それでも地球は回っている♪2007/06/15 06:48:58

お日さまみたいな色の、ウチの枇杷。美味しかった♪
(意外と愛想のないテンプレなので写真を置いてみた)


『天動説の絵本——てんがうごいていたころのはなし——』
安野光雅 著
福音館書店(1979年)


私がまだ小さかった頃、家の物干しから眺める空はとても広くて、星もたくさん見えた。視界をさえぎるビルやマンションや、牛乳パックみたいな3階建ての家もなく、甍の波のそのまた向こうに、町を取り囲む山並みが見えた。山の端(は)に金星が光ったり、赤い月が重そうにそのからだを浮かべたり、毎夜異なる表情を見せる遠くの低い空が好きだった。
もちろん、北の空にひしゃくの形なんかを確認したときは、思わずよっしゃと声を上げたものだ。私は、北極星を確認した記憶はないけど、北の高い空は、東西の低い空よりも神聖な場所のようになんとなく感じられ、簡単に星はその姿を誇示などしないのだろうなどと、自分で自分を納得させていた。

そんなこんなで星が好きになり、星のことを研究した科学者に興味を持ち、ガリレオの伝記を読んだりした。ガリレオ・ガリレイだなんてそんな名前つける親いるんだな、などと思いつつ。
(これについては、のちにあるイタリア映画の中で主人公が生まれた子どもが「ボナンノ・ボナンニ」と名づけていたのを見て、イタリアでは普通なのだということがわかった。)

小学校2年生のときに転校してきたじゅんちゃんと、私は大の仲良しになった。じゅんちゃんはたまたま私の後ろの席に座って、転校早々気分が悪くなったりして、何かと会話をする機会が多かったからだ。
じゅんちゃんはフォークグループの「グレープ」のファンだったが、さださんよりよしださんが好きだといっていた。でも、グレープが解散して、ソロ活動を派手に始めたのはさださんのほうだった。じゅんちゃんはさださんのLPは必ず買って、私に聴かせてくれた。

さだまさしのどのアルバムかもう覚えていないが、「天文学者になればよかった」という曲がある。彼にしては数少ないアップテンポの曲で、私は大いに気に入って、しょっちゅう口ずさんだものだ。特にいちばん最後のフレーズ。「君ーぃ、それでも、地球は回っているー♪」
ガリレオの台詞だ(といわれている)。

『天動説の絵本』は、天がまわっていると信じていた人々が科学によってその「常識」を覆されるまでの長いとしつきを、平易な文章でたどっていく。最初のページでまっすぐ平らに引かれた大地の線は、ページを繰るごとになだらかな曲線となり、やがて円弧になる。

星が好きで、何とか星雲は太陽系の何倍の大きさがあって、とか、銀河の中に太陽系のような恒星を中心にした環(わ)はいくつあるとか、そんな本を読みかじって知ったことを当たり前のように受けとめていた、私。
眼に映るとおりに空が動いていると信じていた人々が、自分が足を下ろしているこの大地のほうが動いているなどということを受け容れられるはずはなかった。それは、日本が第二次大戦後に浴びたイデオロギー180度転換の洗礼などとは比べものにならないほど、重大で恐ろしいことだったに違いない。
それこそ文字どおり、天と地がひっくり返るほど。
ということを、私は『天動説の絵本』で教わった。
自分たちで発明し開発した道具や機械でひとつ、またひとつと明らかになるにつれ、調べれば調べるほど信じていたものごとの根拠のなさが明らかになるにつれ、研究の喜びとは裏腹に争いや裏切りに疲弊した人々。
また、そのように命がけで闘った人々以前には、何も知らずにいてそれでも幸せだった人々もいた。
そういうことを、しみじみと改めて考えさせてくれた本である。

この本を手にしたときから、私は安野光雅大先生さまを敬愛し崇拝している次第である。

好きなことができる時代なんだし2007/06/18 08:39:24

ウチの小梅の実。鳥が食べにくるのももうすぐ……。

『せんべいざむらい』
今江祥智/作 宇野亜喜良/絵
佼成出版社(2004年)


山のように絵本のある我が家だが、お話の本はめっぽう少ない。
我が娘がまるで読もうとしないからである。
私も自分自身が児童文学を読んで育ったなどとはとてもいえないし、手始めにどれが良いやらも見当がつかないので、何を勧めてよいやらわからずじまい。で、けっきょく私自身の好みや挿絵の美しさで本を選んで、娘が読むかどうかの観点では失敗をさんざん繰り返した。
だから、まずは買わずに図書館利用一辺倒でお話の本は読み聞かせてきた。わかりやすくてさっさと結末にたどりつける、短いもの。民話系が多い。○○県伝承民話集、なんて類いは思いっきり彼女のツボにハマる。
そういうわけで娘はハリポタやエルマー、ロードオブザリング、ネシャンサーガなんつう今どきのヒット文学はなんにも知らない。
学校や自治体は「子ども読書100冊マラソン」なんてイベントを立ち上げ、読んだ数を競わせて子どもを本好きにしようと躍起だが、そういう手には見事なまでに乗らないのが我が娘だ。

