La Petite Bijou2015/03/26 17:59:55


『さびしい宝石』
パトリック・モディアノ著 白井成雄訳
作品社(2004年)


20年ちょっと前のこと、雑誌をつくっているフランス人のグループに加わり、彼らの仕事を手伝うことになった。それはスタッフたちとのちょっとした関わりがきっかけだったが、はっきりいって、当時けっこう捨て鉢な気分で生きていたので、居場所があればどこでもよかった。わずかでも小遣いになるなら、どんな仕事でもよかった。覚えたてのフランス語を使えてそれなりのバイト料ももらえるのだから申し分なかった。雑誌に掲載する記事のほとんどはフランス人による寄稿で、翻訳は仏文学科の大先生たちが格安で引き受けてくれていた。私の役目は事務所の留守番や郵便物の管理だった。
まもなく、ある映画祭のため来日するフランス人ゲストを取材することになった。パトリス・ルコント。私は浮き足立った。ルコントは当時私にとって最大級の賛辞を贈っていい映画監督のひとりだった。『仕立て屋の恋』と『髪結いの亭主』の2作品によって私は完全にノックアウトされており、『タンゴ』を見逃していただけにその次の新作を映画祭でいち早く観られるだけでもめっけもんどころではなかった。監督その人に会えるなんて。
「ルコントに何を訊きたい?」
「まなざし、の意味かな……」
「まなざし?」
「ルコントの映画の人物って、やたら人を見つめるんだよね、じーっとね。じーっと視線を送るの、日本人はあまりしないし」
「ふむ、なるほど。いいところに目をつけたな。それ、ちゃんと質問しろよ」
「え? あたし、ついていくだけでいいんでしょ」
「いちおうさ、ウチの雑誌、日仏の文化的架け橋になるとかなんとかお題目つけてんだよ。そこで仕事してるんだしさ、もうちょっとコミットしろよ」
「ぐ」
「せっかくしゃべれんのに、フランス語」
「がが……」

というような会話を会場へ行く電車の中でするもんだから、編集長、そんなの言うの遅いよと抵抗してみたがダメだった。取材を全部やれとは言ってない、でもその「まなざし」の話はお前が口火を切れといわれ、ポケット仏和−和仏辞書を繰って頭の中で質問文をつくった。
懐かしい思い出だ。
私たちはほんの数分しか時間をもらえなかったが、インタビューはすこぶるスムーズに進み、有意義な時間を得た。売れっ子監督でもあったルコントは、どのような問いにもあらかじめすべて用意してあったようにするすると答えた。とても論理的で(フランス人はたいていそうなんだけど)、口を開くたび、起承転結の完全な小話を聞くようでもあった。

私たちは彼の新作を映画祭の会場で観賞した。映画を観たのが取材より先だったか後だったかを思い出せない。たぶん、取材の後だっただろうと思う。ルコント本人に会う前に観ていたら、ずいぶんと気の持ちかたが違っていたはずだからだ。
新作は、『イヴォンヌの香り』だった。
私はこの作品にとてもがっかりしたのだった。
男ふたりに女ひとりの三角関係なので、そこは女に魅力がないと成立しない話のはずなのに、この女優が全然ダメだった。フランス人好み(たぶん)の整った小づくりな顔立ちで、美人なんだろうけど、なんといえばいいのだろう、しっかり肌を露出しているのに色気がない、ベッドシーンもあるのに色気がない。全然色気がない。艶(つや)とか、艶(なまめ)かしさとか、じわっとにじみ出るような潤いがなくて、かすかすな感じ。言葉がきたなくて申し訳ないが「しょんべんくさい」のだ。しょんべんくさいが悪ければ「ちちくさい」といおうか。「未熟」とか「稚拙」とかはあたらない。まだ若いから、芸歴がないから、といった素人くささやキャリア不足ではない。この女優はたぶん10年経ってもこんな感じのままに違いない、と思わせるほど、どうしようもないほどの「およびでない」度満開の、魅力のなさ。
なぜこの女に老いも若きも振り回されねばならないのか。……この問いは物語に感情移入して発するのではない。この女優の存在のつまらなさのせいで、映画全体が退屈なものになってしまっている。戦争が背景にあり、かつてのフランス社会に厳然とあった階級制度の名残りがちらつく。よく準備された申し分ない設定のはずの映画で、つまらぬ自問を発するしか感想のもちようがないなんて。
時代や身分がどうであろうと所詮男と女がからみ合うのよ、といったふうのいかにもなフランス映画といってしまえばそれまでで、ルコントの映画はつまりそんなのばっかりなんだけど、でも彼は俳優にその力を最大限に発揮させて従来の何倍も魅力あふれる人物に仕立て、台詞と、構成と、カメラワークと、編集の才で、ありふれたメロドラマを極上の映画に仕上げるシネアストなのだ。
なのに、これ。『イヴォンヌの香り』。

『イヴォンヌの香り』の原作はパトリック・モディアノの『Villa triste』である。パトリス・ルコントは作家モディアノを非常に敬愛し、愛読していると取材時にも話していた。もちろん私は、モディアノの名前を聞いても「誰それ、何それ?」状態であったが、のちに映画のクレジットをチラシで見て、その名前を確認はした。パトリック・モディアノ。ところが不幸なことに、『イヴォンヌの香り』に幻滅するあまり、その幻滅に原作者の名前も巻き込んでしまった。1994年。せっかくパトリック・モディアノと出会いかけたのに、顔も見ないで私は席を立ってしまったのだった。

ずっと後になって、図書館のフランス文学の書架にモディアノの名前を見つけたとき、どうしても読む気が起こらなかったのだが、そのときなぜ読む気になれないのかがわからなかった。『イヴォンヌの香り』の原作者であることなど、とうに忘却の彼方なのだった。なんだかわからないけど「お前なんかに読んでもらわんでええ」と本の背に言われているような気がして、私はモディアノを手に取らずにいた。

ところがある日、モディアノとの再会は強引に訪れた。『さびしい宝石』と書かれた本の背に、原題とおぼしき「La Petite Bijou」という文字もデザインされていた。おおお、ぷちっとびじゅー、と私は思わず口走っていた。というのも、私は娘が生まれてから3年ほどのあいだ、ハードカバーのノートに子育て日記をつけていたが、そのタイトルを「Ma petite bijou」にしていたのだ。私の可愛い宝石ちゃん、くらいの意味だが、「ビジュ」の語感がいかにもベビーにぴったりで、我ながら気に入っていたのだった。これを読まないでどうする。私は小説家の名前も見ないでこの本を借りて読んだ。

19歳のテレーズは幼い頃母親と生き別れ、母親の女友達の家に預けられて育つ。母親は彼女を「La petite bijou(可愛い宝石)」と呼んでいた。いまテレーズはパリでなんとかひとり暮らしを始めようとしている。ある日混み合う地下鉄の駅で母親に似た人を見かけ、その後をつけていくが……。

