幾重にも層を重ねたような密な経験 ― 2018/06/27 01:07:55
『子どものころ戦争があった』
あかね書房編(1974年初版第1刷、1995年第12刷)
有名な本である。そのせいかいつでも頭の片隅に書名があって、それゆえついいつでも読める気になっていて、読む機会がなかった。なんということか。ぐずぐずしているあいだに、寄稿されている多くの作家が鬼籍に入られた。
収められている体験談の著者は以下のかたがたである。錚々たる顔触れ。
長新太
佐藤さとる
上野瞭
寺村輝夫
岡野薫子
田畑精一
今江祥智
大野允子
乙骨淑子
三木卓
梶山俊夫
新村徹
奥田継夫
谷真介/赤坂三好
さねとうあきら
田島征三
砂田弘
手島悠介
富盛菊枝
山下明生
どのかたのどの話がどうだということなど言えない。どれもこれも凄まじい。凄まじいがどのかたのお話もどことなくユーモアがあり、過酷な体験にもかかわらずあっけらかんと笑い飛ばせそうな雰囲気に満ちている。実体験を語られているのに、まるで彼らがつくり出す児童文学の世界にトリップしたような気にもなる。さすがは作家のみなさんというべきか、語りの力は素晴しいのであった。しみじみ思うのは、これほどまでの経験をしてきたからこその、児童文学なのである。これほどまでの経験を下敷きにしているからこそ、軽はずみな表現で命の重さや尊さを振りかざすようなことはしないのである。優しさや思いやり、痛みや苦しみといったわかりやすい言葉で説明してしまえるほど、人と人との情愛や、かかわりあうことで生まれる感情の擦れやぶつかりは単純ではない。子どもの世界だからこそ、それらには名前はまだない。子どもたちは自分たちの世界で次々に生まれでてくる好感や愛情や親しみや嫌悪や憎しみや軽蔑の思いに、自分たちなりに名前をつけ認識して心に記録を刻んでゆく。そのありようは、子どもが十人いれば十通り以上になるだろう。そうしたものに最初からラベルや札を与えてはいけないのだ。
なぜ、平和な時代ゆえにむき出しになるわがままやエゴイズムをしぜんに生き生きと描き出す力というものについて、辛酸をなめた戦争体験者である作家たちのほうが勝れているように感じられるのだろう? なぜ、現代の平和な時代の作家には描ききれないのだろう? 現代の作家たちにしか描けない要素はあるはずだ、技術はあまりに早く進歩し、時代はものすごい勢いで変化したのだから。しかし、児童文学に限って言うと、昨今流行りのニヒリズムなどを匂わせても、あるいは安易な泣かせるストーリー仕立てにしても、喜ぶのは大人ばかりで、子どもは大人を喜ばせるためにそんなものでも読むけれど、ほんとうの意味で心をとらえているようには思えない。子どもには、普遍的でありきたりな体裁をしていながら、深い物語が必要なのだろう。
深い物語は幾重にも層を重ねたような密な経験をした者でなければ、書けないのだ。
……ということは抜きにしても、戦時下の体験物語として興味深く楽しめる一冊である。子どもたちに親しめるように、ふりがなが丁寧に振ってある。絵本作家の挿絵も面白く、悲しい。
何度も読み返したい。
すべての女性たちに安全で安心できる職場環境と報酬と保障がもたらされんことを ― 2018/06/25 01:07:17
——非正規職女性の仕事・暮らしと社会的支援』
小杉礼子、鈴木晶子、野依智子、(公財)横浜市男女共同参画推進協会 編著
明石書店(2017年9月)
ある分野、領域の調査結果と分析をまとめた本というのは文中に数値が多く、著者編者はわかりやすかろうと掲載しているのだろうがお世辞にもわかりやすいとはいえない表やグラフが誌面を大きく占め、そのために、タイトルに心惹かれても、ぱらぱらとめくってあ、ダメだ読めそうにないとまた書架に戻す、ということに、わたしの場合はなりがちである。ほかのみなさんはけっしてこんなふうではないのだろう。だからこの手の本はつねに存在するのだ。日頃の仕事で数字ばかり追っている人や、四角四面なお役所文書ばかりを相手にしているような人であれば、むしろ読みやすいと思うのかもしれない。
わたしがこの本をなんとかかんとか読了できたのは、「第1部 非正規職シングル女性のライフヒストリー」と題して、5人の女性へのインタビューをまとめた章があったからである。
ここには、女性たちの切実な暮らしぶりが浮き彫りにされていた。具体的で、可能な範囲で家族、私生活についても語られており、現在正規職に就けずにいること、シングルでいることが、けっして昨日今日の問題ではないことがよくわかる。
そうなのだ。これは女性だけでなく男性にもあてはまると思うけれども、何十年も経って、ひとは自分の生きざまが幼少時の「あのこと」「このこと」に根ざし左右されていることにいきなり気づく。しかし過ぎた時間は取り戻せない。幼い自分も思春期の自分も若い自分も、そしていまの自分も全部受け容れて、前を向いて生きるしかないのだ。
生きるしかない、というわけで、5人の女性たちは非正規職に甘んじながらも、「もうあと少しの」安心や安全、将来の保障を求める。まったく、そこはわたしも声を大にして言いたいところだ。
5人のライフストーリー(取材は2016年に行われた)から印象に残ったところなどを挙げる。
まず、5人は全員40代。バブルが終焉し就職氷河期を体験した世代である。
そして、経済的な豊さはかなりいろいろだが、いわゆる富裕層にあたる人はいない。両親が離婚した人、学費がなく大学進学は諦めた人、稼いで家計も助けてきた人。
さらに、全員が、派遣労働を経験している。
働く母に代わって子どもの時から家事を切り盛りしていたという女性は、幼い頃から父が酒に溺れ母を殴るのを見てきた。兄は引きこもっていて何もしなかった。女性は貸与奨学金を得て短大を卒業し、ある企業に正社員として就職。この頃両親の離婚が成立。奨学金の返済等に充てると手取り給与は雀の涙だったが、自分でなんとかやりくりできることに自信ももち始めていた。ただ、所帯をもった(家にいた時は何もしなかった)兄には、母は月々経済的援助をしていたことが少し悲しい。
最初に就職した会社に10年、リストラが激しくなり会社の業績悪化を感じて解雇される前に、と思って退職。その後派遣に登録、簿記やパソコンのスキルを磨き、時給は1450円。当時としては悪くなかったが、2004年頃から派遣という働きかたが変わってきたと感じた。
(2003年に派遣法改正がなされ、2004年から製造業にも派遣労働が解禁された)
わたしも派遣会社に登録したことはある。90年代の前半だ。当時ろくにPCも触れなかったわたしは、派遣会社のオフィスでの、登録の際の情報入力すらまともにできなかったし、スキルをテストするためにいろいろなツールを試されたが、もう惨憺たる結果だった。それでも登録できたのは、フランス語ができるというその一点だけで、そういう「スキル」はその派遣会社にあってはまことに珍しかったからにすぎない。しかしそのときわたしは、なるほどこういうものをたたたたたっと扱える人が颯爽と派遣されるわけだ、そして経理や情報管理の部門などで文字どおり「仕事だけして」、その企業の効率化に貢献するわけだ、と非常に納得したものである。とても真似できないと思ったし、真似するために身銭切ってスキルアップや資格取得に励もうとも思わなかった。
