Tout blanc...2015/01/01 17:54:06

新しい年を、平穏に迎えた。


朝、町内会の互礼会に出席。昨日までと同じいつもの顔ぶれだけど、年が新たになったというだけで、なんだか、清々しい。兄ちゃんもおっさんもジジイも清々しい。
朝のうちはきれいに晴れていた空が、天気予報どおり昼過ぎからにわかに雪雲に覆われて、お、雪がちらついてきたな、と思うやいなや雪はどんどん落ちてきて、あっという間に道を、屋根を、街路樹を白く染めていく。


年賀状を出していなかった人から届いていたので、その返事を数枚書き、投函するために外へ出た。気温が低く、落ちてくる雪が解けずに残っていく。家からほんの数歩歩いたところで、カメラを取りに引き返した。

雪は器用に積もる。小さな場所、細いところ、積もった雪がまた雪を呼ぶ。



刷毛に水っぽい白い絵具をふくませさっと風景をなぞっただけのように、あるいは粉糖を茶こしでまだらに振った焼き菓子のように、はじめは雪景色も、ま、そんなもんでしょ程度の印象だったのだが。

その1時間後には10センチの積雪。


降り続ける雪。久しぶりに現在進行形の降雪を見ている。
スーラの絵みたいだ。

電線もゲージュツ。


我が家の物干の風景。なんだか雪国。


雪は、ほんとうに白い。そして白はこの世のあらゆる色に比して最も美しい。白さは、赤みや黄みをひざまずかせる。スカイブルーや若草色も退場させる。どんな色も太刀打ちできない。白はピュアでイノセントの象徴だ。あまりに崇高だから、白がほんのわずかでも他の色を帯びたとたん、値打ちが下がるどころか最安値底打ちである。
白い肌、なんて全然白くない。白衣、なんて天使でも何でもない。精白や漂白したものは元が白ではなかったと白状しているようなもんなのでバツである。
この世の白と言われるものは、たいていなにがしかほかの色を帯びている。ゆえに薄汚い。ゆえにサマにならない。白紙、とか。白人、とか。白票、とか。

だからといって雪の純粋さをめざすなんて愚の骨頂だ。人間に生まれたというだけで赤子ですらすでに薄汚れている。雪はすでに天上のもので我々とは無縁だ。我々は薄汚れた鉱石を磨いたりして宝石と崇めて輝いていると勘違いして飾り立てて薄汚さをごまかすくらいしか能がない。能がないけれども、そこに創造の工夫をこらしてきたことも事実だ。汚さを隠したりごまかしたり、あるいはむき出しにして欺いたりといったことに、人間は生まれながらに長けている。我々はこの能力にすがって生き延びてきたのだ。気取らず地に足つけて、汚れちまった者らしく、したたかに生きていくべし。


たいして更新していないブログで言っても説得力がないが、一年の最後のエントリが雪で、続く一年の最初のエントリも雪だということに、いつになく運命的なものを感じておるのである。

またもう一年、おつきあいくださいませ。

Les espérances ont fondu comme neige au soleil.2014/12/21 21:59:47

爆弾低気圧、だなんて直接的すぎて情緒もなければ風流(ふりゅう)も感じられない退屈なネーミングだが、ともかくその爆弾のせいで大寒波に見舞われ雪が降った。まったく寒かった。我が家の乏しい暖房器具ではとうてい追いつかないほど冷え込んだ。たくさん着込んだ母は縮こまるようにして椅子に座ったきりぴくりとも動かず(気温が高くても全然動かないんだけど)、動かないわけにいかない私はがたぴし鳴る床を踏みしめ膝を振り上げ腕をぐるぐる交互に回し大声で歌いながら台所仕事にいそしんだ。点けっぱなしのラジオからアップテンポの曲が流れる。おお今こそレッツダンスよ、知らん顔してうたた寝三昧の母と猫をほったらかしてランランランイエイエイエと歌詞はごまかしながら踊ったり飛んだり跳ねたりした。そんな滑稽な時間を過ごしても、からだは温まらなかった。寒かった。どうすれば温まるのか。答えは二つ。その1、体温のあるものを抱く。体温のある抱ける動物といえば猫しかいないので猫を抱きかかえるが猫がじっと腕の中にいるのはほんの数秒である。しょっちゅう膝に寝にくるくせに、それは私の忙しい時に限っていて、私が温めてほしいときは逃げるのである。飼い主不幸モノめ。さてその2。食う。明快だ、満腹は心身を温める。あまりの寒さに外へ出るのをきっぱりと拒絶した私のアタマとカラダは、今このとき家の中にあるものでほかほかに温まる食事を用意するためにフル回転するのだった。なぜ、人間のアタマとカラダは食うためにはこのように有効な仕事をするのだろう? なぜ、より稼ぐためのアイデアや、言い得て妙のドンピシャの訳語はちっとも浮かばないのに、信じられない食材の組み合わせを思いつき世界の果てのグランシェフも敵わない一期一会の珍味をうみだすのである。美味しいなあ。温まるなあ。母、猫、私、の寂しい食卓(しかも猫は足元で丸くなってるだけだし)も至福の時に変わるなら、爆弾低気圧も大寒波到来も悪くないのだった。

物干しから眺めた東の屋根


雪を冠った時、日本の瓦屋根は格別に美しい。すっぽり覆われるのではなく、うっすらと薄化粧したくらいがいい。組んだ瓦の陰影が透けるくらいが美しい。瓦の影は幼い頃のいたずら描きの線に似て目的地のないまま延々と続く。線の描くのは波。甍の波と雲の波、の歌を歌うまでもなく、穏やかな海岸に打ち寄せる波のようでもあり、光を浴びて揺れる湖面のようでもある。線の描くのは皺。帯を解き、きものを脱いで露になる襦袢についた縦や横の皺に見えたりもする。線の描くのは虫。もちろん、長い虫だ。いもむし、あおむし、けむし。みみず、やすで、ぼうふら、むかで。行列つくって歩いていると想像すればユーモラスで気持ち悪さなど吹っ飛ぶというものだ(だからといってウエルカムな気分にはなれないが)。


