誰が読むのだろう……高校生? 行間や文章の裏側を読み取れないとしんどいかもの巻 ― 2009/08/21 19:13:28
『学校がアホらしいキミへ』
日垣隆著
大和書房(2008年)
学校なんかあほらしくて行けるか、と、「真剣」に思っている小中高生は実際どれくらいいるのだろう。
「学校がつまらない」子は多いだろう。「学校に居辛い」子も多いだろう。そういう子のうちの何人かは一度のずる休みが引き金になってずるずると不登校に陥ってしまうのだろう。その一方で、学校は楽しいと感じている子も多いはずだ。娘の通う中学校の場合だが、娘の学年200人弱のうち、不登校になっちゃって全然学校来てないのは5~6人くらいらしい。この数字、多いのか、少ないのか?
そのうちの2人は娘と同じ小学校出身の男の子で、うち1人は娘によると「むっちゃカネモ」(=彼の家庭はたいへんなお金持ち)、もう1人は同「お母さんコワキモ」(=彼の母親は怖そうに見え、かつ気持ち悪くも見える)。「カネモ」のほうはゲーマー君らしくて、ゆえにウチの子やその周囲の子らとは縁がまるでなかったので私も全然知らない。「コワキモ」のほうは、娘がそういうのもわかるような(すみません←誰に謝ってるかというともちろんコワキモのお母さん)見た目ド迫力のお母さんで、しかも息子はひ弱そうで、したがってというべきか、傍目にもたいへんな母子密着ぶりが透けて見えて匂いがぷんぷんしていたように記憶している。小学校のときから、たとえば運動会などでは撮影に熱心な保護者はどこにもいるものだが、コワキモさんは競技中にもかかわらず校庭のど真ん中へ自分の息子だけを撮影しにドコドコのしのし歩いていく人だった。保護者のかたは保護者席で応援お願いしますーとか、危ないですからトラックの外へ出てくださーいとか、スピーカーががなりたてても聞いていないのである。しかも図体がでかいので、とりあえず邪魔なのである。駆け寄って注意する教員やPTAの委員とかがいるんだけど、そっちに顔は向けても視線はあさっての方角を向いてるような表情で、歪んだデビ夫人のような顔でにっと笑うだけで動かないのである。肯定的な表現をすればマイペースなおかたであったが、端的に言うとタチが悪いのである。
あの存在感からして、学校に来ていたら見かけないはずはない。でも、全然見ない。コワキモ君は、いつからかわからないけど中1の後半あたりからは確実に来ていないようである。
娘に言わせるとふたりとも、「勉強は全然できてなかった」らしい。
学校がアホらしい、と思うには「けっこう高い知性」が必要なんじゃないかと、私は思うのである。「はん、あほらしっ」そういい捨てて教室から退去するには、そこで行われていたことが、「つきあってらんねー」くらいに幼稚であったりレベルが低かったりしないといけない。生徒らに自分たちで話し合って結論を出せといいながらけっきょく全部教師が決めてしまっているとか、逆に教師が生徒に振り回されて収拾つかない(学級崩壊)とか。
こういう環境に対し、たいていの子は、やだなー、でもなんとかしなきゃ……と思っている。とはいえなんともできないので、やだなーいつもこうだよつまんないなー、となる。つまんないが度を超えると学校に来なくなるかもしれない。それは「アホらしい」と思うこととは、思考のベクトルが違う。
本書は、『学校がアホらしいキミへ』というタイトルだが、対象読者は、「ガッコつまんねー」と四六時中思いながら思い切った行動をとらないままうだうだいじいじしながら学校生活を送るティーンエイジャーである。著者が送るメッセージはたいへん正当である。学校が面白くないのはあたりまえだ、昔は学校がいちばん面白いところだったが今は娯楽がたくさんあるし、学校はコンテンツに乏しいんだ、コンテンツという言葉の意味がわからなかったら辞書を引け。先生はつまらない、彼らはただのレッスンプロ、毎年同じことをやっているのだから面白い人であるわけがない、研究者ともプロスポーツ選手とも違うんだから、先生に面白さを求めずに自分が面白い人間になろう。世の中には答えの決まっていない問題が山のようにあるから自分で考える必要がある、答えの決まっている学力試験を侮るな、答えの決まっている問題を解く努力をしないやつが、答えが幾通りもあるような問題に立ち向かえるはずがないのだ、云々、かんぬん。
(正確な引用ではありません)
たいへんまっとうな議論が続く。一人称が「俺」なので、語り口は近所のオヤジが悪ガキに話しかけている格好だ。あえてそうしているのだろうし、それはそれでいいのだが、なんとなく、ときどき議論が飛躍するように感じるくだりがあって、これじゃ子どもにはわからないぞと思うことたびたび。
飛躍するというより、言わなくてもわかるだろといわんばかりに説明をはしょっているといったほうがいいのか。
文体は簡潔で歯切れがいいので(言葉は悪いが)騙されそうになるけれど、え、どういう意味? と冒頭に戻って読み返したりする必要を強いられることしばしば。そんな文章は、たとえフレンドリーでも親切とはいえない。
私が読解力なさ過ぎなのかな?
普段、くどいくらいに(ある意味)丁寧親切なウチダの文章に慣れ親しんでいるので、そっけなく感じるだけなのか?
ま、いいけど。
単にお勉強ができるだけの頭のよさではなくて、他人のいうことを鵜呑みにしないとか、勘繰ってみるとか、言葉の裏を読むとか、テーマの社会的背景に思いを馳せるとか、けっこう高度な思考行動をともなう読書になる。
高校生にだって無理じゃないかい?
