【負け犬譚(2)】記憶の凄さ2008/08/27 19:48:15

Magnus
par Sylvie Germain
Edition Albin Michel, 2005
Prix Goncourt des lyceens 2005

(邦訳:『マグヌス』
 シルヴィ・ジェルマン著 辻 由美訳
 みすず書房、2006年)


フランスには《高校生ゴンクール賞》なるものがある。
文学賞には洋の東西を問わず全然詳しくないのだが、フランスのゴンクール賞といえば日本でいう芥川賞のような、国を代表する文学賞のはずである。それに「高校生」という冠詞のついた賞があるのだ。
実は、これ、全国の高校生がその年に出版された文学の中から、これぞ僕たち私たちが読みたい文学だと選んだ作品に与えられる賞なのである。

こういう活動があるというだけでも彼我の隔たりに意識が遠くなる。
今のニホンの高校生に、優れた文学作品を選ぶ気概があるか?
選ぶということは、まずは読まなくちゃいけないのだよ。読んでるか、君たち?
ホームレス何とか、とか、ケータイ小説の○空、とかがものすごい勢いで売れて読まれていることを考えると、若者たちにあまり「本」は読まれていないといっていいだろう。

と偉そうにゆっているが、そんな賞があることは知らなかった。
はっきり言って、フランスの若者たちだって日本とそう変わりないと思ってるし。若者に限らず、大人もね。
ともあれ、高校生たちがあまりに真剣に選ぶので、この賞はますます権威あるものとされているらしい。本家のゴンクール賞よりも高校生ゴンクール賞がほしいという輩までいるそうだ。

Prix Goncourt のあとに、des lyceens と続くのを見て、ゴンクール賞のヤングアダルト部門かなと思ったけど、そうじゃない。『マグヌス』は児童文学でもライトノベルでもYA小説でもない。第二次世界大戦の傷痕を、どうあがいても立ち現れない消えた記憶として描いた一編である。

この賞のことや、作品の内容を読んで、またしても私は「これを私が訳さずして誰が訳すのだ!」と意気込んだが、調べたときにはすでに翻訳出版が決まっていた。戦わずして負けましてん。

「マグヌス」とは、「病気のため」五歳で記憶を喪失した男の子が肌身離さず持っていたぬいぐるみのクマの名前である。男の子には、なぜ自分がこれを片時も離さないのか、その理由もわからない。母からは「勇敢な家族」の軍功ばかり聞かされ、純真にそれを誇りに思っている。医師の父は町の有力者であり人望厚く、国家の重要人物だと信じていた。男の子は父を愛していた。
舞台はドイツ。町を不穏な空気が支配し、やがて、男の子は事情も説明されないまま、母とともに「引っ越し」、名前を変えた。わずかな平穏のあと、父は「仕事のため」国外へ脱出すると告げにきた。その後メキシコへ渡ってのち自殺したとの報が入る。疲れた母は、英国に住む実兄に男の子を託して絶望の中で死に至る。
伯父の家に引き取られ、再び名前を変えた少年は、自分のものと信じていた記憶が母親による作り話であったことを知るに至り、真実を求めて長い旅に出る。舞台はメキシコ、米国へ。一度英国に戻った後、彼は伴侶を得てウイーンへ向かおうとするが……。

自分はいったい誰で、どこからきたのか。
クマのマグヌスだけが、唯一の過去の証し。しかしそれさえも、不当に歪められていた。
呼び覚まさなければ、もしかしたらそれなりに穏やかな人生が待っていたかもしれないのに、主人公は未熟な瘡蓋を引き剥がして傷を抉る、さらに深く。癒えかけたらまた引き剥がし、を繰り返して、記憶の底の炎の叫びに触れようともがく。

「小さな本なのに、十冊も読んだようなこの印象はどこからくるのだろう」と評したのは、他でもない選考にあたったリセアンたちだそうだ。
戦争の記憶が風化しつつあるのはフランスも同じこと。いっぽうで今なお、フランスは「戦犯」たちの調査と糾弾の手を緩めてはいないのも事実である。
欧州にとってあの戦争はけっして国家と国家の一騎打ちなどでなく、普通の人々の密告と裏切りに満ち、家族の離散と故郷の破壊が待ち、民族の誇りや人間としての尊厳を喪失させられた、精神的拷問であった。勝ち負けでなく、隣人や友人を売リ、傷つけあった戦争であったのだ。