西の屋根

苺の鉢

苺に寄ってみた


寒かったのは木曜日だった。寒くても寒くても、家の外では普段どおりの日常が過ぎていた。お向かいも隣も三軒向こうも営業していた。郵便も宅配便も朝刊も夕刊も変わりなく届いた。これが去年なら私も寒さを呪い冷える手をこすり合わせながら、滑る路面にチャリを転がして職場へ疾走していた、寒さのあまりかじかんで思うようにならない手足を引きずり転倒するやもしれぬ母を家に残すことに罪悪感を覚えながら。今日一日休業したって世界は変わらない誰の命も取られないとわかっていても、勤め人は会社を休むわけにいかないのだった。遅刻や欠勤が許されるのは気象庁が警報を出しそのせいで交通が麻痺したことが原因となる時だけであって「寒すぎる」のはサボる理由にはならないのだった。私の経験から、木曜日というのは暇だ、いわば中日(なかび)で月曜や金曜の急き立てられ感や追い詰められ感がない、糸の緩む貴重な日。ヴィヴァ! 木曜日! それなのに勤め人は木曜だって月曜や金曜と同じように憂鬱な顔をして出勤し、ふた言めには忙しいと口にして、そのいっぽう、ほんらいどうでもいいはずの他人の愚痴を親身になって聞くふりをしたりして時間を潰すのである。そのような澱のごとき時間を消化する必要がなくなっただけでも、勤めを辞めた意義は有る。私は、今は、私が休むと決めた日に休み、働くと決めた時だけ働く。ご想像いただけるだろうけれども、働くと決めた時の、少なさといったら。怠惰だ。そこヘいくと植物の几帳面で勤勉で生きることに対し真摯なことよ。感服。


ローズマリー


ローズマリーは西洋の植物だと思うが、その花の清楚なことといったら。でぷっと厚い脂肪のついた、角質も厚そうな肌の西洋女とはかけ離れた、湯上がりの若い女のような、すっぴんチックな美しさ。ローズマリーは花をつけたらさっさと摘んだほうが若葉がよく伸びると昔聞いたけれど、花が美しすぎて摘む気になれない。なにがしかの変化が見えると必ず写真を撮る親バカ精神は音を立てることなく清々しく咲くローズマリーにもいかんなく発揮されるのであった。


バラン


椿




幸いにも私に踏まれず葉の上で少しだけ永い命を得た雪たち。雪は、解けてなくなるまでのあいだ、この下界の何を見て何を思うのだろう? 降り立つ世界の、変わり果てように呆れているのか、あるいはあまりの代わり映えのなさを鼻で笑っているのか。どこへ落ちてもそれが運命と納得ずくで解けていくのだろうか。こんなはずじゃなかったと、落ちた場所によっては空や風を呪うかもしれない。何もしてやれやしないじゃないかと、屍の上で泣くかもしれない。雪には雪の数だけ運命と経験があり、見た風景の数がある。汚いものをひととき覆い隠し、人びとの目を汚れから逸らし、よからぬ企みを潜行させる輩の助太刀を、望むと望まざるとにかかわらず、雪はしている。雪はあまりに美しくて、人を魅了するにあまりある。ぼーっと見とれているあいだに、雪に隠れた地下で悪事を働く者たちのあることを、私たちは必ず知ることになるだろう。私たちは雪の結晶のひとかけらほどの奇跡にすがったが、わずかな希望すら陽光を浴びた雪のようにとっとと解け去った。雪たちは、私たちを嗤うだろうか。それとも憐れむだろうか。

Il fait froid, mais très beau! On va se promener, Maman!2014/12/14 12:08:07

ほったらかしにしているブログに、それでも訪問してくださっているかたがいらっしゃると見えて、管理画面を開けると出るアクセス順位がいつも100番台である。ありがとうございます。

みなさん、ほんまにおおきに。なまけもんですんません。そやけど、なまけもんなんは、ブログだけですねん。自分のブログに触る暇、1分もあらへんの、毎日。働きまくってますねん、毎日。何の仕事か、て言うたら家事と介護ばっかしなもんで、生産性は全然あらへんの、毎日。蓄えの底の尽きる日の到来がリアルになってきて、笑てられへんけど、今の暮らし、気に入らんこともないし、けっこう穏やかな気持ちで家事と介護三昧してますの、毎日。

面白い本、連日たくさん読んでて、記録しときたいわあという気持ちはいっぱいあるねんけど、言いたいこと書きたいこと考えたいこと次から次に湧いてきて、いつもタイムリミットで「ああまた今度にしよ」とつぶやいて一日終わる。
面白いことがたくさんある。ハマってしまうと抜け出せないくらい、面白そうなことが、おいでおいでと手招きしている。誘惑に負けると容易にその世界に溺れてしまうので、ぐっと心の歯を食いしばって(リアルの歯は歯茎が不健康なので食いしばってはいけませんと歯医者にいわれている。笑)手招きに背を向ける。ああ、くやしい。試食してみたいあの世界……なんていうことがほんましょっちゅうある。

なんでこの世にはこんなに面白いことがゴロゴロ転がってんのやろ? なんで、そやのに、面白いことがみんなに行き渡らへんのやろ? お金がなくても、仕事がなくても、友達がいなくても、家族がいなくても、心の琴線に触れる何か面白いことに出会えさえすれば、自ら命を絶つなんて選択をしなくても、生き延びることができたはずなのに。

