Trop triste...2016/01/11 23:23:11


最愛のアイドルを失い、深い悲しみに落ちている。

嘘だ、嘘だと言ってくれ。

好んで聴いた歌手や贔屓にしていた役者が亡くなるのは辛い。若くして亡くなるとまだまだ活躍できたのにと思うし、長寿を全うして亡くなったとしてもやはり巨星が墜ちたようでしばし心にぽっかり穴があく。

ボウイは、そのどちらでもない。
もちろん、家族のように近しいわけでもないし、恋人のように分身のように熱愛していたわけでもない。ボウイは40年来、私の最愛のアイドルであり続けた。好きなミュージシャンも俳優も挙げればいくらでもいる。だけどその誰もボウイを超えたことはない。私は『戦場のメリークリスマス』に出ていたボウイよりも『菊次郎の夏』のビートたけしのほうが好きだし、『Let's Dance』のヴィデオの中のボウイより『Uptown Girl』のビリー・ジョエルのほうが愛おしい。ある分野に突出していた人はその分野でボウイと競えば勝(まさ)ったかもしれないが、ほかのすべての要素で劣る。だからトータルで誰もボウイの上をいくことはできない。
ではボウイは「さまざまなジャンルの才能を平均点以上に持ち合わせていた」といえばいいのかといえばそうではない。そんな表現では足りないし、かといってではどういえば彼の才能を、存在を言い表すことができるというのだろう? 言えやしない、ひと言やふた言では。言えやしない、いくら言葉を連ねても。

ダメだ。何を言っても陳腐になってしまう。

人生の道しるべになってくれた先達や、その著書に多大な影響を受けた研究者や批評家、愛読した作家、そのプレーにしびれた俳優や音楽家。幾人もの偉大な私の中の「せんせい」たちが亡くなった。でも、ボウイは彼らとは決定的に違う。ボウイは私の先生などではない。私はデヴィッド・ボウイのファンだ。端的に言うならそう表現するしかない。私は音楽をやらなかったし、ボウイのファッションを真似たりなんかしなかった。ボウイは小学6年生だった私の心の中にどかどかと入ってきて、以来ずっと住んでいる。本気も嘘気も合わせれば何十人と愛した男たちが入っては出て行ったけれど、居残っている男もいるけれど、誰が来ようとボウイを私は一度も心から追い出すことなく住まわせてきた。

心が周囲に壁のある部屋のような形をしているとしたら、ボウイは心の壁画のようなものだ。心を取り囲む壁に彼のピンナップがぺたぺたと貼ってあるのか、誰かが肖像画を描いたのか、はがせない、消せない、私の心を取り囲み包むボウイのあんな顔、こんなポーズ。

ボウイの写真やライヴ映像、ヴィデオクリップ、出演映画、ほとんどすべてを今は観ることができる。だからといって、そんなもの、なんにもなりゃしない。それらがたくさんあるからといって彼は生き返りはしない。観るさ、そりゃ、何度でも、堰を切ったように、ステージで歌う彼の映像を観るさ、歌声を聴くさ、ひっきりなしに、繰り返し再生して。
だけどもう生きて目の前でニッと笑ったりはしないのだ。
生きてエナメルの靴でステップを踏んだりもしないのだ。
生きて小指を離してマイクを持って「Heroes」歌ったりもしないのだ。
生きてアコースティックギターを抱えて「Space Oddity」を歌うことなんかもう絶対にありはしないのだ。

去年一年間、パリで回顧展をやったり、集大成のボックス発売したり、なんだか、何なの人生片づけに入ってるわけ?と思ったりもしたが8日の誕生日にニューアルバムを発売して、おおブラヴォーじゃないかそりゃと思ったばかりだった。
思ったばかりだった、ほんとに。

いちいちいわなくてもよかったことだけど時にしみじみと心の中の住人を思いたくなって、ほんの二年ほど前にはこんなことを書いていたのだった。

http://midi.asablo.jp/blog/2013/12/25/7155023

なんで? なんで? なんで?
死んだら終わりなんだよ。
あなたは私の中に40年前から住んでいる、だけど生きてたから住んでいたんだ。あなたが死んだって? そしたら私の中に住んでるあなたはこれからどうなっていくの? 心の中の壁画はどうなっていくの? 色褪せて消えてしまうの、ぱらぱらと劣化して剥がれ落ちていくの? 死んだあなたは今どこにいるの? ほんとうは死んだふりをしているんでしょう。棺の中からガタリとありがちな音をたてて蓋を持ち上げ、隙間から青い瞳をのぞかせてニッと笑うに決まっている。

そうに決まっている。

お願いだからそうだと言ってくれ。

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