忙しい時に限ってどうでもいいことを書きたくなる ― 2008/11/12 17:20:57
シンシア・ライラント作
竹下文子訳 ささめやゆき絵
偕成社 (1999年)
寒くなった。曇って太陽が覗かないからよけいに寒い。でも、まだウチでは暖房を出していない。母が就寝前に寝室のヒーターをタイマーセットしているだけだ。温かいものをいただけば身体は温まり、お風呂に入ってすぐに寝れば冷えずに安眠熟睡、翌朝すっきりである。
でも職場では寒い寒いを連呼する経営陣が暖房器具のセッティングを命じ、ほどなく完了されると待ってましたとばかりにがんがん焚き、おかげでぽかぽかむんむん、ぬくいことはありがたいが、そんなにするほど寒くないだろと思う私は案の定、室温上昇過多のせいで頭痛に見舞われる始末である。
いまならひざ掛けがあればいい。贅沢なひざ掛けでなく古いジャージでよい。しばらく開けなかった衣装箱から古いセーターが幾枚か出てきたので、切ってつないでひざ掛けにしようか。
『人魚の島で』に描かれる島は、寂しい。絵を描いているささめやゆきさんの絵がお洒落で可愛らしいので、少女向けの可愛らしいファンタジックな童話だと思って読んだら、うーん、なんかちょっとちがった。
島は、なかなか住環境としては厳しいのである。風の強い日、おおしけの日。
住民は、それぞれが島のように、互いにつながらず関わりを持たずに暮らしている。
幼い頃両親を亡くしている「ぼく」は祖父と暮らす。
物語に横たわる空気は、どちらかというとマンガレリ作品のもつそれに近いなという印象をもった。主人公は寡黙で、家族は少なく、友人はなく、暮らしは楽でない。
ただ、本書では主人公が成長していき、過ぎゆく歳月の描かれるところが、マンガレリの2作品『おわりの雪』『しずかに流れるみどりの川』とは異なる。
これは、読み終えてみると大きな差異なのである。
本書の読後感には、主人公の現在の充実や未来に待つより大きな幸福、そうしたものを最終的にすくいとれるような、安心感に近い感覚が大きい。一方、マンガレリの作品はどちらも、主人公の行く末に大きな不安を抱かずにはおれない。この子、大丈夫なんかなあ、的な読後感。(とはいうものの、マンガレリ作品の主人公たちのほうが格段に強くたくましく生きていくように思えるのは単に私の好みの問題か。そうであろう、きっと)
『人魚の島で』のダニエル少年は、物語のはじめのほうで人魚に会う。人魚は少女の姿で、彼の名を呼んだあと尾びれを返して海に消えていった。それ以降、少年のなかで何かが変わり、そのことが彼の生きることへの自信の源となっていく。
気難しい祖父しか家族のいない少年が、その祖父の息子だった亡き父や、子どもの頃に亡くなったという祖父の姉といった、目には見えないけれどたしかに生きていた、いくつかの存在を、自分なりのしかたで心に確かなものとしてゆく。島の浜に散らばる貝殻のひとつのようにしか思えなかった自分自身にもルーツがあるということを、そうははっきり書いてはいないけれど、確信することで自信を得て成長していくのである。
物語を大まかに捉えると「やっぱりね」感が大きくてつまらないので、細部にこだわって読むことをおすすめする。人魚の櫛って何でできてるのかなあ、そもそもなんで人魚に櫛が要るのかなあとか、鍵って持つとこ丸いのかな四角いのかな、などなど、揚げ足取りや重箱隅なんかしながら読むとけっこう楽しい。お話はちゃんと辻褄が合い、あ、そうなのね、とすとんと落ちるようにできている。
訳者の竹下文子さんはおびただしい数の絵本や童話を出版されている児童書界のベテランである。幼い子どもたちに向けた優しい語り口のなかにある確かさには信頼が置ける。はずである。しかし、本書に関してのみいえば、もう少し、なんというのか、重厚感のある文章のほうが、物語の背景の寂寥感や、ダニエルを貫く孤独感を出せたと思うのだが……。ファンタジーだからあまりどっしりしちゃうと「なんとかXの魔宮の棺 未知の物体を追え」みたいなわけわからんホラーミステリーまがいのものになってしまうだろうけれど。そうなってはだめだから子どもにも読めるように可愛いめの体裁にしたのだろうけれど。一貫して「おじいちゃん」でなく「祖父」といわせているのは、ダニエルに聡明さや芯の強さをもたせたかったからか、祖父、孫ともに質実なところをにじませたかったのか、どうなのか……。最初から最後までどことなく文体がちぐはぐで、そのせいで、原書から抜け落ちたものがあるんじゃないかという疑いをぬぐいきれないのだ。
ライラントの本は「小石通りのいとこたち」シリーズが知られていると思うが、このシリーズ、とてもつまらなかった(ごめんなさい)。娘がちっちゃな頃に読み聞かせたけど、ヤツは全然興味をもたなかった(同上)。
もしかしたら、訳者がどんなに頑張っても、ちぐはぐなのかも。
「小石通り――」のみならずライラントの訳書は数多いが、とりあえず、同じささめやゆきさんのお洒落なイラストを着せられた『ヴァンゴッホ・カフェ』は読もうと思う。そちらは中村妙子訳なので、ぶれない文体と原書以上の言葉の豊かさを期待できる(かもしれないかなあ)と思う。
一生わからないと思う ― 2008/10/31 19:13:14
『しずかに流れるみどりの川』
ユベール・マンガレリ著 田久保麻理訳
白水社(2005年)
マンガレリの『おわりの雪』について書いたのはもう一年も前のことなんだ。自分でちょっとびっくりしている。