母は昔、よく「もうわたし首吊る」と口走った。本気でそんなことができるわけはないのに。でも、それほど辛かったのはたしかだ。それでも、思いとどまった、というか、実践場所がなかったというか、とりあえず「首吊る」気配はまったく見せないまま辛さをやり過ごして、その主因たる夫も見送り、現在に至る。
母は今思うように身体を動かすことができないため、私が介護しているが、ときどき、首を吊らずに生き延びてきたことを、この人はほんとうに幸いだと感じているのか、とふと思う。孫娘が送ってくれたバースデーカードには、「私の引退公演まで生きててね」と書いてあった。引退公演って、まだデビューもしてへんのになあと涙声で笑った。辛い毎日だったけれど、娘や息子の、高校合格、大学合格、就職決定、海外旅行の土産、著作の出版、結婚や孫の誕生などなど、欲張らず生きていれば訪れるささやかな出来事の喜びを積み重ねることで、自身を納得させてきたに違いないと、母を眺めていて思う。生きているせいで、こんなに世話をかけているし、こんなにお金も遣わせているし、勤めまで辞めさせてと、自分を責めることもたびたびあるだろうけれど、なんだかんだいいながら私たちはべつにさほど苦にもせず母を抱えているのである。

それはときに、子育てよりも、未来が洋々とはしていない分しんどいし、猫の世話よりも、物理的に重くて、しっかり文句を言われたりすることもある分いまいましい。だけど、たぶん、いろいろなことがあったけれども終(つい)の記憶に残るかもしれないと思うと、とっとと忘れ去られそうな子育てよりも、全然覚えてくれるわけない猫の世話よりも、気持ちを込めてできることでもあるのである。

寒いなあ。
でもとても天気がいい。どこまでも澄んだ青空のもと、散歩がてら商店街を歩きに行こう。母の身支度も、万端のようだ。昨日は事始めだったし、お正月準備の話でもしながら歩こうか。

Mon chat qui dort comme un bébé2014/11/07 21:39:38

飼い猫と同世代なう、みたいな話をしたばかりなんだけど。
でも私の猫はやはり私の娘。末娘。
いつまでたってもあかんぼのままの、ちっちゃなちっちゃな ma petite jolie fille なのだ。今日も私の膝の上で暖をとる。

幼い頃娘が(←人間のほう)愛用していた袢纏を猫の布団にしている。私の体温で温まった椅子の上に広げると、そこで丸まって眠りこける。

ペットホテルでの3泊、あまり眠れなかったのかもしれない。左のケージにぎゃんぎゃんうるさいワン公、右のケージには周囲に色気ふりまくメス猫、向かいにはブサイクで目もあてられないオス猫……たちがほんとうにいたとしても我が愛猫にはきわめてどうでもいいはずだが、我が家でのようには眠れなかっただろう。

少しの気配でもすぐに瞼を開く愛猫だが、つついても耳もとで呼んでも知らん顔で寝ること寝ること。

……可愛い。

可愛すぎる。

娘が(←人間のほう)生まれたばかりの頃、産院の個室で、そして帰宅してから寝室で、私は彼女の寝顔を撮り続けた。その頃のアルバムを見ると、ほぼ同じ写真が延々と台紙に連なっている。猿から少しばかり体毛を間引いただけのような、赤くてちっちゃい生き物。一日中ほとんど目を閉じたまま、その瞼をくっとしぼったり、ゆるめたり、口許に笑みを浮かべたり、ヘの字にしたり、すぼめたり、何かを噛むように顎を動かしたり。顔全体を延ばしたり、縮めたり、しかめたり、目尻を下げたり上げたり。私には一秒ごとにその表情が変わって見えた。そして一秒前の表情にはこの先もう二度と出会えないのだ、と追いつめられた気分になって、今しかないこの奇跡の表情を残すのだと次々とシャッターを押した。毎秒、娘は成長している。毎日体重が増え、身長が伸び、耳と鼻をはたらかせ、空気の匂いと風の音、私の匂いと声を覚えていく。私には、その成長は目を瞠る勢いに思え、一日の大半を眠って過ごす娘の寝顔にダイナミックな変化が見てとれたのであった。けれども、その頃撮ったおびただしい写真の数々は、幼い娘の安らかな寝顔のヴァリエーション、というにはあまりにも、ほとんど、同じである。題名をつけるとしたらひとつしかない。「寝る子」。

寝る子。寝子。ねこ。

私のガラケーの中には、膨大な数の、この手の愛猫の写真が納まっている。私の猫は、初めてウチにやって来た頃、私の布団の中で私の手首に小さな顎を乗せて眠った。知らない世界へ来ておびえていたが、寒さには勝てず(冬だった)温もりを求めて布団に潜り込んできた。きゅっと体を縮めて、赤ん坊のくせに、一分の隙もない様子で、しかし温もりに気をゆるして、くうくうと眠った。

あの頃に比べたら、猫は体が大きくなり、あまり遊ばなくなり、ますます寝てばかりの毎日だ。避妊手術(卵巣摘出)をしたら大人にならないから子どもっぽいままだとか聞くけれど、無邪気な赤子のような愛らしさはさすがに影を潜めた。が、寝顔は少しも変わらない。猫の寝顔を見ると、夢中で写真を撮った昔をつい思い出す。

そして今日、同じことをしている。

うるさいなあとでもいうように、前足としっぽで顔を覆う。

耳に触れると耳のてっぺんを器用に平たく倒す。
しっぽに触れるとあっち行けとでもいうように左右に振ってみせる。
額に触れるとかゆそうに手でひと掻き。手、じゃなかった、前足。
首や背中に触れても知らんぷり。あ、べつに、触っててくれていいよ、みたいな。

寝返りを打って、少しだけこっちを見たけれど

またすぐに寝た。

寝る猫とともに居るとき、おそらく私はいっさいを忘れて猫への愛に溺れている。かつて赤子の娘を見つめ続けたあの至福の瞬間の連続のように、少しの表情の変化も見逃すまいと凝視し続け、一秒ごとにその愛らしさにKOされ続け、ダウンしては起き上がり、自分の中からほとばしる愛に逆らえず、対象たるいとおしい存在をまた見つめ続ける。対象への愛に酔いしれ、この至福のときが未来永劫褪せることなく続くことをすべてに優先して願っている。この世の垢や滓、汚れた澱やはびこる愚などのいっさいを忘れて。

命が限りあるものだなんて、信じないのだ。猫はまるで生まれたばかりの赤子のように、みずみずしい生命の泉を湧き立たせ、私に幸福をくれる。ずっとずっと、永遠に、この愛に浸るのである。いつかは終わりが訪れるなんて、信じないのだ。

