舞は中学3年生。母と姉と3人暮らし。父は月イチで帰ってくる、というか顔を出す。小学校教師をしている父は同僚の英語教師を愛人にしてそのまま家を出てしまったのである。彼らの勤務地は舞と姉が通う小学校だったから、針の筵に座らされたと、姉は父と愛人に対する憎しみを隠さない。だが舞は、実はピンと来ていない。出ていってしまってすっかりよその人になってしまった父より、一緒に暮らす母が疎ましい。


中学に入学し、新しいクラスで自己紹介するときに、舞は自分の名前をいえなかった。
「好きなものは、ライム。以上」
それしか言わなかったから舞のあだ名はその日からライムになった。
名前をいえなかったわけは、小学校5年のときに一緒に飼育当番をした女児の冷たく鋭いひと言のせいだった。あたしがきらいなのはひゅうがまい。そんなふうに言われたのは後にも先にもこのときだけだった。そしてそんなふうに言い捨てて、彼女はそれきり不登校になった。
あたしがきらいなのはひゅうがまい。それを言った当の本人と、ペットショップで再会する。そんなことを言ったくせに、彼女はとても朗らかに、懐かしそうに舞に声をかけ、今度一緒に遊ぼうと提案するのである。彼女は学校に通っている様子がない。遊び場所は「ストリート」だ。こってりメイクが目立つ彼女をストリート常連の少年たちがナンパするが、体よくかわして追い払うのもすでに堂に入っている。ストリートにたむろする若者たちは、別の世界の人間のようだが近しくも感じる。

舞の両親はようやく離婚することを決めたようである。
イケメンで知的、体格も日本人離れしたどこから見ても誰が見てもいい男である父を、自分は素直に素敵だカッコいいと感じ、とても愛していたのだと悟る舞。

高校になんて行けなくてもいいと思わなくもなかったが、大学進学を断念した姉の涙を思い出し、なんとか入れそうな商業高校に的を絞るライム。友達の周も、とんがってたくせに、ちゃんとしなきゃな、なんていって公立目指して勉強している。泉は、受験失敗したら料理人にでもなるよ、というからライムは、そんなの料理人に失礼だろと怒る。泉はやればできるんだよ、いつだってちゃんとやってきたじゃないか。ライムの言葉に泉は、久しぶりだなライムの説教、といって笑う。

ライムというあだ名がいやだったわけではない。
しかし高校に進学したら、自己紹介のときにきちんと名乗ろう、そして日向舞に戻るんだ。そんなことを思う主人公である。

長崎夏海はキャリアのある児童文学作家である。ほのぼのとした絵本の秀作が多いようだ。プロフィールを見ると50代を迎えておられる。なぜに優れた作家というものはこのようにいくつになっても若々しい筆致を保てるのだろう。
瑞々しい10代の感情の起伏を、今現在の言葉に載せ今現在の空気のなかに描いてみせるその力量に舌を巻く。
『ライム』の12年程前には『夏の鼓動』という、同じく高校受験を前にした少年少女群像を描いた作品があるそうだ。そちらも読んでみたい。

10月18日アボカドどんぶり

前にお弁当の写真をのっけたら、コマンタさんがおいしそう!とコメントをくれたので以来調子に乗って、余裕のあるときにお弁当を撮影するという癖がついた。といったが余裕のない場合がほとんどなので(「お母さん、ウチもう行くよぉお弁当まだぁ???早よしてえー」「はいはいはいはいはいはいはい」)毎日撮れてるわけではないが、それでもちょっくらたまってきたので古いものから順に披露することにする。

C'est moins intéressant qu'avant.2011/10/03 22:08:17

『トゥルー・ビリーヴァー』
ヴァージニア・ユウワー・ウルフ著
こだまともこ訳
小学館(2009年)


『レモネードを作ろう』の続編。
ヒロインのラヴォーンは15歳になっている。
続編といっても、本書の物語は完結しているので、
『レモネードを作ろう』を読んでいなくてもこれはこれで楽しめる。
楽しめる、といったが、
『レモネードを作ろう』に比べるとかなりつまらない。
『レモネードを作ろう』が、けっこう、
米国に点在するスラム街に潜む、
相変わらず解決されていない問題をあぶりだすと同時に、
それでも解決しようと多くの人々や組織が、
積極的な動きを見せていることを、
物語のベースで語っている……という意味で
読み応えがあったといえるのに比べて、
本書『トゥルー・ビリーヴァー』は、
軸になっているのがヒロインの純粋な恋心だったりするので、
いくら米国社会の病巣をやはり描いている、といっても、
訴求力はかなり弱いといえばいいだろうか。
で、こんなふうに、前作同様、
文をブツ切って書かれているので、
やっぱ女子高生のつぶやきとゆーか、
ケータイブログ見ているみたいというか、
若干じれったくてイラつく挙げ句に
ヒロインの恋はなーんだありがち、な感じで終わる。
ヒロインの母の恋もなーんだありがち、な感じで終わる。
だから私などはつまらねえ、と思う。

いや、しかし。

それでも、日本のティーンエイジャーに読んでもらいたい!
と強く思う。
そのわけは、ヒロインのラヴォーンが、
将来、面接試験を受けたり、大学進学や就職をして、
社会へ出るときのために、
「正しい話し方」の授業を受けるシーンが
頻繁に出てくるからである。
原書では当然「正しい米語文法」を教師が教えているはずだが、
訳者はみごとに、現代の日本語の乱れをそれに呼応させ、
我が国の、めちゃくちゃな若者(ばかりではない)の言葉遣いに
間接的に警鐘を鳴らしている。
日本の中高生、必読。
たぶん君たちなら、面白く読めるんじゃないかな。
『レモネードを作ろう』は、
ちょっと日本の状況とはかけ離れていたけれど、
本書はもう少し自分に引き寄せて読めると思う。
でも、恋の行方はとってもアメリカ的だけどね。
両作とも、出版社はそれぞれ「感動の大作!」なんていってるけど、
それほどでもない。
どちらも、等身大の物語でありながら、日米の文化の違い、
社会の違いをこれでもかと知らされる内容だから、
ある人にはショッキング、ある人には「ついてけねえー」、
ある人には織り込み済み、または関心外だろう。
それでも両作とも読む価値はあるよ。

このヒロイン、ラヴォーンの物語は3部作らしい。
次の物語では、ラヴォーンはさらに成長しているだろう。
私としては、もうちょっと脱線してもらいたい。
この2作とも、ヒロインはいい子過ぎる。
周りがハチャメチャなので、
ヒロインの常識人ぶりが不必要に際立つ。
大人にぐっと近づく前に、ぐたぐたべこべこになった
ラヴォーンを書いてくれたらもう少し読む気が起こるかも。


さて、作家志望の諸君のために著者紹介。著者はあのヴァージニア・ウルフとは全然関係なくて(まだゆってる)、こんな人である。どっかのサイトの引き写しでごめん。作家としては遅咲きみたいよ。

ウルフ,ヴァージニア・ユウワー
Wolff, Virginia Euwer
オレゴン州ポートランド生まれ。大学を卒業してから結婚し2児をもうけた後、小学校、高校で英語を教える。後に離婚。50歳を過ぎてから執筆をはじめ、現在は教職をやめて作家活動に専念し、ヤングアダルト向けの作品を書き続けている。デビュー作品で国際読書協会賞ほかを受賞して以来、数々の賞を受賞している。邦訳は『レモネードを作ろう』(徳間書店)。