http://midi.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897843
『おわりの雪』がまさに雪の色をしていたのに比べて、こちらは草の色でむんむんしている。タイトルの「みどりの川」は主人公の記憶の中にあリ、今人物の眼前にある情景として描かれているのではない。にもかかわらず、やはりタイトルにあるせいだろう、わずかな記述しか割かれていない「みどりの川」の存在感は物語の中にいる二人にとってとてつもなく大きい。
ここでいう物語の中の二人とは、主人公の少年と、読者である。
少年は、自分よりも背の高い草の生い茂る原っぱを、潜るように歩くのが好きである。草を踏みしめて道を作り、それでもなお左右から覆いかぶさる草で「トンネル」ができる。そこへ毎日歩きに行く。歩きながら、さまざまなことを思う。思い出し、空想し、考える。
いま住む町へ引っ越す前に住んでいた町には、川があった。藻が繁殖しているせいで川は深い緑色に見えた。少年は、その川で父が釣りをしていたと記憶している、と思っている。だがその記憶は不確かで、父は、釣りをしていたことは思い出せないという。
父は、静かに流れる緑の川が前の町にあったことは憶えているけれど、その記憶自体に関心はないのだ。
だが少年の心は川の緑色にとらわれる。
その色は、彼がトンネルと呼ぶ草原の緑とは微妙に異なって読者には感じられる。物語の季節は夏で、眩しい陽光が容赦なく照りつける草原の緑は浅く黄色っぽく浮かぶからだ。だが父と少年が住む家の裏に茂る「つるばら」からは深い葉の色が想起される。つるばらを殖やしてひと儲けしようと考える父の脳裏には、緑の川の緑の代わりにつるばらの緑が繁茂している。
読者の思いはしかし、少年の「トンネル」内部の深淵に「しずかに流れるみどりの川」を見、彼の父への純真な愛情をその色とオーバーラップさせ、やはり父ではなく少年と「みどりの川」を共有するのだ。
父と息子とは、なんだろう。
父と息子とは、どのようにつながっているものなのか。
私には永遠にわかるはずのない問いである。
私の周囲には、幸か不幸か「傍目にも羨ましく思えるほど」「強い絆で結ばれた」あるいは「とてもよい関係を構築している」父と息子ただ二人の家族というのが存在しない。
仲良しの父と息子は掃いて捨てるほど(あらごめんなさい)いる。
でも必ずそこには「妻」とか「娘」とかが絡んでいて、男二人だけの世界を謳歌している例はないのだ。
だから本書のような物語の、行間や、後ろにある、目に見えない父と息子特有の紐帯のありようが想像できない。
それはおそらく母と娘にはありえないものなのだろう。
【負け犬譚(2)】記憶の凄さ ― 2008/08/27 19:48:15
par Sylvie Germain
Edition Albin Michel, 2005
Prix Goncourt des lyceens 2005
(邦訳:『マグヌス』
シルヴィ・ジェルマン著 辻 由美訳
みすず書房、2006年)
フランスには《高校生ゴンクール賞》なるものがある。
文学賞には洋の東西を問わず全然詳しくないのだが、フランスのゴンクール賞といえば日本でいう芥川賞のような、国を代表する文学賞のはずである。それに「高校生」という冠詞のついた賞があるのだ。
実は、これ、全国の高校生がその年に出版された文学の中から、これぞ僕たち私たちが読みたい文学だと選んだ作品に与えられる賞なのである。
こういう活動があるというだけでも彼我の隔たりに意識が遠くなる。
今のニホンの高校生に、優れた文学作品を選ぶ気概があるか?
選ぶということは、まずは読まなくちゃいけないのだよ。読んでるか、君たち?
ホームレス何とか、とか、ケータイ小説の○空、とかがものすごい勢いで売れて読まれていることを考えると、若者たちにあまり「本」は読まれていないといっていいだろう。
と偉そうにゆっているが、そんな賞があることは知らなかった。
はっきり言って、フランスの若者たちだって日本とそう変わりないと思ってるし。若者に限らず、大人もね。
ともあれ、高校生たちがあまりに真剣に選ぶので、この賞はますます権威あるものとされているらしい。本家のゴンクール賞よりも高校生ゴンクール賞がほしいという輩までいるそうだ。
Prix Goncourt のあとに、des lyceens と続くのを見て、ゴンクール賞のヤングアダルト部門かなと思ったけど、そうじゃない。『マグヌス』は児童文学でもライトノベルでもYA小説でもない。第二次世界大戦の傷痕を、どうあがいても立ち現れない消えた記憶として描いた一編である。
この賞のことや、作品の内容を読んで、またしても私は「これを私が訳さずして誰が訳すのだ!」と意気込んだが、調べたときにはすでに翻訳出版が決まっていた。戦わずして負けましてん。
「マグヌス」とは、「病気のため」五歳で記憶を喪失した男の子が肌身離さず持っていたぬいぐるみのクマの名前である。男の子には、なぜ自分がこれを片時も離さないのか、その理由もわからない。母からは「勇敢な家族」の軍功ばかり聞かされ、純真にそれを誇りに思っている。医師の父は町の有力者であり人望厚く、国家の重要人物だと信じていた。男の子は父を愛していた。
