3回唸った。【下】寝る子は育つ ― 2007/04/17 14:25:05
もうひとり、私たちにとって重要な人物に版画家山本容子という人がいた。なぜ重要だったかというと、当時、私たちの大学や教授との関わりがあっただけでなく、版画家として確かな力がある上に売れ筋を読めるアーチストだと評価されていたからである。ただ感性に任せて表現するだけでなくアートディレクターとしての仕事もできる人であるという話だ(おまけにとても美人だったのでのちのち売れるほどに化粧品のCMなんぞにも出ていた)。そういう、画才も商才もある人、なんてのは、ビジュアルデザイン専攻学生が目標にしがちであった。
その人が、リュウメイの娘の本の表紙画・挿画を手がけた。これには参った。山本さんは、リュウメイの娘だから挿画を引き受けたのではない、この人の本は売れると確信したからだ、と何かで発言していた。どうやらリュウメイの娘の作品は面白いらしいぞ……。強気の私たちも、言葉を慎むようになった。
しかし、当時、気持ちがアフリカやラテンのタリラリラ~ン音楽に向いてばかりで小説はちっとも読まない生活だったこともあって、けっきょく私は、一度もよしもとばななの本を手に取らずに現在に至っていたのである。
初めて読んだ「よしもとばなな」。本書には短編3作品が収められているが、正直な感想:結構、面白い。表題作がいちばん出来がいいとは思うけど、どれも、このテのものをあまり読まないせいかもしれないけど、率直に面白いと思った。むむむ、うーん、と唸ったわけである。
この本は実は、鹿王院知子さんからの贈り物である。ご本人いわく「間違って同じ本2冊買っちゃったからあげるぅー」……。ん、もう、可愛いからもらっちゃう♪
おかげで、よしもとさんのほかの作品にも興味が出てきたところだ。小説に関心が向かない私には非常にいい傾向なのであった。
ふたつめの「うーん」は、「うーん。よしもとさんはこれを80年代に書いたのか」。
本書の3作品にはいずれも電話がよく出てくる。固定電話だ。登場人物はのそのそと起き出して受話器をとる。そんな描写がものすごく新鮮かというと、そうでもない。電話という小道具が重要な役割を果たしているにもかかわらず、その固定電話がもはや過去の遺物となりつつあるのに、古臭さを感じない。そのわけのひとつは、私という読み手が携帯電話よりも固定電話ユーザーでいる時間のほうが長いからだろう。こうした者には頭の中の時代をするっと固定電話時代に置き換えることが可能だからだ。もうひとつは、作者がいずれ携帯端末時代の訪れを予期していたのか、どの作品中でも重要なキーとなっている電話に過剰な衣装を纏わせず、あくまで通信の手段を担う部分だけを描いていることである。電話はよく鳴るし、受話器を持っての会話が物語の本流だったりするのだが、固定電話より携帯のほうが自身の生活に馴染んでいる若い人たちが読んだら、これらの電話は間違いなく携帯としてイメージされる。よしもとさんは、こういう時代の到来を計算していたかもしれない、計算してこのような表現にしたかもしれないな。そう思えば、このいかにも自然体で書かれたように見える、思いついたままを書き連ねたかのように見える小説に、作家の確かな才能もしくは力量の裏づけを感じるのである。うーん。
この3作品では、眠りや夢も物語のキーである。登場人物たちが、よく寝る。ぐっすりと、あるいはうつらうつらと。昼となく夜となく眠ったり、催眠にかけられたり。これは作家自身の体験が反映されているのだろうか。よしもとさんも、よく寝たのだろうか(ご本人は、文庫版あとがきに「よく寝た」と書いておられる)。
私は、70年代の終わりから80年代の終わりまで、いわば眠らない生活を当然のように過ごしていた。受験勉強、アルバイト、夜遊び、習い事、残業、恋愛。夜やることは山ほどあって、睡眠は時間の無駄でしかなかった。完徹が何日続いても平気だったし、逆に眠りすぎると翌日頭が冴えなかった。だから、平均3、4時間しか寝なかった、たぶん。そのツケが今、回ってきているのだ。ここ数年は、しっかり8時間睡眠をとらないと翌日確実に支障をきたす。