てなわけで、数少ない我が家のお話の本の中から私が偏愛している本その1、『せんべいざむらい』。

今江さんの本はあまり読んだことがない。児童文学の大御所だし、幼い頃にそれとは知らずに読んだものがあるかもしれないけど、記憶にない。
いっぽう、画家・宇野亜喜良は大好きである。イロエロカワイイ少女なんかを描いて昔から人気だが、書店で「宇野亜喜良」と書かれた本を見ると低血圧ながら一気に血圧が上昇するのを感じる。手にとってページを繰ってウホウホと興奮せずにいられない。

本書は、その宇野さんの描く少年侍がしゃぶりつきたくなるくらい可愛いのである。侍の子として生まれ、武士道を歩まねばならないのだが、少年が心惹かれるのは小さな店で老夫婦が売るせんべい。そのうまさに惹かれ、せんべいを焼く主人の手さばきに惹かれ。
やがて少年は寺子屋の帰りなどに店に出入りし、せんべいを焼かせてもらうようになるが、その行為を厳格な父に知られて――。

宇野さんの描く人物は、顔の表情は豊かだけれども、ボディが描かれている場合、なんとなくからだが薄っぺらくて紙の人形みたいに思え、それがまた非現実的雰囲気を漂わす効果はあるのだが、イロエロチックな絵はオッケーでも、時代劇だとちと重みにかけるかも知れん、と感じなくもなかった。

今江さんと宇野さんのコンビの本はたくさんあって、私も本書のほかにもう1冊『オリーヴの小道で』(BL出版)を持っている。
この2冊のほか、今江さんの本は数えるほどしか読んでいないのにこんなことをいってはなんだが、ちょっと「行間でモノをいいすぎ」のように思う。時間の経過や、台詞の向こう側の人物の気持ちの揺れ動きなど、ウチの子のような単純な脳ミソでは感じ取れきれない。大人でも難しいぞ、きっと。

『せんべいざむらい』の設定は面白い。武士の子は武士だった時代の、少年の可愛らしい抵抗。そして何よりせんべい屋主人と心のかようさまは、ほのぼのと胸をあたたかくさせてくれる。

うーんしかし、その、「しみじみ」「ほのぼの」は、がさつざかりの小学校低学年の心にどれほどしみていくのだろう。
本書は佼成出版社が出している「おはなしわくわくシリーズ」のひとつで、小学校1、2年生からが対象となっている。文字の大きさも、思いっきり低学年向け(でかい)。
感受性が豊かで、この世界を堪能できる子も、そりゃいるんだろう。いるんだ、きっと。
しかし、こんなに字が大きくて宇野さんの絵が美しいのに自分では読もうとしない、ワカラズヤの娘に読み聞かせたところ、最後に彼女は言った。
「それで? ……え、それでおしまい?」

というわけで、ウチでは失敗の巻。

ジェーンとエミリー、どちらがお好き?2007/06/19 06:16:10

手作りトリュフ。
たしかバレンタインの頃、いっせいに店頭に並んだチョコづくりキットでつくった。で、自分たちであっという間に食べた。
「トリュフ」の名が、実は豚にしか見つけられないけったいなキノコの一種を指すってこと、どのくらいの認知度なのかしら。


『カモ少年と謎のペンフレンド』
ダニエル・ペナック作 中井珠子訳
白水社(2002年)


「カモ」は鴨ではなく、少年の名前。物語の設定では「カモ」の母親は10か国語(以上?)に通じているので、たぶん息子の名前に異国風の名前をつけたんだろうな、と思わせる。カモの名前はどうでもよいのだが、このお母さんは重要人物である。

前にペナックさんのことには触れたけど、こういう作品を読むと、「外国語の習得は母語を豊かにする」という考えがペナック氏を貫いていることがよくわかる。
フランス語からみた外国語とはまず、英語、ドイツ語、スペイン語などなどヨーロッパ諸語だが、いうまでもなくこれらの言語はきょうだいかいとこみたいなものだ。極端な言い方をしちゃうと日本のいわゆる共通語と津軽ことばや琉球語などとの違いほど、違わない(と思う)。彼らにとって習得はさほど困難なことではないので、小学校から学習する。
日本においても方言を排除するのでなく保存に努め、その言葉でしか表現できない固有の地域文化を大切にしようとする活動があって私は大賛成だが、隣接の言語文化に通じることは間違いなく母語を厚くする。
フランス人はフランス人であると同時にヨーロッパ人でもあるから、隣国の言語ひとつやふたつの習得は必須なのだ。

