滴り落ちるインテリジェンス2007/03/15 18:10:38

『滴り落ちる時計たちの波紋』
平野啓一郎
文藝春秋 2004年


 平野啓一郎の小説を読むのは、白状するとこの本が初めてである。
 彼の書くものの字面だけを見ていると、強力に発信されるインテリ光線に射抜かれているような気になり、とてもこの人の小説に私は手が出ないだろうな、と思わせる。長編は絶対無理だ、読めない、私には。というような妙な自信がついてしまって、また興味もさほどわかなかったのだが、あるとき彼が連載していた新聞コラムで彼も短編を書くことを知った。本書は短編集である。

 もし、このエントリーを読んでいるあなたが小説家志望で、文章磨きの初歩段階にいるのなら、この本の一読をお薦めする。お手本にしろとはいわないけれど、学ぶ要素の多い文章だ。ほんとに。
 とくに、『白昼』『閉じ込められた少年』『瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟』。
 日頃からあまり現代文学作品を読まないので、平野氏のこれら作品が卓越したものなのか、「実験的」「野心的」と表現するのがふさわしいのかどうか、皆目見当もつかないが、少なくとも、平野氏といえば綿密な時代考証の上に成立した小難しい文体のアレ、みたいに勝手に思っていた私には、その先入観を払拭することができて大変よかったな、という読後感であった。
 これら3作(2003年初出らしい)は大変若々しく瑞々しく、新聞のコラムを読む限り無茶苦茶老練な印象のある平野啓一郎のことを、あ、やっぱ若手だったんだと認識させてくれる。いささか乱暴で強引な表現があるけれども、ストーリーそのものの骨格がしっかりしているのでぐいぐいと読ませるのである。
 大変、儲けものであった。
 なぜかというと、本書を図書館で探したのは、本書所収の『初七日』を読むためだったからだ。当初の目的は『初七日』さえ読めればそれでよかったのだが、その『初七日』があまり面白くなかった。読むつもりのなかった他の短編が意外と面白くて収穫だと思った次第。

 さて。
 彼は『初七日』で、老いた父を突然亡くす50代の男を主人公に、家族や親戚が集う通夜、葬儀、初七日のさまを描く。時間を経過させながら、主人公がごく幼かった頃復員した父親の、最期まで決して語られることのなかった戦争経験を、主人公が記憶として紡ぎだそうとする行為を挟み込む。

 もう終了してしまったが、彼の執筆による新聞連載コラムを私はわりと楽しみにして読んでいた。内容は、社会情勢や政治の動向、世の中を騒がす事件や話題を手がかりに彼の持論を展開したり、物書きの視点から読み解きを試みたり、といったものである。それらを読んで、ユニークな見方だとかそれは目から鱗だとか、奇天烈なことをいうもんだとかそれは違うぞとか、そんなふうな感想を持ったことはない。感じるのはいつも、実にまっとうな考え方をもつ実に賢い人の手になる文章だ、ということだった。話題、問題の提起のしかた、例の挙げかた、語の用いかた、結論への導きかた。テクニシャンだなあと毎回感心した。ただ、うま過ぎるという印象もある。話の運びが巧み過ぎて、中身が読んだ者の中に残らない(それは私という読み手だけにいえるのかもしれないけどっ)。
 たったひとつ覚えているのが、『初七日』という短編に言及した回である。彼は、大岡昇平の『俘虜記』に触発されて(あるいは「昔読んだ『俘虜記』を思い出して」あるいは「最近の戦後報道に『俘虜記』を照らして」だったかもしれないけど、もう忘れた)『初七日』を書いた、と書いていたように思う。コラムの内容は、戦争で若くして亡くなった人、特攻隊員や最前線で憤死した人を追悼することばかりが戦後を語ることになっていないか、というようなものだったと思う。つまり、生き残った人、復員兵の心の傷、戦後の生き様、傷の癒しかたのそれぞれのありようなどを置き去りにしていないかというようなことをいっていた内容だったと思う。平野氏の言葉の使い方を真似できるわけないのでわかっていただけないかもしれないが、まあそういうことだったと思う。(と思う、ばかりで恐縮だ)

 『初七日』の主人公は、自分の父は前線で地獄を見たのだろうと、想像する。主人公にとっては復員間もない父の存在そのものが地獄であった。
「戦場は正確に地獄だった。そして(……)あらゆる激昂が、あらゆる怒号が、あらゆる暴力が、その地獄に直結し、彼を恐懼せしめた」(69ページ)
 主人公は、父が「地獄」について沈黙を通し、通すことで戦場での自身を葬り去った、つまり一度死んだのだと思う。死んだ父の「余生」は、「死そのものが開始した絶対の沈黙ではなかったか」(70ページ)と自問する。

 もはや、戦争体験のない世代を親に持つ我々は、復員兵が心に持ち帰った「地獄」、帰郷ののち生きた「沈黙」を想像することも理解することもできない。それでいいのか、我々は死者を美化するだけに終始していていいのか、死者の祀られている場所がどこだという問題ばかりに気をとられていていいのか。……というような思いを読み手に喚起するために、彼は自身の『初七日』、大岡昇平の『俘虜記』に言及したのだ。私はそれにほいほいと乗せられ、『俘虜記』は太刀打ちできなかったよなという若い日の記憶を理由に『初七日』を手に取ったのであった。

 いささか修辞に過ぎるので読みづらい。それと、『俘虜記』という下敷きを持っていないと、読者は戸惑うであろう。主人公が想像を試みる父の地獄は、私たちには「地獄」という「文字」でしかなく内容を伴わない。だから、煙幕をつかむような行為に似ている、主人公の心の動きを追うことは。
 (ということで、やはり『俘虜記』を再読しようと決意はしたのだが。それはまた今度)

 別の見方をすれば、『初七日』は、人の突然の死に悲しみつつ慌てつつ、極めて事務的流れ作業的に弔いの儀式が執り行われるさまを、風刺もちらつかせながら書かれているところを笑うこともできる作品である。そうした情景描写は、本エントリー冒頭で挙げた3作に並んで、学ぶところが多い。うまいこと書くよなあ、と思う。

 この作家は本当に頭がいいんだなと思う。いや、そんな表現すら失礼か。この人の書くものには膨大な知識の裏づけが感じられる。付焼刃ではない、血肉となった知識だ。幼少時からきっちりと学習を積み重ね、それによってどんどん脳という土壌が耕された結果、柔軟に理解、発想、創作ができ、つねに豊作の見込める豊饒な大地となり、種を蒔くことをやめさえしなければ半永久的に収穫することが可能だと思わせる、そういう頭のよさ。

 今、世の中には、「そういう頭のよさ」をもたない人の、「なんとなく文章」があふれかえっている。そこそこの見聞を下敷きにした、そこそこの知識による、そこそこの理解のうえに、そこそこの筆力でまとめられた文章(自分で書いていても耳が痛い……あ、目かな、この場合)。インターネット上はもちろん、新聞・出版界もそういったシロモノの大洪水だ。現代人はそういったシロモノに目と頭が慣れてしまっている。

 私も例外ではない。だから、この作家の書くものを読むときは結構骨が折れるし、その圧倒的に優位にあるインテリジェンスについていけない(本音)し、この先、本書以外の著作に手を伸ばす気があるかといえば、ない(ないのかよ)。
 とはいえ、彼のような耕された豊饒な脳はやっぱうらやましい。私は平野啓一郎よりずっとずっと年長だけれども、今からでも耕して「そこそこ以上」の作物が獲れるようにしたいもんだ。