(BGM:「空と君のあいだに」中島みゆき)

L'âge de chat2014/11/07 01:53:55

出張から戻って、猫を引き取りにクリニックヘ行った。愛猫のかかりつけ医ではペットホテルを併設しており、2泊や3泊の短い不在のときはこれを利用している。1泊3800円ちょっとだが、高いのか安いのかよくわからない。このクリニックの患者でない動物の場合は、もう少し高くなる。

少し待合室で待った。クリニックのケージから出されて、預けてあるバスケットに入れられて連れてこられるだけで、べつに私めがけて飛びついてくるとか、すがりついて会いたかったとニャンニャン泣くとか全然するわけがないのだが、それでも再会が待ち遠しい。最初にどんな言葉をかけてやろうか、ただいま、お母さんよ、かしこうしてた? などと思い巡らす。

持ち帰り自由のフードサンプルの入ったかごのそばに、小さなフライヤーが置いてある。猫の飼い主に宛てたその内容は、猫も年をとるにつれ病気になる確率が高まりますよ健診を受けましょう、というありきたりなものだったが、猫と人間の年齢比較表がついていて、見ると愛猫と私は今ほとんど同い年なのだった。我が愛猫は来月またひとつ歳をとるが、すると私より四つも「お姉さん」になる。しかし、とりあえずそれまでは同い年なのだ。なんだか最近私たち仲良しだと思ったわ、ねえ、りーちゃん。娘がいなくなってから、じゃれる相手が猫だけになり、以前にもましていっそう私は猫といつもじゃれているのだが、猫のほうが私に対して寛容になったというか、包容力が増したというか。二年くらい前まではくっつきにいくと嫌がって逃げることのほうが多かったような記憶があるのだが、最近は、しょうがないわねはいはい一緒に居たげるわ、と受け容れてくれるのである。猫はしょっちゅう私の膝に来るけれども、私も、床や椅子に丸まって寝る猫のそばに頭を置いてしばし休憩することがある。猫は薄目を開けて私を一瞥し、ふんと鼻息をひとつたて、またくるると丸まり直して私の耳のそばで寝息を立てるのだ。

「お待たせしました」
獣医院に勤務する、獣医以外のスタッフをなんと呼称するのだろう。看護師さんでいいのかな。ともあれ看護師さんがバスケットを抱えて待合室に現れた。
「にゃー」
かごの中から愛猫のいつもの声がした。大きな安心感に満たされる。
「にゃー」
「帰ろうね」
「にゃー」

同世代の者どうしだけが共有するある種のシンパシー、たとえ知り合いや友達でなくても同い年だというだけでわかりあえるような錯覚を覚えるあの感じ。愛猫と自分の間にそんな呼吸を感じながら、曇った夜空のもと帰路につく。

Super Moon2014/09/09 20:42:13

9月9日は重陽の節句。それ何?というかたはご自身でお調べくだされ。まあ旧暦での話だからほんとのところは今日がそれだと言うのはちとしんどいと思うんだな。でもそんなことゆーてたら1月1日も3月3日も5月5日も7月7日もどれも本来は旧暦での節句やのにその日にお祝いやらお祭りやらしてるしな。ま、ええねんな。

月もこのうえないほど綺麗やし。今夜8時頃の東の空。物干しから撮りましたの。
マンションと電線が忌々しいわ。この場所から、子どもの頃は大文字の送り火も眺めたザマスのよ。東山の稜線がなだらかで美しく、ときどきは早起きして、空と山を染める朝焼けを見に駆け上がったものですのよ。
あーあ。周りは小汚い四角いビルばかりになりまして候。

ぼやくのはやめて、望遠でスーパームーンに肉迫っ。
すっきり晴れた夜空に月光。夜ってそれ以上何も要らないよね。夜は暗くていい。月や星の煌めきが冴える。月光を頼りに夜道を歩いたもんなんだよかつては。
ヘンゼルとグレーテルだって、月に光る小石を頼りに、森から家に帰ったんだ。


でも、昔はこうだった、だとか、もともとこういうもんだった、だとか、そんなことあまり言いたくないもんな。時間は必ず過ぎていて、ひとは誰でも同じように年をとり、世の中は変わる。変わっては、いきなりおとずれる揺り戻しに戸惑い、どう振る舞えばいいのか迷いやためらいを見せる。その都度人びとが知恵を絞って、その時点での最適の答えを出してきた。その時点での最適の答えが、振り返ってみればまったくよくなかったということは多々ある。気づけば軌道修正をするとか、同じ轍は踏まないとか、先人の死を無駄にしないとか、道の採りかたはいろいろさまざまだろうけど、つまりノスタルジーやそもそも論で「昔はよかった」を繰り返す愚とは、歴史に学ぶとか経験知とかって対極にあるはずやん。扱う対象の存在が大きければ大きいほど、積み重ねて結集されてきた叡智に負うところ大のはずやん。育児、教育、研究。経営、行政、政治。


右翼あほぼんはアベとかアソーだけやと思てたけど、じつはぎょうさんやはるねんて! びっくり。てか、ハーケンクロイツ掲げる日本人の団体があるなんて私は全然知らなかったんだけれども、そいつらとハイポーズで満面の笑みたたえた記念写真撮るってどんな現代の政治家なん。その噂の写真、何日か前にほかのブログ経由で見て吐きそうになったけど、外国メディアにも見つかっちまったぜ。恥!