カモは英語の成績が破滅的。多言語に通じるカモの母親は息子が情けなくてしかたない。転職癖のある母親は、「私が次の仕事を3か月続けることができたら、今度はあんたが3か月で英語をマスターするのよ!」とカモに宣戦布告まがいの賭けを申し出る。で、母親は3か月をクリアしてしまった。
途方に暮れるカモに、母親は英国人との文通を勧める。まったくやる気のないカモ。とりあえず受け取った手紙は当然ながらチンプンカンプンで、友達に翻訳してもらう始末だ。
しかしやがて、カモはその内容に惹かれ始める。手紙の主キャシーが切々と書き綴るかの国での暮らし。カモはやがてむさぼるようにキャシーの手紙を読むようになり、必死で自ら「英語で」返事を書くようになる。
英語の成績急上昇。しかしカモの顔色は冴えない。恋の病とでもいうのか……。

文通相手との仲介をするのはバベル社。カモの上級生にもバベル社の仲介でロシアのペンフレンドと文通している少年がいる。
で、彼も半病人のようなのだ。
バベル社経由で文通している人はみな、何かにとり憑かれている……?


いまどきペンフレンドはレトロだけど(本書の原書はもう十年以上前に書かれているので無理もない)、手紙を書くのが大好きで何人かのペンフレンドを持った経験のある身としては、文通の醍醐味はよくわかる。

「バベル」社という名前は、今まさにタイムリーというべきか(笑)。

物語を通じて、外国語を学ぶにはその国の文学に触れるのがよい、というメッセージが送られる。カモのペンフレンド、キャシーの向こうには『嵐が丘』が見える。上級生のロシア人ペンフレンドの向こうにはドストエフスキーが見えるのだ。

私は『ジェーン・エア』も『嵐が丘』も読んで、描かれる世界の意味がイマイチわからなかった若い頃には『ジェーン・エア』のほうが好きだったけど、何年かのちに再読したら『嵐が丘』のほうが好きだった……ああ、たぶんケイト・ブッシュが好きだった頃と重なるのだ。
さて今はどうだろうか、読む気全然起こらないけど(笑)。

本書はダニエル・ペナックへの興味から自分で買い求めた本だが、娘に読み聞かせたところ、ブロンテもドストもてんでわからないにしろ、物語の結末には大満足♪だった。

わたしたちのはじまりは2007/06/20 08:54:47

コンビニで買った「小玉スイカの種」が芽を出して次々葉を出してます。
我が家のスイカのはじまり。


『はじまりの樹の神話』
岡田 淳 作/絵
理論社(2001年)


岡田さんの本については、目下のところどれも例外なく面白い、という感想を持っている。この作者のことをあまり知らずに何気なく借りた『不思議な放課後』だったか『放課後の時間割』だったかを読んで、へーえ、と感心した、失礼な言い方だけど。
こんなに、ほとんど日常生活モード、どこにでもある学校モードの設定で不思議な世界を描くなんて。
『びりっかすの神様』なんて素晴しすぎる。
とにかく、児童書についてとっても暗い私は、子育てを通じて多くの児童文学作家の秀作を読ませてもらえることがただただ幸せに思えてしかたがない。子どもに感謝する。

岡田さんに惚れた私は、「こそあどの森の物語シリーズ」を全部買い揃えることを目標に、手始めにこの『はじまりの樹の神話』を買った。
たぶんシリーズの最初から読めば「こそあどの森」や登場人物についての理解も早かろうが、へそ曲がりな私は当時の最新刊だった6巻目の本書を買った。表紙画にいちばん不思議臭を感じたからだった。

主人公のスキッパーは博物学者のバーバさんと一緒に住んでいる。バーバさんはまた旅に出た。一人になったスキッパーのところへ、光る尻尾をもつキツネがいきなり現れ、今すぐ一緒に来いという。
「森のなかに、死にそうな子がいるんだ」(11ページ)
「スキッパーがいけば助かるんだ」(同)
わけがわかんないけど、死にそうな子を見殺しにはできないので、スキッパーは変なキツネのいうとおり森へ入っていく。
なんでキツネが言葉を喋るの? なんで僕を指名するの? 疑問はつきないが、森の奥にたどりつくと考えるまもなく救出作業に入らざるを得なくなった。
女の子が、手足を縄で縛られ、巨木にくくりつけられている。
「急いだほうがいい」キツネがささやくようにいいました。「その縄をほどいてくれ。おれにはどうしてもできなかったんだ」(18ページ)
スキッパーは縄をほどくのに成功し、女の子を担いで帰路につく。
その女の子は、とんでもないところからやってきたのだ。
女の子がくくりつけられていたあの巨大な樹は……。