この女性が感じたように、2004年から派遣に対する風向きが変わる。誰でもできる仕事が待っている、登録の際にスキルテストなんかないという状況になった。それは人より抜きん出たスキル、といったものが尊重されなくなったことも意味する。付加価値のある人材として重宝されていたはずが、そうした捉えかたをされなくなって時給も下がる。抜きん出ていたスキルがいまやたいてい誰でも身につけている程度のものとなるのに、そう時間はかからなかった。
この女性は、派遣された企業でいわゆる「派遣いじめ」に遭っている。パワハラもセクハラもあったことだろう。正社員は同じまたはそれ未満の仕事量や成果でも待遇は上。正規で入社した新人教育も派遣や契約社員の仕事、なのに困っている若手社員にアドバイスすると他の正社員から「何様のつもり?」などと言われたという。
モラルもなにもあったもんじゃないのね。
まったく、小さな世界で立場の弱い他者を小突いてふんぞり返って悦に入るやつの気が知れない。
この女性は、過労で病気になったこともあり、復帰後も心労が重なって、インタビュー時点では失業保険を受給していた。年端もいかない頃から父親の暴力を目の当たりにし、母を助けて家事労働にいそしみ、なのにお母さんは何もしないお兄ちゃんを大事にすると感じてきた。有形無形の暴力のなかで多くの仕事をひたすら自分の役割として受けとめてきたこの女性は、大人になって理不尽な職場にあっても反論どころかささやかな意見を述べることすらせずにやり過ごしてきたのだろう。心身を深く傷つけられ、その傷痕は絶えず疼いてきたはずだけれど、それを傷だと感じなくなるほど麻痺しているのではないか。わたしには、その疼きはとうてい想像できない。
もうひとり、図書館司書として四つの図書館で働いてきた女性の例。
図書館司書というのは非常に専門性の高い資格だと思っていたが、違うのか? とこの人の例を読んで思った。
彼女は、中学3年のときに父親が勤めを辞め(理由や事情は明らかにされていない)、自分は大学進学はできないと考えて、高校卒業後保育士資格を取れる教育訓練施設に進み、修了後は東京に出て保育士として働き始めた。しかし、そこで働く母親たちの余裕のないさまに直面し、自分の今後を自問。故郷に帰り、大卒資格を通信教育で取り、さらに図書館司書の資格を取る。当時は正規の図書館司書が当然のように存在していた。採用枠は少なく、就職は難しいと覚悟していたが、その後司書の非正規化が進み、臨時職員や嘱託員というかたちで、公的施設のライブラリー職員になる。時給は1000円に満たない。
《図書館司書の資格は、簡単に取得できるが、持っているだけでは専門性があるとはいえない。(中略)地域の図書館には地域の図書館司書として長期に働いて、積み上げる専門性がある。大学の図書館も同じだ。》(29ページ)
図書館員を、図書館カードと書籍に付いたバーコードをスキャンするだけの仕事だと、勘違いしている人が、この世の中には非常に多いと思う。よくないと思う。
彼女は、とりあえずいまは健康で、ひとりで暮らすぶんにはなんとかやりくりできている。しかし、親戚の冠婚葬祭などで何も心づけができないことに心を痛める。いまは健康といっても、老後に備えてなどいないし、いきなり病気になっても治療費はない。しかし、彼女はなんとか頑張ろうとしている。
《この仕事に意義を感じている司書が、全国で苦しみながらもがんばっている。私もこれからもがんばってしまうのだろう。失職するまでは。》(同)
同じ仕事を地道に積み重ねてこそ備わる専門性というものがある。なにも難しい大学、大学院を出たから専門家になるわけじゃないのだ。ネームヴァリューのある大学を出て付された学位や、難関を突破して合格し取得した資格はもちろん価値のあるものである。しかし、そうした「手続き」なしに、ひたすら取り組み続けた蓄積で得られた専門性も、見た目にわかりやすい資格以上に、敬意を表されるべきものである。
本邦は、賞とかメダルとかの獲得者や勝者ばかりを褒め讃えまつりあげる傾向がある。地道な努力に光を当て評価するということには興味がない。こういう国は、滅びる。
また、誰もが専門性をもてるわけでもない。専門性のないことを恥じる必要もない。
わたし自身は、見事に専門性は皆無である。幼い頃の夢はもちろん、大人になってこれをやろうと思って歩み始めたはずが、いつもなんだか途中で横道に逸れた。わたしの問題は、たぶんそういうことに問題意識をもたず「なんとかならあ」とふらふら生きてきたことに尽きるのだろう。しかし、それでも生きている。幸運だったとしかいいようがない。必ず誰かに助けられてきたわけである。ありがたいことだし、それはそれで素直に喜びたいと思っている。
本書の一論考には、こうある。
《転職を何度も繰り返す貧困女性は、そうしたキャリアの一貫性を構築しにくい女性の実情を描き出しているといえる。》(97ページ)
そのとおりである。ただし、わたしが本書で調査分析対象になっている女性たちと違うのは、ほぼ一貫して正社員として就業してきたことだろう。最初に勤務した大手メーカーで、企業の正社員の堅苦しさを感じたのに、わたしはその後ふらふらするなかで、アルバイトでもいいよ、仕事一本ずつの契約でもいいよと言われても、正社員として雇用してほしいと強く希望を言って採用された。会社に保障されることの意味を思い知っていたからだ。
くたくたになるまで働き詰めだったとしても、正規雇用という立場を保障されていたことは大きい。それをもたずに、派遣だのバイトだの契約だのという不安定な状態で、いつ切られるかという崖っぷちな精神状態でいると、仮に人生を切り拓こう、次のページをめくろうという気持ちがあっても、なかなか舵を切ることはできないだろう。
非正規職が身分の安定しないままなのに、なぜかフリーランスを奨励するようなことを、本邦では行政のアタマがのたまう昨今である。労働環境はますます悪化が進むばかりだ。こういう分野に自浄作用はない。放置してもよくはならない。みんなで声を上げなくてはならないのだ。
ケーススタディとして紹介された女性たちのみならず、本書の研究対象となっているすべての女性たちに安全で安心できる職場環境と報酬と保障がもたらされんことを(ついでに、わたしにも)。
40代半ばまで、あっというまに過ぎてしまったと感じている人が多いだろう。だけど、積み上げた時間のすきまに必ず幸福の種がある。それを上手に芽吹かせて、幸せになってほしいと思う。
おびただしい兵隊がおびただしい市民を殺し続けた ― 2018/06/21 23:01:55
『証言 沖縄戦の日本兵 ——六〇年の沈黙を超えて』
國森康弘著
岩波書店(2008年)
10年前の本だけれど、どなたであれ一読をおすすめする。
というか、日本人全員が読むべき本である。
これが刊行された当時も、その前も、そして今も、「本土」による沖縄蔑視は相変わらずである。今なお沖縄が抱える諸問題を、自分の国のこととして、自身の問題として捉えて考える人は悲しいほど少ない。文字どおり彼らの問題は対岸の火事であり、どこまでも他人事(ひとごと)なのである。
わたしたちヤマトンチューにとって沖縄は恰好のリゾート地であり、美しい海と珊瑚礁が迎えてくれる非日常の舞台であり、琉球という「異文化」に触れることのできる安上がりな旅先である。わたし自身、ハワイやグアムなんぞに行くぐらいなら沖縄のほうが何万倍もいいと思う。そう思いながらまだ沖縄本島には行ったことがないけれど。