内田樹@levinassien

ネオナチとの関連性が暴露された閣僚たちは自分たちの政治的ポーズが国際世論にどのようなリアクションをもたらすかについてはまったく何も考えていなかったようです。自分たちの言動を国際的な文脈において吟味する習慣のない人間はとりあえず「グローバル」なんとかについては語る資格ないです。

任命責任として、これから安倍政権は政府発表の文章中の「グローバル」をぜんぶ「ドメスティック」に書き換えることを要求します。いや、ぜひお願いしたい。「ドメスティック人材育成戦略」とか「経済の急激なドメスティック化」というような文章を読むと、妙に説得力ありますよ。

安倍側近のふたりとネオナチとのツーショットについてAERAのエッセイを書きました。「頼まれれば誰とでも写真を撮る」ので迷惑しているというのが事務所の釈明でした。いや、問題は「そういう人」から「一緒に写真に写りたい人」だと思われているという点にあるわけでしょ。

政治家の力というのは「正味のところどういう人物であるか」によってではなく、「どういう人だとまわりから思われているか」によって決定される。だから「李下に冠を正さず」という古諺があるわけです。公人がすももの木の下で冠をいじると、自動的に「すもも泥棒」だと思われる。

「私はすももなんか盗ってない」と言ってもダメなんです。古代から「政治家はどのような行為も『最悪の意味で解釈されるリスク』を勘定に入れて行動を律せよ」という教えがあって、そんなことは彼らだって中学生のときに国語の時間に習っているはずなんですから。

ある夕刊紙から「安保理の非常任理事国入りのためにバングラディシュに6000億円送って、立候補を見合わせてもらったのって、どうですか?」という電話コメントのお求めがあったので、「浅ましいことです」とお答えしました。なぜ日本が常任理事国になれないのか。

それは去年の広島講演でオリバー・ストーンが言ったように、「日本の政治家には世界に向けて発信するメッセージが何もない」からです。国際社会において日本以外のどの国も代替し得ない役割といったら、それは「平和憲法を護って、70年どことも戦争をしていない」という事実以外にない。

現に、平和憲法のおかげで「テロのリスクがほとんどない」からこそ、福島原発が「コントロールされていない」にもかかわらず、マドリード、イスタンブールより東京が五輪開催都市に選ばれたわけです。でも、そのことを日本政府は言わない。言いたくない。

でも、その「最大のメッセージ」を捨てて、アメリカの世界戦略に追随するだけなら、どんな国も「日本が国際社会の未来についてどんなヴィジョンを持っているのか知りたい、日本の指南力に期待しよう」なんて思いませんよ。

前に常任理事国枠を増やして日本も入れて欲しいと懇願したときに拒絶された理由を覚えているはずです。「アメリカの票が一つ増えるだけだから無意味」と言われたのです。これだけ国力があって、国内統治に成功していながら日本が選ばれないのは「世界に向けて語る言葉」がないからです。

「グローバル化する経済に最適化すること」を国是にするような国に「国際社会の行く道を照らし、領導してもらおう」と思う国なんかありません。「僕の理想は『みんながしていること』の真似することだよ!」という人をリーダーに頂く集団がないのといっしょです。


日本は国連安保理常任理事国になりたくてなりたくてしょうがないんだけど、どうしても日本を常任にしたくない国が常任にいる以上ぜったいなれない。悔しいけど数年間に一度非常任理事国の椅子が回ってきた時にアジア諸国をはじめとした加盟国全体のために働くのが使命だろう。数年前はそういう議論だったんだけど、いまは、たとえ現在の5大国=常任理事国が諸手を挙げて歓迎してくれたとしても、あたしゃ絶対この国を「非」があろうがなかろうが常任理事国にしたくないよね。恥ずかしくってアンタそんな、そんなていたらくで表へ出なさんな。お天道様に恥ずかしい! お月様にも恥ずかしい! 新内閣の顔触れどれひとつとして国際社会に「我が国の閣僚です」って見せたくない。史上最悪。


月が笑う

作詞:井上陽水
作曲:井上陽水
歌:井上陽水
 
いつもの夜が窓の色を
知らぬ間に変えて
我が家に来ました
薄着の君は頬杖して
夜をはおれたら
寒くはないのに
やさしいのは誰です?
夜よりやさしいのは?
さみしいのは誰です?
僕よりさみしいのは?
指輪の跡が白くなって
月日の流れの
速さにぬかれた
形を決めて夢を作る
転がる形に
出来ればいいのに
時計はいつも通り
ボーンボーンと
この部屋の為だけに
ボーンボーンと
話は尽きて月が笑う
君と僕以外
帰り道もない

La myrtille2014/09/03 20:59:52

7月の真ん中2週間ほど、家を留守にしていた。
出発前にはまだ青かったブルーベリーが、帰宅するとすっかり美味しそうに色づいていた。
この写真は6月に撮ったものなので、出発前の7月初めはもう少し実が丸くなっていたんだけど。

お日さまのほうを向いていた実が、あたしも年をとったわといわんばかりに皆うつむいて(笑)。
ブルーベリーらしく、ええ色に熟れたもんじゃわい。
収穫している手は帰国中の娘。
したがって、写真は8月初めなのだ。7月下旬に帰宅してこれら実の数々を目にし、早く収穫したくてウズウズしていたのだが、娘が帰るのを待って一緒に収穫しようと思ったわけであった。

ほかの枝についていた実も……。

このように。

我が家にはネズミが棲んでいて、プランターに実るさまざまな実を次々にかじりにきてくれるので、娘が帰るまで食われないように覆いをしておいたんだけど、覆いの上から食われた形跡が……。ったくもう。


しかし、それでも、今回の収穫は50粒。昨年は7粒(笑)だったことを思えば飛躍的な進歩だ! 7倍以上も穫れたわけだから、来年は350〜400粒くらいいけるぞ!


今夏の収穫分50粒は、この春以降、母のためにこまめにつくっているおからマフィンのトッピングにつかった。こういってはなんだが、アンタ、もう最高に美味しかったわよ! 