パリの雑踏、夜の舗道の暗さ、親切な人、得体の知れない人、自分の中で交錯するいくつもの記憶、自分でもとらえきれない、母親にもつ感情。

当時娘は小学生で、私は仕事も忙しく、娘の学校行事やお稽古ごとなど校外活動など、かかわることも増えてきりきり舞いしていた。そんなときに、親にも社会にも見捨てられてその日を生きるのが精一杯の少女の、非行に走るでもなく男を手玉に取るでもなく人を殺すでもない、誰も知らないところでただもがくだけの毎日を描写するこの小説を、ぞんぶんに味わって読めるはずもなかった。親に捨てられ、ろくに学校にも行けず、都会に放り出された19歳。足許のおぼつかない、いつ道を踏み外してもおかしくないような状況で、それでも善悪は心得ていて、妙にお行儀がいい。もって生まれた性格なのか、それが幸いして少女は人の親切を得てかろうじて立っている。その、紙一重の危うさを生きる心象風景を描いた小説の世界に入っていけるわけもなかった。私には、この本の中の「ビジュ」のような19歳に我が娘がならないようにせんといかん、という程度の読後感しかなかった。というより、19歳なんて、想像の域を超えていた。それに、テレーズは、私の19歳の頃とはまるで似つかぬ生活をしていた。そして娘もいつか19歳になるのだけれども、想像するその姿とテレーズとは、まるで重なるところがなかった。
私はモディアノを、その素性も知らず強引に自分に引き寄せてみたけれども、何の手応えをも感じないですっと手を離してしまった。このときも、『イヴォンヌの香り』の原作者だとは気づいていないのである。

先月、娘が19歳になった。
だからといって、テレーズを思い出したわけではない。
遡って、昨年のノーベル文学賞に、パトリック・モディアノが選ばれた。村上春樹が有力視されていたらしいので、「期待に反し受賞は仏作家モディアノ」という見出しが新聞を飾った。
聞いたことのある作家だなあ。
それ以上の感想はもたなかった。
しかし、ふだんあまり小説を読まないので、ノーベル賞受賞作家は、短いものでもいいからひとつくらいは読むようにしている。で、例外なくノーベル賞受賞作家の作品は、なかなかに奥が深くて面白いのである。さすがなのである。

資料を借りにいった図書館で、ついでに何か読もうかなと仏文学の書架を眺めていると、「パトリック・モディアノ」の名前が目に入り、そしてすぐに『さびしい宝石』が目に入った。
おおおおお、Ma petite bijou!!!
モディアノだったのか!
その並びに、『イヴォンヌの香り』も収まっているのに気づいた。
うわああああ、イヴォンヌ!
そうだ、モディアノだ、モディアノだったぞ原作者!

と、バラバラだった記憶がひとつにつながったのだった。
私は見覚えのある『さびしい宝石』の表紙をめくり、カバー見返しに「なにがほしいのか、わからない。なぜ生きるのか、わからない。孤独でこわがりの、19才のテレーズ——」というキャッチコピーを見つけ、迷わず再読を決め、借りたのだった。

10年ほど前におおざっぱな読みかたしかしなかった作品は、いまははっきりとリアルにメッセージを投げているように感じる。それは、いまのこの私に対して、という意味だ。19歳の娘がいま異国で、わくわくしながら暮らすいっぽうで不安におののき、愉快な友達に囲まれながらもホームシックに苛まれ、自分がとる進路はこれでいいのか、自分も含め誰も明快な答えを出せない中でそれでも歩かなくてはならない得体の知れない圧迫感に息が詰まりそうになっている。テレーズと何も変わらないじゃないか。そうだ、同じことだ、私にしても。19歳の頃、何かに追い立てられるようにして、誰もが向かっている方向へ一緒になって歩きながら、心の奥のほうで、違うこっちじゃないと、気持ちだけが引き返していた。引き返したけれどそっちに目的地があるわけでもなかった。道しるべはない。道しるべは自分で立てていくものなのだ。でもそんなこと、わかるはずもなかった。だからもがいていた。なぜここでこうして生きているのか、なぜ生まれてきたのかわからないまま。テレーズと、そっくりだ。

テレーズのもつ、生き別れた母に対する複雑な思いは重層的で解き明かし難い。母の存在はとっくにない。実体として掴もうと欲しても叶わない。だが母は弱々しい糸のような頼りない記憶の連鎖としてテレーズの脳裏に在って、テレーズをしばっていた。自分の中で記憶を断ち切るしか、解放はされない。解放されなければ、テレーズが自分の生を取り戻すことはできない。
といって、テレーズがはっきりそんな目的意識をもって邁進しているわけではない。どうすればいいのか。どうもしなくていいのか。そもそもなにをしたかったのだろう?

《もう何年も前から、わたしは誰にも何ひとつ打ち明けたことがなかった。すべてを自分ひとりで背負い込んできたのだ。
「お話しするには、複雑すぎて」と、わたしは答えた。
「どうして? 複雑なことなんて、なにもないわ……」。
 わたしは泣きくずれた。涙を流すなんてことは、あの犬が死んでからはじめてだった。もう十二年くらい前のことだけれど。》(『さびしい宝石』80ページ)

読み終えて、というよりページをめくるたびに、私は娘を抱きしめたくなった。1行ごとに、娘の顔を見たくなった。テレーズが息をつき、言葉を口にするたびに、娘の住む町へ飛んでいきたくなった。

Mon chat qui dort comme un bébé2014/11/07 21:39:38

飼い猫と同世代なう、みたいな話をしたばかりなんだけど。
でも私の猫はやはり私の娘。末娘。
いつまでたってもあかんぼのままの、ちっちゃなちっちゃな ma petite jolie fille なのだ。今日も私の膝の上で暖をとる。

幼い頃娘が(←人間のほう)愛用していた袢纏を猫の布団にしている。私の体温で温まった椅子の上に広げると、そこで丸まって眠りこける。

ペットホテルでの3泊、あまり眠れなかったのかもしれない。左のケージにぎゃんぎゃんうるさいワン公、右のケージには周囲に色気ふりまくメス猫、向かいにはブサイクで目もあてられないオス猫……たちがほんとうにいたとしても我が愛猫にはきわめてどうでもいいはずだが、我が家でのようには眠れなかっただろう。