学校を「アホらしい」と見下せるくらいの知性のあるティーンエイジャーなら、本書に書かれていることは軽々クリアじゃん、という気もするし。知性のあるティーンエイジャーが不登校であってもそれはアホらしいから行かないのであって、なのに本書は「アホらしい場所にだって行かねばならない」理由は書いていない(と私には読める)。
ただ、巻末付録に、自殺してしまった著者の長男の友人君へのメッセージがあるのだが、この友人君がどうやら「学校がアホらしい」から学校に行くのを拒絶した、天才肌の少年だったようである。その少年に、著者は「アホらしい場所かもしれないけど、一度行ってみないとわからないだろ」と、大学進学を勧めていたらしい。
でも彼はセンター試験の日に会場へ向かわず、命を絶った。
というわけで、この本はどっちを向いているのかちょっとわからなくなったりしたのであった。娘がもし関心を示したら読ませることにしよう。でも感想を述べる彼女の顔が目に見えるようだ。「いみがわからへん」
そういえばエスパー魔美は14歳で超能力が開花したんだっけ、とマンガは読んでないけど娘のために何度も録画したTVドラマをちょっと思い出したの巻 ― 2009/06/25 20:02:47
『14歳の本棚 部活学園編―青春小説傑作選』
北上次郎編
新潮文庫(2007年)
ついこないだウチの娘が13歳になったばかりだというのに、娘の周辺では次々に友達が14歳になっていく。偶然に過ぎないのだけど、6月から8月に集中してやたら友達の誕生日がある。去年はこの時期100円ショップに駆け込んでストラップや髪留めをみつくろっていたウチのさなぎは、今年はさすがに百均商品1点オンリーで済ませるのは気が咎めるらしく(笑)チマチマためた小遣いを全部はたく勢いで友達のプレゼントを物色している。
(しかし小遣いといっても、彼女には小学生時代には「お小遣い」を与えていなかった。おつかいにやった時に持ち帰ったお釣りの38円とか14円とかをそのまま与える程度だった。中学生になって月に100円、二年生になって200円にアップした。アップといっていいかは疑問だが。皆さんお間違えのないように、去年1000円今年2000円ではない。だからどうやっても次々来る友達の誕生日をクリアできるとは思えないのだけど。笑)
こないだちょっと触れた仲良しのさくらちゃん。彼女も7月が誕生日だ。がんばる中学生の鏡・さくらには、いしいしんじの『トリツカレ男』を私からプレゼントすると約束してある。さくらちゃん家にはたびたびさなぎがお邪魔していろいろともてなしていただいていることもある。
『トリツカレ男』に加えてもう一冊どれにしようかなと物色していて、14歳をターゲットにした本(13歳のとき同様の結果しか、期待はしていなかったが)ってどんなんかいなと、14歳をキーワードに探してみた。
14歳(検索トップは千原ジュニアだった……誰か読んだ人がいたら中身教えてほしい)
14歳からの世界金融危機(そそらないタイトルだ……)
14歳からの社会学(アバウト)
14歳からの哲学(故池田晶子さんの本)
これでいいのだ14歳(バカボンのパパに聞く……とか何とか副題がついてた。面白いかも。笑)
14歳からのお金の話(お小遣いはいくらか、という話ではなさそうである)
14歳からの商い(流行ってるんやねえ、こーゆーの)
14歳からの仕事道(「希望学」の玄田さんの本である。「よりみちパン!セ」シリーズ)
14歳の子を持つ親たちへ(愛するウチダと名越医師との対談。持ってるが、実はイマイチ)
14歳からの世界恐慌入門(だから、そそらないって。意味わからんって)
14歳からの政治(薦めたかないがウチの子は好きかもしれん。泣)
14歳からの日本の選挙(同上)
14歳からの戦争学(だから、それってどーよ)
14歳の危機―自立を先送りする子どもたち―(自立できん30代が多いのは中学生時代に原因があるって話なのだろうか?)
ヴィーナスは14歳(ぷちぴちプルプル写真集。これっ。お母さんはそんな子に育てた覚えは……!)
やはりろくなものがなかった中で(ほとんど読んでないのでそげなこつ言う資格はないが)、一冊だけ光っていたのは本書、『14歳の本棚 部活学園編』であった。実はこの本は図書館の文庫書架の前にボーっと立っていて偶然目に留まったものだった。ちょうど私の目の高さに並んでいたのである。なんとなく引っ張り出して、表紙を見て内心をををををを!!!と叫んでいた。そこには森鴎外、井上靖、大岡昇平の名前が並んでいたのである。
これは中学生を主人公にした短篇もしくは長編の抜粋が編まれたものである。
ラインナップをばらしちゃう。ついでに独断評価を著者名の横に♪
「空のクロール」角田光代 ○
「ブラス!ブラス!!ブラス!!!」中沢けい ×
「ヰタ・セクスアリス」(抄) 森鴎外 ⇒読んでない
「夏草冬濤」(抄) 井上 靖 ◎
「クララ白書」(抄) 氷室冴子 ⇒読んでない
「決戦は金曜日」川西 蘭 ◎
「F列十二番」松村雄策 ◎
「青山学院」大岡昇平 ◎
角田さんのは、えっ終わり?と思うような終わりかたがごく微妙に物足りなかったが、大変面白い一編である。実は角田さんの本を一冊も読んでいなかったのだが、受賞作や評判を呼んでいる長編にいずれ手を伸ばそうかという気になった。
川西蘭とか松村雄策とか、まるで知らない名前だったのだが、それぞれすごく味のある作品だ。そんな中学生いるか?と、思うようなくだりもあるけど、昔は中学生は骨太だったからなあ。この二作品は、石につまずいて転んでよく石を見たら宝石だった、というたとえが適切かどうかは別にしてそう形容したくなるほど私には発見であった。
井上靖の『しろばんば』をこよなく愛する私は、主人公・洪作のその後が気になったまま、続編を読まなかった。なんとなく青春時代に忘れ物をしたようだった。本書の中で、中学生になった洪作と会った。ううう、やはり洪作は可愛いのである。感涙。
大岡昇平は内容に関わらず大岡昇平であるというだけで二重丸。
このシリーズにはあと二つあって、『14歳の本棚 初恋友情編』『(同)家族兄弟編』がある。興味のあるかたはそちらも検索されてどんな本か覗いてみてください。私の場合、『部活』以外はまったく関心を惹かなかった。図書館にはどちらもあったけど、いずれも、表紙の最初に書かれている作家名でアウトであった(笑)。
「14歳」をキーワードに検索したら、当然このシリーズもひっかかった。けれど、ほかの実用書まがいのろくでもない本に隠れて目立たなかった。たまたま「14歳」だから書名検索でひっかかったけど、例えば中学生に読ませたい古今の小説が集められた本を探すとき、どんなキーワードが有効なんだろう? 前も書いたけど、お話の主人公になるにも読者になるにも、かなり中途半端な年代、それが中学生だ。中学生に読ませたい本の主人公はもちろん中学生とは限らないが、主人公が同世代だと感情移入しやすいのは確かだ。
(さなぎは私の嫌いなイシダイラのフォーティーンとか何とかいう本を読んで、たいして面白くなかったけど登場人物が同じ年頃だったから気持ちがよくわかった、などといっていた)
ということで、さくらには本書を『トリツカレ男』にプラスしてプレゼントすることに決めたのである。
14歳は飛躍の年齢かもしれない。さくらは今、心身が充実しているのか「むっちゃテンション高い」(さなぎ談)。先月誕生日だったしのぶには彼氏ができたし。
だけど挫折の年齢かもしれない。陸上部きっての俊足ユウカは、誕生日を前に剥離骨折した。
さてウチの子の14歳はどんなふうに訪れるのだろう。
ノートに漢字を書く私にゾランは「君、それは絵だよ」と言ったことを思い出したの巻 ― 2009/06/10 17:52:25
『ぶらんこ乗り』
いしいしんじ 著
新潮文庫(2004年)
お気づきの方もおいでかもしれないが、本日のわたくしはほとんど仕事になっていない(笑)。
明日しめきりの企画書と原稿が私の頭の中で形をなさないまま山になっている。最初の1行、とっかかりのひと言をつかめたらあとはすすすすすっと行くんだけど、それがつかまらなくて、外は雨だし、まったくもう、掃除してないドブみたいに溜まったまま吐き出せないんである。
気晴らしにちょこちょこよそ見をしにいってはなんのかんの書き散らしたりして、たちが悪いのである(笑)。
だからというわけではないが、やっぱ読まなきゃよかったよ、という感想をもった本について書き殴ることにする。
本書はいしいしんじのデビュー作だそうである。
私は前に、彼の『トリツカレ男』を大いに楽しんだ。ブログにも綴ったけど、この『ぶらんこ乗り』はずっとずっと前に一度図書館で借りて、読めないでいるうちに期限が来て返してしまったのであった。思えば、あのとき『ぶらんこ乗り』を読んでいれば、私は二度といしいしんじに近寄らなかったかもしれなかった。不思議なもんである、本との縁も、人との縁も。
先に結論からいってしまうと、『ぶらんこ乗り』は疲れる。押しつけがましいところがちっともないせいか、よけいに疲れる。いろいろ見せられて読まされて、「で、どこへいけってゆーんだよ」という気分にさせられるのである。
なぜそんなに疲れるのか。
複雑な話ではない。こみいった構成でもない。
語り手「私」には天才の弟がいるが、この弟が幼いくせにいっぱい「お話」を書くんである。それはいいとして、そのお話がことごとく平仮名ばっかりで紹介されているのである。弟が書いたままを表現しているということだろうが、たいへん読むのがしんどい文面なのである。
平仮名ばかりだと読むのに疲れるのか、というと必ずしもそうではない。ひらがなで、やまとことばばかりで、書いてあるのであればべつにどうってことはないはずである。谷川俊太郎の詩の例を引かなくても、子どもの絵本やお話の本はひらがなばかりである。それを大人が読んで読みにくいとは思わないであろう(モノにもよるけど)。
『ぶらんこ乗り』の作中物語として登場する天才の弟が書くお話には、かなり漢語が混じっていて、それを平仮名にしているもんだから読みにくいのである。
漢語の中には、幼少時から、つまり言葉を覚えたての最初から、慣れ親しむ熟語もある。ほかに言い換えのきかないような言葉がそうである。
んーと、たとえば……せんせい、かぞく、せかい、ないしょ、ひみつ……
《ぎょそんのみんなはふねをくいにしばり、やねをしゅうぜんし、とぐちやかべにいたをうちつけました。》(15ページ)
《「くうちゅうぶらんこのげんり」
(……)さいしょはたいしてへんかはでません。けれどそのうち、ふとしたひょうしにてあしがさかさにまがってる。(……)》(20~21ページ)
ひとつめの例は、引用箇所の前に「みなと」という言葉が出ているので、「ぎょそん」でなく「むら」でよいと思う。また、「しゅうぜんし」より「なおし」のほうがいいと思わない?