収穫しながら娘がひとつ、ふたつ食べて美味しい〜と叫んでいたが、やはり加熱すると甘みが倍加する。来夏はブルーベリージャムをつくれますように。

O là là!!! C'est un beau jour, le mardi 1er juillet 2014!!!2014/07/02 13:54:56

わがままおぼっちゃまがそのまま大きくなって中年になったような甲高い声。暑苦しい、じつに風刺画にしやすい顔。その垂れ下がった目尻がソフトな印象を与えると、ええように形容されてた時代もあったやろけど、こやつがちょろちょろし始めたときからとにかく気持ち悪くて仕方がなかった、アベボケカスシンゾー。昨日はこやつにとってキラキラに輝いた記念すべき美しい日だったんだろうな。地元紙の一面はでかでかとこやつのアップだった。紙面4分の1くらい? でかすぎや。ああ気持ち悪い。こんなものをそんなにでかく扱うなよ、つーの。地元紙は一貫して今回のゴリ押し閣議決定とやらに反対の立場だが、こんなにこやつのキタナイ顔 アップで扱ったらけっきょくは称賛してるのと同じになってしまうのに、そういうのを指摘する人いないのか編集部には? 新聞の一面にでかでかと掲載された自分の顔、その報道の論調なんかどうでもいいもんねボク、といわんばかりににんまり嬉しそうに各紙をスクラップさせていてるアベボケカスシンゾーぼっちゃまの顔が容易に想像できてしまって我ながら毒されていることに愕然としてがっかりする。弱小政党だろうとなんだろうと、野党というものが存在し、しぶとく反対を唱えてもいるのだから、その野党政治家、議員たちの顔もしっかり掲載しないと説得力がないのだ。いまどき、ひとびとは写真しか見ないんだから、まったく。壊れる寸前のマイガラケーがほんとに壊れると困るのでクソアベボケカスシンゾーのアップ一面は撮影しないっ。




7月1日から祇園祭なんだぞ。吉符入りなんだぞ 。神聖な日を汚しおって。許さん。
マイヒーローたちのツイートを拾ってみた。


内田樹 @levinassien
昨日(引用者注:6月30日のこと)の官邸前デモは4万人が集まったそうですね。それをニュースで報道しないメディアが存在するということに愕然とします。「政権にとって不都合な出来事は『存在しないこと』として扱う」というメディアの態度が安倍政権の暴走を可能にしています。

おはようございます。2014年7月1日は日本が自滅への道へ大きく踏み出した歴史的な日付として記憶されることになるでしょう。これから集団的自衛権発動のための法整備が始まるはずですが、国会にどこまで抵抗ができるのか。ほとんど期待できないというのが率直なところです。

法整備で興味があるのは「宣戦布告」と「軍法」についての規定をどこに入れるかです。日本は憲法上交戦権を持っていないので宣戦布告についての法規定がありません。けれども、集団的自衛権の発動に際しては宣戦布告をして「中立国ではない」ことを宣言する必要があります。

宣戦布告を法律で決めることになると、世論のナーバスな反応が予測されるので、内閣は「宣戦布告は憲法65条に規定されている内閣の行政権の範囲内の行政行為であり、政令で定めることができるので、法整備を要さない」という言い訳をしてくることでしょう(必ず、そうします)。

日本には軍法がありませんが、戦地における軍人の犯罪を制約する法的規定を持たないまま海外派兵することはできません。でも、これも「軍法」を国会で審議すると国民がナーバスな反応をするので、「戦地においても日本の刑法を準用する仕組みをつくるので、軍法は特に定めない」ことになるでしょう。

法律を作らずに、行政府が「ありものの法律の使い回し」と「ありものの法律の解釈変更」と「政令」だけで政治を行う政体のことを「独裁」と言います。日本は定義上、現在「民主制から独裁制」に移行中です。

今日本で進行しているのは「行政府が、国会を単なる諮問機関にまで格下げして、立法行政を専管するシステム」の完成です。それがメディアが煽り、有権者が待望した「ねじれのない政治」「決められる政治」の実体です。

立法府をここまで無力化できたのは、各党ともに「議席数は欲しいが、個人として政治的見識のある人物は議員にしたくない」という執行部の要求に基づいて「家業として政治家」である人たちと「テレビに出ていて知名度はあるが、最近仕事が少ない人」を集中的にリクルートし続けてきた「成果」です。

結果的に有権者のほとんどは投票行動に意味を見出せなくなった。そして、投票率が低いことを最大の政権基盤とする政権が独裁的なふるまいを自分に許している。民主制の「末期症状」に僕たちは今立ち合っているわけです。「まっとうな議員」を選び直すところからやり直すしかありません。


想田和弘 @KazuhiroSoda
振り返れば、キャッチフレーズの効果の凄まじさに驚嘆させられる。一時期やたらと耳にした「ねじれ国会」だの「決められる政治」だのを考えたのは誰だったのだろう。あれに乗せられて大量の議席を自民・公明に与えた結果、なんでもかんでも強引に「決められる政治」が本当に実現してしまった。

そうか、「決められる政治」の「られる」は「可能」の意味だと勝手に思っていたけど、あれは実は「受け身」だったのか。なんでもかんでも勝手に安倍氏と与党によって「決められる政治」。


町山智浩 @TomoMachi
現実に集団的自衛権が適用される可能性が高いのは北朝鮮が韓国を攻撃した時にアメリカと一緒に韓国を助ける場合でしょう。RT @whistleman: 報ステで集団的自衛権に賛成と言ってる人の理由が「中韓に攻められたら怖いから」ばっかり

アメリカにとって中国は最大の経済パートナーだからですよ(日本と同じくらい米国債も持ってるし)。韓国は日米の同盟国だし、集団的自衛権はその賛成派が考えているような中韓への対抗手段にはまったくならないですよ。 RT @ken6375: 何で米軍が中国軍と合同演習する?

中韓と戦うのはアメリカの意志に反してるので、中韓と戦いたいなら日米同盟を辞めるしかないですね。 RT @akitera0812: @TomoMachi @ken6375 ではどうすれば中韓の対抗手段になるのでしょう? 外交ですか? 民間レベルの活動ですか?

普通にそうでしょうね。 RT @fukuoka_t: @TomoMachi @ken6375 アメリカは、中東での尻拭いを他国に肩代わりさせたいだけでは? 

