Un jour, c'etaient les lunettes...2014/01/06 18:35:01

あいたっ、と思ったら眼鏡だった。
眼鏡はまっぷたつに割れて、一方はぱあんと飛ばされて落ち、歩道わきの溝のきわに転がった。
曲がりしなに後ろを振り返り、いま走ってきた路面を見ると、もう一方は一部がぐしゃっとつぶれて粉々になっていた。
わたしは、自転車で眼鏡を轢いたのだった。

安物のサングラスが、いつか自分の鞄の中でまっぷたつに割れていたことを、思い出した。安物でもわたしにはお気に入りの眼鏡だった。朝夕と真夏、太陽がいささかきつく感じられるときには必ず日除けのために眼鏡をかけた。日除け用の安グラサンはいくつも持っていたが、弦が外れたり、みすぼらしくなったりしていくと使わなくなる。鞄の中で割れた眼鏡は最も長期間愛用していたものだった。割れた姿を見たときは、愛犬を亡くした飼い主ってこんな気持ちだろうかと、とても悲しく大きな喪失感を覚えた。

わたしが轢いた眼鏡は、見誤っていなければ黒めのサングラスで、おそらくスポーツタイプの大ぶりなものだった。わたしの通勤路はジョギングコースでもあり、自転車、歩行者、ランナーが行き交う。そこそこ本格的な装備で走っている市民ランナーがつけていそうな、そんなサングラスだったように思う。走っていて、ふとしたことから外して、からだのどこかにつけていたのが、落ちたのだろう。

わたしは、自転車乗りは器用なほうだ。つまり、乗っているのはママチャリだが、そんな自転車の割に、スピードは出せる。もちろん、緩急をつけたり歩行者の間をすり抜けたり障害物をくいくいっとよけたり、はお手のものなのである。道に落ちているジュースの紙パックなんかはわざと轢いてつぶれる感触を楽しむ。缶の類はタイヤへのダメージが気になるので転がってきてもすんでのところでよけられる。
だから、舗道の上の眼鏡を遠目にでも確認していれば轢くことはなかったのだが、迂闊にもわたしはそのとき何も、いっさい、目に入らなかった。路上など、見ていなかった。いつものわたしなら、目ざとく眼鏡を見つけ、自転車を停めて降り、眼鏡を拾い、誰かに蹴られたり踏まれたりしないように柵の上に置くとか石塀のでっぱりに引っ掛けるとかする。必ず、そうする。
そのときのわたしの頭の中は何かに占有されていた。いや、ただ、ぼーっとしていたのである。一市民ランナーの紫外線防御サングラスはわたしの一瞬の夢想の、無残な犠牲になった。わたしには、この眼鏡が哀れでならない。原形をとどめないガラクタと成り果てたからには、もはやそれを眼鏡と認識する歩行者も自転車もない。ただ、踏まれ続けるだけだ。

翌朝には清掃人がきれいに始末をするだろうか。ああそうだ、そうしてくれれば、もしかしたら持ち主は愛用品の無残な姿を見ずに済むかもしれない。



書き始めたものの落としどころを見失ったり、意気込んで書いたけど急速に色褪せて見えてボツにしたり、といった文章を、ときたま、こんなふうにアップしようかなと思います。つまんないけどおつきあいくださいね。