二つめの例では、「げんり」「さいしょ」「へんか」「ひょうし」。すべて和語で表現すればもっと見やすい。言葉を言い換えることで前後の表現は当然変わってくるが、物語の流れからしてその点はあまり重要ではないはずだ。「げんり」の和語はなんなのよといわれると困ってしまうが、「くうちゅうぶらんこのげんり」と題されたこのお話が「原理」について語っているとは思えないので「くうちゅうぶらんこのしくみ」とか「ひみつ」とかならもっと可愛いのに、と思ったのである。「はじめはあまりかわりません。けれどそのうち、ふとしたはずみに……」でもいっこうに問題ないと思われる。
また、弟のお話は言い回しや文章構造もいささか大人びているので、ひらがなを覚えたての幼児なんぞが本書の「弟のお話」の部分だけを読んでも絶対ちんぷんかんぷんのはずである。
弟の天才性を強調するために、漢語を多用したのかもしれない(だとしても納得しないけど)。もちろん、熟語が平仮名になっているからといってまったく意味がわからなくなることはないし、多少の読みにくさはクリアできるさという人には苦でもなんでもないだろう。
若干イラつきながら何とか読み終え、物語『ぶらんこ乗り』そのものはけっして悪くないのにもったいない、と思ったのだった。だけどそれでももう読みたくないし、読まなきゃよかったと正直思った(これじゃなくて他の本にすればよかった)。
思えば、前に読まずに返却してしまったのも、ぱらぱらと開いて「うっ」ときて閉じちゃったような、そんな気がしてきた。
私は、ひらがなが好きである。ひらがなで意味が通るところはひらがなで書くのを好む。けれど故事成語や維新後に渡来した西欧語からの翻訳語、たとえば法律とか、議会とか、鉄道とかの類だけど、そういうのは幼児向け絵本でも1年生の教科書でも「漢字表記でルビを振る」方針でいくべきだと考えるほうである。
ひらがなは文字で、漢字は絵として認識するのが、日本の子どもたちの正しいはじめの一歩だもんね。
初めてヨーロッパを旅したとき、日本のことを全然知らない欧州人ばかりに会ってたいへん愉快だった。ブラチスラヴァで会ったゾランとスコピエで再会した。私が旅ノートを取り出してメモしているとおそるおそる「……それ、字?」と訊いた。字でなかったらなんだと思うんだよ(怒。笑)という私に絵じゃないのかなってさ、と彼は真顔で言った。ハウスはどう書くのと聞かれて家と書いたらすごく感動された(笑)。いうまでもなく私は心の中で野蛮人めと舌打ちしたのである。若かった。
みんなが感動することに同じように素直に感動するのもいいけれど、みんなが素晴しいと言うものを同じように素晴しいとは到底思えないという感性も必要であるの巻 ― 2009/06/04 19:19:29
カフェ・アピエはここざんすよ↓
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※今春の営業はこの週末でおしまいです。
『西の魔女が死んだ』
梨木香歩 著
新潮文庫(2001年)
「お母さん、みんなが『西の魔女が死んだ』はすごくいいっていうねん」
「ふうん」
「今度図書館行ったら借りてきて」
「止めとき。『オズの魔法使い』読むほうがええ。西の魔女、でてくるやん。最後死ぬやん」
「そやけど、違う話やん」
「あ、知ってた?」
「当たり前やろ」
「読んだ人から話聞いとき。わざわざ読まんでもいいって。ほかに読まなアカン本はいっぱいあるで」
「なんでぇ」
まさか『親指さがし』のほうがはまし、とまでは絶対いわないけれど(笑)、『西の魔女が死んだ』を読む時間があったらほかに読んでほしい物語はいっぱいある、というのは本音だ。私はずいぶん昔に『裏庭』を読んで以来申し訳ないけど梨木香歩の作品に先入観をもってしまって近寄れなかった。『西の魔女が死んだ』の評判は知っている。私の友人も、信頼できる筋も、読んだ人はたいていよかった、感動したという。だからたぶん私も、『裏庭』がどうあれ、それはそれとして、『西の魔女が死んだ』を読めば普通に感動するかもしれない。そう思うとなおさら読みたくない。……天邪鬼のようだが、こういうのがベストセラーやロングセラーに対する私の場合のごく普通の反応である。であるからして、ことさらに『西の魔女が死んだ』だけを毛嫌いしているわけではない。しかし、本書の場合はそういう私の性格に加えて、ネーミングや登場人物設定から『裏庭』と同じ、自分とは相容れないなんらかの匂いを感じて本能的に避けていたのである。
そうはいっていても、案の定、主人公と同じ年頃の中学生たちの間では、とくに女子生徒の間では絶大な人気があるらしい。本好きな子はすでに小学校時代に軽くクリアしている。中学1年生のとき、クラスメートのさくらちゃんから、さなぎは『西の魔女が死んだ』の単行本を借りてきた。イケズな母が図書館で借りてきてくれないから(笑)。
「読んだ?」
「うん、読んだ」
「どうやった?」
「さくらが、すっごぉくいいで、感動するで、絶対泣くで、てゆうてたけど」
「けど?」
「どこで泣くのかわからへん」
さすがは私の娘である(万歳三唱)。
以上の出来事は去年の夏頃だったと思う。
さくらちゃんは中学校に入ってから仲良くなった子で、四人きょうだいのいちばんお姉ちゃんであるせいか、ウチの子よりずっと小柄で丸い顔があどけないのに、とてもしっかり者で頼れる存在である。昨年度一年間はクラスのいろいろな活動でさくらと一緒に行動し、さなぎはずいぶん彼女の世話になり、また互いに信頼関係も築いたようである。2年生になってクラスが分かれたが、相変わらずよくくっついているみたいだ。