舞台はドイツ。町を不穏な空気が支配し、やがて、男の子は事情も説明されないまま、母とともに「引っ越し」、名前を変えた。わずかな平穏のあと、父は「仕事のため」国外へ脱出すると告げにきた。その後メキシコへ渡ってのち自殺したとの報が入る。疲れた母は、英国に住む実兄に男の子を託して絶望の中で死に至る。
伯父の家に引き取られ、再び名前を変えた少年は、自分のものと信じていた記憶が母親による作り話であったことを知るに至り、真実を求めて長い旅に出る。舞台はメキシコ、米国へ。一度英国に戻った後、彼は伴侶を得てウイーンへ向かおうとするが……。
自分はいったい誰で、どこからきたのか。
クマのマグヌスだけが、唯一の過去の証し。しかしそれさえも、不当に歪められていた。
呼び覚まさなければ、もしかしたらそれなりに穏やかな人生が待っていたかもしれないのに、主人公は未熟な瘡蓋を引き剥がして傷を抉る、さらに深く。癒えかけたらまた引き剥がし、を繰り返して、記憶の底の炎の叫びに触れようともがく。
「小さな本なのに、十冊も読んだようなこの印象はどこからくるのだろう」と評したのは、他でもない選考にあたったリセアンたちだそうだ。
戦争の記憶が風化しつつあるのはフランスも同じこと。いっぽうで今なお、フランスは「戦犯」たちの調査と糾弾の手を緩めてはいないのも事実である。
欧州にとってあの戦争はけっして国家と国家の一騎打ちなどでなく、普通の人々の密告と裏切りに満ち、家族の離散と故郷の破壊が待ち、民族の誇りや人間としての尊厳を喪失させられた、精神的拷問であった。勝ち負けでなく、隣人や友人を売リ、傷つけあった戦争であったのだ。
主人公の消えた記憶の核がその戦争にある。ジェルマンは、どれほど多くの人間の意志が戦争にかかわり、同時に多くの人間を翻弄したかを、幾つもの記憶の「断片」として物語に滑り込ませることによって描き出す。しかし彼女は「あの戦争はひどかったわねえ」などと書こうとしているのではなく、純粋に小説として効果的な手法を用いたまでのことだ。
主人公の人生を辿る物語に、「断片」の数々は文字どおり破片のように突き刺さる。それは、彼の消えかけた記憶を照らし出して鈍く光るナイフの刃のようである。
「断片(Fragment)」に逢うたび、読者の興奮は増す。「断片」は主人公の記憶を刺激し、記憶はたしかな像を結んで主人公の眼前に立ちはだかって見せる。その凄さ。
そして「断片」のあとには必ずクライマックスが待っている。……てことは何回もクライマックスがあるってことで、去年の仮面ライダーみたいだけど、大げさでなく、本当にわくわくドキドキし続けて、最後に静かな感動の待っている、読み応えのある小説なのである。
大部な本ではない。一気に読めてしまう。熱い物語だ。涼しくなってきたからちょうどいい。いま何を書いても冴えてるあなたに、ぜひ読んで主人公に同化してほしい、ヴァッキーノさん。
夏がゆく ― 2008/08/25 19:49:15
サラ・デッセン著 おびかゆうこ訳
徳間書店 (2000年)
新聞もポータルサイトもテレビも「夏休みも残すところあと1週間」「いよいよ夏休み終盤、宿題追い込み」とかなんとかゆっている。ふん。去年も書いたがわたしたちの町の子どもたちはかわいそうに夏休みがまるで短いんだよっ。地域の小学校は金曜日から始まってるよ。娘の中学は今日から「前期の後半」が始まったよ。ゆっとくが夏休みが「早く始まった」わけじゃないんだよ。数年前は大きな夏祭りが7月中旬にあるのでそれに合わせて夏休み開始を早めたりもしていたが、そうやって40日間を確保していたら授業時間足りないんだってよ。そんなわけで今30日間しかない夏休み。公立小・中はみな同じ。
しかも娘の中学は、1週間後には「期末テスト週間」に突入だって、そんなのあり? ウチの子はね、遊んで暮らしていたキリギリスじゃないぞ。早朝は小学生の練習に伴走し、午前・午後は中学の部活、学校で開かれる夏期講座、夏休みの課題でデイケアセンターのボランティア、夜は発表会を控えたバレエの練習。その隙間を縫って宿題。昨日までに終わるわけないって(笑)。宿題のほかにテスト勉強しておくなんて、「不可能」だとか「無理」だとかじゃなくてウチの場合「ありえねー」だから「どんまい!」(by さなぎ)
会社に仏語がらみの仕事が飛び込んで、「誰かチェッカーできる人探してくれ」と上司に言われて心当たりにメールしたけど、誰もいねえよっ(笑)今頃みんなヴァカンスなんですよ、あの人たちはたとえ日本がメイン居住地で日本の職場で生計を立てていても、ヴァカンスはフランス流に取るんだよね。9月中下旬にしか帰ってこないんだよね。それを許してる日本社会ってなんなんだよ、と思わない? 日本の人口の半分くらいがフランス人にならないかなあ。そしたら感化されてフランス流のヴァカンスの取り方するように、ならないかなあ。
本書の舞台はアメリカ。アメリカの児童文学やティーンズ向け小説は次々紹介され翻訳出版花ざかりだが、うーん、なんだかなあ、という本が多いのでなかなか手を伸ばす気になれない。子ども向けだけでなく、大人が書くものも、フィクション、ノンフィクションを問わず、なんだかなあ、である。そりが合わないのだな、あたしとは、きっと。
でもこの本は、表紙の絵がキュートだったので、なんと発売当時に衝動買いしてしまったのである。