adieu C 2/22009/05/29 12:18:35

その日は交差点を少し過ぎた場所でその人の姿をみとめた。と思ったら、彼女の数メートル前を歩く老婆が倒れた。ジャンは即座に自転車を止めて駆け寄ったが、当然ながら彼女のほうが早かった。大丈夫ですか? はい、はい。杖を突き損ねたのか、なぜ倒れたかよくわからないが、手を地面についてしまって掌からちょっぴり血が出ている。例の彼女はティッシュでそれを拭き、バッグからタオルハンカチを取り出して、これ使ってくださいといった。老婆は恐縮したが、いいえどうぞ、子どもが使っていた古いものですから、あとは捨ててもらっても。ジャンは彼女の明朗な声が子どもと発音するのをはっきり聴き取った。
老婆がよたよたと行ったあと、彼女はジャンを振り向き、いつもすれ違いますね、学校ですか、お仕事ですかと訊いた。あ、はい、仕事で学校です。……あ、その、フランス語教えてます、はい。彼女は、日本語がお上手ね、もう長いことお住まいなのねといった。きっといい先生ね。そういわれたあと、なぜかジャンは胸が苦しくなって、何かが突き上げてくるのを感じた。でも、もう終わりなんです今週で、ぼく、日本からフランスに帰るので……。
あらせっかくお喋りできたのに残念。そう微笑んで彼女は自転車にまたがって行こうとした。一瞬のためらいののちジャンは、アトンデ!と叫んでいた。キキッとブレーキ音がして彼女が振り返る。待ってください、えっと嘘です、今の。あの、ぼく、明日もここ通ります、これからもずっと。彼女は訳がわからないといった表情を見せたあと、そう、じゃアドゥマンとさっきと同じ微笑みを見せて走り去った。ジャンはその場所に立ちすくみ、今朝の授業サボっちゃおうかな、なんて考えもよぎったが、スィコンモワともぐもぐつぶやいたあと、よっしゃあ!と今度は日本語で大声を出し、力いっぱいペダルを踏んだ。

adieu C 1/22009/05/29 12:17:17

ジャンは自転車通勤である。道路が碁盤の目をしたこの町に慣れた頃から、目的地までの道をジグザクに選んだり、大通りだけを走ったり逆に裏通りばかり走ったり、と通勤路を変えて楽しんでいたが、ここ一年ほど、行きの三分の一は固定されるようになった。毎朝、一つ目の交差点は必ず同じところを通ることにしている。信号待ちをしていると、通りの向こう側で同じように信号を待っている人がいて、その人とすれ違う一瞬が好きなのだった。その人はいつも何か考えごとをしているような、信号を見るでもなし、歩行者を確認するでもなし、青に変わるとおもむろにペダルを踏んで、少し諦めたような表情になる。きっとこの交差点を越えたら職場が近いのだ、ジャンはそう思っていた。やだなあ今日もまた一日仕事だわ、なんてきっと思っているのだ。声をかけたいけれど、ジャンのほうも十時から始まる朝一番の授業に遅刻するわけにはいかないので立ち止まってナンパしている場合ではないのだ。数年前から教師として登録していた語学スクールで、二年ほど前にレギュラー教師の枠をもらった。レギュラーになると時給も上がる。自分の好きな時限にレッスンを入れ、それを選ぶ生徒を相手にすればいい。そういう権利を得るまでは大変だった。あくまで生徒の希望日時が優先で、その日時に教師のほうが合わせる、あるいは空いている教師が担当する、そんなシステムだった。馬鹿馬鹿しい、と辞めていく同僚の外国人もいたが、ジャンは踏ん張った。自分で口コミで探した個人レッスンの生徒らを掛け持ちして生計を立てた。そうするうち、スクールにはジャン先生でないとダメという生徒が増えてきたのである。
毎日のリズムができて、余暇もでき、いろいろなことが捗るようになった。ようやくこの国、この町の人間になれた気がしている。毎朝すれ違う彼女が心なしかいい表情をしていると、ジャンもその日一日、調子がいい。

adieu B 2/22009/05/28 12:10:29

九十歳を超えてもなお悠々と余生を楽しむ老人たちにたくさん出会う一方、そういう長寿者から見ればまだまだ「若手」の陰山さんのような七十過ぎの人たちを見送ることがよくある。やりきれない、と思う。陰山さんも、朝食は毎日同じものを奥さんが用意していただろうに。
ところが、もっと若いブランジュリ・カトの加藤さんが急死した。夫の落ち込みは大変なものだった。パン・ド・カンパーニュ、あれだけはヤツが焼いてたんだよ、ほかのは息子が頑張ってたけどさ、カンパーニュだけはさ。
それから何日か経ったある夜帰宅して開口一番、夫は、シンガポール支社長の椅子が回ってきたよ、と告げた。まあ。それで、受けるの? ああ。行こうよ。いいだろ、ケアマネの仕事、休眠にしても。と夫が言い終わらないうちに佐知子はええ行くわ、と答えていた。この場所から出発したい、私はたぶんそう望んでいたんだわ、と思ったのだ。
シンガポールにだってうまいパン屋、あるよな。夫は出会った頃のお茶目な表情でいった。まあ、やっぱり。やっぱりって何だよ。何でもないわ、おいしいパン屋さん、見つけましょうね。