もしほんとうに、よしもとさんがよく寝ていたとしたら、彼女が今も小説家として冴え渡っているのは若き日々に存分にとった睡眠のおかげだろう。寝る子は育つ。寝なきゃいけないときに、私のように遊びに仕事に呆けていると、本当に命を賭して働かないといけないとき、使える時間のすべてを費やすべき何かを見つけたときを迎えて、グースカ寝るしか選択肢がないという事態になるのだ。あーあ。
みっつめの「うーん」は、「うーん。○▲□●▽■★#〓」。ん、内緒♪ うーん。
かけがえがないことは、たしかだ ― 2007/04/24 16:05:15
巻頭ページ
「関係を対称なものにすること」茂木健一郎
年間定期購読している雑誌がいくつかある。実は、その出費はかなりデカイ。で、毎年更新時にはもう止めようと心が言う。なのに続けんさあいと悪魔が囁く。で、せっかく悪魔が言うのだから心に留まった記事の感想ぐらいは書こうと、「まがじん」カテゴリを作った。
当カテゴリ投稿1号が、年会費600円の『母のひろば』になるとは予定外ではあったが(笑)最近活躍目覚ましい(あ、いえ、前からご活躍なんですよね、言い換えます、最近になってメディアへの露出が甚だしい)らしい茂木健一郎さんなので取り上げさせていただいた。
らしい、というのは私自身があまりこの人物に関心がないためそんな有名人だという認識がないからである。
脳科学者の茂木さんがどういうお顔の方なのか、思いがけない場所で知った。
美容室でアタマをいじくられている間にぱらぱらと見た週刊誌『女性自身』(あるいは『女性セブン』だったか)のカラーページだ。「脳を幸せにする味噌汁」というタイトルの特集で、そこにはもじゃもじゃ頭の中年期の男性が味噌汁を作っている、あるいは食べているところの写真が掲載され、その男性である茂木健一郎さんのコメントが記事として添えられていた。
味噌汁が大変な好物、しかも赤味噌が好き、なんでも味噌あじにするのが好き、味噌ラーメンを作ると息子たちは喜んで食べる、味噌は偉大だ、お袋の味だ、毎朝味噌汁を作らないと僕は一日が始まらない……というような内容だった。
人が喜ぶことをすると自分の脳は喜ぶ、そうだ。だから、料理を作ってあげて、食べてくれた人が美味しいというと、いわれた人の脳は喜ぶ。だから僕は料理作るの大好きです、あんまり家にいないのでたまには作らないとという贖罪の気持ちもあるけど、と、書いてあったように思う。
学者さんとしてはもちろん、芸術家ですといっても通りそうな風貌だ。お役人や企業の平社員には見えないが、ちょっと変わった事業を手がけるベンチャー企業家でも通りそう。そうかそうか、ふうん、こんなひとなのね。
昨年だったかその前か、ある大企業の重役さんの講演録をまとめるという仕事があって、その方のお名前が、この脳科学者さんにそっくりなのだった(同姓同名ではないんですよ)。だから、その仕事と前後して、この脳科学者さんの名前が目につき、あのじいちゃん(失礼、件の重役さんは70歳を越えておられる)脳科学者でもあったのか! と、びっくりしていたのだが、今年に入って、また件の重役さん講演会取材の仕事があって再見した。そして、このじいちゃんはあの脳科学者氏ではない、との意を強くした。重役じいちゃんの講演(教育論なのだが)には、「やはり子どもを正しく導くべきは大人」という理論が根底にあったからである。
この『母のひろば』514号はその講演会取材よりも前にウチに届いていた。
《子ども時代は、本当にかけがえがない。》この一文でその巻頭コラムは始まる。
それは、大人になるための準備期間として大切だというだけでなく、《子ども時代には固有の価値が》あると現代の科学者たちは見ているという。