15歳のヘイヴンは実に憂鬱な夏を過ごしている。スポーツキャスターのパパはお天気お姉さんと不倫の果てに再婚するし、5歳上の姉アシュリーも結婚を控え、その準備で家族は振り回される。おまけに身長は伸び続け……。面白くない、面白くない! イライラを募らせ塞ぎ込むヘイヴン。ある日、ヘイヴンの前に突然、アシュリーの昔の恋人サムナーが現れる。サムナーとの会話に、ヘイヴンの心は徐々にやわらかく変化していく。
思春期の、やり場のないいらつきや言葉にならないもやもや、素直になれずについ口にする言わなくてもいい一言……などを上手に描いた作品が、私は好きである。
私も、なんだかあの頃は不完全燃焼だったよなあ、と思う。もちろん、爆発して燃焼してしまってたらどんなことになってたか、一歩手前で分別取り戻して(あるいは思い切りがなくて)踏みとどまるから思春期なんだけど、それにしても、と思うから、爆発してしまったり、転がってしまったり、そんな友達に巻き込まれたり、という物語が好きである。
本書は、とっぴな物語でもなんでもないけれど、ちょっと身体的なコンプレックスをもつ15歳の少女のイライラもやもやムカムカどきどきがよく表れている。主人公ヘイヴンの描き方には好感がもてる。
夏休み、長いもんね(笑)そんな鬱陶しい状態が2、3か月続いたらやーだよね。
けれども、主人公と姉、主人公と母、近所のおばさん、出て行ったパパ、再婚相手のお天気姉ちゃん、バイト先の店長、客、サムナー……といった関係性の描き方が、足元をすくわれるような印象を持ったり、えっそうなるの?とあまりに意外だったり、なんだか腑に落ちない箇所に頻繁に遭った気がしたのである。
それはたぶんとても「アメリカ的」な箇所なのであろう。私は日頃から嫌米を標榜してるけれど、実は普通の米国人の普通の生活を何も知らない。私のアメリカ経験は高1のときにクラスに来た留学生と仲良くなったことと、20代の初めにロスやニューヨークに住む日本人の友達を訪ねて旅行した1週間がすべてだ。アメリカ合衆国は日本で最も頻繁に報道され紹介される国だけれど、普通の人々の暮らしの中に入ったことがないから、アメリカ発の出版物を読んでもピンとこないことが多すぎるのである。
本書も例外でないのだ。アシュリーがヒステリーを起こすところ、お天気姉ちゃんの妙な明るさ、近所のおばさんの関わり方。
本書はサラ・デッセンのデビュー作だが、もしかするとこの「こなれなさ」はそこに原因があるのかもしれない。岩瀬成子さんのデビュー作(『朝はだんだん見えてくる』理論社)も磨ききれていなかったでこぼこやざらつきが文章に残っていて、それが作品の魅力なのだが、違和感なく受けとめられたのは、舞台が日本で昭和のある時代のある町だということが、私の場合大きいのだろう。かたや本書は、当時大学生だったデッセンが書いた、たぶんでこぼこやざらつきの残る文章を、訳者のおびかさんがきれいに、かつ、やはりそのざらつき感はいい意味で残るようにと苦心して訳した結果なのであろう。
それが私にはどうにも消化しづらいのだった。
とはいえ本書は40代のオバサンをターゲットに出版されたものではないのであるから私の感想はどうでもいいのである。
十代の多感な少女たちが読んで、ヘイヴンに共感してくれたら嬉しい。
売れ行きはいかほどか知らないが、デッセンの第2作、第3作もおびか訳で出版されている。出たばかりの『愛のうたをききたくて』(徳間書店/2008年7月)は高校を卒業した少女のこれまた「長い夏」を描いたもの。続けて出るんだから、日本のヤングアダルトたちにはウケているのかな?
急に朝晩涼しくなって慌てて肌布団出したり、いきなり雷雨が来て夏祭りの設営片づけたりで、ゆく夏を偲ぶ、なんて情緒はかけらもない。今年もノーエアコンで過ごした我が家では、盆明けから扇風機が回っていない。涼しいからだ。家中、開けられるところはすべて開けていたが、徐々に閉めるところが出てきた。夜はすっかり空気が冷たくなって、きちんと閉めて寝ないと寒い。なのに銀行とか定食屋とか、あちこちでけっこう冷房を入れてくれる。冷房完備が自慢の中学校はどうだろう。今日、娘は寒くなかっただろうか。心配だ。早く帰ろう。
しばし立ち止まれ14歳! ― 2007/10/13 17:39:23
『いじめ 14歳のMessage』
林 慧樹 著
小学館(1999年)
本書は、著者の林さんが本当に14歳のときに書いたもので、「第18回パレットノベル大賞審査員特別賞受賞作品」だそうである。林さんは小学校6年生のときと中学生のときにいじめを受けたが、そのときの辛い経験をもとに書いたのがこの小説だ。自分の経験をもとにしているけど、物語は一人称ではなく「彗佳(すいか)」という名の主人公をたてている。
中学生の彗佳。クラスでは、町の実力者の娘である陽子らが、理由もなくふざけておとなしい千夏をいじめていた。陽子と自分は仲良しだと思っていた彗佳は、あまりの様子にもうやめたらと言うが、その翌日から彗佳が陽子らのターゲットになる。いじめはあっという間にエスカレートするが、気づいているはずの教員らは見て見ぬ振りをする。ほかのクラスメートも知らんぷりだ。彗佳にとって辛かったのは、千夏が陽子らの仲間になっていじめる側に回ったことだった。彗佳は身も心もぼろぼろになっていくが――。
14歳の小説であるからして、「勢いにまかせて書いた」感あり、描写がだらだらとしつこい箇所ありで、たしかに幼さや未熟さは否めないけれど、いじめられる側の心情を吐露した素直な文章である。といって、被害者感情むき出しの「訴え」「叫び」ばかりでなく、客観的に状況を語るところもあって、著者が小説としての形態を整えるのに苦心した跡も見受けられる。