adieu B 1/22009/05/28 12:09:44

人参と、大根と、ジャガイモを賽の目に切る。佐知子の毎朝の習慣だ。夫の朝食はパン・ド・カンパーニュにミネストローネと決まっている。パン・ド・カンパーニュは自宅から車で十分ほどのパン屋「ブランジュリ・カト」で買う。これも決まっている。加藤さんは夫の先輩か後輩だったか、とにかく同窓生なのだが、フランス風のパン屋を始めたのは地域で最初だったので流行りに流行った。今は息子さん夫婦も手伝って、カフェテラスも増築してますます大繁盛だ。夫は友達のパンを最初に試食したのは自分だというのが自慢で、こんなに繁盛するほどおいしいパンを焼けるようになったのもオレのアドバイスが効いたからだぞと冗談なのか本気なのかわからないことを今でもいい、加藤さんもそのたび笑ってうなずいてくれる。甘い物好きの佐知子は、パン・ド・カンパーニュを買うついでにパン・オ・ショコラをひとつ買う。三日に一度の楽しみである。
ボウルに賽の目になった野菜が小さな山を築いた。ふう。佐知子はこうした日常を退屈だなどと思ったことはない。といって、逆にとりわけ幸せなことだとありがたがることもなかった。夫の勤務先は海外にも工場を持つメーカーで、夫は独身時代数年の海外勤務を経験したことがある。しかし、結婚してからは転勤をともなう人事異動はない。もういい歳になってきたので遠くへ行くこともないさ、といっていたのは五年前だ。その頃佐知子はケアマネージャーの仕事が順調に動き始めていた。もしかしたら私のことを考えて、転勤の話も断っていたのかな。そんなふうに考えなくもなかったが、口にするのはやめておいた。住む場所が変わればパンや野菜も変わる。そうしたら朝食も変わる。夫はそっちを恐れているのかもしれないわ。
ケアマネの仕事をしていると、変わらない日常の貴重さと、変化の重要性の両方を感じる。あるとき担当した陰山さんという男性は家業を止めてから覇気を失くし、足が悪いこともあって自宅にこもりきりになっていた。外の空気を吸わせてあげたいが、母も歩行に難があるので父を支えながら散歩なんてできないんです、といっていたのは陰山さんの長女で、花見や川辺でのピクニックなどレクレーションの盛んなデイサービスセンターを希望した。高齢者にはもう波乱に満ちた毎日は要らない。静かな水面に、葉が一枚落ちたときのゆるやかな波紋。それぐらいの刺激があればいい。陰山さんは週に二回通所介護を受けるようになり、口数は増えないけれどその日を楽しみにしているのが表情でわかる、と長女から報告を受けて佐知子は嬉しく思ったものだ。
しかし、ある日陰山さんの訃報が入った。突然意識不明になり緊急入院して、わずかひと月余りで亡くなった。デイサービスセンターには、けっきょく八か月しか通えなかったことになる。