まだ神がひとの近くにいた時代。
草の茎と根と、木の実が暮らしの糧だった時代。
本書は、読者を時空を超える旅にいざない、そうした時代の幸福な空気を少しだけ味見させてくれる。
登場人物のうちレギュラーメンバーは欧風だが、キツネと女の子には「弥生」を感じる。ん? 「縄文」か? わからん。

ものすごく壮大な物語というわけではないけれど、深い森や巨木といった風景の水平な広がりも、時間の流れもイメージできなかった当時のウチのお嬢さんには難しすぎた。
そんなわけで「こそあどの森シリーズ」は本書のほかに『ミュージックスパイス』を加えたところでいったん停止中。
自分で読んでくれたらいいんだけどなあ。

切ったほうがいい場合もあるのだ2007/06/21 07:36:34

まつぼっくり。
横にあるのは(ミニチュアじゃない普通の)マッチ箱。
んー。ほんとにこれ、まつぼっくりと呼んでいいのか?


『のどか森の動物会議』
ボイ・ロルンゼン作 カールハインツ・グロース絵
山口四郎訳
童話館出版(1997年)


これも森のお話。
「のどか森」の隣には「かわず村」があって、森と村は仲良く持ちつ持たれつしてきたが、あるとき村民はいきなり「大金持ちになりたい」などと思い始め、そのために森の木を切って売ることを、村会議のときに満場一致で決める。
人間の言葉がわかる賢いカラスのヤコブスは、これを聴いて仰天。大慌てで森へ帰る。
森には動物たちのまとめ役として、木の根っこの妖精、ペーターがいた。ヤコブスの報告を聞き、ペーターは知恵を絞る。動物たちに全員集合をかけ、会議を開き、かわず村の連中になんとしても木を切らせてなるものかと、一致団結して行動に出る。
人間と動物の駆け引きが始まる。
動物があの手この手を使っても、人間は容赦なく木を切る。
しかし、動物の仕返しも、容赦ない。
平和だったかわず村の、人々の心が少しずつすさんで……。

のどか森とかわず村は、最終的には和解する。
根っこの妖精ペーターは、数を決めて年に数本の木を切り、あらたに植樹をしてほしいと提案する。そうすれば森にとってもよいし、村のみんなも潤うはずだと。

なんというか、とっても優等生的な終わり方が、途中のハチャメチャな動物たちの行動に比べると落差があって物足りない。けれども、小学生に読み聞かせるには、これくらい真面目で正しい終わり方のほうがわかりやすくていいのだろう。今後について何も示唆していないし、村と森のいい関係が未来永劫続くと感じさせて安心できる。環境問題や地域社会の人間関係についても投げかけて、とってもためになる。単純なウチの子にも理解でき、満足できた貴重な一冊。

ただし、登場人物の名前がすべて律儀にドイツ語発音を仮名表記してあって、舌をかみそうになるのが辛かったよ。シュトッフェルとか、チムトチッケルとか、ジギスムントとか。せっかく「のどか森」「かわず村」という名訳をしているのだから、人物名もちょっぴり工夫して欲しかった。……というようなことを愛読者カードに書いたりしている私。

日本の山地にも根っこのペーターみたいなのがいてくれたらな。ちょっとお役人さん、あのスギやヒノキ、切ってくださいよ、そして温かな木の家をもっと建ててくださいよ、無味乾燥な鉄骨とタイルのビルばかりじゃなくて。スギやヒノキは、花粉を撒くだけの人生はもういやって言ってるんですがね。

なぐさめには、ならない2007/06/22 12:33:45

ウチの「くノ一」。


『風になった忍者』
広瀬寿子・作 曽我 舞・絵
あかね書房(1991年初版第1刷、2007年第21刷)


正之はいとこの美沙と宏おじさんと「忍者屋敷」に来ている。正之と4歳違いの兄・俊郎は、8年ほど前にこの忍者屋敷に遊びに来たときに、近くの沼に落ちて行方不明になった。
その時一緒に忍者屋敷へ来たのは、今と同じ、宏おじさん、美沙、正之だった。
当時4歳だった正之には、兄の印象がおぼろげにしか残っていない。歳の近い美沙は俊郎のことを、足が速くて忍者みたいにすばしっこくて、弟思いの優しい男の子だったという。
落ちたといわれた沼は、埋め立てられて公園になっている。
その沼から俊郎が見つかったわけではなかった。懸命の捜索がなされたが、俊郎は二度と正之たちの前に姿を現さなかった。
正之は、仕掛けがいっぱいの忍者屋敷を見学しながら、兄のことを考えた。忍者が大好きだった兄には、この屋敷はさぞ面白かっただろう。屋根裏までのぼって何気なく壁に力を入れると、壁がくるりと回ってなわばしごが下がっているのが見えた。隠し部屋だな。なわばしごを伝って、どきどきしながら降りていく正之。