従来、発達というものは《白紙の状態》にさまざまな情報や《経験が書き込まれ、大人になっていく》というものだと思われていたが、現在は《成長のある時期にだけ現れて消えていく》ユニークな能力もあるといわれているという。老子があの時代にすでに、人間の最高期は5歳だといっていたそうだ。そして、コンピュータの進んだ現代において人間に求められるのは創造性である。だからこそ大人は《子どもから多くのことを得なければならない》《子どもの心を忘れてはならない》。それは《子どもと大人の関係を対称なものにすることによって》可能なことだ、という。
子どもの発育過程で、はっとさせられることはたしかにとても多い。しかし、たいてい親はその時期を無事に乗り切ることが精一杯で、垣間見える子どもの特殊なきらめきやユニークな能力など、それとはなかなか気づかないし、いちいち覚えてはいられない。覚えていたとて、それはここで述べられているように「現れてすぐ消える」ものだったら、そこに執着し続けるのは親としては危険だ。
そうではなく、大人は、ふんっ子どものくせに生意気な、という根拠のない高飛車な気持ちを捨て、子ども特有のきらめきを目にするたび謙虚にそこから学ぼうと思うべきなのだろう。
私のように、保育園の運動会でかけっこ一着になった娘に将来は五輪金メダリストなどと吹き込んではいけないのだ。はっはっは。
ただ、わずかな字数のこの巻頭エッセイで「うん?」と思うことがあったので書き留めておこう。
前半で《ある時期にだけ現れて消えていく、そんな特別な能力もあるのである。》と例を提示し、後ろのほうで、だから《子どもから多くのことを得なければならない》と結ぶのはよしとして、その中盤には《私たちもかつて持っていた素晴らしい能力を捨ててしまってはもったいない。》とあるが、その「能力」は先に述べた「そんな特別な能力」とは別ものなのだろうか。同じものなのか。このエッセイにはその説明がない。
「ある時期にだけ現れて消える能力」は、現れなくなったとしてもその人間の内にとどまるものなのか。それとも本当に消え去ってしまうものなのか。消え去ってしまうものならば、「捨ててしまう」も何も、大人になった人間にはもうどうしようもないもののはずだ。
茂木さんに限らず、《子どもの心を忘れてはならない》という人は多い。ここでいわれている、「ある時期に現れて消える能力」と「子どもの心」は同質のものではないと思うのだが。
そして、子どもの心を持ち続けるというのは、このエッセイの内容とは関係なく、普通の大人にとって至難の業である。
さて。
書かれている内容からは、筆者の年齢を推測しかねた。というのも、最後のほうに《冷たい水に足をつけて、夢中で魚をおいかけたあの遠い日》というくだりがあったからで、それはもう本当にいにしえの日本の子どもの姿のように思えたからだ。だからこれがウチに届いたときも、この人はやはりあの重役じいちゃんではないのかとの疑いを捨てられなかったのだった。
で、また別のことも考えた。
茂木健一郎さんはいまや超売れっ子プロフェッサーであるからして、たぶん、この短文エッセイをかなりやっつけ仕事で書いたのではないかと思う。子育て中の、一般の若い母親が主な読み手で、難解な理論を振りかざさず、専門用語も使わずに、子どもについてまたは子どもが読む本について書く。この手の仕事を嫌がる学者も多いと思う。しかし茂木さんはわかりやすく何でも解説するのが真骨頂で、だからこそ著作もご本人も売れまくっているのだから、『母のひろば』の仕事を断るわけにはいかないだろう、とはいえ時間がないよー、忙しいよー、えーい、ちょちょいのちょいと書いた、もしくは似たようなテーマで書いた過去のものを手直し・圧縮・アレンジした、……と想像する。
私は茂木さんを非難しているのではない。上のような状況で執筆依頼をパシパシさばく書き手は山ほどいる。もしご自分で書かれたとしたら素直に偉いよと申し上げたい。部下とか教え子に下書きさせたとしても、最後に自分がチェック入れることを常としているであろうと信じたい※(後述)。