主人公の消えた記憶の核がその戦争にある。ジェルマンは、どれほど多くの人間の意志が戦争にかかわり、同時に多くの人間を翻弄したかを、幾つもの記憶の「断片」として物語に滑り込ませることによって描き出す。しかし彼女は「あの戦争はひどかったわねえ」などと書こうとしているのではなく、純粋に小説として効果的な手法を用いたまでのことだ。
主人公の人生を辿る物語に、「断片」の数々は文字どおり破片のように突き刺さる。それは、彼の消えかけた記憶を照らし出して鈍く光るナイフの刃のようである。
「断片(Fragment)」に逢うたび、読者の興奮は増す。「断片」は主人公の記憶を刺激し、記憶はたしかな像を結んで主人公の眼前に立ちはだかって見せる。その凄さ。
そして「断片」のあとには必ずクライマックスが待っている。……てことは何回もクライマックスがあるってことで、去年の仮面ライダーみたいだけど、大げさでなく、本当にわくわくドキドキし続けて、最後に静かな感動の待っている、読み応えのある小説なのである。

大部な本ではない。一気に読めてしまう。熱い物語だ。涼しくなってきたからちょうどいい。いま何を書いても冴えてるあなたに、ぜひ読んで主人公に同化してほしい、ヴァッキーノさん。

コメント

_ ヴァッキーノ ― 2008/08/27 22:19:51

ボクですか?
あ、あぁー。
ヨーロッパの小説のタイトルを
「みずうみ」とか
「ためらい」とか
「嘘つき」なんていうように
端的なタイトルにされると
ボクなんて単純だから、とってもオシャレな気分になるんです。
昔、ミラン・クンデラの「不滅」って小説を読みまして、
ああヨーロッパ!みたいな刺激をうけました。
それは、タイトルなんですね。
で、「断片」
ああ、オシャレですねえ。
ボクも中・高校生の頃ノートに書いた小説が衣装箱一杯にありますから、それをほじくりかえしたら、
ゴングールならぬ
ヴァキグール大賞をあげたくなるようなのがあるかもしれませんぜ。うっしっし。
と、さっきちょうど、ボクは自分のブログに「なんか書き続けていられたらいいなあ」みたいなのを書いたばっかりだったので、禿げ増されます。

_ midi ― 2008/08/28 10:50:53

おはようございます。
禿げ増してしまいましたか。それはよかった(笑)

この本のタイトルは「断片」じゃなくて「マグヌス」だからね、念のため。

_ 儚い預言者 ― 2008/08/28 17:15:05

 あっひ、闇の時代から禿いえ晴れの時代ですね。違うか。でもここ100年の推移を見守ると、深く埋もれていた表白と淡く掴みどころのない漂泊がくんずと組み合わされているように感じます。というか人間の本質的な潮流の潮見をどう眺望するか、または流れの中にとっぷりと浸かるかという見解になるように思う。

 些かもなく現実という現場に身を置きながら、人は想像という夢の具現を為している。それが悪夢であろうと天国であろうと。

 私はわたし。この真実は変えられない。故に思考と感情の渦はいつも手に掴むことを望み、叶える。それが善意であろうと悪意であろうと。
 ただひとつの真実は、宇宙はひとつということ。考えは必ず叶えられ行為になり、果実を食べ、そしてそのバランスを図ることを与儀なくされる。
 バラバラでない宇宙の大いなる夢に、何を与えるのでしょう。

 探しものとは究極はその大いなるひとつへの、大安心するところの帰路に就き、大いなる夢の懐の中で一体になることでしょうか。

 宗教や哲学の一番美味しいところは、その息遣いにあると思うのは私だけでしょうか。
 そして物語が輝くのは、「私」という宇宙が、物語の宇宙にそっと添うときに放ついのちの紋様でしょうか。

_ (未記入) ― 2008/08/29 11:57:10

>宗教や哲学の一番美味しいところは、その息遣いにある

というのは名言です。というより、真理を突いておられるように思います。誰もがそう思っていたら、怪しい宗教団体に勧誘されて自己を見失ったり、原理主義に洗脳されて命を落としたりすることはないのではと思います。

_ midi ― 2008/08/29 12:09:45

↑ あら、私としたことが(笑)失礼しました。midiです。

_ jilsovao ― 2008/09/18 00:26:34

おひさしぶりです。
なかなか面白い賞です。日本にもあるともう少し「読んどこうかな?」と思う子達がちょっとはいてくれると信じたい。最近、読書がご無沙汰なんでこれを機に新たな世界を垣間見たいですねえ。

_ midi ― 2008/09/18 19:08:02

jilsovaoさん、ほんとうにおひさです!

自分のブログの面倒もなかなか見られない昨今、そちらへもパッタリ行けてません。不義理してましてごめんなさいね。

《高校生ゴンクール賞》、いいでしょ?
ほかにもね、マイナーな児童文学対象の賞なんですが、一般人の投票で決まるのがあって、世代別に支持率が出たりするんですよ。
日本にも本屋大賞とか、賞の変わり種はありますけどね。
いろいろな団体や人々が「この本支持するぞ!」と発表することが盛んに行われれば、出版界も活気づかないかな、なんて思いますね。

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