壁の向こうは別世界。異次元であったり過去の時代だったりよその国だったり。とにかく自分がいるはずの世界とはまったく違うところに滑り込んでしまって不思議な体験をさんざんしたあとまた元の世界に戻る。
ファンタジーの古典的な定型といっていいだろうか。『不思議の国のアリス』、『オズの魔法使い』。『ピーターパン』もそうかな。
日本の作品なら『銀河鉄道の夜』も、そうだ。
うん、物語の結末に感じる切なさでいえば、『銀河鉄道の夜』に似ているかもしれない。

正之は、びっくり仰天命がけのめまぐるしいほどの体験をしてまた元の場所へ戻る。忍者屋敷の喫茶フロアで待っていた美沙に「面白いもの、見てきた?」と聞かれて「見てきた」と答える。それで物語は終わる。
像を結べないぼやけた記憶の断片や失われたと思っていた時間を取り戻せた達成感。それでもやはり実体とは永遠に会えないという虚脱感。
最後の正之の台詞の短さに、両方が凝縮されている。
あっけないようだけど、この終わり方はとてもいいと思った。

うーん、ネタバレしないように頑張ってんだけど、してるかな。だって、たぶんここを読んでくださる皆さんは半端じゃない読書量だから、ありきたりなストーリーの中身なんて、もうすけすけでしょう。

昨日の『のどか森』でも書いたけど、善悪や、勝負の行方がはっきりしていて、みんなが幸せになる結末が、子どもに読み聞かせるにはわかりやすくてよい。子どもは親の声だけでイメージを膨らませ、次の展開を予想する。容易に予想できるほうがいいし、期待は裏切られないほうがいい。ウチの娘は忍者といえば『忍たま乱太郎』以外には知らないし興味もないので、もし凝った展開だったら途中で聴くのがいやになっただろう。だがストーリーは、忍者の世界うんぬんよりも、登場人物の心の動きに読み手(聞き手)が惹き込まれるように、ちゃんとできている。「子ども用の文学」としての目的は達成されるのだ。というわけで、本書もウチの子への読み聞かせに限っていえば、マル。

だが、最初のほうで切ないと書いたように、この物語は切ない。
この国には行方不明になったまま消息の知れない子どもたちがたくさんいる。その子たちの親の気持ちを思うと、本書のような物語は、その悲しみを増幅させるだけで、なぐさめにはならないと思うのだ。それは、いかんともし難いことだけど、悲しい。

天に召されるものたち2007/06/25 07:13:56

名前は知らないけれど、葉っぱから根と芽が出て育つ植物。葉っぱを一枚もらったのが、今、鉢が幾つにも増えて置き場所に困るほど。なのに性懲りもなくまた葉っぱを水につけて増やそうとしているところ。


『ほおずきの夜』
砂岸あろ著
白馬社(2007年)


6年生の七緒(なお)は、同級生の涼太(りょうた)と地蔵盆の縁日へ出かける。新しくあつらえた、紺地にひまわり柄の浴衣が、少し大人びて感じられて嬉しいような恥ずかしいような。下駄を履くと少し七緒のほうが背が高くなる。
人混みの中、二人で歩いていると、級友の女の子たちに会う。懸命に涼太を隠す七緒。級友たちが口々に言う。「涼太くん、七緒のこと、好きやったんよ」――

夏の終わりの、子どもたちの最後の楽しみ地蔵盆。各地でその地域に伝わるやり方でお祭りが行われるが、本書の舞台は京都の山科(やましな)。なんでも、旧街道沿いにたくさんの屋台が並ぶにぎやかな縁日らしい。私の住む地域では子どもが少なくて、地蔵盆は寂れる一方だ。なんだかうらやましい。
山科では、ほおずきを地蔵に祀ってお参りするらしい。物語の中で七緒も、実が七つついたほおずきの一枝をもって歩く。

七緒も涼太が好きだった。七緒はついにその気持ちを涼太にぶつけるけれど、涼太は……。
ほおずきが涼太そのものなのか、七緒の涼太への想いがほおずきの色に表れているのか、タイトルに使われているにもかかわらず、物語の途中まではさほど印象的ではないほおずきが、最後のほうで情念の炎を燃やすかのように俄然あかあかと色めきたつ。

子どもを主人公にした他愛ない恋心を描きながら、しかしその想いの強さに読む大人ははっとして胸を締めつけられる。
手をつなぐのも恥ずかしかった幼い頃の恋の思い出を振り返りたい人なら、切ない蜜をいまいちど味わえるだろう。