少しの気配でもすぐに瞼を開く愛猫だが、つついても耳もとで呼んでも知らん顔で寝ること寝ること。

……可愛い。

可愛すぎる。

娘が(←人間のほう)生まれたばかりの頃、産院の個室で、そして帰宅してから寝室で、私は彼女の寝顔を撮り続けた。その頃のアルバムを見ると、ほぼ同じ写真が延々と台紙に連なっている。猿から少しばかり体毛を間引いただけのような、赤くてちっちゃい生き物。一日中ほとんど目を閉じたまま、その瞼をくっとしぼったり、ゆるめたり、口許に笑みを浮かべたり、ヘの字にしたり、すぼめたり、何かを噛むように顎を動かしたり。顔全体を延ばしたり、縮めたり、しかめたり、目尻を下げたり上げたり。私には一秒ごとにその表情が変わって見えた。そして一秒前の表情にはこの先もう二度と出会えないのだ、と追いつめられた気分になって、今しかないこの奇跡の表情を残すのだと次々とシャッターを押した。毎秒、娘は成長している。毎日体重が増え、身長が伸び、耳と鼻をはたらかせ、空気の匂いと風の音、私の匂いと声を覚えていく。私には、その成長は目を瞠る勢いに思え、一日の大半を眠って過ごす娘の寝顔にダイナミックな変化が見てとれたのであった。けれども、その頃撮ったおびただしい写真の数々は、幼い娘の安らかな寝顔のヴァリエーション、というにはあまりにも、ほとんど、同じである。題名をつけるとしたらひとつしかない。「寝る子」。

寝る子。寝子。ねこ。

私のガラケーの中には、膨大な数の、この手の愛猫の写真が納まっている。私の猫は、初めてウチにやって来た頃、私の布団の中で私の手首に小さな顎を乗せて眠った。知らない世界へ来ておびえていたが、寒さには勝てず(冬だった)温もりを求めて布団に潜り込んできた。きゅっと体を縮めて、赤ん坊のくせに、一分の隙もない様子で、しかし温もりに気をゆるして、くうくうと眠った。

あの頃に比べたら、猫は体が大きくなり、あまり遊ばなくなり、ますます寝てばかりの毎日だ。避妊手術(卵巣摘出)をしたら大人にならないから子どもっぽいままだとか聞くけれど、無邪気な赤子のような愛らしさはさすがに影を潜めた。が、寝顔は少しも変わらない。猫の寝顔を見ると、夢中で写真を撮った昔をつい思い出す。

そして今日、同じことをしている。

うるさいなあとでもいうように、前足としっぽで顔を覆う。

耳に触れると耳のてっぺんを器用に平たく倒す。
しっぽに触れるとあっち行けとでもいうように左右に振ってみせる。
額に触れるとかゆそうに手でひと掻き。手、じゃなかった、前足。
首や背中に触れても知らんぷり。あ、べつに、触っててくれていいよ、みたいな。

寝返りを打って、少しだけこっちを見たけれど

またすぐに寝た。

寝る猫とともに居るとき、おそらく私はいっさいを忘れて猫への愛に溺れている。かつて赤子の娘を見つめ続けたあの至福の瞬間の連続のように、少しの表情の変化も見逃すまいと凝視し続け、一秒ごとにその愛らしさにKOされ続け、ダウンしては起き上がり、自分の中からほとばしる愛に逆らえず、対象たるいとおしい存在をまた見つめ続ける。対象への愛に酔いしれ、この至福のときが未来永劫褪せることなく続くことをすべてに優先して願っている。この世の垢や滓、汚れた澱やはびこる愚などのいっさいを忘れて。

命が限りあるものだなんて、信じないのだ。猫はまるで生まれたばかりの赤子のように、みずみずしい生命の泉を湧き立たせ、私に幸福をくれる。ずっとずっと、永遠に、この愛に浸るのである。いつかは終わりが訪れるなんて、信じないのだ。

(BGM:「空と君のあいだに」中島みゆき)

L'Ecosse2014/09/29 11:47:25

先週からトンテンカンカンと工事をしている我が家である。そのためにほぼ物置エリアになっていた場所を空っぽにするため、今月、娘が発った11日の翌日からただひたすらモノを引っぱり出し、仕分けしては捨て、捨てては掃除し、を繰り返していたのである。おおかた捨てればいいものだったが、捨てられないものもある。親族の写真とか、ね。たとえば。還暦を迎えた従姉妹の結婚式の写真とか(笑)、うわー若いー可愛いー、と母と騒いで時間が過ぎたりも、する。

そしてこんなものも発見。5年前に消費期限を過ぎていたカンパン。
をををっ 災害の備えって何ですか?状態の我が家にも非常食なるものがあったのだ! そういえば私の父は熱心な消防団員だったので、消化器はもちろん常備していたし、非常時持ち出し袋(っていうんだっけ)みたいなもんもあった気がする。今回発見しなかったけど。あっそうか、きっと前に古いものを片づけた時に、汚い袋は捨てちゃって食糧だけは取っといたわけだ(笑)。だからカンパンの缶だけがぽつんと。

折しも世間ではスコットランドの独立をかけた国民投票の話題が沸騰しており、私は、20年以上前の夏、フランスの夏期講座で同じクラスになったエコスの女の子を思い出していた。スコットランドをフランス語でいうとエコスなの。授業の最初の日、机が隣り合わせだった私たちはどちらからともなく話しかけ、自己紹介をした。クラスではひとりずつ起立して順番に自己紹介していたが、それより早く私たちは互いの名前と国籍を確認し合った。
「私はチョーコ。ジャポネーズよ」
「私はエリス。エコセーズよ」
「エコセーズ?」
「そう、エコスから来たの。エコスってわかる?」
「ごめん、わからない。どこ?」
「Scotland」
「ああ!」

私は若い頃からケルト文化に興味があり、ウエールズの作家を愛読していた時期もあったので、UKが四つの国家の集合体で、イギリスという名称がイングランドを語源としているにすぎないことを基礎知識として知っていた。ただ、フランス語ではイングランドをアングレッテールというが他の国はどうなのか、その単語の知識がなかった。
エリスが毅然と「私はエコセーズ」と言ったことに、だから違和感は覚えなかった。彼らにとって、自分の出身はそういうふうに表現するものであるのだ。スコットランドはエコスというのね、ひとつ単語を覚えたわ。私がそういうとエリスはクラスの中の男の子ひとりを指して、「あの子はアングレ(イングランド人)よ」と言った。そのとおり、彼は自己紹介でJe suis anglais.と拙い仏語で言い、料理人を目指していますという意味のことを英仏語チャンポンで言ったので教師から「英語禁止!」とたしなめられていた。
「知ってる子なの?」
「授業の前に少し会話したの」
「それで、僕はアングレだって?」
「ううん、でもわかるわよ、ほら、英語がなまってるもん」
彼女の言葉に思わず笑った。スコットランド人からすれば、イングランド人の話す英語は「なまっている」のだ。

さぞかし、スコットランド人は独立意識が高いのだろう。ずっとそう思い続けていたので、いよいよ国民投票という段階にきて独立反対派が半数を占めるとの報道にたいへん意外な気がした。エリスは「Yes」に投票したのだろうか。

……というようなことをつらつら思い巡らしていた時に、このカンパンは見つかったのである。で、カンパンの缶をくるりとひとまわりしてびっくり。
な、なぜカンパンにエコセ(スコットランド人)が! しかもこのタイミングで!(いやこのタイミングはウチの事情だけれども)