学者さんは「自ら書いた」ことを重視する人種(例外も多し)であるので、仮に自分が筆を取らずに聞き手が代筆したものでも、必ず目を通し、自身の主張と異なる箇所は徹底して訂正を要求する。
この「関係を対称なものにすること」も、そのようなプロセスを経ているはず。
はずだが、先述した「子どもの心」の箇所などに、僭越ながら、詰めの甘さを感じたという次第である。
本エッセイの目的は親と子の「関係を対称なものにすること」つまり子どもの目線になってものを見なさいよ、ということをお母さんにわかってもらうことだと思うので、早い話が、能力が消えるのか捨てられるのかということはこの際二の次だったのだろう、と、原稿発注者側の気持ちになるとそう思う。
ともあれ。
世の中には発信者の意図を正確に示さない文章が氾濫している。そのことによって発信者から抗議が起こればよいのだが、発信者に主体性がなく、言動がどうとでも取れるようないいかげんなものの場合、活字や映像になってからおかしいことに気づいても「あれ? 違うような……まあいいや」で済まされる。結果、情報の受け手は、おかしいものや捻じ曲げられたものや曖昧なものを真っ直ぐに受けとめてしまう。
情報が膨大で多様化しているとはよくいわれるが、一つ一つの情報が見たままのかたちで脳に飛び込んでくることは今も昔も変わらない。最初のインパクトの大きさは同じだが、情報量が増えたぶん、受け手は取捨選択の労を強いられているだけのことだ。
私は、仕事とはいえ、「おかしいものや捻じ曲げられたものや曖昧なもの」といったろくでもない情報の提供に、顧客から制作を請け負うというかたちで加担している。日々、心が痛む。読んでくださる方、ごめんなさい。どうか賢い目で取捨選択し、バンバン捨て去ってください。
こんな自分だが、せめて、情報の質に敏感な嗅覚を持ちたい。
せめて自分の子どもには、見かけだおしの、耳に心地いいフレーズに惑わされずに判断させたい。コピーライターの甘いささやきに負けない健全な脳に育ってくれ。
※書けもせず、喋れもせず、原稿にだけケチをつける……
「○○の話も入れてよ」← え? だったら取材時にその話してよ。
「私の言いたいことってこれだったんだー」← 文章になってから気づくなっ。
……という輩ばかり相手にしているので願望が強く出ています……。
ヨロコビクイズの答え ― 2007/04/26 11:20:20
きのめさん ア=6 イ=3 ウ=5 エ=2 オ=4 カ=7 キ=1
mukaさん ア=6 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=3
百吉さんA ア=3 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=6
百吉さんB ア=1 イ=3 ウ=6 エ=7 オ=5 カ=4 キ=2
けんさん ア=6 イ=5 ウ=1 エ=4 オ=7 カ=2 キ=3
おさかさん ア=6 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=3
ヴァッキーさん ア=6 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=3
ろくこさん ア=3 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=6
正答:ア=3 イ=5 ウ=1 エ=2 オ=4 カ=7 キ=6
全問正解者は……(ダダダダダーンン!)百吉さんAとろくこさん! おめでとうございます!(パチパチパチ&紙吹雪)
賞品はなんと! 次回文章塾での蝶子からの超辛辣ぶった斬りもうこれで貴方は立ち直れませんコメント! お楽しみに!