いつかも触れたが、娘はとても「昭和な」国語の先生を慕っているので、よく読書のアドバイスを受け、図書室で先生の言にしたがって本を借りてくる。先日も文庫を何冊か持って帰ってきた。そのなかにまたしても『西の魔女が死んだ』があった。
「あれ、また西の魔女」
「うん」
「読み直してみようという気になったのはなぜですか、お嬢さん」
「前は、さくらに早よ返さなあかんてゆうのもあったし、なんかさささっと読んで……何が面白いんかなー泣けるんかなーってわからへんかったし」
「じっくり読んだらまた違う感動を得るかもしれないというわけですか」
「映画になったって、聞いた」
「うん、西の魔女=おばあちゃん役した女優さん、きれいな人やで」
「え、観た?」
「ううん、雑誌のインタビューを読んだん」
「ふうん……映画になるくらいやし、やっぱし感動的なんちゃうかなあ……」
そんなもん、ヴィジュアル化しようと思ったらなんだってできちゃうんだよ君、『親指さがし』だって映画になるんだよ(ってもういいってか)。
という発言は控えたが、何にしろ、「私の読みが浅かったのか」と疑問を持ち、再読する気になったことじたいは悪くない。娘は『西の魔女が死んだ』を通学リュックのポケットに入れて持参し、読書タイムだけでなく休み時間にも読んでいた。
「みんな、ようそんなん学校に持ってくるなあ、ってゆうねん」
「なんで? そんなヤバイ読み物か?」
「その本は、ベッドの横にタオルと一緒に置いといて、夜寝るときに泣きながら読む本やって。机に向かってクールぅに読む本と、ちゃうねんて」
「ぎょえー」
「ぎょえー、やろ、ほんまに」
「で、さなぎは? 昨日の晩は寝る前読んでたやん」
「うん。そやけど、タオル要らんし」
さすがは私の娘である(万歳三唱の三乗)。
『西の魔女が死んだ』は、想像力を働かせ、深く読み込まないと味わえない物語だと思う。中学になじめず不登校になる少女、田舎で独り暮らす英国人の祖母、大好きだったのにその祖母と喧嘩別れしたまま永遠に別れてしまうことになる……という設定は、小中学生をジーンとさせるには十分である。しかしながら著者の本意はもちろん別のところにも、あっちにもこっちにもあるのだろう。主人公の少女が関わる、魔女こと祖母や母はじめ幾人かの大人たちの描かれかたは、かなり思考をめぐらし想像しないと読者に響いてこないし、思わせぶりなエピソードの多くは解決(あるいは終結)を見ないままほったらかしにされる。あとは読者に委ねられるわけである。
けっこう読解力のある大人でないと、物語として面白いと思うかどうかも、作品としていいも悪いも語れないのではないか。子ども目線で描いているような体裁をとりながら、大人が見下ろしながら書いたわね、というのが率直な感想である。
また、英国暮らしを少しかじっていないとある意味隅々まで堪能できないと思われる。著者は英国文化体験者らしいので、『裏庭』もそうだが「イギリスの香りをちょっぴりお届けします」的な、「隠し味の押しつけ」を感じ、それを味わえないと楽しめないんですよお客さんといわれているように感じてしまうのである。いや、天邪鬼なんですわかってますよ。
ま、早い話が、私が大の英国嫌いなので好かんのだ、というだけである(でもけっして英文学嫌いではないんだぞ、最近のは読まないけど)。これが、もっと別の文化のエッセンスが振りかけてあったなら異なる感想を持ったであろう。たとえば憧れの島マダガスカルとか、サリフ・ケイタの国マリとか、死ぬまでに絶対訪れたいブータンやネパールとか……の匂いがぷんとする物語だったら、単純短絡な私は手放しで絶賛したかもしれないのである(というか、絶対絶賛する)。
もとい。さくらちゃんはじめ、娘の周囲の中学生たちがどこまで本書を読み込み、どこにどのように深く感動し、胸を震わせたのかはわからない。しかし、この年頃の少年少女は人の意見になびきやすい。長いものに巻かれやすい。情報に翻弄されやすい。みんながよいというものをよいと思い込みやすい。
それが絶対ダメだとはいわない。周囲に素直に同意できるのも重要な「能力」だが、違和感を感じ異を唱えることができる「心意気」も必須。大人になっていく過程でしっかり培い、両刃の剣の如く使いこなしてほしいのである。
ところで、このさくらちゃんは私が絶賛した『トリツカレ男』に大感動したというのである! さくら、君はワンダフル!
ウチの娘はというと、私があまりに勧めるので読んだものの「うーん、なんかイマイチ」とかなんとかいって面白いといわなかったのである。
……ということは、さなぎの天邪鬼ぶりはちと極端、ということになるのか? いやそれより、やっぱし単に「読めてない」だけなんかい……?
何歳になったときがいちばん感慨深いですか? ちなみに私は17歳と27歳だった……ところで13歳にして「これ以上歳をとりたくない」とほざく娘よお前は何者なんだ、の巻 ― 2009/04/30 19:51:53
E・L・カニグスバーグ著 小島希里訳
岩波書店(2001年)
少し前の話になるが、2月に娘が13歳になったので、なんとなく「13歳」にちなむ本など読んでみようとタイトルで探してみたけど、これがまあ、なんにもない。何もないことこのうえない。13歳というのは読者を惹きつけるキーワードにはならないというわけか。
幼稚園年少にあたる「3歳」とか小学校就学年齢の「6歳」なら子育て中の親をターゲットにしたものが賑やかだ。14歳、15歳、16歳となるともうその年齢の当事者向けの本が増える。でも13歳って? ひとつ違いの「12歳」は「小学校6年生」と同義なので、これまた意味が濃くなリ、書物のタイトルにも効果的にはたらくと見える。でも13歳って?