で、ちょっくら調べてみると、何でもご存じのかたはいるものである。三立製菓の弁をどこかから拝借されたのか、次のような記載が見つかった。

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カンパンはもともと軍用の携行食として開発されたものです。
(起源は江戸時代らしいです)
その様な商品のためキャラクターは兵隊をモチーフとして誕生したそうです。
ただ、カンパンには兵隊さんそのものというわけではなく『武器を持たずに戦地へ赴き士気を高める軍楽隊であるスコットランドのバグパイパー』を採用しました。

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バグパイプは戦意高揚のための楽器だったのか……。

エリスと出会ったのは1991年の7月、グルノーブルだった。同じ年の10月、モンペリエに移った私は、とあるご縁で足の不自由な老婦人のお相手を週に一度つとめることになり、ある日、その婦人から映画鑑賞を誘われた。それはいつもの訪問日ではない、いわば臨時召集というか番外編だった。どちらかというとそういうのは勘弁してほしいな〜という気がしないではなかったのだが、つねづね映画が大好きだと老婦人にも言ってあったので、観賞後の昼食まで御馳走になれるとあっては断れるはずもないのであった。また、その映画というのは普通の映画館に行くんではなくて、上映後に監督の講演もついているという、事前申込みの必要なスペシャルな上映会であった。老婦人は二人分、申し込んでおいてくれたのだった。ますます断るわけにはいかないのであった。

その映画は、スコットランドのバグパイパーを追いかけたドキュメンタリーだった。監督はカナダ人で、ケベックの人だった。ご存じのとおり、ケベックはフランス語圏で、カナダからの独立が取り沙汰されて幾年月、である。『イエスタディ』という映画をご存じか。30年以上前のこの映画のヒロインはモントリオールの大学生で、その兄はケベック独立運動に身を投じ過激派活動をしていた……とこの素晴しい映画については話が混乱するので今は措くが、この『イエスタディ』を観た時からケベックの人というのは私の中で少々特別な存在だった。老婦人から「監督はケベコワ(ケベック人)なのよ」と聞かされ、最初は億劫に感じていた映画のお伴も、かなり楽しみになっていたのであった。

たぶん、そのケベック人監督は、カナダにおけるケベック人として、グレートブリテンにおけるスコットランドにシンパシーを感じていたのだろう。
たぶん、映画は美しいスコットランドの風景と、ときに勇壮ときにもの悲しいバグパイプの音色を背景に、民族の誇りや文化継承の重要さを語る内容だったのだろう。
たぶん、たぶん、と連発するのは、はっきりゆって、映画も講演もチンプンカンプンで全然理解できなかったからなのだ。
映画の中で話される言語は主に英語で、それに仏語字幕がついたが、単語を追うのが精一杯。さらに、上映後の講演は当然フランス語で行われたのだが、ケベック人の監督さんのフランス語は私のような学習者レベルではとても理解できなかった。老婦人が気を遣って「彼のいうことわかる?」と何度か尋ねてくれたが、そのたびに私はノンと言わなければならなかった。だからって老婦人は通訳してくれるわけではなく(だって彼女にとっては若干訛りのキツいフランス語というだけだから、このジャポネーズのわからないポイントはとうてい理解できなかったと思われる)、どうやらケベック人監督はとても面白可笑しく話していたらしく、会場は和やかな笑いに包まれ、ときに爆笑を呼んでいたが、終始ちんぷんかんぷんなままの私は思考も聴覚も視覚もその目的を失い、闇の中に宙ぶらりんにされていた。あの時の、大きな会場のなか、周りに誰ひとり敵はいないのにその誰とも理解し合えない、共有するものがないという孤独は、あとにもさきにも味わったことのない稀有な感覚だった。
もう少しフランス語が上達したらケベック訛りも聴き取れるわよ、なんて慰めとも励ましともつかない言葉を老婦人の口から聞きながら、変なところで負けず嫌いの私は映画のパンフレットを購入した。あまり写真はなく、監督の思いが膨大な文章に込められ書き連ねられた一冊だった。いつかこれを読んで今日のわからなかった映画をわかってやるぞ、などと思ったのだろう。表紙には、スコットランドの原野をバグパイプを吹きながら歩くチェックのスカートを履いたエコセの凛々しい姿の写真が使われていた。今こそ、あのパンフレットを読むべしではないか。スコットランドの国民投票の報道を目にしながらそんなふうに思ったけれども当のパンフレットはどこへいったやら、見当たらない。代わりに出てきたのがカンパンの缶だった。

Après la pluie2014/09/01 01:13:16

子どもの頃、テレビは歌謡曲番組全盛だった。次から次へとアイドルが誕生し、次々と持ち歌が発表されて売り上げを競っていた。私は番組で歌われる歌はおよそ全部覚えていたが、とりわけほっそーいなよっとしたカラダに長い髪を揺らす男たちに目がなかった。フォーリーブスに始まって野口五郎やあいざき進也、沢田研二と興味の対象を広げながら(移したのでなく、広げたのである。たったひとりだけを愛するという状態を全然続けることができないのは幼時からの私の性〈サガ〉である)、今日の一番は誰にしよう、ゴローかな♪などというふうに、自分の妄想の中でのランキングを入れ替えて楽しんだ。ちなみに「今日の一番はゴロー」というのは、たとえば歌謡曲のヒットを競うベストテン番組で野口五郎がめでたく1位を取ったとかそういうことではない。それは、たとえば番組の中での表情とか、司会者の質問への受け答えとか、テレビの前の視聴者への語りかけぶりとか、そうした「彼」の立ち居振る舞いや仕草、声色、目の表情などを総合的に「評価」して(笑)、「今日の1番はゴローだったわ」と、ひとり悦に入るのである。ときたま、「1番」はコーちゃん(フォーリーブスの北公次)だったりジュリー(沢田研二)だったりしたが、ほとんど毎日野口五郎であった。というより、年々好きな歌手は増えていくけれど、野口五郎は平地にそびえる塔のように他の追随を許さないのであった。

野口五郎の持ち歌に「夕立のあとで」というのがあるが、ご存じだろうか。
ここ近年、よくある突然のどしゃぶりの雨があまりといえばあんまりな大雨であり、あまりにも豪雨であるために、ゆうだち、なんて風流な言葉で形容できる雨には、とんとお目にかからなくなってしまった。それでも私は、夏の午後、にわかに空が曇ってひと雨ざざああっと来た時には必ず野口五郎の「夕立のあとで」を思い出す。もちろん、ゴローちゃんの歌声で思い出すのだ。雨上がりのまちは瓦も街路樹も道も空気もきれいに洗われたように清澄だ。「夕立のあとで」はまさにそのとおりのことを歌っていて、ちょっぴり説明的ですらある。