「こども」カテゴリに入れたけど、本書は児童書のコーナーには置いてなくて、「女性現代文学」の書架にあった。
著者の手になる縁日の写真がたくさん収められていて、読む者を夏祭りの喧騒の中に誘い込む。けっして凝ったつくりではないのだが、写真とストーリーのバランスは、子どもよりもむしろ大人を惹きつけると思われる。
けれどそれでも私は、小学校の高学年くらいなら、読める物語だと思った。読んで人物の心に思いを馳せてほしい。人物が交わしたであろう会話を、教室や校庭での風景をイメージしながら、夏休みを思いながら。

ところで、6月半ば、我が家には金魚の赤ちゃんが生まれた。話が長くなるので詳細は省くが、透明なぷつぷつが黒くなり、やがて稚魚になったときは感動した。タニシの赤ん坊を発見したときに勝る感動だった。
しかし、わずか数日しか経っていないのに、稚魚はどんどん天に召されていく。一匹も生き残れないかもしれない勢いだ。

幼くして天に召されてしまうのは、運命なのか。
当事者はそうは思いたくないのに、そう思おうとして無理に自身を納得させようとする。運命ではない、私に非があったのだと自身を責める。
お前たちが死んでいくのは、きっと私の世話のしかたが悪いのねっ。
泳ぐのを止めていく金魚の子どもたちを見て、『ほおずきの夜』を読んで、天に召された小さな魂の数々について、少し考えた。

さて。
著者がこの物語を執筆したのは1991年のことだそうだ。
多くの人たちの励ましと支えを得て、何より本人のこの物語への思いが実を結んで、単行本として日の目を見たのである。その書くことへの、自身の作品への愛とエネルギーに喝采を送りたい。
【ここで自慢】
著者の砂岸あろさんはお友達だもんねー。ね、あろさん♪ え、違う? ひいいいんん、あたしの思い込み?

若いっていいなあ(マジ)2007/06/26 00:45:04

とんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんでとんで、まわってまわってまわってまわるーーー♪♪♪って勢いのウチの時計草。今年はよく咲く♪


『駱駝はまだ眠っている』
砂岸あろ著
かもがわ出版(2005年)


70年代って、どんな時代だったのだろう。熱かったのか? 私には、そういう印象がない。70年から79年、私は6歳から15歳で、流行歌や身近な出来事や学校生活の記憶は鮮明だが、社会がどんな様相だったかまでは実感としての記憶がない。自分の目の前にある、ほんの少し先の未来に向かって歩くだけが人生のすべてだった。とんで、まわるだけで精一杯(笑)。

70年代の真っ只中を、中学3年生から高校生として過ごした少女、ろまん。そう、主人公の少女の名前は「ろまん」なのだ。なんてキュート。なんて萌え~なの。……って、そういう物語ではない。断じて。

本書は、ろまんの一人称で語られる人間模様。ろまんの母親・都(みやこ)が経営する喫茶店「駱駝館」を中心に、実にさまざまな人々が描かれる。店員、客、常連、友人、出たり入ったり、現れたり消えたり。
かなり気合を入れて読まないと、登場人物の名を覚えきれない(苦笑)。
また各人物がきっちりと丁寧に描かれる。ぼーっと読んでいると、物語を見失う(再度苦笑)。

こういうティーンエイジャーが主人公の物語って、どれも比較的登場人物が多くて人間関係が煩雑だ。いや、私が知っているものだけがそうなのかもしれないが。
十代は、ものごとに優先順位なんかつけられない。大人は取捨選択ができる。自分にとっての必須事項を優先順位3位くらいまで決めたらあと残りは捨てられる。しかし十代はそうはいかない。あれもこれも、全部手を抜けない。見落とせない。すべて見届けたい。
その一方で、すべてどうでもよくなる。何もかも、関係ないもん、あたしには。
ティーンエイジャーを主人公にすると、「関係者」が増えるのは仕方がないのだ。彼らは全員「無関係者」と紙一重。

しかし、この物語は、ろまんと都、娘と母のこころのあやとり――もつれて糸がとれなくなりそうに見えながら、どうにかこうにか続いている――を軸に、成長するろまんの恋が危なげなく組み合わさった太い骨格を持っている。
だから、骨格の隙間をするすると縫うように現れる人々に気を留めなくても、じゅうぶん青春と恋を味わえる。
でも、もっと、人生の悲哀や必ずしも成就しない恋愛にも思いを馳せるなら、二読目、三読目で脇役たちにじっくり注目すると面白い。
それぞれの大人の、人生の処し方を見つめる十代の気持ちになって読む。そろそろそういう時期にさしかかった子どもを持つ親なら、我が子の気持ちになって読む。

京都を舞台にしているので、私は記憶のはしばしに残るかつての街の姿を引っ張り出しながら読んでみた。描かれている界隈を知るようになった頃、私はもう大学生で、それは80年代だ。わずかな年数のズレなのに、その場所を十代のうちには知らなかったという事実は、まるでひと世代ぶん、時代が異なるかのように感じられる。しかしその違和感は、あくまで自分とろまんの視線を合わせようとするから生じるのであって、母親・都に合わせるといきなり同時代性を帯びる。そして我が娘とろまんを重ねてみて、その類似性につい、苦笑する。