adieu A 2/22009/05/27 13:00:20

中一ももうすぐ終わりという頃、娘の頭に円形脱毛を見つけた。あれ、アンタ抜けてるじゃない。うん……やだなーこれ隠すのタイヘン。隠れてるうちはいいけどさ。どういう意味? 卓也君みたいにさ……。えええええ卓ちゃんみたいにいつかなっちゃうのーーー? わかんないぞぉ。どこいっちゃったんだよアタシの髪の毛……。旅に出たんだねえ、きっと。勝手に旅立つなよぉぉ帰ってこいよぉぉもぉぉ。
と、私たちは比較的お気楽にこの現象を受けとめ、様子見に徹していたのだが、最初の発見から約四か月、直径が三センチにもなろうかという娘の円形脱毛の跡には、やっとうっすら産毛が見えてきたところだ。きっと卓也君のところにも、髪の毛は帰ってきているに違いない。

adieu A 1/22009/05/27 12:58:36

横田卓也君はウチの娘の三歳上で、ウチの子が小学校に入ったとき四年生だった彼は何かと兄ちゃん風を吹かせて年下の子どもらに威張っていたが、とてもよい遊び相手だった。よく面倒を見、鬼ごっこをするにしても石蹴りをするにしてもドッジボールをするにしても、ともすれば訳わからなくなって敵も味方もぐちゃぐちゃになる低学年のちびっ子たちを統率して上手に遊ばせた。リーダーシップというのかもしれないが、何より卓也君自身がいちばん楽しんでいたのが窺えて頼もしかった。
やがて彼は中学生になり、制服を着て我が家の前の道を、ウチの娘たち小学生とは反対の方向へ、毎朝歩くようになった。入学当初は、私を見かけると、首を前へ突き出して、ざいまっす(おはようございます、の後半だけが聞こえる)といった。けれど、だんだんそういう年頃になるのか、友達と連れだって登校するのをその後も見かけたが、挨拶しなくなった。
挨拶しなくなったのが先か、それともこちらが先だったかもう思い出せない――こちら、というのは、卓也君が頭をバンダナでくるんで登校するようになったことだ。中学校に制帽はなく、帽子やサンバイザー、ターバンの類は禁止されていると聞いていた。だから卓也君の姿は結構目立った。いちびっているようにも悪ぶっているようにも見えないし。しかし、あるとき彼を比較的至近距離で見てはじめてわかった。脱毛症だったのだ。
うなじや耳のそばにもまるで髪の毛がなく、地肌だけがバンダナに隠れ切らずに見えている。正面から顔が見えてわかったが、眉も睫毛も抜けていた。こうなると、人相も異なって見える。
卓也君はバンダナ姿のまま中学三年まで通学していたと思う。どの高校に進学したかは聞いていない。卓也君が卒業してから、ウチの娘も中学生になった。

真理奈2009/04/10 17:19:02

新しいバレエ教室になじむにはかなり時間がかかりそうだ。真理奈はそう思った。貴沙と鈴乃が一緒だけれど、レッスン後着替えて親の車が来るまでのわずかな時間に少し言葉を交わすくらいだ。貴沙とも鈴乃とも、ほんとうは話が合わない。けれど小さいときから何かにつけて一緒に行動してきたので、お互いをよく知っていることはたしかだ。ただ、これ以上相手を知りたいとも、もっと自分を知ってほしいとも思わない。

そういうふうに思ってから、ふと、では自分にはそんな友達が今、あるいはこれまでにも、いたためしがあっただろうかと自問した。
いない……。

真理奈は、誰かと喧嘩したなんてことは一度もない。冷たくされたり意地悪されたり、悪口を言われている気配を感じたりといったことは皆無だ。真理奈はおとなしいわけではないが、でしゃばらない。小学校のときからなんとか委員や係を受け持ったことはない。また、誰も真理奈を推薦しなかった。といって嫌われているとか、避けられているということはなく、授業中には隣の席の子に何かと頼りにされた。教科を問わず、真理奈は何でもこなした。たとえば絵や習字が入選したり、テストでたった一人、百点だったりということはしょっちゅうだった。運動会はいつだって学級対抗リレーの選手だった。だが学校生活を振り返って、そういう真理奈のさまざまな活躍が同級生児童とその親たちの脳裏に刻まれているかといえば、ノーだった。それどころかほとんど誰も真理奈の存在を記憶にとどめていなかった。真理奈は積極的に自分から働きかけて行動する子どもではなかった。静かにいつも穏やかな表情で教室にいた。そして終業後は放課後遊びをすることも、スポーツクラブに参加することもせず、ひとりで帰路についた。