野口五郎はたしか「私鉄沿線」という歌で大きな歌謡賞を獲ったので、昭和のアイドルについてよくご存じでないかたも「野口五郎/私鉄沿線」はセットでご記憶にあるのではないだろうか。でも、熱狂的ファンの立場から言わせてもらうと、駅とか改札とか部屋の掃除とかといった具象パーツが少々トキメキ感に欠け、よくできた歌だとわかっていても、けっきょく何が言いたいのかよくわからない「こころの叫び」とか「告白」とか「君が美しすぎて」とかの単なるそれらしいワードの羅列による抽象的ななんか青春やんこれ、みたいな歌のほうがわけもなく好きだったりするのである。ちなみに私が完全にイカレてしまったのは「甘い生活」で、この曲をきっかけにゴローちゃんはアイドル新御三家のひとりからメキメキと大人の歌手へと脱皮に脱皮を重ねていくわけだが、そのあとの幾つもの名曲に比べても、やっぱり「甘い生活」がいつまでもいつまでも好きだった。

「夕立のあとで」が発表されたとき、私はとてもがっかりしたのだった。その説明くささとメロディーラインがとても野口五郎を「老成」させて見せた。おっさんくさい。はっきりゆーとそういうことであった。なんかいやや、この歌。五郎が年寄りくさく見える。早く次の新曲出してくれ。そんなふうに思ったのをはっきり覚えている。それなのに、何十年も経った今、何かのはずみで古い歌を思い出す機会といえば、たったひとつ、夏の午後の雨降りなのである。夕立に遭うと必ず思い出すのだ、「夕立のあとで」を。面白いものである。大好きだった「こころの叫び」も「甘い生活」も、それほど「くっきりした」記憶を呼び起こすきっかけはない。野口五郎の持ち歌としてはそんなに好きでもなんでもなかったこの歌は、年を経るごとに、その歌詞の含む物語世界の大きさ、深さに自身が入り込んでいくような気にさせる。私は雨をきっかけに過去の恋愛を思い出すことはないが、夕立でこの歌を思い出したとき、否が応にも「少しは忘れかけてた」あんなことこんなことに引き戻されるのである。罪な歌である。

「雨あがる」というよい映画がある。この映画はフランスでたいへん好評を得たそうだ。かつて当時の相方の部屋でこのDVDを仏語字幕つきで観た。彼に限らず、日本の好きなフランス人は声を揃えてこの映画を大好きだという。仏語タイトルは「Après la pluie」(雨のあとで)。仏語タイトルを見たときも、私の思考回路は「夕立のあとで」を引き寄せた。「雨あがる」と「夕立のあとで」は描いている世界はまるで違うのだが、私の中では緊密にリンクしている(笑)。

雨は時に牙を剥き、そこかしこに残忍な爪痕を残すこともある。
生き延びている幸運を素直に喜び、生きていればめぐる季節と呼び覚まされる記憶を反芻しながら、毎日を大切に生きていきたいし、雨を嫌わず雨とともに在りたいと思うのである。


「夕立のあとで」

作詞:山上路夫
作曲:筒美京平
歌:野口五郎

夕立ちのあとの街は きれいに洗われたようで
緑の匂いが よみがえります
忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました

夕立ちの多い夏に 愛して別れた人です
風さえあの日と おんなじようです
通りすぎる 小さな軒先
風にゆられて 小さな風鈴が
遠い夢を呼び かすかに鳴りました

夕立ちのあとの街は なぜだかやさしげな姿
心にかなしく ひびいてきます
生きていれば 季節はめぐって
夏があなたの 想い出呼びさまし
過ぎたあの頃に もどってゆきます

忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました

http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=55662

Fils unique, fille unique2013/12/19 18:11:55

近所のスーパーマーケット。



『ひとり暮らし』
谷川俊太郎著
新潮文庫(2009年)


「華の40代」(笑)が残すところあと1か月を切ってしまった。早いもんだなー。40歳になった年のあるとき、小学生の娘と地域のお料理イベントに参加した。みんな母と子の参加で、子どもに料理のイロハを体験させるイベントのはずだったが、子はほとんど遊ぶばかりで、けっきょく母親たちが切って刻んで混ぜて煮て炊いて、と全部、わいわいいいながらつくっていた。そんな母親たちを、子ども同士に飽きた子どもらが取り囲んで、俺の母ちゃんこれー、うちのお母さんこのひとー、あたしのママはこれーと口々に母紹介&母自慢。
「ひろくんのお母さん何歳? 35?」
「ゆきちゃんのお母さん何歳? 33?」
「まーくんとこは? なっちとこは? 36? 37?」
「お母さん、お母さん、勝ったで! お母さんがいちばん年上やで」
「見て見て、ウチのお母さん、もう40歳やのにこんなに元気やで!」
……以上はすべてウチのさなぎのセリフである……。(子どもの呼び名は仮名)
私の記憶が正しければ、そこに参加していた子どもたちの9割がひとりっ子だった。小学校低学年のイベントだったので、子どもたちは7〜9歳。その時点でひとりっ子だったら、その後二人めが生まれている可能性はあまり高くないだろう。当時から今に続いておつきあいのある家庭は数えるほどしかないが、見事に子どもたちはみんなひとりっ子である。
ウチの子もひとりっ子、甥っ子もひとりっ子。保育園から一緒の幼馴染みもひとりっ子。ともに陸上に打ち込んだ同級生もひとりっ子。放課後、学童保育に連れだって通った少年たちふたりも、それぞれひとりっ子。
先述したように、32歳で娘を生んだ私は、当時は年かさのほうだった。周囲はやはり20代で第一子を生んでいるひとが圧倒的に多かった。今、30代後半で初産はちっとも珍しくない。やっと赤ちゃんを授かり予定日の近づいた若い友人は、39歳だ。私の髪をいつも切ってくれる美容師は、同じ高校の3〜4年後輩なんだが、40歳で授かった娘を玉のように愛でている。
非婚が進み、晩婚が当たり前になり、それでもし、しぜんに子宝に恵まれればめっけもんだ。たいしてほしいと思わない夫婦はそのままふたりの暮らしを楽しむだろうしなんとしてもほしいカップルは不妊治療にトライする。医療も進んだし、成功率は低くないし。でも、ひとりが精一杯だろう。私の周囲に不妊治療の末の妊娠は片手を超えるが、みんなひとりっ子だ。

私が子どもの頃は、ひとりっ子は稀有な存在だった。
といっても、きょうだいの数は2人か3人、それ以上の例はなかった。
私の父は4人兄弟(ひとり夭逝)、母は8人兄弟姉妹(2人が夭逝)。