宮古島には幼かった娘を連れて二度行った。子どもを喜ばせるというよりも自分自身の骨休めの意味合いの強い旅だったので、観光よりただ海辺で寝そべっていた時間のほうが長かった気がする。二回めは娘がもう小学生になっていたので、夏休みの宿題のネタにできそうなことはひととおりしたかな。グラスボートに乗って海の生き物を覗いたり、シュノーケリング体験をした。
このようにヤマトンチューは沖縄をリゾート地として消費している。もちろん、ここで悲惨な戦闘があり、無策で無能な日本軍のせいで死ななくてもいい多くの地元住民の命が失われたことは、史実としてみな知っている。しかし、現代のわたしたちはそれをまるで知らないかのように振る舞って沖縄で幸せなひとときを過ごすことが善であるように勘違いをしている。
沖縄を観光で訪れ、お金を落とすことは重要だ。もっとどんどんやるべきだ。だがわたしたちは琉球王国を日本に併合し、次には米国に差し出し基地の掃き溜めにしたヤマトの人間であるという自覚をつねにもっていなければならないと思う。敗戦の事実はいずれ単なる史実として歴史書に記載されるだけであるが、その敗戦に至る長い時間のなかで、おびただしい兵隊がおびただしい市民を殺し続けた。わたしたちはその兵隊たちの子孫なのだ。
第二次大戦は、人間が面と向かって人間を殺した戦争だった。
本書で著者は、多くの証人に重い口を開かせ、経験談を引き出している。ひとりひとりがその手で殺した人間の命に思いを馳せ、体験を語っている。著者の筆致は、淡々としている。そのことがいっそう、事実を重く突きつける。
読むのは辛いが、本書はコンパクトにまとめられており、重いテーマのわりにはすっすっと読み進むことができる。これがすべてではないし、ほんらいもっと多くの証言や証拠を掘り起こし記録して、映像化などによって広く周知するべきである。「日本人の必須基礎知識」のひとつである。
擦り切れてなくなりそうなわずかな望み ― 2018/06/15 01:57:44
マグダ・オランデール=ラフォン著
高橋啓 訳
みすず書房(2013年)
映画館で『サラの鍵』という映画を観た。数年前の映画だが、名画リバイバル企画で1週間だけ上映された。この機会逃すまじ、の思いだった。観てよかった。満足した。
映画が評判になった前かあとかもう憶えてなくてわからないが、原作の小説は翻訳されて単行本になっていた。けっこうな長さの本だったのですぐには手が出なかったが、何年かのち、たまたま入った古書店でリーズナブルな価格になっているのを見て買ったのだった。ところが、はっきりいうが、小説はいまひとつだった。題材、素材の求めかたは素晴しく、物語の展開も申し分ないのに、表現がくどい箇所、余計な描写が多くて、げんなりさせられる。言いたいことは山ほどあって全部盛り込みたいのはわかるが、ところどころで、というか全編にわたってそのくどさがひっかかり、かえって焦点をぼやけさせてしまっている。こいつのこのセリフはなくてもよかろうに、とか、そこまで細かく言い尽くさなくてもわかるよ、とか、つい小姑みたいに小言を言いたくなる。と、いうこともあって、これが原作なら映画は少々鼻につくかも、と思われたのだが、さすがは映画だ。言葉でくどくどくどくどグダグダグダグダゆーてたところを一瞬のシーンで語ってしまう。名優の名演で示唆する。風景や音楽でにじませる。もうその削ぎ落としかたといったら素晴しいことこのうえなかった。主演女優は好きではないタイプだが、原作には合っていると思われたので、これでいいのだった。
『サラの鍵』は、ヴィシー政権下のフランスで、パリから強制連行されアウシュヴィッツ収容所へ送られたユダヤ人の悲劇を題材にした小説である。ユダヤ人たちは「ユダヤ人」と書いたワッペンを服に縫いつけさせられ、男性は強制労働に駆り出されていた。あるとき一斉に検挙され、ひとところに収容され、やがて順次収容所に送られる。パリで起こったこの強制収容は、調べによるとナチスから命令されていたわけでなく、頃合いかと考えてフランス側が「忖度」して行ったといわれている。いずれにしろ、フランス史の大きな汚点であるとされ、長年触れられずにいたのだが、シラク政権下でこの行為にかんする謝罪声明が出された。
つまりホロコーストはドイツのナチス政権だけの犯罪ではない。当時ヨーロッパ全体がユダヤ人を排斥しようとしていた。他国は、態度を明快にしたドイツに、これ幸いと便乗したのだ。
ユダヤ人たちはあらゆる場所で被害に遭い、生き残った人々も、気の遠くなるような辛酸をなめながら這いつくばって生きてきた。自分の前半生につけられた烙印を隠し通すひともいれば、積極的に訴えるひともいた。
マグダ・オランデール=ラフォン(Magda Hollander-Lafon)は、16歳の時に故郷のハンガリーからアウシュヴィッツに強制連行された。その場で家族とは引き離され、家族はすぐガス室へ送られたが、マグダは生き残った。ほかの子どもたちとともに、屈辱的な生活を強いられながら、奇跡のように、すんでのところで機転をきかせ、生き残る方向へのあたりくじをひいたのだった。保護された先で教育を受け、教養を身につけた彼女は、年をとってから体験を書き綴り、周囲を驚かせた。そんな過酷な人生を送ってきた人だとは誰も思わなかったという。マグダの収容所生活を綴ったくだりは、『サラの鍵』のサラの経験と重なる。マグダの詩や文の行間に、映画『サラの鍵』や、『サウルの息子』で観て脳裏に焼きついていた映像が、幾度も浮かんだ。
痛ましい、凄まじい、というような言葉では表現できない。想像を絶する。
原題は:
Quatre petits bouts de pain
Des ténèbres à la joie
(四つの小さなパン切れ
暗闇から喜びへ)
収容所で、息も絶えだえになっているひとりの女性が、マグダに四つの小さなパン切れを与えてくれた。からからに乾いた、硬い小さな塊だった。マグダは、そのかびたうえにかちかちの、しかしあまりに貴重な、パン切れを食べた。パン切れは、物理的に空腹をまぎらしただけでなく、望みを捨ててはいけないことを教えてくれた。収容所での生活では、絶望しかない環境ながら、ごくごくたまに、人心に触れることがあった。それは、真っ暗闇に差すひとすじの光のような、かけがえのない、しかしすぐに消え入りそうな希望だった。マグダは、そんな擦り切れてなくなりそうなわずかな望みをもちつづけ、生き延びることができたのだった。
本書は2部構成になっている。
前半はマグダが収容所での経験を詩のように綴った「時のみちすじ」。これは1977年に一度まとめられ、 フランスで出版されたという。その反響はさざ波のように徐々にひろがり、マグダは、自分の体験を後世に語り継ぐことの重要性を痛感する。そして中高生たちと対話をするようになり、その内容をまとめたものが、後半の「闇から喜びへ」である。
よく書いてくださったと思う。
書き残すことはとても重要だ。
辛苦の記憶を書き綴ることは自分で自分を拷問するに等しいこともある。
しかし、苦しんだ人には、書いてくださいと言いたい。
(自分も、書いていこうと思っている)
(いや、たいした苦しみは経験していないのだけれども)
ナチスの蛮行はどのような理由を並べようと正当化できない。そのことは、現代人である私たちには自明のことだ。しかし、現代人である私たちは、いったい、ナチスの蛮行を、どの程度知っているだろうか?