五年生のときか六年生のときか、バレエの発表会で琉璃とペアで踊ることになっていたとき、放課後、廊下でよく二人で振り付けの予習復習をしたものだ。通り過ぎる他の児童が「なにやってんだーるりぃー」と茶化していく。だがいつも声をかけられるのは瑠璃ばかりだった。琉璃に向かっておどけてみせてからついでに「園田もやってんのぉ」と一瞥するケースがほんの時たまあるくらいだった。といって、そのことじたい真理奈はなんとも思っていなかった。真理奈は人と自分を比べたことはない。バレエで琉璃と踊るときのみ、琉璃の姿と自分の姿を見比べた。背格好がそっくりな二人はまるでふたごのように、鏡のように踊ることをよく要求されたからだ。

思えば、琉璃だけは、レッスン中の表情や息遣いで、気分のノリや、体の切れのよい日悪い日が見てとれた。二人でペアを組む機会だけでなく、群舞のときのリード役も二人に任されることがよくあった。目の合図だけで次の動きを互いに指示しあえた。別の中学に進学したが、だからといって琉璃との距離は縮まりこそすれ、遠のいたりすることはなかった。

ある日、母親の美智子が「中学生になるときに貴沙ちゃんと鈴乃ちゃんと三人で他のお教室に移ろうね」といったとき、真理奈にはまったく意味がわからなかった。初めてそうした母親たちの計画を知ったのはまだ六年生のときだった。理由を尋ねると美智子は「区切りがいいから」と訳のわからないことをいった。
貴沙や鈴乃の家は、竹下バレエからかなり遠い。送迎の事情もあるだろう。でも自分には教室を替える理由がない、と真理奈は思った。
「貴沙ちゃんや鈴乃ちゃんは、真理奈が移るなら一緒に移りたいといってるらしいのよ」
「なら、真理奈が竹下バレエにいるっていえば、二人とも残るの?」
「うーん、そうねえ、たぶんね」
「……」
真理奈は母親に逆らったことはない。何年か前、美智子は子宮筋腫の手術をした。その頃の真理奈には、病気が何なのかわからなかったけれど、母親が手術を受けて入院したという事実は重大だった。美智子は平気よと笑っていたが、きっと痛かったんだ、苦しかったんだと真理奈は思った。母親に心配をかけてはならない。そう決めたのだ。
「中学生クラスになったらレッスン時間も遅くなって、発表会の練習も厳しくなるって。勉強する時間がなくてきっと困るわよ。それに好きなドラマも見られないわよ。そんなんだから、ほら、小学生のときに上手だった子が中学生高校生になってやめていくのよ。みんな、もっと負担の少ないところへいったんじゃないかしら」
「それホントなの、ママ?」
「はっきり知らないけど、そういう話を聞くのよ」
「……」
「真理奈は他のお教室に行くのはいや?」
「……いや」
「そう……」
「レッスン厳しいかどうか、まだわからないもん。真理奈、ちゃんと勉強するから」
真理奈は、過去にやめていった生徒たちが竹下バレエの方針についていけないからやめたのか、親の経済的事情でやめたのか、それとも本人がやる気をなくしてやめたのか、何も知らないし、興味がなかった。自分はバレエが好きだから、どこで習ってもいいと思っている。けれど今一緒に習っている仲間が好きだったし、中学生クラスに進むのを楽しみにしていたのだ。もっといえば、貴沙や鈴乃がやめるならどうぞ、という気持ちだった。どうして真理奈にくっつくのよ、いつも。