文学作品というよりは、中学生の長い手紙といっていい。この年頃の子どもの気持ちに寄り添いたいと思う人なら、読み甲斐があると思う。
この本、たしか1000円もしなかった。まだウチの子は保育園児で、「いじめ」も「14歳」もまだまだ遠い遠い彼方にあった頃、たぶん世間で何か起こっていたのだろう、私は書店で発売されているのを見たとたん衝動買いしている。
素直な文章はストレートに語りかけるけれども、先に述べたようにだからといって何度も読んだり、熟読して味わうような類のものではないので、私は一度読んで、娘の書架にねじこんだままほうっておいた。
やがて娘が小学生になり、少しはニュースを理解できるようになると、この本のタイトルの「いじめ」が目についたようだ。だが残念ながら小学校低学年に中学生の語彙は難しすぎた(苦笑)。
やがて進級し、自分も学校でろくでもない被害に遭うようになり、また「金八先生」なんて類のドラマを見るなどして再び本書を手に取るが、読書癖がついていなかったため冒頭の2、3ページで即眠くなり断念(泣)。
だいたい、ワクワクするような文体ではないので無理もない。読み聞かせを試したが、ほんの数行で寝るのでやめた。
しかしである。
昨日、とうとうウチの子は本書を読み終えたのである。
しかも読み始めてから4日ほどである。早いではないか。
おまけに「これ、途中ちょっとだらだらするよな」などと生意気をほざくのである。
陸上の練習に明け暮れた夏休み。休みが明けて、これは推測だが、娘のクラスメートたちはたぶん「読書ノート」にぎっしりと「成果」を書き込んで登校したに違いない。
2年に一度配布される読書ノートに、「読んだ本」として書き込まれるタイトル数が二ケタに達したことは、娘の場合、自慢ではないが、いまだかつてなかった。しかしクラスメートの中には読書ノートが「1冊では足りない」子がいくらもいる!
というわけで、あたしも読むぞ!という気になってくれたのである。
喜ばしいことである。
かくして、5年生のときにもらったそのノート、6年生の8月の終わりまで2、3冊しか記入がなかったのに、10月初めで30冊に達しようとしている。天変地異の前触れかもしれないので皆さん要注意である!
本書の前には、前回紹介した『12歳たちの伝説』を読んでいた。(全巻読破はまだだが)
どちらかというと、軽い探偵ものやミステリー、ファンタジー系を好んで選んでいたが、この『12歳―』を読んで、リアリティへの関心も向いたようである。よしよし。
「先生たちが、ひどいよな」
というのが、読後感想の第一声であった。本書で描かれる学校は、まったくただの器でしかなく、教員は機械人形でしかない。いじめの被害者からはそのようにしか見えないということであろう。
「自分が何やってるか、って途中で考えないのかな」
というのは、陽子たちの暴言、嫌がらせ、暴力行為に関する感想である。
途中で、止まれないのかもしれない。
12歳なら、まだ怖気づいたり、躊躇したりして立ち止まれるところで、14歳はもう止まれないのだ。暴走してしまうのである。いじめられる側すらも。
でも、止まってくれ。
その一歩、踏み出す前に。
もう一度、前を見て。周りを見て。
振り返って後ろを見て。視線を落として自分の足元を見て。
立ち止まったからって成長は止まりやしない。だから安心して、立ち止まってみてくれ、14歳!
バッドの意味は幅広い、たぶん。 ― 2007/09/10 20:05:09
『バッドボーイ』
ウォルター・ディーン・マイヤーズ著 金原瑞人訳
小峰書店(2003年)
最近の我が家には、ロアルド・ダールの本が途切れることなく置いてある。娘が気に入って、短編ものなら一人で読んでくれるので次から次へと借りては返しまた借りる、を繰り返している。娘が読む本には私もざっと目を通すことにしているが、ダールの本はたしかにどれも面白い。ただ、作品の傾向としては、登場する子どもは無垢で純真、そのうえ賢いが、大人はエゴイストで教養のない不潔な生物として描かれることが多い。もちろん、大人の中にも聡明な人がちゃんといて、不幸な子どもを救う役割を果たしたりするが。いずれにしろ、腕白な子は出てきても、「悪い子」が出てこないので、ちょっと悪い子の話を読んでみたいなと思って書架を眺めていて見つけたのが本書。バッドボーイ。そのまんま(笑)。
先に結論めいた感想から言ってしまうと、「バッドボーイ」は全然「bad」じゃない。なるほど主人公は生い立ちが多少複雑である。そして黒人である。吃音のせいで(本人はちゃんと話しているつもりだが)友達との会話がうまくいかない。そのことをネタにいじめられる。出自のことで馬鹿にされる。しかし腕力があるので、頭にきてつい殴ってしまった暁には、相手にひどいけがをさせてしまう。取り乱した教師が叫ぶ。「あなたってほんとにバッドボーイね!」
しかし少年は、実は非常に読み書きに優れた子どもだった。今風にいえば「リテラシーが備わっている」のである。母親(生みの母ではなく育ての母)がたまに家に持ち帰る雑誌に少年は幼少時から関心を示し、読み聞かせてほしいとねだった。母親は読み聞かせるだけでなく、誌面に書かれた文字や言葉を指し示し、子どもの興味にしたがって根気よく教えたのである。家庭は貧しかったが、主人公の気持ちはこうしたことでも満たされていた。だからぐれることもなかった。乱暴者には違いなかったが非行少年ではなかったのである。