戦後、多くの証言が掘り起こされたとはいえ、それは断片的な事柄のつぎはぎをもとにした「想像」である。その「想像」はかなりの精度でほんとうにあったことを再現しているかもしれないが、それでも、わたしたちはその実際を、ほんとうには知ることができない。それは、現在のように記録の手段が発達した時代でも、同じことだ。
だからこそ、当事者が書いて残すことの意味は、とても大きい。
日本も同じである。戦争を知る人たちの証言を可能な限り残していかなくてはならない。
そして今、現在も、あちこちで起こっている理不尽な出来事についても、すべて記録は残されなくてはならないのだ。
公文書改竄とか日報隠蔽とか、あまりに幼稚で言語道断なのである。ああ。
恵まれていることが裏目に出ている ― 2018/05/31 23:46:49
田中慎弥著
新潮社(2007年)
田中慎弥の作品を読むのは「新潮」に掲載されていた『宰相A』以来だった。
「新潮」2014年10月号は持っている。めったにこの手の雑誌は買わないのだが、宰相Aとは時の総理大臣を暗示しているに違いないと思って興味をもったのだった。ほかにも、加藤典洋と高橋源一郎、小川洋子と山際寿一の対談も気になった。梯久美子の連載も読みたかった。
しかし『宰相A』を読み通すことはできなかった。途中から苦痛が増し、気持ちが悪くなった。冒頭から数ページは調子よく好感をもちながら読めたので、そんなふうに思わされることにいささか腹立たしい思いだった。屁理屈くさい文体は、あまり見ないタイプだし好みではないが、だからこそ母親への思慕を前面に出した冒頭にはうってつけに思えた。面白そうだと思いながら読み進んだが、背景はいろいろと現実を映し過ぎていて気分がどんよりするうえに、宰相Aの男性器の描写がちらついたところで吐き気をもよおし、このあとどう物語が展開しようと知ったことかという気になった。たぶんわたしは作家の術中にはまってしまったのだろう。真に、今この社会で起こっていること、そしてこの世界をかたちづくるに至った歴史のありさま、またわたしたちが後継に残すべき世の中の在りかたを、真に考え抜くアタマが、気構えがあるなら、このような仮定のストーリーなどすいすいと咀嚼して読み進むことができるはずなのだろう。
でも、わたしにはできなかった。
以来、世の中はヒドイ状況になるばかりなので、なおのこと、読み直す気は起きない。
ある日図書館で、日本文学の書架を眺めていて、偶然『図書準備室』という題名が目についた。
ぱらっとめくると
図書準備室
冷たい水の羊
という2篇が収録されているとわかった。
図書準備室というからには図書館とか図書室の話だろう、本の話だろう、そして冷たい水の羊とは、なんてロマンチックなタイトルなんだと、かつて『宰相A』でもよおした吐き気のことなどすっかり忘れていたこともあって、好奇心に駆られて借りてみた。
心のなかのもうひとりのわたしは、この好奇心はきっと見事に裏切られるに違いないという予想をしていて、そして見事にこっちの予想が当たったのである。
「図書準備室」は、ひきこもっていい歳になっても働かずにいる男が親戚の集まった場で語るどうでもいい思い出話である。男は非常に自虐的に、しかしいきいきと、自分の小中学生生活を描写し、ひとりの教師とのやり取りを語る。この教師が自身の過去の経験について語る、そこに至るいきさつが描かれる。ひきこもり男とその教師とのかかわりの舞台が、図書準備室である。その場所が図書準備室である、という以上の意味は「図書準備室」にはないのである。図書室でこんな本に出会ったとか教師がこの本を読めと言ったとか、蔵書にかんするほんの一文さえ出てこない。なぜ、図書準備室である必要があったのだろう。もう何度か読めばわかるのだろうか。ぜひ、わかりたいのだが。
「冷たい水の羊」は、全然ロマンチックではなかったが、面白い作品だった。やりきれなく、辛いけれど、読み応えのある一篇だった。学校関係で働く人(教師、養護教諭、用務員、教育委員会えとせとらえとせとら)と小中学生の保護者(親、祖父母、親戚)は全員これを読んだほうがいいのではないかと思われる。主人公は不憫である。そうじゃないだろと何度も声をかけたくなる。とくべつな少年ではない。むしろ恵まれていることが裏目に出ている。周囲の中学生たちも、ありがちなキャラクターである。常軌を逸しているように見える人物やシーンもあるが、現実は小説よりなんとか、ではないが現実にはいくらでも外道やろくでなしがいて、狂気に達するのはあっという間なのである。主人公は死にたいのだが、もちろん、私は生き延びてほしいと思いながら読んだ。死ねなかったという結末を期待しながら読んだ。感傷的に過ぎたのだろうか。だが主人公の胸中を思うとわたしは泣けてくるのだ。たとえば、戦争で特攻に命をとられた若者たちがいる。彼ら軍国少年たちは洗脳されていた挙句に無駄死にさせられた。これほど不幸なことはない。が、彼らを思ってもわたしは泣けない。怒りしか沸いてこない。他方「冷たい水の羊」の主人公は、自分を見つめ、親を見つめ、周囲を見つめ、自問し、答えを出し、もがきながらも行動に出て、その結果に苦悩している。彼のほうが、特攻隊員よりもずっと、悲惨である。ひとりの人間としての尊厳を踏みにじられ、生きる意味を見出せず、自分の価値をゼロとしか考えられない中学生。この現代にあってそのような存在を生み出してしまう社会の在りかたのほうが、戦時より、ある意味悲惨である。そういうふうに考えさせられたこの物語は、あまりにリアルであるのだ。が。
どちらも、さっと読んだだけでは消化不良を覚える。あと何度か読んですっきりしたいと思う。仕事で読まなくてはならない本の少ないときに、また借りよう。この本をじゅうぶんに消化したら、田中慎弥のほかの作品も読んでみたい。そうするうちに、『宰相A』を読み直す気が起こるだろうか。そのときにはAという頭文字の総理大臣が跡形もなく消え去っていてくれることを願うばかりだ。
読後感は今回もすこぶる悪かった ― 2018/05/23 01:38:52
桐野夏生 著
集英社(2004年)
「いま、何が読みたいのか」
自分でわからなくなることがある。
書店へ行っても、図書館へ行っても、どれひとつ、そそらない……ということがあるのだ(逆に、目に入る本全部ほしくなる時だってあるのだが)。
何が読みたいのかわからないのにやたらと何か読みたい時。そういうときは桐野夏生に限るのである。
とにかくどれを読んでも面白い。はずれゼロ。おおげさでなく、ほんとうにそう思う。
そんなに桐野夏生ファンなのか、といわれるとちょっと困る。自分が所有している本は文庫の『錆びる心』だけだからだ。これは短編集である。何度読んだか数しれないが、何度読んでも、初めて読むときのようにワクドキしながら読む。