非同盟中立平和国家という選択もありますよ。@sao954

日本では立法それ自体の違憲性を争う抽象的審査は行われてないですね。今回の憲法解釈でもそれに付随する具体的な争いから違憲審査を争うという戦法が必要になるわけですね。@pastabarpiano



兵頭正俊 @hyodo_masatoshi 
山口那津男が歯止めをかけた、などうそぶいている。歯止めなど日本側にはない。世界一好戦国の米国が戦争に入れば、自動的に日本も参戦し、戦略・戦術はすべて米国任せになる。今がそうなのだから、実際の戦争で日本の意見など通る筈がない。戦死者数もおそらく隠すだろう。

山口那津男の仏心など、意外と軽いことがわかった。大臣のポストの方が、人命より重いのだ。戦後70年の平和を、たったひとつの大臣ポストのために捨てたのである。今は連立から去って、安倍を降ろし、また(そんなにポストが欲しければ)違う首相のもとで連立を組めばよかったのである。

集団的自衛権。こういうときはトップの人物に左右される。自民党も公明党も、もっと立派なトップだったら、結果は違っていた。安倍晋三も山口那津男も、あまりにも軽すぎる。思想家ではないから、言葉に責任をもたない。自分を歴史のなかにおいて見ることができない。必ず死者たちに裁かれるだろう。

公明党の山口那津男が、歯止めをかけた、と。自分に歯止めをかけられない男が、米国に歯止めなどかけられる筈がない。戦争は米国の要請で始まり、戦場では米軍が戦略と戦術を練る。自衛隊は傭兵として従うだけだ。日本政府など、ただのお飾りで、戦況の説明も形だけのものになるだろう。

集団的自衛権で、自衛隊は、「自衛」から「他(米国)衛」の傭兵になる。これから日本は、「専守防衛」から「米国防衛の戦争参加」へ向かうことになる。大切なことは、「新3要件」は解釈し直され、大きく育つということだ。歯止め、など、国民だましのペテンである。

安倍晋三の記者会見。権力と「記者クラブ」メディアとの退廃した関係を象徴する記者会見だった。質問の2番手は拉致問題で安倍にヨイショ。すべての質問に、安倍は机上の原稿を読みながら答える。まったくの出来レース。迫力のない、ジャーナリズムのない、ヨイショ質問ばかりだった。

安倍晋三の記者会見。迫力のない、およそジャーナリズムのない、ヨイショの記者質問ばかり。質問の度に、安倍は下の原稿を見て答える。完全な権力と「記者クラブ」メディアの出来レース。全体に相手の米国のことが忘れられている。米国が何をいうか。それをすべて捨象した、自己陶酔の会見だった。

官邸前。「戦争反対!」、「安倍は辞めろ!」、「ファシスト失せろ!」。安倍は人前では嘘をつく。自信がないのだ。本物の政治家は、本当のことをいい、批判には、本当のことをいって反論するものだ。安倍の世界は、その場しのぎの嘘で塗り固められている。それに電通(メディア)が協力している。

官邸前。「安倍を倒せ!」、「憲法守れ!」、「ファシズム許すな!」。安倍は記者会見で、「平和国家の歩みは変わらない」といった。これは、あなたが好きだといって、他の女性のために捨てる準備をしている男を思わせる。正面から改憲を切り出せない卑劣さが、記者会見の様々な嘘に露出していた。

官邸前。原発や特定秘密保護法反対と違って、若い人の参加が多い。集団的自衛権の正体は、「米国防衛の参戦」だから、若い人の危機感は当然。日本の若者ほど可哀想な若者たちはいない。格差社会に投げ込まれたうえに、原発収束の天文学的な費用を押し付けられ、ついに命を差し出せといわれている。

官邸前。「安倍は辞めろ!」、「安倍を倒せ!」、「憲法壊すな!」。戦争には相手がある。集団的自衛権にも相手(米国)がいる。この認識が安倍にはない。屁理屈と嘘にうっとりしている。異常な性格だ。実質的には日本参戦は米国の要請で始まる。日本のトップはポチになって参戦を決めるだけのことだ。

官邸前。「安倍は辞めろ!」、「さっさと辞めろ!」、「独裁辞めろ!」。シュプレヒコールも若い人たちの声が多い。原発と戦争の是非は、首相が無能と無責任でさえなかったら、この若者たちの前に安倍が土下座しなければならないのだが。安倍が土下座するのは、オバマの前だけだからね。

官邸前。「公明党、恥を知れ!」の声とプラカード。仏教の本義は人を殺せと見つけたり。仏教の政党が、戦争政策を練り、戦場に若者を送る。たったひとつの大臣ポスト欲しさに。米国は、常に、必ず、絶対に、正しいのか。米国の参戦要請を断る政治力など日本にあるのか。自分をだますのも、これまでだ。

***

試されているのだな、私たちは。
今朝の同じ新聞に、ニコラ・サルコジ拘束される、の記事があった。フランス国民は、この恥ずべきお猿をてっぺんに戴いていた屈辱の日々を 耐えて耐えて耐え続けて、お猿が2期めを狙った大統領選でNONを突きつけた。友人たちによればオランド政権になって「よくなったことなどひとつもない」らしいが、それでもお猿に比べれば「100倍マシ」だそうだ(私の友人には左派しかいないけどね)。100倍マシになっても社会は弱者に厳しいまま。どの国も、容易ではない道を歩んでいる。だから、私たちも、けっしてひるむな歩み続けよ、と背中を押されているのだ。
そして歩み続けられるかどうか試されて いるのだ。

なにもわかっていない娘があるとき、書いてきた。「お母さんも、ドイツにおいで。ここ、なんだか安心できるよ」
苦笑。
けれども「日本のほうが安心できるよ、安全だし、食べ物美味しいし。いつでも帰っておいで」と、どんと胸を叩いていえやしないじゃないか。

Je ne suis pas contente!2014/06/16 00:03:29

つねづね不思議なことがある。
なぜASAHIネットはさまざまな調査で「顧客満足度第1位」とかなんとか、そうした類いの栄誉に浴しているのだろう?


●年連続○○ランキング第1位! とか、そんな言葉がトップページには踊っているし、ウイキペディアのASAHIネットの項には過去の華々しいランキング歴も記載されている。


なぜ? なぜそんなにみんな満足してるの? ほかのプロバイダと何が違うの?


