空気の温度と湿度を感じる物語 ― 2007/11/08 19:49:51
ユベール・マンガレリ 著 田久保麻理 訳
白水社(2004年)
冒頭を読み、鹿王院知子さんを思い浮かべた。そして彼女に読んでほしいと、強烈に思った。
《トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。》(3ページ)
物語はこの一文で唐突に始まる。「ぼく」は、道端で古道具を売っている男に、前金を払うと言ってみるのだが、断られる。鳥かごに入ったトビに高い値段をつけて男は、あとでやっぱり要らないから前金返せといわれるのが嫌だから、そういう商いの仕方はしないという。しかたなく「ぼく」は、トビを買える金額が貯まるまで我慢しなくてはならない。「ぼく」には病に臥せった父がいて、話し相手になっている。トビとラジオならどっちがほしいと思う?と訊ねる「ぼく」に、父はラジオだと一度は答えながら、息子の話を聴くうちに印象的な口ぶりでこういう。
《「トビがいいか、ラジオがいいか、もうわからなくなっちまったなあ……」》(6ページ)
以来父は、息子のトビの話を好んで聴くようになる。息子は「トビ捕りに出会ってトビを捕まえたときの話を聞いた」という作り話をついしてしまうが、父は信じたのかどうか、「トビ捕りの話をしてくれ」と息子にいう。
父の病は重いようだ。母はときどき泣いている。しかし、病の重さは具体的には語られず、父の苦痛や母の悲しみも語られない。「ぼく」はトビを買うため、ある「仕事」を引き受ける。誰もしたくないような仕事だ。それをしてしまったことについての心の痛み、辛さ、引っかかり、なども直接には語られない。
《通りはいつまでたってもがらんとしていた。どうしてなのかはわからない。でも、通りに沿ってまっすぐのびる石壁のせいで、よけい、がらんと感じたのかもしれない。》(22ページ)
《「つらいのか?」
ぼくは正直な気持ちをこたえた。
「ううん、そうでもない。つらいのとはちょっとちがうんだ」》(25ページ)
《ぼくは声をたてずに泣いた。そんな泣き方をすっかり覚えてしまっていたから。》(118ページ)
何も説明されないのに、そこに横たわる空気が冷たく乾いているのかあるいは甘く湿っているのかが、行間の空白からにじみ出て伝わってくるような静謐な語り。
「ぼく」は裕福ではない。だが物語は少年の貧しさを嘆くものではない。「ぼく」は父と母を愛している。しかしことさらに親子愛の美しさを強調してもいない。「ぼく」はただその居場所を受け入れ、同様におのれの運命と居場所を受け入れている人々とふれあい、できごとを受けとめていく。音のない旋律が融け残りの雪を描く。
*
ここ数か月、同じ書き手の書いたものを集中して読んでいた。その書き手の名は鹿王院知子さんである。彼女はまだプロの作家ではない。私は偉そうに「わかりにくいよ」「説明が足りないよ」などと評しながら、しかし、ではどうすればいいのか、範を示せずにいるのだが、『おわりの雪』は、彼女にとってひとつのサンプルになりはしないだろうか、と考えた。唐突な始まり方をし、こと細かに説明しすぎないで描き、さわやかな読後感を読み手に与える、鹿王院さんの書くものはそういう印象だ。だが何かが足りなくて、どこかしらが弱い、その理由はなんだろう、と思わせる頼りなさが解消できない。
『おわりの雪』は、こうした小説が好みでない人にはまったく面白くもなんともないジャンルには違いないが、少なくとも私は一行ごとに胸がきりりと締めつけられ、「ぼく」のみならずすべての登場人物の心に棲む塊のようなものをどっしりと預けられてしまったような読後感がある。それでいて、冬景色の中で垣間見る澄んだ青空や、あるいは雪に映る陽だまりのような透明感をともなっている。
おそらく、そういった何かを行間からより滲み出せることができたとき、鹿王院さんは文壇を駆け上っていくだろう。
*
原題は『La derniere neige』という。これを最後の雪、などとせず、日本語としてなんとなく据わりの悪い「おわりの」雪、としたことに、訳者もしくは編集者の力量を称えたい。訳者あとがきによれば、この作家は「父と子」あるいは「大人と少年」を好んでモチーフにしているそうである。父とあまり話をせず、また男の子ではなかった私には、どこまでいっても想像の世界だ。読み手は、だから女性のほうがよいかもしれない。
マンガレリは同じ訳者でもう一冊邦訳が出ている。それも読みたい。児童文学作家としてもう幾つも出版し文学賞も受賞しているそうだ。原書でこの静謐さに触れたいとも思わせた。
《そう、それで、父さんはぼくにこういった。
「むかし父さんも、あることを経験した。ふつうならつらいと感じるようなことだったが、おれはそうは感じなかった。だがそのかわり、自分は独りだと、これ以上ないほど独りきりだと感じたんだ……」ぼくはランプの下で手をゆらしつづけながら、父さんのいったことを考えていた。》(26ページ)