13歳のハローワーク
13歳の生き方哲学
13歳の論理
13歳からの人間学
13歳からの自信力
13歳から始めるJAVA
(正確な書籍タイトルとは限りません)
どれもこれも面白くなさそうなことといったら(笑)
たしかに日本では、「13歳」は子どもに何をさせようと思ってもすでに「遅すぎる」感があり(英才教育という意味で、だよ)、そして「13歳」を大人として認めるのは「早すぎる」として社会が受けつけない。親のほうは「アンタもう好きにしなさい」と諦念から放任し、社会は「子どもは黙ってろ」「イマドキの若いもんは」と相手にしない。その始まりが13歳のようである。
私は、自分が13歳になったときに何を感じたか、ということの記憶がない。娘の13歳の誕生日も、だからといって特別な感慨はなかった。どちらかというと彼女の12歳の誕生日のほうが感慨深かった。ああ、もう12歳になっちゃったんだね……。私は子どもに車の助手席に座ることを許さなかった。娘はいつも私の後ろにひとり座り、耳元でお喋りして運転の邪魔をするか、シートに寝そべって寝息をたてるかどちらかであった。12歳になったら助手席に座らせてやるよ、と約束していて、娘もそれをすごく楽しみにしていたが、彼女が12歳になってひと月後に私は経済的な理由から車を手離してしまった。ごめんよ~(泣)
13歳の誕生日に娘は、これ以上歳を取りたくない、などとほざきやがったのだが、たぶん、それはもうここから先は(というよりそのときもうすでに)言い訳ができない、言い逃れができない、行動に責任が問われる歳になったということを自覚したのだな、と、ええように解釈しておいてやることにして、それはともかく、世間的に13歳ってどうなんだろうと思って本などを探してみたわけである。結果は冒頭でぼやいたとおりだが、1冊、小説を見つけた。
カニグスバーグという作家の名前は、仲間に入れてもらっている児童書の翻訳の勉強会ではとてもよく登場する。英語圏の作家はとても遠いので、例によって私は一冊も読んだことはなかったが、今回初めて読んでみようと思い至って図書館へ行った。「カニグスバーグ」の書架はすぐ見つかった。結構借り出されている。本書が残っていたのはタイミングがよかったにすぎないのだろう。
『13歳の沈黙』は、黙りこくってしまった当事者と、彼を見守り彼に語らせるために懸命になるその親友「ぼく」の、二人の少年の物語だ。この二人が喧嘩したり助け合ったりする、という陳腐な話ではない。当事者のほうは重大な嫌疑をかけられ拘留されている。言葉を失い、尋問にも答えられない。「ぼく」は親友に罪はないことを信じて行動する。構成と章立てに工夫が見られるうえ、二人を支える脇役の人物描写にもすぐれていて、物語を説得力あるものにしている。面白い、といっていい。
舞台は架空の大学都市で、二人の少年の親たちはみな大学関係者である。会話表現がなんだか回りくどいと思うのは私だけだろうか。大人たちは研究者くさい。子どもたちは理屈っぽい。読んでいて、なんとなく、癇に障るというか、癪に障るというか(笑)、こいつら可愛くねー(笑)、みたいな。
で、私は、この物語の主人公である二人の少年の、中途半端に大人びたもの言いが「13歳」ということなのだろう、と考えることにした。なんたって13歳はサーティーンだからティーンエイジャーなのである。子どもじゃないのである。「ぼく」もその親友も13歳という設定だ。物語の冒頭で「ぼく」がそう述べている。しかし、物語の中で「13歳」という言葉が出てくるのはそのときだけで(だったと思う)、以後、お話が終わるまで、13歳ということはあまり問題にならない。人物の台詞に「君(ぼく)はもう13歳なんだ」とか「子どもじゃない」とか、そういうことは書いてなくて、話のポイントどころか余分なエピソードにすらなってない。親友は13歳だから沈黙しているわけではない。「ぼく」も13歳だから事件解明に乗り出しているわけではない。たしかに微妙なお年頃の少年たちであるということは物語の流れやキーパーソンの女性たちとの会話ににじみ出ていて、大人と子どもの境目にあることはよく伝わってくる。けれども、大人と子どもの境目なら12歳でも14歳でも構わなかったはずだ。なぜ「13歳」なのか。
本書の原題は「Silent to the Bone」、訳者あとがきによれば「骨の髄まで黙りこくって」という意味だそうだ。……だったらそういう邦題にすればよかったのに、と思ったのは私だけだろうか? 物語の中で、「沈黙」はたいへん大きな位置を占める。その沈黙は「すねて口利かない」なんつうレベルではない。深い、闇の沈黙だ。事件の謎を解く鍵でもある。その沈黙の深刻さをタイトルに表現したほうが、著者の意図を汲んだものになったんじゃないのか?
訳者あとがきによれば(もう、うろ覚えなんだけど)、カニグスバーグの主人公たちはこれまでは(本作以前、という意味)12歳以下だったらしい。つまり、いつも正真正銘の子どもが主人公だったのに、今回は大人への扉を開けた少年たちなのだ、といいたいようだ。いわく、カニグスバーグが13歳を描くのは初めてである、これからもこの作家は13歳の世界も書くのだろうか、どんな13歳を見せてくれるのか楽しみだ、云々。
でも、そんなの、この本で初めてカニグスバーグを読んだ者(あたしがそうだよ!)には全然関係ない話じゃないの? カニグスバーグを読む人はみんなカニグスバーグのファンで、カニグスバーグ作品をすべて読んでいるということを前提にして訳されて編集されちゃうって、どうよ。(いや、そうは書いてないけどね)
そんなふうに勘ぐって読むと、「ぼく」の言葉遣いも「ぼく」の一人称で進む地の文も、なーんだか理屈っぽくて論理的なもの言いを意識しすぎのきらいがある、と感じるわけも、わかるような気がする。「それまでの」カニグスバーグの主人公たちとは違うのよ、ということを強調しようという無意識下の意識がきっと働いたのね。
そんなわけで本書はなかなかに面白かったが、「13歳」をキーワードにしてようやく探し当てたということに関しては、期待は裏切られたのであった。
ま、そういうことだから、けっきょく13歳って、みそっかすなんだよ、世の中的には。はよ大人になれ、娘。
ところで、表題の「何歳になったときがいちばん感慨深いですか? ちなみに私は17歳と27歳だった」について。
17歳というのは南沙織のデビュー曲だったでしょ。桜田淳子も「十七の夏」って歌ってたよね。その歳に追いついたとき、「海行きてえなあ」と思ったよ(笑)。
27歳のほうは、社会人になりたてのときのこと、会社の接遇課の先輩(お客様応対がお仕事なので美人揃い)のひとりがこう言ったのだ。「早く27歳になりたいわ」。どうしてと訊くと、27歳になれば誰の指図も受けずに生きていけると思うのよ、という話だった。上司の指示だけで動く今とは違って。親元にいる今とは違って。たとえまだお嫁にいってなくて親元に居続けたとしても、自分の意志で生活する。管理職に就いているとは思わないけど、まだ上司の下で働いてると思うけど、自分の意志と判断で仕事をする。27歳になればそうやって自分の足で歩いてる自分がいるような気がするのよ。そういうことをその先輩は言ったのだった(大阪弁で)。私は素直に、あたしも早く27歳になろ。と思ったものだった。
17歳、私は高校がつまらなくて、デッサン教室またはどこかで絵ばかり描く日々だった。
27歳、私は南仏で怠惰な学生をやりながら安ワインを飲んだくれていた。
あたしもトリツカレるほど惚れたいし惚れられたいよ、でももう面倒だよねそうだよねと同年代の取引先の女性と立ち話をしましたの巻 ― 2009/02/10 19:34:41
『トリツカレ男』
いしいしんじ 著
新潮文庫(2006年)
前回の『天国はまだ遠く』と前々回の『潤一』と一緒に買った本。これは380円。……って、もうわかったって?