今年、なんと初めて村上春樹の小説を読んだ。初めて読んだのは『国境の南、太陽の西』で、これは「ひとりっ子」が物語を通徹していた。その後すぐに、発売されたばかりの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を、友人から譲り受けて読んだ。そのあと短編集『東京奇譚集』だったっけ?を読んだ。思うに、主人公の男は、名前をはじめ生い立ちなど設定は少しずつ変えてあるものの、全部、けっきょく同一人物だ。水泳が趣味とか、好んで聴く音楽や好きな料理が同じだ。……というようなことは今、どうでもいいのであった。話を戻すが、最初に読んだ『国境の南、太陽の西』では、主人公の精神がひとりっ子コンプレックスに満ちていて、奇異にさえ思える。述べたように、私の世代にもひとりっ子は珍しくて、たしかにひとりっ子にはなにがしかのレッテル貼りを周囲はしたものだ。しかし、村上春樹の主人公のように、クラスで自分が唯一のひとりっ子だった、みたいなことはなかった(と思う)。親戚にも町内にも学校にも、ちょこちょことひとりっ子はいた。少数派だけど、ひとりっ子はたしかに一定数いて、ある種のプロフィールを形成していた。たぶん、こうした私の幼少の頃からひとりっ子はだんだんとその数を増やし、やがて市民権を得て(あなたもひとりっ子なのね、私もよ)、今や多数派となった(え、君ってきょうだいいるの? へーえ)のである。

村上春樹の時代に奇異で希少種だったひとりっ子は、私の父の時代にはいったいどれほど貴重な存在だったであろうか。昭和の初め、女の仕事はただ子を産むことであったのだ。

谷川俊太郎は父と同い年だ。

感性にまかせて詩を書き、要請に応じて詩を書き、ままならぬもどかしさや表現の苦しみに、ひり出すように言葉と言葉の鎖をつないで詩を書く。詩人としての生を貫いたら、結婚も離婚も3回になった。彼はひとり息子として母親に溺愛された。おそらく、方法は違っても、同じ深さでひとり息子を溺愛している。息子の賢作さんとの数々のコラボレーションの洒脱さはよく知られるところだ。

タートルネックのセーターにジーンズ。よく写真で見る谷川俊太郎のいでたちだが、父と同い年とは思えない。同じ年に生まれたというのに彼我の違いはいったいなんなんだろう?
父はいつも兄と弟に挟まれ、喧嘩もし議論もし、飲み、食い、助け合い、つねにかかわり合って生きていた。よくも悪くも血縁に依存し縛られてその生涯を終えた父。荒野にひとり、凛とたたずむひとりの男、一度手をつなぐもすぐ離し、ひょうひょうと風下へ、吹かれるように歩むひとりの男、荒野にはいつしか花が咲き始めていて、彼は空を見、花を見、詩をしたためる。谷川俊太郎。こんなイメージ、逆さにしても裏返しても父にはならないというところが、私にとっては奇跡だ。奇跡のひと、谷川俊太郎。

谷川俊太郎の詩が好きだが、それほど彼の詩集を丹念に読んでいるわけではない。幼少から私はなぜか「詩」や「ポエム」が好きだった。書く(詩などと呼べる代物ではなかったにしろ)のも、読むのも好きだった。そんな私のアンテナにかかったひとりの詩人にすぎなかった谷川俊太郎が、けっきょく私の中ではいちばん存在感をもって、詩人として在る。
詩作というのは、想像するだけなんだけど、つねに表現の限界への挑戦を強いられているような、心にある画(え)を言葉に置換し、というより言葉で描きなおしながら、しかし言葉しか解さない人に心の画を伝えるという高難度技への挑戦であるように思われる。

しかし、谷川俊太郎は舗道を歩きながら、野に出て花の香りを嗅ぎながら、しゅるしゅるっと言葉を紡ぐ(たぶん)。

その谷川俊太郎のエッセイをまとめたのが本書だ。

やはり彼は詩人であって、文章書きではないな、というのが、読後感だ。
素直すぎるのである。
飾りがなさ過ぎ。
ストレートに、吐露され過ぎ。
熱すぎない彼の表現は淡々と筆が運ばれているようでいて、実はドクドク動く生の心臓を突き出されたような、なまなましいブリュットな文章。
覆いもなく箱もない、むき出しの状態の谷川俊太郎の心が並んでいる。
それなのに、オブラートに包まれたようにしか感じられないもどかしさを強いられる。
それが本書である。
ひとりっ子の彼は、どこまでもひとりである。ほかに比較しようがないから、彼はひとりっ子を楽しみ、謳歌している。干渉もなく依存もない暮らしを貫く、孤高のひと。

と、なんだか持ち上げ過ぎたような気がするんだけど、早い話が、あまり面白くない一冊であった。言葉を使って仕事をしているひとだけど、技巧にまかせて凝った文章づくりをしているわけではない。シンプルだ。そして、意図が伝わらないわけではない。むしろ、よくわかる。でも、やはり谷川俊太郎は詩を読むに限る。彼に限らず、詩はイマジネーションをあおる。しかし谷川俊太郎の文章は、イマジネーションをあおらない。
谷川俊太郎は詩を読むに限る。

"La vie est ailleurs."2013/11/21 17:10:35

10月28日に、西川先生は亡くなった。
それを知ったのは3、4日後の、地元紙の小さな訃報記事だった。
二年ほど前だったか、大空先生にお目にかかった時、西川先生のご体調はあまり思わしくないようなことをうかがっていたが、その数年前には目を手術されたという噂も耳にしていたし、お歳もお歳であるからしかたのないことだろうと思っていた。
しかし、西川先生は昨年の11月、だからほぼ一年前ということになるんだけれども、胆管がんが見つかり、緊急入院され闘病生活を送られていたのだった。
それ以前は、寄る年波ということ以外に大きな不調はなく、奥様と二人で被災地を訪ねて歩かれるなど、変わらず思索と執筆に取り組んでおられたという。
西川先生は、フランス留学中にMai 68を体験され、それが以降の生きかたや研究生活に大きな影響を与えたことをずっと書き続けてこられた。
私は西川先生のゼミ生ではなかったし、入学前はお名前も存じ上げなかったが、大学院の同期生の中には、西川先生の講義を聴きたいがために遠方から通学しているという子がたくさんいた。
私の師である大空先生も、ゼミの初日、「西川先生に引っ張られてさ」、大学院の教職に就いたということをおっしゃって、ならば心して西川先生の講義は受けなくちゃと力が入ったものだ。
何度か接するうち、私はすっかり西川先生の虜になっていた。講義は難解であった。著作も難解であった。でも、発せられる言葉をじかに聞くときも、著作を読み進むときも、いずれにも共通するその物静かな語り口とは裏腹な、月並みだが「ほとばしる情熱」といったものを感じないではいられなかった。柔和な表情の向こう側で、その思索の無限に熱いさまが絵にならない絵となって仁王立ちし、迫ってくるようだった。
中途半端な社会人学生だった私は、大空先生ゼミでなければついていけなかったし、論文の落としどころもつかめなかったに違いないが、もし西川先生についていたら、研究生活をもっと続ける気になっていたかもしれない。西川先生には「終わり」や「線引き」はなかった。先生のテーマは文字どおり死ぬ瞬間まで考え続けなければならないものだった。結論など出せないのだった。思索の深淵の奥深くまで、一緒に潜ってみたい衝動に駆られたけれど、保育園児の子育て真っ最中だった私にはそれ以上学費も時間も用意できなかった。いまは無理だけれど、いつかまた教えを乞う日が来る。そう信じていたし、二年前に大空先生に会って、会おう会おうそうしようという話がまとまりそうだったのに、私はやくざな広告稼業に心身と時間をすり減らすばかりだった。悔いても悔いても、もう西川先生は天に召されてしまった。もう西川先生には会えないのだ。