「駱駝館」は本当にあった喫茶店の名で、著者はその店でアルバイトしていたそうだ。その頃出会ったたくさんの人たちと出来事をずっと書き続けて、本にした。この世のすべての母と娘に贈りたいという気持ちを込めて。

素晴しい贈り物に、感謝している。

ひたすらお日さまがスキ!2007/06/27 15:21:51

お日さまをいっぱい浴びて赤く実ったいちご。


『ノアの子』
エリック=エマニュエル・シュミット著
高木雅人訳
NHK出版(2005年)


私は反米イデオロギーに凝り固まっているので、米国が全面支援しているイスラエルという国がこの世からなくなってしまえばいいと思っている(が、イランの、あの難しい名前の大統領を支持しているわけではない)。イスラエルという60年ほど前にできた国家の正式な国民とされている民は、かつて徹底的に迫害された民であった。しかし今は愚かにも迫害する側に回っている。が、それは、かつて自分たちを迫害した相手に対してやり返しているわけではない。この国が強引に作られる前からここにはパレスチナの民が生活を営んでいた。イスラエル国家はその民への迫害、殺戮を繰り返している。
イスラエルという国の存在を保ったまま、もし仮に米国が支援をやめれば、武器を補給できなくなるイスラエルはあっという間に窮地に追い込まれる。それをそのままほうっておけば周囲のイスラム国家がいっせいに攻撃を始めるだろう。
だから、まず「国家イスラエル」を解体する。なくす。代案は? ない(断言)。イスラエル建国以前の状態に戻す? それはそれで恐ろしいことになりそうだ(推測)。だが、なくす。「国家イスラエル」がなくならないと、あの土地に住む民は誰も、救われない。ユダヤ人も、パレスチナ人も、だ。もう誰にも、理不尽な死に方をしてほしくないのだ(真剣な希望)。


ベルギーに住むユダヤ人のジョゼフ、7歳。1942年、ナチスに追われて両親と引き離される。キリスト教神父、ポンス神父のもとにかくまわれ、神父を父のように慕って育つ。《多感な少年時代を過ごした教会は、まさしく洪水に見舞われたユダヤ教を救うために神父が作ったノアの箱舟だった。》(カバー見返しより)

数年後、両親と再会したジョゼフは神父のもとを離れてブリュッセルに帰る。バル・ミツバ(ユダヤの成人式)に出ろという父に、ジョゼフは嫌だという。カトリックに改宗したいからだ。ジョゼフは父から強烈な平手打ちを食らう。ポンス神父のもとで、カトリックの教会で過ごした日々、ジョゼフは純粋な信仰の気持ちを持っていた。神の姿すら、見た。心に素直に従えば、それはユダヤではなくてカトリックなのだ。しかし、けっきょくジョゼフは両親に逆らわず、改宗もせず、成人式にも出た。父の事業を継ぎ、家を繁栄させた。

最終章は、50年後のジョゼフが語っている。あの教会でともにかくまわれ、子ども時代を一緒に過ごしたリュディがいう。「(……)ジョゼフ。おまえ、子どもが何人いる? 四人だろ。孫は? 五人だ。おまえひとり助けることで、神父は九人助けたわけだ。おれんとこなんか十二人だよ。(……)何百年もしたらな、神父は何百万人も救ったことになるんだよ」(181ページ)
だがリュディはイスラエルに住み、パレスチナへの攻撃を正当だと信じて疑わない。
「平和を勝ち取る一番いい方法が戦争だってこともよくあるのに」(183ページ)
ベルギーに住むジョゼフには、そんなリュディの考えは受け容れられない。だが、どうすればいいのか。その答えは出ない。だが、ポンス神父がしたように、傷つけられる者たちに寄り添い、彼らの存在の記憶を後世へ遺したい、と思っている。

【ここで自慢】
訳者の高木さんはお友達だもんねー♪ 一緒に仕事したことあるもんねー♪ 高木さんの奥さんと大学で一緒だったもんねー♪ へへーん♪♪♪

というわけなので、本書は、訳者の高木さんからいただいた大切な大切な一冊である。だが、宗教アレルギーで、冒頭に述べたような考えを持つ私は、『ノアの子』と題された本書の中身が恐ろしくて素直にページがめくれなかった。
しかし、物語はユダヤ教やキリスト教礼賛の話では、もちろんない。高木さんは「訳者あとがき」で「シンプルな真理にふれる喜び」と表現されているが、まさにそのとおりなのである。何を信仰の対象とするか、問題はそのことではなく、人間として行動をとるときに道しるべになるものは、つきつめれば誰もが行き着くはずの真理のはずだ。シュミットはそういうことを伝えたかったのだろうと思う。