そして読後感はすこぶる悪い(笑)。登場人物はみな、かなりこてんぱんにされる。たいてい、救いがたい結末が待っている。その後を想像して暗澹たる気持ちになる。
それなのに、再び読むときはまた、何事もなかったかのように初々しい気持ちで扉を開く。いや、まったくそうなんだな、面白い本って、べつに桐野夏生の小説でなくても、こういうふうに、再読だろうと五度目だろうと新鮮な気持ちでページをめくることができるものなんだ。
何か読みたいなあ、と図書館の書架の前で、あれも読んだしこれも読んだし、と思いながらふと、そうだ、桐野、読もう。と借りてきたのが本書である。
途中で止めることができなくて、一気に読み切ってしまった。
とんでもない殺人鬼の話であるが、当の殺人鬼の悲惨な生い立ちにもかかわらず、キャラクター設定が功を奏してか、このヒロインの一挙手一投足はどこかコミカルで、いちいち失笑を禁じえない。悲惨で陰惨で、救いがたい物語が、随所に撒かれた笑わせる要素のおかげで、重さが和らげられ軽く転がっていく。
笑わせる要素というのはギャグや駄洒落がちりばめてあるという意味では、もちろんない。登場人物や背景の設定が、実在する著名人、著名団体を髣髴させたり、そこに込められる皮肉を感じたりして、苦く愉快なのである。
ヒロインは人生の瑕疵の何もかもを他人のせいにして恨むだけでは気が済まず殺していく。これほどあからさまな行動をとっていてつかまらないなんてあるのかという疑問は、措く(日本の警察が優秀だなどというのは妄想)。ヒロインに殺されていく人物たちは、「顔」のない人々だ。家族はもちろん知人や友人もなく、あっても結びつきは希薄で、死亡したことが大きな出来事とはならない人々。世の中からうち捨てられたヒロインが、自分と同様に人生から足を踏み外した人、こぼれ落ちた人、行き場がない人を容易(たやす)く踏みにじっていく。
ただし、最初の殺人はヒロインの積年の恨みを晴らすかたちで実行された。この成功体験を引き金にしてヒロインは簡単に殺し続けるようになる。
アイムソーリー、ママというタイトルどおり、ヒロインは母親に謝るのである。
謝らなければならないような事態を招いてしまう。
しかし、謝る対象の「母親」を、ヒロインは認めたくない。思い描いていた「母さん」が、この女であるはずがない……。
これは母親への思慕のとあるかたちを描いた物語でもある。
対象となる母親は実体のない母親であり、慕う気持ちだけが生きる原動力となっている。
それほどに「母親」は、人にとって重要な存在なのかと自問する。わたしにも母親はいたし、わたし自身も母親だ。わたしにとってわたしの母親はもちろん愛すべき存在だったが、つねにそばにいたせいであろう、渇望したり、恋い慕い抱擁したくなったり、理想化したりするような存在ではなかった。わたしの子はわたしを母親として存分に愛してくれているであろうが、今は離れて暮らしているとはいえ長らく一緒にいたし、今でも密にやり取りしているから欠乏感はないはずだ。そしてこの世のおおかたの人々にとって母親への思慕というのはそういう穏やかで起伏に乏しく、あってあたりまえな感じの、でもたしかに温かみのあるもの、年を経ればまた感じかたの変わっていくもの、そういうものであろう。
しかし『アイムソーリー、ママ』のヒロインの母親への思慕は、あまりにもまっすぐであり過ぎたゆえに大きく屈折させられ、ある意味踏みにじられ、さらに肥大化する。
この物語に登場するほかの人物たちの、「母親」のありかた、かかわりかたもヴァリエーション豊かでめまいがする。人間はこれほどまでに多様であり、そしてその出生や生きざまがどうであれ、生き延びていく権利はあるのである。
殺人鬼は、殺した人間の人生の数だけ自身も苦労し辛酸をなめ、悩み苦しみ考えに考えて考え続けて考え抜いてもがき苦しんで一生を終えさせなければ割に合わないとわたしは思う。
物語の最後にヒロイン殺人鬼の行く末が示唆されるが、冗談じゃないよそんな簡単に片づいてもらっちゃ困る、という気分である。そう、読後感は今回もすこぶる悪かったのだった。
手を打たなければ、いつか誰もいなくなる ― 2018/05/16 22:00:28
アクセル・ハッケ 作
ミヒャエル・ソーヴァ 絵
那須田淳、木本栄 共訳
講談社(2007年)
ドイツに長く暮らす友人(日本人女性)から聞いたことがある。「私も彼女も子どもをもつなら働かない、働くなら子どもはもたないという考えかたなの」
友人が「彼女」と呼んでいるのはその近隣に住む既婚女性で、4人の子どもを育てていた人のことだ。友人自身にも一女がいた。この話をした当時のわたしがまだ20代だったか、それとも娘を産んだあとだったか、もう憶えていない。わたしはわりと頻繁にヨーロッパを旅し、この友人宅にたびたび世話になっている。友人一家が住んでいたのはけっこうな田舎で、けっして便利とはいえないのだが、この友人は、不便な道のりを経てでも会いたい人だった。相談にのってもらいたいことがあるとかいうことはなかったが、会えば必ずなにかしら「またひとつ学んだぞ」という収穫があるのだった。つまりは、彼女の人生観に、わたしは大きく影響を受けていたのだ。本人にはそんな気はなかったと思うけれども、わたしは彼女のことを水先案内人のようにとらえていた。日本で生活した年月よりも長く濃い時間をすでにドイツで生きていた彼女は、異国での立居振舞にしろ、祖国への思いの抱きかたも、わたしにとってロールモデル以上の存在であった。
だから、冒頭に掲げたセリフを聞いたときには、いささか面食らった。
いっぱんにヨーロッパでは日本に比べて段違いに男女平等が進み、労働条件にしろ、人々の意識にしろ、職種を問わず機会均等であるというふうに思いがちだが、意外とそうではない人もいるし地域もあるということを、のちのちわたしも知ることになる。だが、このセリフは、わたしにとっては「女は家で子育て」という「旧弊」を積極的に支持する宣言にも思えたのだった。もちろん、じゅうぶんに稼ぐ夫がいるなら、という注釈がつく(友人も、近隣の女性もその夫はじゅうぶんに稼ぐ人だった)。しかし、だからといって、注釈つきにしても、それが前提となってしまうと夫が子育てを「手伝う」ことそのものが賛否の対象となる。
それじゃ、ダメじゃん。
いうまでもないが、「手伝う」のではなく、父親も子どもを「育てる」行為の主体でなければならない。
『パパにつける薬』はゾーヴァの挿絵も楽しい、パパの子育てエッセイである。
パパはフルタイムで仕事をこなしながら、休日を全面的に子育てに費やしている。喜びはもちろん大きいが、なかなかへとへとになっている様子がユーモアを交えて語られる。刊行当時は世の多くの男性の同意を得たことだろうと思われる。