読書でもすればおとなしくなるかと思って彼に「文学」を与えた教師たちは、彼の読解力を目の当たりにして驚くのだ。
少年は飛び級し、優秀な中学校へ進学する。でも昔ながらの友達とは相変わらずストリートでバスケをやって遊ぶ。よその家の窓を割ったりもするけれど、叱られるのを恐れて嘘もつくけれど、何かしでかしたときはその度ビクついている。正直で、繊細だ。あからさまな黒人蔑視の態度にも遭う。しかし「気にするな」といって支えてくれる親友がいる。親友は彼の本質に近いところや、家族や友人への愛情にあふれていることなどを知っているからだ。というわけで、全然バッドじゃないのである。
そんなわけで、私は途中でつまらなくなり、丹念に読もうとはせずに後半はざざざっと流し読みしてしまった。きちんと読み込まずにあれこれいうのは気がひけるが、やはりタイトルと内容はいささか乖離しているように思われる。
途中で気がついたんだけど、これはなんと著者マイヤーズの自伝なのである。知らずに読んでいて、主人公の独り語りの強引さに「なんなんだろう、これは」と思っていると、途中で名前を呼ばれるところが出てきて気がついた。
マイヤーズはすでに多くの著作のある売れっ子児童文学作家らしい。不勉強な私は英米文学事情に疎い。マイヤーズの作品の傾向もわからない。いくつか読み終えてその人となりをつかみかけた作家の自伝であったら、楽しく読めたかもしれないなと思った。しかしその作品を全然知らなくても、自伝がめっぽう面白いということだって、ある。そう思うと、本書が少々わかりにくく楽しみにくいのも、ただただ一直線に自分のことを語りすぎて、時代背景や状況の説明が不足しているからだ、たぶん。マイヤーズの祖父にあたる人は奴隷だったという。「奴隷だった」ということがどんな意味を持つのか、著者は語らないし、訳者も説明しない。そりゃ、ひと言で説明できないし、本書の主題でもない。しかし、自身が黒人であることの意味について「深く考えるようになった」(物語の後半)というのなら、その考察の中身にも言及してほしかった。あるいは、読者の知的好奇心をくすぐるような形で訳注や参考文献を提示するなどの工夫が編集側にほしかった。
本書は著者が17歳になるまでの人生を書いたものだ。そりゃ頭の中がいちばんくっちゃくっちゃしている頃だ。訳注だらけの海外小説って嫌いだけど、補足しなくちゃ伝わらないことってあるじゃないか。
日本語のカタカナにしたときの「バッドボーイ」が与える意味印象は、原題の『BAD BOY:A MEMOIR』の意味とは、やはりずれているように思う。本書の最後に「ぼくは、いままでに33冊の本を出版した。そして、いまもタイプしている……。」という一文がある。いろいろと障壁はあったけれども、僕は努力して乗り越えて、今好きな仕事に打ち込んでいるんだよ、というのがとりあえず本書で著者の伝えたいことだったんじゃないだろうか。だとしたら、邦題にもいま少しの工夫が要る。
……と、なんだかタイトルに騙された気分になったということを、書いておきたかったのであった。
著者のマイヤーズは1937年生まれだそうだ。突っ込みどころのある世代である。いろんな意味で。
ひたすらお日さまがスキ! ― 2007/06/27 15:21:51
『ノアの子』
エリック=エマニュエル・シュミット著
高木雅人訳
NHK出版(2005年)
私は反米イデオロギーに凝り固まっているので、米国が全面支援しているイスラエルという国がこの世からなくなってしまえばいいと思っている(が、イランの、あの難しい名前の大統領を支持しているわけではない)。イスラエルという60年ほど前にできた国家の正式な国民とされている民は、かつて徹底的に迫害された民であった。しかし今は愚かにも迫害する側に回っている。が、それは、かつて自分たちを迫害した相手に対してやり返しているわけではない。この国が強引に作られる前からここにはパレスチナの民が生活を営んでいた。イスラエル国家はその民への迫害、殺戮を繰り返している。
イスラエルという国の存在を保ったまま、もし仮に米国が支援をやめれば、武器を補給できなくなるイスラエルはあっという間に窮地に追い込まれる。それをそのままほうっておけば周囲のイスラム国家がいっせいに攻撃を始めるだろう。
だから、まず「国家イスラエル」を解体する。なくす。代案は? ない(断言)。イスラエル建国以前の状態に戻す? それはそれで恐ろしいことになりそうだ(推測)。だが、なくす。「国家イスラエル」がなくならないと、あの土地に住む民は誰も、救われない。ユダヤ人も、パレスチナ人も、だ。もう誰にも、理不尽な死に方をしてほしくないのだ(真剣な希望)。
ベルギーに住むユダヤ人のジョゼフ、7歳。1942年、ナチスに追われて両親と引き離される。キリスト教神父、ポンス神父のもとにかくまわれ、神父を父のように慕って育つ。《多感な少年時代を過ごした教会は、まさしく洪水に見舞われたユダヤ教を救うために神父が作ったノアの箱舟だった。》(カバー見返しより)