いしいしんじの名前は、図書館の機関紙に紹介されていたのを見たのが最初だったと思う。その次に、たぶん童心社の機関紙『母のひろば』に寄せられていた本人の文章を読んだ。以後、気になりつつも、読む機会を逸していた。一度『ぶらんこ乗り』を借りたが、忙しくて一度も開かないまま二週間の貸し出し期限が過ぎて、読まずに返却してしまった。それからまたしばらくして、誰かが恩田陸という作家がいいよといっていたのを思い出し、その恩田陸の作品が巻頭に載っている『本からはじまる物語』(メディアパル 2007年)というコンピ本を偶然書架に見つけて借りてみたら、そこにいしいしんじの「サラマンダー」も収録されていた。内容は全然覚えていないが、文体にとても好感をもったことを覚えている。
(※ちなみに『本からはじまる物語』の中では、普段あまり好きでない今江祥智作品がいちばん私にはじーんときた。巻頭の恩田作品はへえ、ふーんと楽しく読んだ。でも全体に、期待外れだった。コンピタイトルが非常にそそるものだったので非常に期待したのがまずかった)
よしこの次は単著を読むぞ、必ず読むぞ、きっと面白いぞ、と、それ以来いしいしんじの名はいよいよはっきり私の頭に意識されてきた。こういうことは珍しい。気になるなあと思って借りるなり買うなりして読んだ作家はたいてい私とはそりの合わない作家だったりすることが多い(さのようことかなしきかほとかえくにかおりとかしげまつきよしとかいしだいらとか)ので、普段作家を意識するということは全然ない。とはいえ、いしいしんじにしても、もう少し時間が経てば気になっていたことなど忘却の彼方へ葬られていたはずなのだ。新潮文庫のYondaマーク集めようなんて話になってよかった。この本が新潮文庫でよかった。380円で売っていてよかった。もし500円なら買っていなかった。
中身を吟味しないで買って、それでもああ買ってよかった、と思える小説本なんてめったにない。だいたい買う冊数はほとんどゼロに近いんだけど、それでも私だって小説本を買う。絶対ほしい、手許に置いて何度も読みたいと思ったら(予算が許せばだけど)買う。
家には何でこんな本があるんだろう、これを買うとき私は何を考えていたのだろうとと思われるような、つまらないことこの上ない小説本がけっこうあるが、それらはたいてい、若気の至りで、訳わからないまま買い込んだものたちであって、今となっては青春の傷跡みたいなものであるからして、それらはそれらで私には愛しい本たちである。
何がいいたいかというと、若気の至りで衝動買いすることがなくなった現在、また物理的スペース経済的余裕の有無という問題も手伝って、よほどのことでない限り、文庫であっても本は買わないのに、Yondaマークほしさにエイヤ!で買ったら、ぱんぱかぱーん当たりくじだった!と表現したいくらい楽しい本だった。
ジュゼッペは何かに凝り始めるとそれしか見えなくなってしまうほど熱中してきわめてしまうので、トリツカレ男とあだ名されている。最初、このジュゼッペのトリツカレ武勇伝なのかなあ、だったら単調だなあ、と思わせるのだが、もちろんそうではなくてちゃんとお話は正しく盛り上がっていき、これでもかこれでもかともったいをつけて読者をじらしながら、トリツカレ男もここまでやりますかという展開を見せて一気に結ぶ。話はやたら飛躍するし、脇をしっかり固める多様な登場人物の描き方にも、物語に厚みをもたせようとする余りといっていいのか、若干無理があるようにも思うけれど、ある意味ありえねー話なのだからこれはこれでいいのであろう。ありえねーけど、嘘くさくない話。突拍子もない展開だけど、描かれるその一途さは、けっきょく、古今東西いつでもどこでも読む者を泣かせるピュアハート。ジュゼッペみたいなヤツって、それにあの人物、それからこの人物、こいつらって、あっちにもこっちにも、いるじゃんいたじゃん、みたいな気持ちになれて、何だか万人を愛せそうな、そんな読後感がある。
文体もストーリーも挿画もいっぺんに、まったく先入観なしで味わってほしいので、引用はしないでおこう。
*
じつは今週、娘の誕生日なんですよ。
出産予定日はバレンタインデーだったんだけど、けっして故意にではなかったんですが、はずしちゃいました。でも毎年、バレンタインというビッグイベントで周囲の友達はさなぎの誕生日どころではなかったりする(笑)
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なぜかというと(以下、前々エントリに同文。ずぼらしないでちゃんと書けって? すんまへん。……あ、「ずぼら」って方言?)
現実的なようであまり現実的でもないような、ただ読み心地はよかったなという感想をもったの巻 ― 2009/02/04 20:20:08
『天国はまだ遠く』
瀬尾まいこ 著
新潮文庫(2004年)
前回の『潤一』と一緒に買った本。これは362円、税込み(笑)。
著者は学校の先生らしい。優しくて真面目な国語の先生なんだろうなあ、と想像する。瀬尾まいこを読むのはもちろん初めてだ。文章には奇抜さも華美な表現もなく、ベテラン作家から感じるような熟練の技っぽいものもなく、こういってはなんだが、模範的な高校生の作文のような文章である。作文と思って読むと、日頃、ウチの娘の日本語の体をなしていないひどいものを読まされているせいか、素晴しい出来映えだと感心できる。……なんて、そんな失礼な。これは小説である。瀬尾まいこの他の作品を読んでみないとわからないが、主人公の言語レベルで物語を展開させていく、ということに本作は非常に成功しているといっていい。高校生の作文のような文章、と読み手が感じるとしたらそれは、他ならぬ主人公の知能と想像力がその高校生程度でしかないと設定され、その主人公の一人称で話を語っていくからには、突飛なあるいは極端に知的な表現や語彙、文章構造ではそぐわない、と著者が判断して書いているからに他ならない。本作『天国はまだ遠く』の主人公・千鶴23歳の発想は稚拙である。医師に処方してもらった睡眠薬14錠で死ねると思って自殺を決意する冒頭からすでにそれはバレている。何かにつけ考え込んで考え過ぎて自ら深みにはまって精神を病ませている、というととても知的に悩んでいるようだが、単に考え足らずで優柔不断なためにその時その時の最良の方法を見逃しているだけである。とはいえ、若い時にはそんなことはしょっちゅうあって、しょっちゅう袋小路に追い詰められた気分でもうダメだあ、なんて繰り返すものである。そしてたいていはひょんなことで立ち直る。そんな「ひょんなこと」すら主人公・千鶴23歳には訪れなかった。というより、考えようとしない人には、取っ掛かりやきっかけのようなものはまるで見えてこないのである。考えないことは人を盲目にするのだ、よく覚えておけ若者たちよ。主人公・千鶴23歳は、短大卒業後、おのれの適性も考慮せず(考えろよ)保険会社の外交・営業職に応募して就職し、「要らないと言われているのに強く勧めるなんてできない」性分であるという自覚はあるにもかかわらず、ノルマを達成できない(当たり前だ)、どうしよう、もうこんな仕事できない、みんなに叱られるし(当たり前)厭味いわれるし(当たり前)といいながら自己啓発とかスキルアップのためのスクール通いなんぞは一切しないまま3年間勤め続けて(……長いぞっ)、死ぬしかないと決意する。なかなかのツワモノである。本書はそんな主人公・千鶴23歳の目の高さと言葉で綴られた、「落ち込んだ若者の立ち直る図」である。たいへんわかりやすく、言葉遣いや言い回しはとても現代的で、文字遣いは、だけど文学的。そのせいか、誌面が綺麗に見える。字面がいいのである。文学的、というのは先に述べたように、仰々しい表現や難読語彙を連ねているということではなく、主人公・千鶴23歳の等身大の言葉でありながら、ほどよい分量で漢字と熟語が配されていてうまく響き合っている。それが文学的な様子で眼に映るのである。