 ***

(略)
「現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」
『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より
(略)
父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆくような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれません。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考え、生き方も確認してゆきたいと思います。
(略)
Pianoman Rikuo [KIMAGURE DIARY]「父西川長夫の死に寄せて」より
2013/11/02(土) 19:05

***

西川先生のことを書かなくちゃ、と思いながら、喪失の大きさに呆然として何も手につかなかった。先生がくださった著書『フランスの解体?』には、Mai 68のさなかに学生たちがパリ中の壁に書いたメッセージが記録されている。本エントリのタイトルはその中のひとつである。「生は彼方に。」

Tu peux enlever de la peau de pomme sans cassée?2013/10/31 20:02:26

史上最強の雑談(6)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


ある知人が、齢93になるさる御方から茶を習っている。93という御歳で人にものを教えることができるという、その事実だけでもうひれ伏したいくらい尊敬に値する。わたしは茶道はまったく門外漢だが、そのことは今さらどうしようもないので恥じることはないと思っている。しかし茶道を心得た人(にもいろいろあるので一概には言えないけれども)はおしなべて態度が謙虚で(態度だけだったりもするけど)、気働きにすぐれている。気が利くのである。みなまで言わずとも判じるのである。冴えているわけである。さらに、茶を嗜む人は食事の時など手の動作が美しい。もちろん立居振舞もたおやかできれいだ。それは、舞踊をする人のピシッと背中の伸びた美しさとはちょっと違う。もう少し、体の重心が下に位置しているような、そして危なげなく、しかしけっしてどっしりしているのではなくて、和服の裾さばきも軽やかに、しなやかに動作されるのである。凛々しさとなよやかさが共存し均衡した美しさを保つのは日本人のなせる業だと思うのだがどうであろうか。
知人が知る茶人には90を超えた人がぞろぞろいるといい、どの御方もしゃきっとなさってて頭脳明晰言語明瞭、茶の湯の心を後世に伝えねばという使命感の強さには圧倒されるという。知人の師匠も、そうと知らずにそのかたを街角で見かけたらたぶんただの縮こまったお婆さんにしか見えないのだ。見えないのに、ひとたび茶室に入ったら彼女は縮こまった婆さんなどでは全然なく、360度の視界をもち些細な瑕疵も見逃さず間髪入れずに叱咤するスパルタ師匠なのである。怖い(笑)。
美を愛でる、美を追求するということは特別なことではない。足元に落ちてきた枯葉の色に季節を感じたり、絵具では出せない微妙な色を見出したり、その葉にもかつて命が宿っていたことに思いを馳せたり。だか、といったようなことは、いちいち言葉にするとめんどくさいが、人であれば瞬時に心をよぎるのである。きらりん、とからだのどこかに響くなにものかだ。理屈でなく、情緒なのである。いい男とすれ違うその瞬間に胸キュンとなるその感じ、それはただキュンとするだけである。ただううっとかおおっとか胸に迫るものがあったり、ぎゅっと心をつかまれたりぐりぐりされたりする感じ。おお、前からよさげなスーツを着て歩いてくる30代後半とおぼしき青年は目鼻立ちがすっきりくっきりしていてなかなかイケメンな感じだわおいしそうだわつまみぐいしたいわ、なんて、言葉にしてしまうとたしかにこれくらい、あるいはこれ以上の感動(?)を、0.001秒くらいの間に胸に響かせているにしても、言葉でなく情緒で人は喜怒哀楽を素直に感じては吐露するものなのである。毎秒のように。

情緒豊かな人は、生命の尊さにあふれているのである。それは純粋である。

《岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。》(「人間と人生への無知」45ページ)

《岡 (前略)欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。》(「人間と人生への無知」48ページ)

《岡 (前略)何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやった方が幾分利益があればできるものです。(中略)人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。(中略)大自然は、もう一まわりスケールが大きいものかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。》(破壊だけの自然科学)55~58ページ)

《岡 (前略)つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
 そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情熱が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。(後略)
(中略)
 岡 きょう初めてお会いしている小林さんは、たしかに詩人と言い切れます。あなたのほうから非常に発信していますね。》(「美的感動について」71~74ページ)


情緒豊かな人は、詩人でもあるだろう。やなせたかしは詩人だった。わたしは、たった1冊持っているやなせたかしの詩集の中の、りんごの皮を切れないようにむく、という短い詩が好きだった。切れずに長く手許から下がっていくりんごの紅い皮、それはまるで赤い川のようでもあった。彼のその詩を読んで以来、わたしはりんごの皮を剥くときはただひたすら切れないように剥くことだけを念頭において剥くようになった。あとから実を切り分けること、芯を取り除くこと、食べること、料理に使うことなど何も考えず、巻きぐせのついたリボンのようにくねくねと垂れ下がるりんごの皮の姿を想像しながら(だってそれをリアルに見ながら剥くことはできないから)。何年も何年もあとになって、小学校の家庭科の宿題にりんごの皮むきをマスターせよといわれた娘が、不器用な手で、無心に、りんごの皮を切れないように丁寧に剥く、その剥かれて垂れ下がるりんごの皮を見てわたしは、昔好んだやなせたかしの詩の数々を思い出した。今は我が家では、りんごは皮を剥かずにいただくのを常としているので、もうりんごの皮を切れないように剥くことはしなくなった。それでもわたしはりんごを使って料理をするとき、やなせたかしの詩のフレーズと、切れることなく剥けたりんご1個分の「赤い川」、得意げにそれを両親と弟に見せる自分、娘に見せる自分、わたしに見せる娘、そしてそれぞれの感嘆の声などが、ひゅんひゅんと脳裏を交錯するのを感じる。だからどうだということはない。これまでもなかったし、いまもない。やなせたかしさんは矍鑠としていつもお元気そうだった。おそらく亡くなる間際まで、しゃきっとして、りんごの皮を切れないように剥いておられたであろう。きっとそうに違いない。詩人だったから。

Je t'aime, Munich!2013/10/17 23:20:22

娘から絵葉書が届いた。アイラヴミュンヒェン! 「ミュンヒェン」だけドイツ語(笑)。

来月の公演で踊ることになったのでいま練習がたいへんなようである。たいへんだというのは、彼女には経験のないコンテンポラリー作品であるということがひとつ。そして使用する音楽を四六時中聴いて音と振りを覚えたいのに、娘のiPod nanoは彼女に持たせたPC(VAIO/Win 8/iTunes 11)とは同期しないことが判明した(とほほ)。それがもうひとつ。さらに、教師から「もっと肉をつけなさい」といわれたそうである。娘は、むっちりついていた陸上競技用マッスルを全部そぎ落とすためにダイエットして成功したんだけど、肩から二の腕だけは落ち過ぎてしまってガリ細なのである。実際の腕力がなくなったわけではないし、春にオデットを踊ったときは細いゆえ弱々しさが際立ってちょうどよいくらいだったんだが、しかし、ふつうに見れば細すぎるぞというご意見には大賛成である。二の腕を細くしたくて奮闘しているご婦人方の多い世の中で、意図してもいないのに必要以上に二の腕の筋肉が落ちてしまって嘆くのは贅沢の極みかもしれないけれども、なんといわれようとも今のままでは全然美しくないのだ、ダンサーとして。しかし、だからといって筋トレでつけちゃうとこれまた全然美しくないのだ、バレリーナとして。さあどうするさなぎ in Munich!