私はほかのプロバイダは使ったことがないので、何がそんなによいのかじぇんじぇんわかりません。ほかのプロバイダにはできないことを、ASAHIネットはしてくれているのか?


お前は比較検討もしないでプロバイダを決めたのか、とお思いであろうか。
実はそうなのだ(笑)。


ある人が「インターネットって楽しいわよ〜」と、私にキョーレツな勢いで「インターネットライフ」を勧めたのだ。10年くらい(もっとかな)前のことだ。


その人は関東の人だったが、リタイアした夫はそのまま家で年金生活、息子と娘はそれぞれ独立して勤務地に住んでいる。彼女は、初めは京都で勤める娘のアパートにときどき来ていたのが、すっかり京都が好きになり、ほぼ毎週のように通う生活をしばらく続けたあと、住み着くことに決めたのだそうだ。


娘さんが転勤でよそへ引っ越したそのあとに、母親がちゃっかり住み続けているというわけだった。


ひょんなことから知り合ったが、そのときすでに、京都生まれで京都居住歴ほぼ40年の私をはるかに凌駕して、彼女は京都のことをよく知っていた。観光ガイドだってできそうだった。ひたすら歩いて、頭の中にはすっかり京都ウォーキングマップができあがっていて、抜け道案内だってできそうだった。穴場スポットとか、知る人ぞ知る隠れ家的名所、みたいな知識まで豊富だった。


私は舌を巻いた。このひと、なにもん? 本でも書くつもりなのかな。……しかし彼女にはそんな下心はまるでなく、ただただ京都を気に入っただけなのだった。


そして京都を愛してやまないのだった。


知れば知るほどその奥深さの深みにはまって蟻地獄的状態なの、などと言う。京都への愛はつきないのであった。


京都を深く愛してくださるのはよいが、「ご家族みなさんばらばらなんですね」。寂しくないですか、と尋ねた私に「連絡網はバッチリよ!」と得意満面でいう。


家族はそれぞれが遠方で暮らしているので「ヘタすると息子なんかすぐ音沙汰なしになっちゃうでしょ」。家族の絆を安易に断たないために始めたインターネットは彼女たち家族にとって「便利よ〜」 このうえないツールだったのだ。


「なんでもメールで知らせ合うわよ。家族だけがアクセスできる掲示板も持ってるし」。ふーん、そんな使いかたもあるのか。当時すでに仕事でインターネットを利用していたのでどういうものかを知っているつもりだったが、私はインターネットとはあくまで産官学連携の便宜を図るものでありその情報共有を促す目的で存在すると思っていたのが、一般家庭でフル活用されているとは。


彼女宅で契約しているプロバイダがASAHIネットであった。


「インターネットでね、趣味のお友達もできるわよ!」という彼女は、京都探訪記を綴っているとも言っていた。それが公開されているのか、家族間の閉じた場だったかは聞かなかったけど。とりあえずとても楽しそうで、しきりにASAHIネットへの加入を勧めるのであった。理由は、「友達紹介したら3000円」キャンペーン中だったからだ(笑)。「私は3000円もらえるし、あなたは何か月か無料になるわよ」


そろそろ家でもネットにつなぎたい とちょうど思い始めたときだったので、彼女の説明をひととおり聞いて「まあ、これでいいか」と即座に判断したわけである。
ほかのプロバイダ については何の調査も検討もしなかった。


我が家での「インターネットライフ」は突然始まって、思いのほかスムーズに滑り出し、彼女も3000円のショッピングボンドを受け取った。めでたしめでたし。


……というわけにはいかないのである。


私はかれこれ10年もユーザーやってんのに、加入以来何か「お得」なことに与った記憶は何もない。
料金優遇されるとか、ポイントがつくとか(笑。要らんけど)。


何もない。


アサブロでは、ブログはひとつしか持てない。2つめからは新たなユーザー登録が必要で、有料だ。なんだいそれ。
私はアサブロのほかに3つブログを持っているけど、どれも無料で開設できる。
アサブロは「広告などは入りません、すっきり!」なんてのが謳い文句にあるけど、私が利用している他のブログサービスはいずれもアサブロ同様にサイドバーや記事下に勝手に広告が入ったりすることは、いっさいない。でも無料。


画像は何十点も一度にアップロードできるし、写真のタテ・ヨコも自動判断して適切に読み込んでくれる。数秒ごとに自動保存してくれるからつねに最新状態がキープされている。アサブロは 、もっちろん編集中に自動保存なんてしてくれない。保存するたび管理画面に戻される。エディタ機能を使わないと複数の写真をブログ記事に載せることはできないばかりか、画像アップロードは1点ずつしかできないし、そのうえ時間がすごくかかるし、しかも写真のタテ・ヨコを判別できない。
おまけに、エントリー中にいきなりログイン画面に戻る。なんなん、これ。
それまで書いた記事、レイアウトは無に帰するのだ。エディタで書いていてもふつうに書いていても、よくある。
アサブロのアタマがパンクしたってことなんだろうけど、そんなに頻繁に卓袱台ひっくり返されると困るのよ、お母さんは。
他のブログサービスでは同じように大量の画像を扱っても、ながながとつらつらと書いていても、途中で放り出してゼロにするなんて、そんな無礼な振る舞いはない。


写真のタテヨコを判別できないなら、画像を回転させる機能をつけてくれ。
くだらないシール機能とかあまり可愛くもかっこよくもないデザインテンプレートとかうじゃうじゃ要らないから、複数の画像をアップできる機能をもたせてくれ。
管理画面トップにいつも出るインフォメーション、2012年のまま止まってるけど、更新しないならインフォ欄なんて辞めたらどうなんだろう。


それに、あの前世紀の遺物のようなWEBメール、どうにかならないのだろうか。

ほんとうは、初め「いちご栽培&収穫の記録」をながなが綴っていたが、途中でアサブロのエディタはやる気をなくしてログイン画面に切り替わってくれた。ほんま、親切。

みんな、ASAHIネットの何が、満足なのだろう?