A lire!(suite) ― 2012/08/24 00:09:30

マリア・ブルーメンクロン著
堀込-ゲッテ由子訳
小学館(2012年)
このブログ、カレンダーがまだ7月だった……永らく更新してなかったんだね。前エントリで取り上げたこの本を読むのに1か月かかったわけではないのよ。むしろ、すぐに入手して、速攻で読み終えた。
冒頭から非常にテンポよく著者の語りが進む。チベットの子どもたちそれぞれが我が家を後にしヒマラヤを越えてインド側に保護されるまで、読み手はハラハラしながらその足跡を追わねばならない。幾度も憤りを感じながら、子どもの無事を祈る親のような気持ちでページをめくる。
これはドキュメンタリーであるので、書かれていることは事実であり、その壮絶さに思いを馳せれば、あまり不謹慎なことはいえないけど、読み物としてたいへん面白く、よくできていると思う。
ただし、その軽快な筆致も、本の後ろのほうになってくると迷走気味である。原作は初版から最新版までに何度も改訂されている。というのも、子どもたちは成長する。10歳やそこらでヒマラヤを越えた子どもたちは、保護されてちゃんと食べることができ、学校で教育を受け、祖国や我が家への変わらぬ思いを深く胸にしまいながらも、世界へも目が向いている。そうした成長ぶりを、著者は時折足を運んで子どもたちに再会し、その都度続編として書き足していったのであるが、そのせいで、後半は時系列的に理解しにくい箇所がちょこちょこある。また著者自身のプライベートな生活や出来事をスパイス的に随所に織り込むのはいいが、本筋とは関係ないことで読者の視線をうろうろさせ、結果的に逆効果となっていることも否めない。
著者はドキュメンタリー映像作家である。したがって、本書の名前でインターネット検索すると、DVD化されている同名の映画もヒットする。しかし、本と映像は別もんと考えたほうがよいだろう。映画は無事に保護されてからの記録だ。だから、子どもたちの村でのミゼラブルな生活の映像は、もちろん、ない。だから、これは訳者の由子さんが言ってたことだけれど、映画を観ただけでは不十分で、本を読んで初めて、この子どもたちの、幼くして波瀾万丈の成長記が、鑑賞者/読者の頭の中で像を結ぶ。
私は映画を観ていない。だが本書は「こんな逆境で、命がけで民族の尊厳を守ろうとしている子どもたちがいる」ことを明らかにするに十分な情報量と説得力を持っている。だから、本をガッツリ読めば映画は不要だと、私は思う。
しかし、さっきも触れた、最後のほうの著者の迷走気味なくだりが気に入らない場合は、DVDを見て情報を映像で補填すれば気持ちがおさまるであろう。
ヒマラヤの向こう側はあの漢民族が支配する国である。したがって、映画も本も、チベット解放を訴える政治的な主張がまったくないわけではない。そのために本書の日本での発行は、「よし、この本出そう!」と手を挙げる出版社が見つからず、難航したという。晴れて小学館から出版され、中身を読んでみれば、これが日中関係に悪影響を及ぼすとはとうてい思えないけど、ま、二の足を踏んだ出版社にはそれぞれ事情もあるだろう。中国史や日中関係の研究者は日本にも中国にもよそにも山のようにいる。ウチの弟もそのはしくれで、その弟が言っていたが、双方の学者にとってチベット問題は厄介で根が深いもん、らしい。容易に本が出せなかったり安易に言及したりもできないのだろう。でも誰かが語らなければことは明るみに出ないからねえ。
いま日本でも大合唱されている「家族の絆」なんぞ、チベット自治区では、当局によって簡単に引きちぎられてしまうという現実がある。基本的な生きる権利、ここでなければ当然享受できる教育を受ける権利、そんな諸々、ままならないことがてんこもりだ。
とはいえ、それは何も中国チベット自治区だけではない。中国内だけでもあっちにもこっちにもあるし、それは少数民族だけではない。棄民政策は共産党のお家芸だ。たとえば『中国の血』(ピエール・ アスキ著)を読まれたし。
似たような話は世界中に転がっている。
ただ、本書は、その舞台に世界最高峰のヒマラヤがそびえるだけに、ドラマチックなのだ。そのことが、この本からきな臭い政治の色を排除し、子どもの尊いひたむきさをクローズアップするのに一役買っている。
そんなわけで、話があっちこっちしたけれど、本書は冒頭からいきなりクライマックスの連続であり、冒頭からしばらくは、親子とは、家族とは、故郷とは……と自問せずにはいられず、でも答えは見つからず、ともかく面白いから読み進む。私たち読者は大いに想像力を羽ばたかせて、チベットの生活習慣を思ったり、そびえるヒマラヤの峰の険しさが思い浮かばなかったり、生き延びる子どもたちの生命力に感嘆したり、ヒマラヤへ送り出す母親の胸中に慄然としたりする。
我が身を振り返れば、問題山積の国の民ではあるんだけど、奇跡のようなラッキーの連続というべきか積み重ねというべきか、私も、娘も、親兄弟も、たいへん安穏と暮らせていることに感謝するほかはないのである。