ただし、いま内容を読むと、やはりそれは「手伝う」というスタンスに終始している点が「古さ」を否めなく、牧歌的である。この内容に感心したり驚いたりした時代もあったのね。
しかし、それにしても、この日本語版は2007年刊行である。
原書はまず1992年に出版されていて、2006年に更新されているらしいが、いずれにしても著者のハッケは、90年初頭に3人の子育てに奮闘していたのである。
このあと、ドイツ男性の子育て観はどのように変化していったのだろうか。
わたしの友人、そしてあの田舎町の女性たちは、いまも同じ考えでいるのだろうか。
約10年前に世に出たこの本の訳者あとがきにはこうある。
《大半のパパって、たまの休みに子どもと格闘し、へとへとになりながら、来週はなんとか逃げ出してゴルフにいくぞとひそかに画策したりしているのではないだろうか。もちろんママの疲労もわかっちゃいるのだけど……。》
10年経って、このような「大半のパパ」はせめて「一部のパパ」になっているだろうか。妻とともに日常的に家事も育児も頑張るパパが目に見えて増えてきたのは認めるが、それでもまだまだ少数派だ。相変わらず、「大半のパパ」が休日のみ手伝う、という状態のままではないだろうか?
パパの意識改革の道のりがまだまだ長いとしたら、パパをアテにはできない。働く女性が圧倒的に増えてきた昨今、社会の仕組みを多方面から根底から変えていかないと、母親はみな精根尽き果て、恐れを抱いた次世代は子をもたなくなる。いや、この状況はもうとっくに始まっている。手を打たなければ、いつか誰もいなくなる。
ま、そうなればなったでそのときにはそのときなりの、危機の乗り越えかたを全員で実行していることであろう。
でも、でも、だからといって、ぎゃんぎゃん言うのを止めてはイカンと、やっぱし思うのであった。
成長する過程で忘れ去られていくに違いない ― 2018/05/13 23:51:32
ジークフリート・レンツ
松永美穂 訳
新潮社(クレスト・ブックス)2010年
レンツの作品は、ずっと前に『アルネの遺品』を図書館で借りて読んだことがあるだけだ。この『アルネの遺品』が素晴しすぎて、わたしはその後も何度か借りては読み、アルネやハンス、その親兄弟たちの心情に近づこうとした。それはなかなか容易ではないことだった。自分自身と登場人物とのあいだに生活環境やそのほかなんらかの共通項が少ないと、物語のなかの世界を生きるように読むことは難しい。とはいえ、そうして自分に引き寄せて、自分の物語として読むことが安易ではないからこそ、小説を読むことは面白いのだともいえる。『アルネの遺品』はその意味で、いくら読んでも、その悲しみをたたえた海の圧倒的な大きさに読み手は黙るばかりである。
『アルネの遺品』に比べたら、本書『黙禱の時間』は恋愛の物語でもあるので、感情移入は幾分か易しいといっていい。立場だとか身分だとか年齢だとかはまったく関係なく人は誰かに惹かれ誰かを愛してしまうものである。
『アルネの遺品』に少し似て、本作でも主人公にとって大切な存在であった人は、冒頭ですでに死んでいる。小説は、学校で行われている追悼式の模様を描写しながら始まる。誰が追悼されているのか。校長が演壇に置かれた「シュテラ」の写真に深々と頭を下げる。
《先生は、どのくらいの時間、きみの写真の前で、その姿勢のままでいただろう。シュテラ。》
「ぼく」が「きみ」「シュテラ」と呼ぶのは、校長先生が頭を下げているその写真のひとである。「ぼく」は「きみ」との思い出をたどっている。それは恋人たちの風景だ。
《ブロック先生は写真を見下ろしながら話していた。きみのことを、敬愛するシュテラ・ペーターゼン先生、と呼びながら。》
「きみ」「シュテラ」は、この学校の教師だった。「ぼく」はその「シュテラ」と恋仲だったのに、彼女は死んでしまったのだ。そして生徒のひとりとして学校で行われた追悼式に出席している。
このあと物語は「ぼく」と「きみ」との恋の始まりから不幸な事故で彼女が命を落とすまで、そしていま進行している追悼式、式のあとで「ぼく」が校長に呼び出されることなどが決まった法則もなく右へ左へと語られる。つねに「ぼく」が語り手であり、「ぼく」が初めて本気の恋を経験し大人になったことを自覚したというのにその対象は無惨に失われてしまった、その事実を受け容れられないまま、戸惑ったまま、自分はなぜ生徒のひとりとしてしか「きみ」を悼むことができないのだろうというやり場のない悲しみに、物語の最後まで「ぼく」は翻弄されている。
「ぼく」とシュテラは長い間恋愛関係にあったわけではなく、たったひと夏の恋であった。その描写からは、シュテラが「ぼく」を本気で愛していたかどうかはわからない。というか、おおいにほんの弾みでそうなっちゃった感がつよい。そのいっぽうで、「ぼく」の本気度がなかなかに高いので、「ぼく」が拙速でなくじっくりと彼女とのあいだに愛を育んでいこうとしてたなら、もしや彼女は「ぼく」を伴侶として受け容れたかもしれないとも思わせる。しかし、まあ、そればかりはわからない。わからないまま終わってしまったことが「ぼく」の未熟さを強調しているし、未熟さは純粋さでもある。高校生のそういう「青さ」を楽しむ物語でもあるが、いろいろと謎を残したまま死んでしまったシュテラは、「ぼく」の心のなかに痕跡をとどめるとしてもこの先「ぼく」が成長する過程で忘れ去られていくに違いないと思わせる点で、若さの残酷な面も言外に語っている。いまは打ち拉がれているけれど、アンタ十年後にはきっと忘れてるでしょ、と主人公に言わずにおれないのである。そして、そんなシュテラを憐れんで読んでいる自分に気づく。シュテラが「ぼく」をどう思っていようと、彼女なりの幸福を追求する時間や機会を、生きていればもっていたはずで、それをぞんぶんに駆使しないまま死んでしまうなんて。
物語はあくまでも「ぼく」の物語で、シュテラやその父親、同僚教師との関係など、その後ろ側にあるストーリーをいろいろと推測し想像をめぐらすことはできるものの、答えはまったく書かれていない。表面だけをたどったら高校生男子の、いささか辛いひと夏の恋、でしかない。だがもう少し時間をかけて読み直し、シュテラの視点で、あるいは父、あるいはほかの誰かの視点で物語全体を見つめるともっと面白いだろうと思われる。
訳者あとがきによると、レンツが82歳でこの青春物語(?)を書いたということが、ドイツでは話題になったそうだ。その頃再婚したことも。
レンツは長らくハンブルグに住んでいたそうである。
『アルネの遺品』も舞台は港町だったが、本作も同様、ヨットなど船舶の描写が多く、海や漁に知識のある人なら、事故で帆柱が折れる様子など、その臨場感は知らない者よりも真に迫って読めるのではないかと思う。海が荒れる、高波が襲う、船が岩場や港湾への入り口の壁に叩きつけられる、といった描写は、海の現実を知らない者には過去に見たことのある映画だとか、あるいは気象情報が伝える台風で荒れる海などの映像から想像するしかない。