数年後、両親と再会したジョゼフは神父のもとを離れてブリュッセルに帰る。バル・ミツバ(ユダヤの成人式)に出ろという父に、ジョゼフは嫌だという。カトリックに改宗したいからだ。ジョゼフは父から強烈な平手打ちを食らう。ポンス神父のもとで、カトリックの教会で過ごした日々、ジョゼフは純粋な信仰の気持ちを持っていた。神の姿すら、見た。心に素直に従えば、それはユダヤではなくてカトリックなのだ。しかし、けっきょくジョゼフは両親に逆らわず、改宗もせず、成人式にも出た。父の事業を継ぎ、家を繁栄させた。
最終章は、50年後のジョゼフが語っている。あの教会でともにかくまわれ、子ども時代を一緒に過ごしたリュディがいう。「(……)ジョゼフ。おまえ、子どもが何人いる? 四人だろ。孫は? 五人だ。おまえひとり助けることで、神父は九人助けたわけだ。おれんとこなんか十二人だよ。(……)何百年もしたらな、神父は何百万人も救ったことになるんだよ」(181ページ)
だがリュディはイスラエルに住み、パレスチナへの攻撃を正当だと信じて疑わない。
「平和を勝ち取る一番いい方法が戦争だってこともよくあるのに」(183ページ)
ベルギーに住むジョゼフには、そんなリュディの考えは受け容れられない。だが、どうすればいいのか。その答えは出ない。だが、ポンス神父がしたように、傷つけられる者たちに寄り添い、彼らの存在の記憶を後世へ遺したい、と思っている。
【ここで自慢】
訳者の高木さんはお友達だもんねー♪ 一緒に仕事したことあるもんねー♪ 高木さんの奥さんと大学で一緒だったもんねー♪ へへーん♪♪♪
というわけなので、本書は、訳者の高木さんからいただいた大切な大切な一冊である。だが、宗教アレルギーで、冒頭に述べたような考えを持つ私は、『ノアの子』と題された本書の中身が恐ろしくて素直にページがめくれなかった。
しかし、物語はユダヤ教やキリスト教礼賛の話では、もちろんない。高木さんは「訳者あとがき」で「シンプルな真理にふれる喜び」と表現されているが、まさにそのとおりなのである。何を信仰の対象とするか、問題はそのことではなく、人間として行動をとるときに道しるべになるものは、つきつめれば誰もが行き着くはずの真理のはずだ。シュミットはそういうことを伝えたかったのだろうと思う。
ジョゼフが7歳のところから始まり、ジョゼフの一人称で物語が進む本書は、子ども時代に多くのページを割いていることもあって、言葉も平易なので、小学校高学年でも読めるかもしれないが、歴史的な背景があるので、中学生以上のほうがより理解して読めるだろう。読んでほしい。関心を持ってほしい。歴史にも、あの地域にも、現状にも。
娘はお寺の保育園に行っていたので、けっこうお釈迦様に信心している。もちろん、我が家には仏壇も神棚もある。私はそれを排除する気はまったくないし、娘が仏教徒であっても構わない。でも葬式にはお坊さんを呼ばないでくれといってある(笑)。私は千の風にはならないけれど、雲ひとつない紺碧の空のもと、太陽の照りつける海面に向かって骨を投げてくれ、そうしてくれたら永遠に君を見守るよといってある。娘はひと言、めんどっちいからヤダ、とぬかしおったが。
私はお日さまと海が好きなのだ。
若いっていいなあ(マジ) ― 2007/06/26 00:45:04
『駱駝はまだ眠っている』
砂岸あろ著
かもがわ出版(2005年)
70年代って、どんな時代だったのだろう。熱かったのか? 私には、そういう印象がない。70年から79年、私は6歳から15歳で、流行歌や身近な出来事や学校生活の記憶は鮮明だが、社会がどんな様相だったかまでは実感としての記憶がない。自分の目の前にある、ほんの少し先の未来に向かって歩くだけが人生のすべてだった。とんで、まわるだけで精一杯(笑)。
70年代の真っ只中を、中学3年生から高校生として過ごした少女、ろまん。そう、主人公の少女の名前は「ろまん」なのだ。なんてキュート。なんて萌え~なの。……って、そういう物語ではない。断じて。
本書は、ろまんの一人称で語られる人間模様。ろまんの母親・都(みやこ)が経営する喫茶店「駱駝館」を中心に、実にさまざまな人々が描かれる。店員、客、常連、友人、出たり入ったり、現れたり消えたり。
かなり気合を入れて読まないと、登場人物の名を覚えきれない(苦笑)。
また各人物がきっちりと丁寧に描かれる。ぼーっと読んでいると、物語を見失う(再度苦笑)。
こういうティーンエイジャーが主人公の物語って、どれも比較的登場人物が多くて人間関係が煩雑だ。いや、私が知っているものだけがそうなのかもしれないが。
十代は、ものごとに優先順位なんかつけられない。大人は取捨選択ができる。自分にとっての必須事項を優先順位3位くらいまで決めたらあと残りは捨てられる。しかし十代はそうはいかない。あれもこれも、全部手を抜けない。見落とせない。すべて見届けたい。
その一方で、すべてどうでもよくなる。何もかも、関係ないもん、あたしには。
ティーンエイジャーを主人公にすると、「関係者」が増えるのは仕方がないのだ。彼らは全員「無関係者」と紙一重。
しかし、この物語は、ろまんと都、娘と母のこころのあやとり――もつれて糸がとれなくなりそうに見えながら、どうにかこうにか続いている――を軸に、成長するろまんの恋が危なげなく組み合わさった太い骨格を持っている。
だから、骨格の隙間をするすると縫うように現れる人々に気を留めなくても、じゅうぶん青春と恋を味わえる。
でも、もっと、人生の悲哀や必ずしも成就しない恋愛にも思いを馳せるなら、二読目、三読目で脇役たちにじっくり注目すると面白い。