しかし、中学生クラスになってたしかにレッスンは厳しくなった。定期考査のためにしばらくレッスンを休むと遅れを感じる。定期考査期間もレッスンに通いたいといったが美智子は許してくれなかった。琉璃は定期考査期間も休んでいなかったが、お母さん何も言わないのと訊くと「うん、諦めてる」といって笑っていた。自称運動バカの琉璃は、体を動かしていないと頭も働かないもん、テスト期間は部活も休みになるしバレエくらいやんないと頭が凍るんだと冗談めかしていっている。体力的に完全に水を空けられたかも……。真理奈はちょっと悔しかった。自分は、連日のバレエのレッスンだけでくたくただった。翌朝寝坊することも頻繁になって、けっきょく中学はずっと美智子の運転で通学している。

中学一年生の秋になると、一年前とほぼ同じことを美智子はいい、新しいバレエ教室の候補をピックアップしてきた。どこも、発表会は数年に一度しか実施しない、普段は基礎レッスンに重きを置いている、実力次第でコンクール向けの個人指導もあり、ということだ。玲子や好恵と一緒に見学してきて、だいたい決めてきたという。
真理奈には、反論の余地がなかった。というよりも、何が最良の方法なのかわからない。竹下バレエにすごく未練はあるし、琉璃と会えないのは寂しいし、貴沙や鈴乃とべったりは嫌だけど、美智子が勉強や日常の生活リズムの大切さをこんこんと説くのを聞くと、母親に従っておけば間違いないという気になる。そして、

「発表会や行事のあるたびにお世話係させられるの、ママもう嫌だわ」

と美智子が何気なくこぼした一言が決め手になった。ママが嫌がっているところには、居られない。やめることを決めて、美智子と真理奈は竹下バレエへ挨拶に行った。ほかの教室に移ることはいわずに、勉強との両立ができませんから、と美智子は何を問われてもその一点張りで通した。真理奈は横で黙っていた。
竹下先生が真理奈に向かって「踊りたくなったらいつでも戻ってらっしゃいね」といったとき、涙がこぼれ落ちそうになった。美智子は気づかなかったようだったが。

おわり。

美智子(5)2009/04/09 11:44:06

高学年になると、楽屋係は一人、ないしは不要となった。子どもたちが自分で何でもできるようになるからだ。その代わり、会場係に大方の保護者が駆り出されるようになる。ホールのドア前に立ち、空席の案内をしたり、上演中の移動を諫めたり、携帯電話やデジカメをいじる観客に注意したりするのが仕事だ。

「ちょいとお客さん、撮影禁止ですぜデジカメ、預かりまさあ。なあんていえないわよねえ」
山下千秋が茶化していうのをほんとねえと笑いながら、美智子は内心、注意するとかしないとかの問題以前だわと暗澹たる気分だった。舞台発表上演中、ずっと立ったままでいなくてはならない。幕間にも観客の手前いつもの三人でおしゃべりしているわけにはいかない。初めて会場係を務めたとき、これからこんなことが続くなんて冗談じゃないわと思った。おまけに、高校生クラスの生徒の母親から名指しで呼ばれ、「園田真理奈ちゃんのお母様、これから少しずつ、会場係のお母様たちを束ねるお役目も、お願いしますね」なんていわれてしまった。何でよ、どうして私が?
「そりゃそーじゃん、真理奈ちゃん実力ダントツだし、園田さんちがあのビルのオーナーだってこと教室中にばれてるもん。発表会仕切ってるお母さんたちって、みんな富豪の有閑マダムだよ」
千秋の言葉は、アンタ金と暇があるんだからちったあ役に立ちなさいよ、と言っているようだった。「だからって園田さんが何もかも全部やるわけじゃないじゃん、あたしたちを使えばいいんだからさ。そんなのみんな心得てるよ」
しかし、朝から晩まで働きづめの千秋にそういわれても説得力は感じない。