レンツはハンブルグ住まいのあいだに、いくつものそうした海難事故を見聞したのだろう。
美しい海は、ひとつ違(たが)うとあっさりと命を奪う凶器となる。
そのことによる恐怖について、わたしはやはり知らなさすぎる。これほど水の災害の多発する列島に住んでいながら。こればかりは、なんともしようがない。
『アルネの遺品』については、ずいぶん前のことながら当ブログに書き記していたのでそのリンクを。
http://midi.asablo.jp/blog/2010/01/06/4797570
レンツは2014年に亡くなった。松永美穂さんによる翻訳にはもうひとつ『遺失物管理所』がある。それも併せてレンツをもう少し根気よく読み続けたいと思っている。
疲れた大人が読む物語である ― 2018/05/10 23:40:40
エルケ・ハイデンライヒ 作
ミヒャエル・ゾーヴァ 絵
三浦美紀子 訳
三修社(2003年)
ゾーヴァという画家をずっと前から知っていたわけではない。その名前は百貨店のホールで開催される美術展の告知で知った。その後調べてみたらすでに挿絵を担当した物語本はいくつか翻訳出版されていたし、画集も出ていた。日本では2005年と2009年に巡回展が開催されたが、わたしが娘と行った美術展は2009年のほうだったと思う。その頃から、美術展の際にショップで売られる「小物」のヴァリエーションが増え出したと記憶している(図録と絵葉書くらいしかなかったのがクリアファイルや缶ボックスやマスキングテープやマグネット等々等々)。わたしは「ちいさなちいさな王様」の缶ボックスを買いましたのよ。
そしてまたうかつなことに、映画「アメリ」で作品が使われて話題になっていたというのに、そんなこと全然知らずにいたことも、その美術展で知ったわけで、映画好きを自認しているのに時にあまりにも細部に無頓着すぎてわれながら呆れたのである。
そんなわけで、ゾーヴァの絵との出会いが出版物ではなく実物であったことは、この画家の昔からのファンの皆さんとは、多少、その作品に対する意識が異なることにつながったのではないかと思う。その絵の数々はたいへん素晴しく、迫力もあり、また物理的な「厚み」を感ずるものたちだった。そういう絵の数々にいたく感動してから既刊のゾーヴァ本を探したが、本がどれも小さくて、展覧会で観た圧倒的な迫力はどこかへもっていかれてしまっている。もちろん、挿絵にするのが前提で描かれた絵の原画は、どれもそれほど大きいものではなかっただろうと推察されるが、展覧会で大きな絵の数々を観てしまったので、本になったゾーヴァに物足りなさを感じてしまい、なかなか読む気になれなかった。
しかしながら、図書館で、目的の有る無しにかかわらず棚を眺めていると、ふとした弾みで目につき、ふとした弾みで借りてしまうことがある。このたびは、早々に目的の書籍を見つけて「ついでに何かほかに借りていこうかな」と思うやいなや目についたのであった。
ゾーヴァの挿絵が使われているが、いわゆる絵本ではなく物語の本である。物語は長くなく、クリスマスの短いお話である。しかし子どもに聴かせる話ではない。大人の読む物語である。しかも、仕事と恋と人間関係に疲れた大人が読む物語である。タイトルが示すとおりである。生きる意味を問うているならこの本を読みましょう。
物語はいきなりこう始まる。《その年はずっと、狂ったみたいに働いた。》
かつてのわたしみたいだ。《まるで生活するのを忘れてしまったかのようだった。友人にもほとんど会わず、休暇を取って旅行することもなかった。》
なかった、そんなの。仕事以外の何をしているのか毎日わたしは? ……みたいな日々だった、わたしも。《そして鉛のように重くなってべッドに倒れこんだ。》
ああ、ほんとうに、わたしのようだ。
違うのは、この主人公は「その年はずっと、」と言っているので例外的に非常識なまでに働いた年だったのだろうということだ。わたしはといえば、学校を出て働き始めてからたいていがそんな「狂ったみたいに働い」てきたような状態だ。そして主人公は離婚したシングル女性だがわたしは結婚経験のない子持ちシングルであるということ、それだけだ。それだけって、それは大きな違いではないかといわれるかもしれないが、そうでもない。主人公は疲れ果てているところにかつての夫だった男から電話を受け、クリスマスをその男の住む街で過ごさないかと誘われ、心が動く。それもいいかもしれないと、重いからだをひきずるようにして旅支度をし、彼が待つ場所まで向かおうとする。実際、もしわたしも、昔の男からひっさびさに連絡もらって会おうよなんて言われたらホイホイと、へろへろになってても、取り繕って会いにいこうとするだろう。そういう、なんつーか矜持も何もないところが主人公と自分は限りなくよく似ている。
さて主人公はクリスマス旅行の途中で買い物をし、その買い物のおかげで、道中さまざまな出来事に遭遇する。本書はその道のりにスポットを当てた物語である。若干ドタバタしていて、そんなアホな的展開といえなくもないが、しかし、いちいち奥深いのである。そして、主人公は生きることの意味を問うのである。
旅の途中、エーリカと離ればなれになった主人公は幼い頃の記憶をよみがえらせる。
《九歳だった。列車の窓のところに立って、泣いた。》
《私が泣いたのは、自分が戻ったときに果たして母親がまだうちにいるかどうかさえ、確信が持てなかったから。》
この一文に、わたしは胸の奥にすーっと刃物で細い切り傷をつけられたように気持ちになった。わたしは自分の娘にそのような思いをさせてきたに違いないと思うし、そしてまた、母の介護中には、短期宿泊施設に預ける時などに母がそのような思いをしていたかもしれないと、いまさらながら思い起こしているからだ。
上の、「私が泣いたのは」のくだりの直前には、こうある。
《泣いているのは、愛されていない子どもたちなんです。そして、子どもを四週間だけでも遠ざけることができて、母親たちがほっとしているのを感じている子どもたちだけが、泣くのです。》
こちらは愛していないはずがないじゃないかといいたいけれど、愛されたい側はそのような振る舞いでは愛していないのと同じことなのだろう。理屈ではとっくにわかっていたことだし、もち続けた「負いめ」はいつか心から相手に尽くすことでプラマイゼロにしてみせる。こちらはそう思うのだけれどマイナスが深くなるばかりで、ようし、と気合いを入れる余裕ができた頃にはとっくに手遅れなのだ。子どもは成人して独り歩きをし、老いた親は死んでしまう。Trop tard.