ジョゼフが7歳のところから始まり、ジョゼフの一人称で物語が進む本書は、子ども時代に多くのページを割いていることもあって、言葉も平易なので、小学校高学年でも読めるかもしれないが、歴史的な背景があるので、中学生以上のほうがより理解して読めるだろう。読んでほしい。関心を持ってほしい。歴史にも、あの地域にも、現状にも。


娘はお寺の保育園に行っていたので、けっこうお釈迦様に信心している。もちろん、我が家には仏壇も神棚もある。私はそれを排除する気はまったくないし、娘が仏教徒であっても構わない。でも葬式にはお坊さんを呼ばないでくれといってある(笑)。私は千の風にはならないけれど、雲ひとつない紺碧の空のもと、太陽の照りつける海面に向かって骨を投げてくれ、そうしてくれたら永遠に君を見守るよといってある。娘はひと言、めんどっちいからヤダ、とぬかしおったが。
私はお日さまと海が好きなのだ。

彼はナマズのミュージシャン♪2007/06/28 09:55:33

椿油のTシャツを着て、つとむューさんが京都へやってきた。

私は携帯電話を持ち始めてそろそろ4年だ。4年というのは、長くない。私の年代の人々はもっと早くから持っていた。持ち始めた時期がずれているので、私は旧知の友人たちの携帯番号とか携帯メルアドとか全然持っていない。仕事でも外回りはほとんどないので、いちおう得意先の番号は入っているけど基本的に携帯は使わない。で、恐ろしいことにここ数か月で一気に増えたのが文章塾関係者の番号&アドレスで、頻繁に稼動しているのもその番号&アドレスだ。なんというのか、面白いもんだなあと、何が面白いのさと聞かれるとうまく説明できないが、思うのだ。

ケータイ歴の浅い私はメールを打つのが遅い。
「今、近江八幡です。何時何分に着きます。着いたら地下鉄に乗って……」と要点を押さえつつジョークもまじえたたっぷりしたメールをくださるつとむューさんに私は「了解」と打つのが精一杯で、打ったらその後瞬時にまた途中経過のメールが入る。その合間を縫って「ろくこです。やっぱり今夜忙しいかも」などとメールが入る。そしたらまたつとむューさん「駅に着きました。乗り換えます」。
私はマイブログのコメントレスを書いてしまおうとパソコンのキーボードをだだだだだっとたたいていた。
「ろくこです。待ち合わせ場所に今からいこうかな」
「つとむューさん、もうすぐくるよ」
幼稚園児の台詞みたいなレスを返したととたん、つとむューさんから「着きました」。

つとむューさんと、私たち(ろくこさんと私)はわりと年が近いことが判明して、30代前半の若造、いや違った、好青年をいたぶってやろうと、いや違った、もてなそうと意気込んでいた私たちはがっかり、いや違った、思いがけなく意気投合した。

つとむューさんのお仕事が何なのか、私は全然知らなかったし、想像つかなかったんだけど、何と彼の仕事は「地震予知」なのだ。
「えっ、じゃあ、つとむューさんの正体は、ナマズ?」
浅はかな私のボケをろくこさんはしらっと無視してくれたが、つとむューさんは律儀にあははと笑ってくださった。

日本のあちこちにある活断層。そこにはちゃんと観測所があるそうだ。いわば観測所のあるところ、活断層のあるところすべてがつとむューさんの仕事場なのだ。かっこええやん。
仕事や研究の成果をまとめた小冊子をくださった。難しい事柄がえんえんと述べられている。ええええ、こんなの書ける人がなぜ文章塾に?
「歌詞なんかを、センスよく書けたらと思って……」
照れ笑いのつとむューさん。
自作の歌詞をロックのリズムに乗せて歌う姿が目に浮かぶ。

日焼けした褐色の肌に、いかにも体育会系のたくましい体躯だが、意外なことにお酒は飲めないそうだ。とすると、際限なく飲み続け文章塾への愛と夢を熱く語る塾長と素面でうなずき受けとめるつとむューさんの図、in 札幌。
容易に想像できるのがまた嬉しいといっていいのやら、なんやら。

関西オフでお目にかかった人たちのうわさを、本人たちの不在をいいことに好き勝手しゃべりまくる私とろくこさんに、きっと、半ば呆れていたつとむューさん。いいたいことをいい終えて(なんじゃそら)、時間が来た私は「あとは適当に料理しな」とろくこさんに目で合図を送り(なんじゃそら)、退出した。ごめんなさい、つとむューさん。でも懲りずにまた、近くの活断層のチェックに来られた際は、こちらにも立ち寄ってくださいませね。