もうまっぴらだわ。会場係を(係の母親を仕切る役目にはまだ及んでいなかったが)二、三度務めて、美智子ははっきりとそう思った。

保護者に会場係させるのやめてほしいわよね。警備員代くらい払うわよ。
発表会前のレッスンもほとんど下手な子に時間費やされちゃうんだわ。真理奈は先生の言うことすぐ覚えるはずよ。真理奈は先に帰してくれたらいいのに。頼んでみようかしら。無理よねえ。
こんなに遅い時間までお稽古なんて……中学のときの勉強がどんなに大事か、バレエひと筋で来た竹下先生にはきっとわからないのね。
放課後すぐに帰って来るんだし、真理奈の時間にあわせて個人レッスンしてくれるお教室、ないかしら。ないわよねえ。

真理奈を迎えに行って帰宅したある晩、美智子は夫の前で思わず愚痴をこぼし、止まらなくなった。ああでもないこうでもないとひとりで問いかけひとりで答える美智子に、夫は笑った。真理奈は一学期の成績すごくよかったじゃないか、竹下バレエも気に入って好きで行ってるんだしいいじゃないか、琉璃ちゃんもいるしさ。

だが美智子はもはや、聞いてはいなかった。

「真理奈」につづく。

美智子(4)2009/04/07 19:12:29

玲子の娘・貴沙は聖エリザベート学院の小学校部へ入学、好恵の娘・鈴乃はそのままカリヨンの初等部へ上がった。美智子は、私学はセントマリー以外、眼中になかったが、セントマリーには小学校がない。真理奈が俊哉と同じ学校へ行きたがったので、北小へ入学させた。俊哉が低学年の頃にPTAの委員を引き受けたことが一度あったが、母親の会話に入れないので会合の時間をやり過ごすのが苦しいことこのうえない。イベントの係をしてもつい黙っていることが多い。美智子にとって沈黙はストレスだ。おまけに通学路見回り当番が定期的に当たり、お出かけランチからも先に抜けなくてはならない。そんな我慢できないことばかりの一年を過ごしたので、真理奈の入学式のときには、もう絶対にPTAには関わらないわ、と心の中で固く決意した。大事な行事と学期末の個別面談以外は、絶対にここへは来ない。

「よかったあー真理奈ちゃんが私学に行っちゃわなくて。もう、バレエ教室って私学率高いんだもん。ボンビー山下、リッチイ園田についていきますわよっ」
山下千秋が大げさな言いかたをしたのを思い出す。千秋の娘・琉璃は五歳の時に竹下バレエへ入ってきた。最初の頃こそスキップが小さな三段跳びみたいで不恰好だったが、ほどなくしてダンスらしい動きができるようになり、見る見る上達した。同じ北小へ進み、同じクラスになったこともあって、真理奈はバレエのレッスンのときにも、貴沙や鈴乃とよりも琉璃と話すことのほうが多いようだった。

私学率高い! と千秋は言っていたが、二、三年して高学年に達すると二歳、三歳の頃から習っていた子どもたちはどんどんバレエをやめていった。その頃から習っていた子どもたちはたいていが母親の意向でバレエを始め、そして母親の意向で私立小学校に進学していた。気がつくと、同じクラスの子どもたちのうちで私立の小学校に通うのは貴沙と鈴乃だけになっていた。そして、真理奈と貴沙と鈴乃の三人は、クラスでいちばん古株だった。

竹下エコール・ド・バレエでは、発表会の準備や当日の楽屋係、会場係を保護者が務めなくてはならない。誰が何の係をするかは各クラスごとで相談する決まりで、きちんと当番制にして保護者全員まんべんなく働くクラスもあれば、おのおのの自主性を重んじ「やりたい親」に任せるのが原則、というクラスもあった。真理奈たちのクラスはどちらかというと後者であったが、子どもが小さいうちは、園田美智子と安田玲子と西川好恵の三人は「三人一緒の係ができるなら」自主的に手を挙げた。三人は仲良く楽屋係を務め、朝のリハーサル前から夜の公演終了後まで子どもたちの世話をした。三人一緒だと三人とも機嫌がいいので明るく朗らかに楽屋での時間を過ごせるせいか、子どもたちの受けもよかった。

というのも、楽屋大部屋での場所取りとか、衣装を踏んだのどうだのということで、けたたましく喧嘩をする親も少なくないからである。

つづく。