そして主人公は気づくのである。
《たった数時間で、エーリカは私の生活を変えてしまった。》
《人々は私をうれしそうに見つめ、私も笑い返した。》
エーリカの存在が、見えていなかったことを発見させ、忘れていたことを思い出させる。
くたびれはてて、若干自暴自棄になっていた女が、かつて愛し合った男に再会してまた心機一転生きる希望を見出して……とはならない。主人公は元夫との待ち合わせの駅までたどりつくのだが……。
「エーリカ」は、おわかりだろうが主人公の名前ではない。では誰の? うふふ。
人生に疲れていなくても、読んでください。
作品と作品が緩やかに呼応している ― 2018/05/07 23:10:49
小川洋子
角川書店(1996年)
小川洋子の小説は、読む者をすっと異界に誘(いざな)う。読者を異界へ連れていく小説などじつはそこいらじゅうにあるのだろうし、小説というものじたいを異界であるとしたら、小説を読むことはイコール異界へ連れていかれることにほかならない。それはそうなんだが、小川洋子の紡ぐ物語の場合は、わたしたちの現実と、彼女の描く異界との境界がなく、読む者はつねに異界の入り口の前に深くあるはずの淵に立たされどぎまぎしているのに、ふと気がつくととっくに淵を飛び越えて異界に身を置いている、そんな感覚にとらわれる。
本書は小川洋子の短編集である。10作品が収録されている。
表題作で最初に収録されている「刺繍する少女」の舞台はホスピス。先の永くない母親を看取るために「僕」はここに泊まり込むことになった。そのホスピスで、幼い頃、夏休みを一緒に過ごした少女に再会する。幼い頃の面影があったわけではなく、彼女の刺繍をする姿を見て、思い出がよみがえったのだった。彼女は施設にボランティアとして通っており、毎日ベッドカバーに刺繍をしていた。刺繍する彼女と話すため、あるいはただその刺繍する姿を見るために、「僕」は毎日、母が眠ったのをみはからって彼女に会いにいく。
母が亡くなり、ホスピスを引き払う段になり、彼女の姿も消えた。「僕」はもろもろの後始末や事務的な雑用を弟に任せたまま、ただ彼女を探しまわるのだが、刺繍されたベッドカバーが空いたベッドにかけられていたのを確かめただけだった。
この刺繍する「彼女」は喘息もちである。本書の最後に収録されている「第三火曜日の発作」の「わたし」も喘息だ。発作を恐れて家に引きこもっており、月に一度、第三火曜日に通院するのが唯一の外出であり、その外出でのハプニングを描いている。
この短編集の中では、作品と作品が緩やかに呼応しているように思われる。「刺繍する少女」と「第三火曜日の発作」は共通点は女性が喘息もちだということだけで、「第三火曜日の発作」の「わたし」は刺繍している様子はない。ないのだが、勝手に想像させてもらうと、刺繍していた少女は成長して「第三火曜日の発作」の「わたし」となって、苦い経験などなどを経てまた刺繍するばかりの女となって、たまたま幼い頃の記憶を共有する「僕」と再会したが、「僕」には彼女をそこに留めおく魅力はなかった……。
2番めの「森の奥で燃えるもの」は「収容所」を舞台にしている。この「収容所」ではべつに毎日過酷な重労働にさらされているとか、殺戮が行われているということはなく、全員がなにがしかの役割は与えられているが、平穏に暮らしている。その設定そのものが不気味といえば不気味である。平穏な様子でありながら、じつは、やはり、明日自分がどうなるかはわからない。
9番めの「トランジット」で、「わたし」は空港で居合わせた外国人とおしゃべりをしながら亡くなった祖父にまつわる思い出を反芻する。「わたし」の祖父は、ナチスによって収容所に送られたユダヤ人の、生還者のひとりだった。腕には、数字の焼き印がくっきり残っていた。幼い「わたし」がこの数字はなあにと尋ねた時に祖父は、ほかの誰でもない間違いなく私である印だと言い、「もしおじいちゃんが顔を大やけどしても大丈夫。ここを見てくれさえすれば、おまえはちゃんとおじいちゃんを見つけることができる」と言って孫を安心させたのだった。
小川洋子はこの短編集の刊行の前年に、「アンネ・フランクの記憶」という旅のエッセイを発表している。アウシュヴィッツを訪ねた小川は、遺構を見て「きれいだ」と感じてしまったこと、そしてそのような感想をもつことはいけないのではないかという意識に苛まれたことを書いている。
収容所は、あの時代のナチスの叡智(などという言葉を使いたくはないけれども)を結集した大きな成果物のひとつだったことは事実だ。じつに効率よく、人びとが輸送され、集められ、ある者は強制労働、ある者はガス室にと仕分けされ、じつにてきぱきと「仕事」は進められていった。大きな事業所でもあったその場所は、計算されつくした機能美を備えていたに違いないのだ。
「森の奥で燃えるもの」は、過酷な収容所の、アンチテーゼのひとつであるともいえる。あり得ない世界だが、あり得てはならなかったある実在の収容所がなかったら、生まれなかった世界である。
と、このように、どことなく作品どうしが呼び合う短編集である。そしてどの物語もやはり、え、これで終わるの、この続きを読ませてよ、という気持ちになる。異界にぽつんと取り残されるような気持ちになる。
たったひとつ、「アリア」は、自分の近い将来のことのようでもあり、あるいは娘に待っている未来のようでもあり(いやほんとに)、はたまたつい最近会った友人の人生に似ていなくもないなと思えるなど、これだけは異界ではなく、切実に現実的な物語なのだった。山間の村に引っ込んで余生を過ごすわたしのもとに、甥っ子は、毎年誕生日祝いをしに駆けつけてくれるだろうか。……やつは、しないだろうな。というのが読後感想の一部分であったのだった。