さて。
生きていく喜びってなんだろう、と考え始めると、単なる素材としてだといくらでも思いつくんですよね。あれも、これも、喜びだよなあって。とはいえ、アナタの怒りがワタシの喜びだったり、ワタシの苦痛がカノジョの悦楽、だったりもするので、いろいろな立場での喜びネタを挙げていこうと思いました。でもあまりに多様な人物を想定すると収拾つかないのでとりあえず家族で考えてみたのです。「わたし」以外は想像なので、実際に本人にインタビューしたら違うことを言うかもしれないのですが、それは今回考慮しませんでした。
ア)ウチの娘(11歳)のヨロコビ = 3)
枝豆。焼き魚。大蒜の紫蘇漬。かまぼこ。白ご飯。五目飯。じゃこ飯。まったけご飯。芋と牛蒡と蓮根の煮つけ。大根とベーコンの蒸し煮。生チョコ。板チョコ。ガトーフレーズ。苺ショート。スコーン。マフィン。紅茶。えびせん。するめ。さきいか。猫とのおしゃべり。朝のお布団。朝のランニング。体育。図工。給食。バレエ。自転車。お母さんの「ただいま」。みんなで食べる晩御飯。
【解説】
「人生の楽しみは食べること」←本人の口から出た言葉です。上記の冒頭から5つは、彼女の「世界中で好きな食べ物」ベスト5です。
イ)ウチの母(70歳)のヨロコビ = 5)
お隣のおしゃべり。裏の奥さんの声。ご近所の噂。商店街。お買い得品。猫のおねだり。猫が餌を食べる音。猫が水を舐める音。猫とのおしゃべり。猫の温もり。朝。小鳥のさえずり。猫の呼ぶ声。朝のお茶。葉を伸ばす紫陽花。娘の足音。孫のあくび。
【解説】
これといった趣味のない母にとっては平和な日常が何より大切。互いに聞き上手でおしゃべりな近所のおばちゃんや商店街の奥さんたち、そして「うるさいなあ」とか「もうわかったてば」とかいわずに「ニャー」とだけ答えてくれる猫との会話が至福のときなのです。
ウ)ウチの猫(1歳)のヨロコビ = 1)
毛糸のざぶとん。おこたの中。お布団の上。暖房の入った床。朝と昼の窓辺。うたた寝。お昼寝。すりすりブラッシング。お水。ごはん。りぼん。おもちゃ。爪とぎ。お風呂の匂い。
【解説】
だいぶ暖かくなってきた今日この頃ですが、まだ猫はぬくいところを求めてやみません。こたつは片づけちゃいました。今は、小さな窓から差し込む光で短時間だけできる陽だまりが大好きです。
エ)ウチの蛙(年齢不詳)のヨロコビ = 2)
朝。光。土。雨。虫。水。苔。石。
【解説】
すっかり目が覚めて、元気に跳びはねています。上記は水槽のなかでミドリが得ることができる要素です。あとひとつ、つけ加えると「ポトスの葉」。
オ)ウチの金魚(推定7歳を筆頭に6尾)のヨロコビ = 4)
気配。声。ごはん。朝と夜。春と秋。冷たさ。温もり。空気の粒。仲間。藻。
【解説】
飼った経験をお持ちの方はおわかりかと思いますが、金魚って、近づくと口パクして餌をねだります。うちの母も猫が来る前は金魚と会話していたんですが……。それから、金魚は極端な温度差に弱いそうで、本当は年中水温を一定に保ってやらないといけないみたいです。ウチではヒーターは付けていませんが、夏と冬の水質・水温にとくに気を遣います。
カ)ウチのタニシ(6歳3匹、2歳1匹)のヨロコビ = 7)
キャベツ。
【解説】
我が家のタニシは全部我が家生まれなんです。なんと野生じゃないんですよ! この子らを産んだ親は川で捕まえてきたタニシで、結構長生きしましたが、昇天。親たちもキャベツが好きでしたが、川で苔のついた石を拾って入れてやるとそれにもへばりついていました。でも子孫のほうはあまり好きではないようです。キャベツをちぎって入れといてやると、葉脈だけになってもまだ食ってます。いずれタニシ物語を書くつもりです。
キ)わたしのヨロコビ = 6)
君の寝息。君の寝言。君の「もうちょっとだけ」。君の「あと5分」。君の「おはよう」。君の「いただきます」。君の「うーんおいしい」。君の「ごちそうさま」。君の「わからへーん」。君の「教えてー」。君の「遊ぼー」。君の「よっしゃあ」。君の笑顔。君の笑い声。君の泣き顔。君の涙。君の怒り。君の悲しみ。君の痛み。君の感激。君の感動。君の喜び。君の「おかあさーん」。
【解説】