《私は民宿の前でずっと、久秋のタクシーが見えなくなるのを見送った。うっすら色づいた木々の中を走っていく車をとてもきれいだなと眺めていた。久秋がいなくなる姿を、不思議なくらい寂しいとは思わなかった。一つのことがゆっくり終わっていくような静かな心地よさを感じた。》(85ページ)
《「な、すごいやろ」
「本当にすごい。気持ち悪いほど、星がうじゃうじゃしてる」
真っ暗な夜空には、星が数え切れないほど、浮かんでいた。星はそれぞれ頼りなく微かにきらめいている。空に近いこの集落では、星がすぐそこにあるように見える。
「今日は月もないで、その分よう星が見えるねん」
「すごい数。本当にすごい」》(112ページ)
平易である。凝った表現はひとつもない。しかし、私たちには主人公・千鶴23歳の瞳に映った風景とそれがいかに彼女の心を揺さぶったかが、ストレートに伝わって余りある。
と、ここまで一気に書いて、いかに日頃、ひねくれた本しか読んでいないかを思い知らされた気がした。こういう素直な小説(子ども向けに書かれた児童文学とはまた違うもの)をたまには読まんとイカンのだと思った。本書はファンタジーではなくリアリティである。昨今大流行りの「大人のおとぎ話」なんて形容されるような、死んだ恋人が目の前に現れてしばらく一緒に過ごしてくれる、とかいうあり得ねー話ではない。現実的である。が、現実的ネタをここまで素直に綴ると心地よい小説に変容する、という具体例である。アタマの中を掃除してもらった気分である。
ま、何よりも、普通に流通している小説を、普段私があまりにも読んでいないからこんな感想をもつのであろう。小説慣れした人には物足りないかもしれない。ウチの娘でも読めると思ったくらいであるので。
*
節分も過ぎましたね。
みなさんの地域ではどのような風習が残っていますか。
昨夜も雨でしたが、我が家では豆まきをしました。猫がそれを見物していました。
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なぜかというとPCを(以下前エントリに同文)
あ、今年に入って一度くださった方は、もういいですよ。
週の真ん中が休みだからこんなことになるんじゃないの?という話 ― 2008/12/03 18:57:08
『水曜日のうそ』
クリスチャン・グルニエ著 河野万里子訳
講談社(2006年)
水曜日になったらこの本の話をしよう、と思って早や幾歳。って大げさだが実際すでに数か月。水曜日にブログ更新って簡単じゃありません。
気がつけば巷はクリスマスムードいっぱいだ。秋は? 来てたか? どこ行った?
この本、フランスでは児童書もしくはティーンエイジャー向け図書の範疇に入るだろうか。行きつけの図書館では一般の仏文学書架に入っていた。表紙も地味。フランスのこの辺の小説って、日本の図書ジャンルでは行き場がない。『ペギー・スー』シリーズですら、一般書架に入ってる。ハリー・ポッター(私は読んでないけど)あたりを読む子どもなら楽勝で読めると思うんだけど……児童書架においてくれよって感じのフランス小説、けっこうあるんですよねー。
まあ、たしかに仏語って、訳すと堅い言い回しの日本語になってしまう……話し言葉の乱れは日本に負けず劣らず凄まじいけど、書き言葉はガチッと確立されてるからなー。
でも何とか頑張って紹介していかないと児童書界からフランス文学の影が消えてしまうではないか! といってみたが、日本の出版界からは「いや、別に頑張らなくても、英米文学で十分足りてますから」っていわれそうだ。
ハイ、スミマセン。
だいたい、『マグヌス』を高校生が読む国なんだ。
http://midi.asablo.jp/blog/2008/08/27/3713448
Actes Sud Juniorという出版社から出ている「初めて読む小説シリーズ」は対象年齢が「9歳から」とある。9歳というとなんだかちっちゃいみたいだけど、フランスではCM1(小学校4年生に相当、「高学年」扱い)なので、子ども自身にも「読むぞ」という自覚が出てくるんじゃないか。その証拠にこのシリーズは大変読み応えのあるものが多くて、私などは夢中になって読んでしまう(赤面)。ほんとに「初めて読む」シリーズかよって思うくらい。面白いんだけどなあ。
本書『水曜日のうそ』の対象は9歳ではありません。フランスではコレージュ(小学校6年~中学3年相当)部門で文学賞を獲っている。本書の主人公イザベルは15歳。15歳だとだいたい「すべて経験済み」が普通のあの国では珍しくまだ恋に恋しているような少女として描かれている(物語の中でちゃんと彼氏ができるけど)。だからCM2(小学校5年生相当)くらいから読めちゃうと思う。
イザベルの家には毎水曜日おじいちゃんがお喋りにやってくる。水曜日は学校が休みだから、孫娘イザベルも、大学で教える息子(イザベルの父親)も家にいるからだ。わずかなこのひとときを、おじいちゃんはとても愛している。おじいちゃんのことを大好きなイザベルも、その来訪を楽しみにしている。ただ、イザベルの父だけがうんざりしていた。
そんな折、父親がリヨンの大学に空きポストを紹介されて、一家は引っ越しを決める。おじいちゃんには内緒で。おじいちゃんの水曜日のひとときのために、一家は水曜ごとにパリの元のアパルトマンにやって来て、いつもどおりそこで暮らしているかのように振る舞うのである。
それほど重要な、水曜日という週の真ん中の休日。
日本では起こりえない話である。
とはいえ、なんで水曜日なんだ、という理由さえ押さえて理解したら、話はよくわかる。もともと中学生向けの話だから、物語そのものはあまり複雑にはならない。読み進むと結末は見えてくる。
このおじいちゃんはほんとにいいおじいちゃんだ。
イザベルもよくできたものわかりのいい少女である。
父親が自分の父親(おじいちゃん)を疎ましがっているが、よくある父子関係だ。
母親は舅思いのよくできた嫁である。
この二人が知恵を絞ったあげくの「水曜日のうそ」。
イザベルの彼氏がまたそんなフランス男いるわけないと思わせるほどいい少年で、「うそ」にからんで重要な役回りを果たす。
なんとなく、模範的なあるいは平均的人々大集合、的な印象で、悪人や小賢しいヤツとか裏切り者とか冷血漢とか、そんなのが必ず出てくるモンばかり読んでるせいか、物足りない(笑)。でも、家族愛とか隣人愛とか、思春期とか高齢者問題とか、仕事優先の大人たちとか、いろいろと考えさせられる要素には事欠かない。
しかし大人にとっては、あまりに自明のことが並ぶような感じで盛り上がりに欠ける。子どもが読んでも盛り上がりに欠ける点では同じかもしれないが、考えることを知っている(ここが重要だが)子どもなら、イザベルを自分に置き換えて、祖父母や両親、近隣の人々、学校の友達との関係を見つめることができるだろう。