それぞれの大人の、人生の処し方を見つめる十代の気持ちになって読む。そろそろそういう時期にさしかかった子どもを持つ親なら、我が子の気持ちになって読む。
京都を舞台にしているので、私は記憶のはしばしに残るかつての街の姿を引っ張り出しながら読んでみた。描かれている界隈を知るようになった頃、私はもう大学生で、それは80年代だ。わずかな年数のズレなのに、その場所を十代のうちには知らなかったという事実は、まるでひと世代ぶん、時代が異なるかのように感じられる。しかしその違和感は、あくまで自分とろまんの視線を合わせようとするから生じるのであって、母親・都に合わせるといきなり同時代性を帯びる。そして我が娘とろまんを重ねてみて、その類似性につい、苦笑する。
「駱駝館」は本当にあった喫茶店の名で、著者はその店でアルバイトしていたそうだ。その頃出会ったたくさんの人たちと出来事をずっと書き続けて、本にした。この世のすべての母と娘に贈りたいという気持ちを込めて。
素晴しい贈り物に、感謝している。
再挑戦できたなら ― 2007/01/06 17:48:00
森 絵都 著
理論社(1998年)
いろいろな児童文学賞を受賞している森絵都さんの作品のひとつ。日本における児童文学というジャンルをよく知るため、とりあえず何らかの形で評価されている作品を読んで研究しよう、と思っていた頃に購入した本。面白い。いくつか読んだ(といってもこれのほかに2作品だけど)森作品の中で、ダントツに面白い。
意表をついた装幀。センスがよいと思う。
線画のイラストも今風。
子どもに読ませるための本を探す親はターゲットにしていない、という気がする。そうでもないのかな? 子ども自身が自ら選ぶように装幀された本、という外観だ。
中学生の家庭生活、学校生活が描かれる。
幸せでないようで、幸せだ。ごくありがちな、家族と学校。
読者ターゲットも中学生以上……であってほしい。
これをすらすら読んで笑える小学生……いるかもしれない……笑うだけなら。
字面だけを追うことはたやすいが、著者が本当に伝えたかったことをしっかり読み取って受けとめる、それほど深い思索ができる小学生は、たぶんいない。
そう思って、長いことこの本は私の本棚に入れておいたのだが、不要物を整理した機会に子どもの本棚に移した。目につくだろうなと思いつつ。
すると案の定、まもなく娘は「これ読んで~」とねだりにきた。冒頭を読んで興味がわいたらしい。だったら自分で読めよ! と思ったが、本人の理解を超えたボキャブラリーもかなり出てくるので、読み聞かせることにした(で、余談だがそれで誤植を見つけた……購入したての頃に何度も読んだが気づかなかったのに。音読するほうが誤植は見つけやすいことぐらい、わかってるさっ)。
随所にストーリーと関係なく笑わせる小ネタが出てきたり、設定じたいが非常にコミカルだったりするので、聞きながら娘はけらけら笑っている。
しかし本書の主題は、非常に深刻で重大なことなのだ。
病んだ日本の社会の部分部分を切り取ってつないで作ったような物語。
人生を捨ててしまっても、捨てたことを心から悔いて、もう一度生き直せたら。
そう思いながら天に召されてしまった魂が、どれほどあることだろうか。
生き直したい魂ばかりでもないだろうが、やはりもう一度生き直したい、本当は生きていたかったと後悔しきり、という魂もあるのだろう。
しかし、再挑戦のチャンスなど、決して誰にも訪れないのだ。命を捨ててしまったら。
この本を読んで、「あ、再挑戦すればいいのね」と、安易に自殺するバカ者がいないことを願うが、もはやその可能性がなきにしもあらずの世の中だから、もはやティーンエイジャーの気持ちのありようがわからないから、この本は相手かまわず読めと薦めることはできない。
聞きながら「ありえね~」と笑っていた娘よ。
二、三年後、もう一度これを読み直してくれ。
今度は、自分で。君なら大丈夫のはず。
まちはこどもでできている ― 2007/01/05 16:55:22
岩瀬成子 著
理論社(2004年)
7編の短編の主人公たちは、1編を除いてみな小学生だ。
そして7編はすべて同じ街を舞台に描かれている。
私も、大通りの向こう側の人たちのことはあまり知らない。
でも、行きつけのカフェやレンタルビデオ屋が同じだったり、子どもや親戚が、同じ塾に通っていたり、自転車ですれ違っていたり、するかもしれない。
街は、そういう意味で切れ目がない。
みな、となりのひとの、そのまたとなりのひと。
そしてそのつなぎめには、いつもこどもがいる(いるべき、というべきか)。
この本を子どもに読み聞かせたら、冒険やミステリーではない日常の物語に物足りなさを感じていたようだ。子どもの、細かい心のひだを丁寧に描いているけれど、これを味わうには小学校を卒業する必要があると思った。
3、4年生くらいの女の子たちの喧嘩。
高校生の兄を理解しきれない、6年生の弟。
なついてくる幼稚園児を疎ましく思う5年生の少女。
ああ、私もあの頃こんな気持ちになったっけ。
中高生ならもっと瑞々しい気持ちで読めるだろう。私はオバサンになりすぎたな。おまけに誤植を見つけてしまうし。
この本はおとどし、図書館の一般書書架にあった(児童書の書架にもあったが)のをふと手にして、ざっと読みで惚れこみ、速攻で買い込んだ。以来、岩瀬さんの世界にはまっている。