いうまでもなく、「君」とは我が愛娘です。冒頭のいくつかはいつまでたっても起きない毎朝の彼女の様子。私たちは自他ともに認める超密着母娘です。喜怒哀楽オール共有状態です。
そして誰も……が「ゆでガエル」 ― 2007/04/27 15:14:03
巻頭ページ
「ゆで蛙にならないために」小森長生
ついでなので『母のひろば』の直近号のご紹介。
茂木さんの巻頭エッセイが載っていた514号の「特集」は、日本の食料自給率が低くフードマイレージが非常に高いことなどを挙げて「地産地消」の推進を子どもたちとともに考えるという活動をしている人の話だった。
フードマイレージとは、食糧を輸入するために使うエネルギーを量と輸送距離で掛け合わせて出した数値。つまり、遠方から多くの食糧を輸入しているということは、船舶などによる輸送のために石油を使い二酸化炭素を排出して地球温暖化を助長している、ということになり、日本はこの数値で世界ダントツなのである。
……という内容を受けて(かどうかは知らないが)、515号の巻頭エッセイは小森さんという惑星地質学者さんによる、人間は、本当に、真剣に、二酸化炭素を排出するような活動を極力押さえなくてはならない、という内容である。
今世紀末には、平均気温は1.1~6.4度、海面は18~59cm、上昇する(国連発表による)そうだ。
タイトルの「ゆで蛙にならないために」の「ゆで蛙」は、《環境問題を論ずるときに、よく引きあいに出される有名なたとえ話》からきている。
そのたとえ話とは、《「金だらいに満たした熱湯にカエルを放り込むと、カエルはびっくりして飛び出してしまう。しかし、カエルが泳ぐ冷たい水をじょじょに熱していくと、カエルはいつのまにかゆだってしまう。」》というものである。
気づかぬうちに真綿で首を絞められていて、締められてると気づいたと同時にこと切れた、みたいな感じかなあ。このたとえ話のことは知らなかったけれど、今、地球はそういうふうに徐々に徐々に、弱火にかけられた薬缶の中の水のように温まりつつあるのだ。初めのうちはあれれ何だろうと思う程度であったのが、変だぞと気づいたときにはもう手遅れなのだ。
でも、もう、みんな気づいているんじゃないのか? 変だぞって。
「けったいな気候やなあ」「オンダンカのせいやろ」
近所のおばちゃんたちの会話である。
おばちゃんたちだって気づいているのだ。
小森さんは叫んでいる。
《心配だと思うことに対しては早めに手を打っていくべきだ》《科学者はこのことを声を大にして訴え続けなければならない》《政治家はそれを真剣に受けとめて行動すべきであろう。》
『母のひろば』以外の場所でも叫んでくださっていることを願う。切に。
それにしても、ゆで蛙だなんて……。
冗談じゃないよねえ、ミドリ。
まったく冗談ではない。
数年前から家族で心がけていることがある。
○なるべく徒歩か自転車で移動する。
○冷暖房機器を極力稼動させない(まずエアコンをきっぱりやめた)。
ジレンマもある。
買い物はなるべく近所ですませ、郊外のショッピングセンター(という類のもんはもともと大嫌いだが)に車で出かけたりはしないのだが、買う物の大きさによっては手に持って歩いて帰るわけにはいかないので、配達を頼んだり、通信販売を利用したりすることになる。
でも、まさか配達係や運送業者に「徒歩で来い」とはいえないし(笑)。けっきょくトラックなるものを活躍させてしまう。
また、エアコンの使用を一切やめた我が家だが、夏は昼も夜も汗だくになるため、洗濯物が増えて洗濯機が稼動しまくって(苦笑)。
洗濯に風呂の残り湯を使うけど、給水ポンプというかなり電力を食う機械が必要だし。
ことほど左様に、人間の暮らしは二酸化炭素を排出するようにできている。人間の存在自体が温暖化加速の最大原因なのだ。だから、いつになるかはわからないけど、きっと地球には「そして誰もいなくなった」という状態が訪れる。
その前に、誰もがゆでガエルみたいになってそこいらじゅうにのびて息絶えている、という図が描かれるのだろう。
ミドリも私もゆでガエルにはなりたくない。もちろん、同時代人をゆでガエルにしたくはない。だから、今世紀くらいは何とか正常値を保つように、まったくのエゴエコ(エゴイズムによるエコロジーの略……勝手に作ったコトバよ)に過ぎないが、小さな努力を続けようと誓いを新たにしたのであった。