コメント
_ おさか ― 2007/11/09 09:33:37
_ midi ― 2007/11/09 12:04:01
冒頭のひと言が大事だとよく言われますね。たぶんビジネスの現場で書く企画書なんかもそうじゃないかな。方法は違うにしても。
唐突でなくてもいいんですよね、なんだろう。次へ引っ張っていく力のある一文。それが冒頭に求められる。強さとかではなく。
_ 儚い預言者 ― 2007/11/09 21:14:47
美しさと沈黙の豊饒は、どれほどのストーリーが必要なのだろうか。
人の生きる息に、迷いと悟り、鼓動と静寂、そして動きと存在。
流す涙と震える心は、その位置を据えながら、周囲に転移していくのだろう。
主題は語るが、背景は語りの奥で同期する心で呼びかけている。
_ 戸川リュウジ ― 2007/11/10 00:15:48
はじめまして。
『おわりの雪』
なかなかいい題名です。
話もなんとなく良さそうです。
今度読んでみようかと思います。
幸運にも僕の友人には本屋がいまして、僕は何時もそこでしか本を買いません。今度、注文しよ。
ちなみにこのブログを知るきっかけは、『内田樹の研究室』のブログを読んでるときにコメントが寄せられていたのを読んだからです。
なんとなく好感が持てたので、このように便りをさせていただきました。
ご迷惑でなければ、今後ともよろしくです。
_ midi ― 2007/11/10 07:07:48
よく「もうひとりの私」などという言い方をします。でもその「もうひとりの私」はどこにいるのでしょうか。読む「私」、語る「私」、書く「私」などなどの私と対象である「読まれる本」「語られる物語」「書かれる文章」のあいだに、「もうひとりの私」がいるとしたら、それは、もうひとりの「私」ではなく何か別のものかもしれません。そしてそれは「私」の側にいつも潜んでいるものではなくむしろ対象物の側に在るのかもしれません。たとえば書物の行間に、声と声のあいだの時間に、鉛筆と紙の隙間に。
戸川リュウジさま
はじめまして、いらっしゃいませ。
お名前は内田さんのところで拝見して私も見知っておりました。
退屈なところですが、これからもいらしてくださいね。
お友田達が本屋さんだなんてうらやましいですね。きっとそのお友達はいい人ですね。私の偏見ですが、本屋さんに悪者はいないのです。
_ 鹿王院知子 ― 2007/11/11 12:50:53
(このブログのこと)ありがとうございます
常に混乱しながら生きているので
書く作業で少し
自分と自分の生きてきた時間を
客観的に把握できるような気がします
書くことで
私はこんなうすっぺらな人間なんだと
驚いたり
悲観したり
かえってうらぶれた気分になってしまったり
プラスばかりには働かず自分を痛めつけるときもあるのですが
人類共通である気持ちを
うまくことばに変換していくのが目標です
まずはこの本を読んでまたお返事しますね
そして、いつも見守っていただくことに心からの感謝を
_ コマンタ ― 2007/11/11 19:31:24
_ midi ― 2007/11/12 07:50:30
見守るだなんて。おせっかい焼きで、すみません。けっしてプレッシャーかけるつもりはありませんから(笑)マイペースでね。
コマンタさん
世の中が饒舌になり過ぎています。でありながら肝腎なことは誰も何もいわなくなりました。とても怖いことだと感じています。
>トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ
これでもう読み進んじゃいますね。
翻訳本って私好きなんですよ。原書が読めるほどの語学力がないってのもありますが、「翻訳」という作業は本当に日本語に対しての知識とこだわりと技法がないと出来ないので、なまじっかな日本人作家より文章が整理整頓されていてキレイなんですよね(もちろん上手い人は、ですが)
小説の書き方とか新人賞の取り方とか、もろもろの小説作法の本を見ていると必ずあるのが「タイトルと書き出しの大切さ」。一番先に目に触れるところですもんね。
下読みの人によると、最初の数ページでダメだとあともダメ、って定説もあるそうで。極端なこというと、推理ものやミステリーのようにどんでん返しを狙うようなものじゃなきゃ、ラストはどうでもいいんだそうですよ(笑)
ゆっくりと動いていく小説であっても、全体のイメージを最初にちりばめておくっていうのは手なのかもしれない。ひきつけるものを前に。あとはゆるゆるともって行く。
ろくこさんたらいいなあ、蝶子さんに見てもらってるなんてずるいわっ
次回は私もお願いしようっと♪和紙つけますからっ(笑