水曜日が休みだが、つまり週休3日なんだけど、フランスの学校の夏期休暇(学年末の長期休暇)も秋期休暇(万聖節休暇、墓参のためのお休み。日本のお彼岸)冬期休暇(クリスマス休暇、日本のお盆)も春期休暇(復活祭休暇)も、日本の各休暇とは比較にならないほど長いのである。
なのに高校生が『マグヌス』を読むのである(それはもういいってか)。
絵のある本っていいときもよくないときもあるんだけど創る側には判断が難しい ― 2008/11/26 16:32:03
川上弘美著 吉富貴子挿画
新潮社(新潮文庫 2007年)
『蛇を踏む』よりもウチの子にはわかり易いんじゃないかと、みためも薄っぺらいし可愛いし、つっかえるような難読漢字も出てこないし、と思って借りてきた『パレード』。ところがヤツは、定期テスト前一週間に突入してしまって、いつもは何につけてもどこまでもお気楽なんだが、いちおう真面目に勉強しているのでヤツより先に私が読む。
私は『センセイの鞄』を読んでいないので、「センセイ」と「ツキコさん」の関係や距離感、二人でつくってる世界というものがわからないのだが、これは『センセイの鞄』とは関係なく読めると思った。むしろ『センセイの鞄』との関係性なしに、「ツキコさん」という人物の幼少の記憶ではなしに、一人の少女の、独立した物語として、児童書書架で勝負できる物語だと思った。「センセイ」と「ツキコさん」がいるばかりに、この世界を子どもたちに読ませることができないとしたら、それはたいへんに残念なことじゃないかと、私は思うのである。
「わたし」についてまわるようになる、赤やうすい赤の奇異なものたち。「わたし」は驚くが、母親はまるで気にならないようだった。おまけに、そういうものたちがクラスメートの数人にはすでにもうついていて、皆が自然に受け入れている。
「ゆう子ちゃん」が仲間はずれにされる。クラスで起こるよくないことに、「奇異なものたち」は敏感なようだ。「わたし」のうすい赤は元気をなくしている。「西田さん」の「ババア」も教室で寝そべっている……。
川上さんの描く「不思議」はまるで「不思議さ」をもたない。それは不思議でもなんでもなくごく日常的に見ているじゃないか、触れているものじゃないかという気持ちにさせられる。ああ、そういえば、あれがそうかな、と、「蛇」にしろ「うすい赤」にしろ、色や形や種類は異なれど人は「そういうもの」を小脇に抱えていたり、かかとに引きずっていたり、腰に巻いていたり、背負っていたりするものなのだ。可視化したらこんな感じじゃないの、ということを川上さんは絵でなく言葉で上手に書いてしまうのだろう。
吉冨さんの絵は好感がもてる。物語に立ち入ってくるずうずうしさはまったくない。しかしそれでも、挿画があれば読み手は、「わたし」の「赤」や「うすい赤」を頭の中で挿画に重ねてしまう。
絵のもつ力は、作り手が思っている以上に読み手にとっては大きいものだ。
その文章と絵に初めてぶつかる読み手にとって、二つの要素の相乗効果で、本の世界を広げも狭めもする。心の余白がまだまだある素直な読み手ほど、字面や絵に気持ちを左右されやすい。
文章だけで十分に勝負できる作家の作品になぜ絵をつけたのか。あまりに短編だから、付加価値がないと価格をつけられないとでも考えたのだろうか。
私にはよくわからないが、川上ワールドはすでに確立していて、どんなヴィジュアルが来ようとも文章世界はびくともしないという確信のもとに制作された本なのだろうか。
児童書架で勝負できると書いたが、それは実は条件付きである。吉冨さんの挿画から、「表情」を除くこと。無表情という表情は、けっこう大きくモノをいう。
とはいっても、ウチの子のようにあまり細かいことにひっかからないヤツは、すーすーと、絵があろうがなかろうか、どんな絵だろうが写真だろうが、面白いと思えば読み進むであろう。
私はけっきょく15分くらいで読んでしまったので、ぽいと居間のテーブル(娘の勉強机と化しているローテーブル)に置いてあるが、さて、テストが終わったら読む気になるかな? きっと気に入ると思うんだけど。
家に青大将が住んでるかもって話はもう済んだけど ― 2008/11/20 20:11:40
川上弘美著
文藝春秋(文春文庫 1999年)
ある夜、娘が文庫本を開いていた。
視線は本の中身をさしている。
「何してんの」
「本、読んでんの」
あ、読んでいるんだ。眺めてるんじゃないんだ。コミック文庫とか写真文庫じゃないんだ。
「何読んでんの」
「これ」
うるさいなあ、といわんばかりに娘は表紙をかかげて見せた。
「どれどれ」
と、近寄って目を凝らす私(最近また視力が落ちた。老眼か?)。
「へびをふむ……かわかみひろみ……(沈黙。しばし。けっこう長く)……えーっえーっ」
「なんやねん」
「しょうせつっ」
「そやで」
「大人が読む普通の小説やん!!!」
「ミチル先生が面白いよって勧めてくれた」
ミチル先生というのは中学校の国語科教諭の名である。ほんとうはウエハラミチルさんだが、ほかにウエハラマサユキ先生もおられるので苗字でなくお名前で呼んでいる。ちなみにマサユキさんのほうはマサ先生と呼ばれているそうだが、娘は教わっていないので担当教科は知らない。なお、部活の顧問のヤマダカンジ先生のことはカン爺と呼んでいる。けっして爺さんではないが、ほかにヤマダケンタロウさんというフレッシュな若手教員がいるからで、こちらはケンタ君と呼ばれているらしい。
子どもというのは、まったく、親の言うことは聞かないが、好きな先生のいうことはまるで盲目的に聞くのである。担任は若い英語科教諭だが、生徒に自分のことをサリーと呼ばせるこの先生のことを娘は大好きで、「サリーが貸してくれた」などといって『ホームレス中学生』も『恋空』も、あとはなんだったか、やたら流行っていたいくつかのライトな本を借りて読んでいた。私が良かれと思って図書館で借りてきた本は10冊に1冊くらいしか娘にはヒットしないのである。
ミチル先生は、娘が言うには「いっつもシャツ・インで、めっちゃ昭和モード」のおばちゃん先生らしいが、とても生徒に慕われているらしい。娘はよくミチル先生と本の話をするそうだ。そういうわけで『蛇を踏む』。
知らない漢字も出てくるし(笑)、意味のわからないところもあるが、とても楽しんで読んでいた。まだ彼女が3ページくらいで止まっている時に、横からとってザーッと読んでしまったが、うーん。これを深く深く読んでヒワ子ちゃん(主人公)の深層心理にくらいつくには娘は若すぎるし、私は歳をとりすぎていると思う。こんなのわけわかんない、というつもりは全然ないんだけど、つまりは、あまり面白くない。こういうものを楽しむココロやアタマに育ってこなかったので、これは如何ともし難い。歳とりすぎてるからというより、たぶん若い頃にもピンとこなかったであろう、そんなタイプの物語だ。私にとっては「初」の川上さんだったが、文章の柔らかさは大変好感がもてた。かどばっていないので、ウチの子なんかにも読み進むことができたんだ。
読み終えた娘は、最後はどうしてああなるのかわかんない、といっていた。あと十年くらい歳をとったら、ヒワ子ちゃんの気持ちに近づけるかもしれないが、さらにそのあと五年くらい経ったら、蛇の意味するものが何か見えるかもしれないが、いまは物語の設定の滑稽さを楽しむのが精一杯。ま、それでよかよか。とりあえず挫折しないで読破してくれてよかった。読破っつーほど長くないんだけど(笑)ミチル先生に感謝である。
※文中の先生方のお名前はあだ名も含めてすべて仮名。