台風が通り過ぎ、一気に朝夕寒くなった。出社時はもうお日さまがすっかり照りつけているのでそうでもないが、退社時はまともに夜更けなので冷え込むことこの上ない。帰路用にダウンジャケット&マフラーが必要である。しかし数日前まで、そりゃ朝夕涼しくなり始めてはいたけど、日中は真夏日だったのに。よくこの寒暖差に耐えるよな、人間。ちょうどいい時候というのは花の命よりも短いのだ。私は昔から、四季の中では秋がいちばん好きだった。自分の名前に「秋」の字が入っていてほしかった。だから将来晴れて歌手デビューした時は(爆)千秋という芸名を名乗っているからなと周りに向かって豪語したものだ。小学2年生の頃だ。歌手への夢はもともとスチュワーデスからすり替わったものだったがその後漫画家へと一気に変容を遂げ、そのあとは漫画家〜絵本作家〜エディトリアルデザイナ〜とマイナーチェンジに終始し、けっきょく何も実現せず、芸名どころかネット上のハンドルにすら千秋という名は使わずに生きている。私がこれほどまでに「秋」に対して執着しなかったせいで、地球は秋を演出しなくなったのであろうか。だとしたら世間の秋愛好家には申し訳ないことをした。したけれども、私が秋への愛をちょっとばかし蔑ろにしていたからってそんな暴挙に出るとは地球もいささか大人げないのではないか? 台風ばかり律儀につくってないで、皆が喜ぶ突き抜ける青空に鱗雲鰯雲飛行機雲、黄金の銀杏と濃緋の紅葉を山に、焼き芋の香りと落ち葉焚きの煙を道端に、そんな秋を地上に届けてほしいんだけど、聞いてるか地球?

次の日曜は満月だけど、狼男が出ませんように。
ミュンヘンにも、出ませんように。

Les boissons alcooliques qui symbolisent le pays2013/03/19 19:31:00

史上最強の雑談(3)



『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


私の父は大酒飲みだったが、そう強くはなかった。飲むほどに酔い、最後は必ずへべれけになった。だんだん自分だけの世界に入っちゃって一人問答が始まるが、ろれつが回らなくなるので、何を言っているのか周囲にはわからない。そのうちむにゃむにゃ言いながら居眠り。毎日の晩酌がこの調子で、「お父さん、もう寝てんか」と母が促すまで、首をこくりこくりさせながらでも飲んでいた。
いつでもどこでも、そんな状態になるまで飲まなければ飲む値打ちがないとでも思っていたのか、たとえば外へ飲みに出かけても、「これ以上飲んだら明日に差し支えるし」「これ以上飲んだら家に帰り着けへんかもしれんし」「これ以上飲んだら寝てしまいそうやし」今日はここで飲むのを止める、ということのいっさいできない人であった。だからひとさまに言えない失敗談には事欠かない。私が知っているだけでもけっこう凄まじい(笑)。おまけに父は、前夜の酒の記憶が翌日に全然残らない人だったので、失敗による学習もいっさいなかったわけである。

いっぽう、父の兄と弟はシャレにならない大酒飲みである。シャレにならないと書いたのは、この二人は全然酔わないからである。本物の酒豪である。そりゃ、いい気分にはなってるようだし、舌の回りはよくなるし、愚痴や昔話ばかり出てくる日もあるけど、その程度。どれだけ飲んでも平気な顔をして、たいてい陽気ないい酒で、さらには翌日も前夜のことをよく覚えているのが常だった。伯父と叔父、この二人の飲みかたは、「酒に飲まれるのんべのダメ親父」を父にもつ私から見れば奇跡に近かった。

家業を継ぎ祖母と暮らしていたのは父だったので、正月には伯父一家と叔父一家が我が家へ集まりいつもたいへん賑やかだった。祖母も、もともと大酒飲みだがあまり強くないほうだったから(つまり父は自分の母親に正しく似たようだ)、正月の酒盛りサバイバルで生き残るのは伯父と叔父。泊まっていくこともあったがたいていは朝から来て夜までずっと飲み続け、「ほなごっつぁんでしたー」と、しゃんとした姿勢で家族を引き連れて帰っていった。あとには、酔いつぶれてトドのように横たわる祖母と父、そして箱膳や盆の上に徳利や猪口が転がっていた。そしてほぼ空になった一斗樽。

一斗樽をひとつ、一升瓶を2〜3本。いつもの晩酌用の酒の納品とは別に、出入りの酒屋が暮れに届けるのが慣わしだった。祖母と母は御節の準備に余念なく、私たち姉弟は手の届くところの拭き掃除をしたり、塗の椀や膳を拭いたり、玄関に屏風を置きお鏡さんを飾ったり、注連飾りの買い出しを言いつけられたりなど、今思うとたくさんたくさん手伝わされた。どの家もそうだった。暮れは家族がみんなで正月準備をした。で、私は、どの家にも日本酒が一斗樽で届くものだと思っていた。必ずしもそうではない、というか、一斗樽のほとんどを元日で空けてしまう家というのはかなり少数派だということを(笑)知ったのは、かなりのちのことである。

祖母が病に臥し、父たち三兄弟も年をとり、正月三が日を過ぎても一斗樽が空かなくなったので、ある時母が「樽で買うのはもう止めまひょか」と言ったが父は樽にこだわったらしい。父は銘柄などはどうでもいいほうで、酒屋のご主人の奨めを快く受け入れて持ってこさせていたと思う。正月に我が家に鎮座していた一斗樽の銘が何だったか、私には全然覚えがない。そんなふうだから、正月の酒は樽で買わなあかん、という父の言い分にしても、単にたくさん飲みたかっただけだろうと思っていたが、樽酒の旨さをそれなりに楽しんでいたのかもしれないな、と、本書の下記のくだりを読んで思った。


 
《小林 ぼくは酒のみでして、若いころはずいぶん飲んだのですよ。もう、そう飲めませんが、晩酌は必ずやります。関西へ来ると、酒がうまいなと思います。
 岡 酒は悪くなりましたか。
 小林 全体から言えば、ひどく悪くなりました。ぼくは学生時代から飲んでいますが、いまの若い人たちは、日本酒というものを知らないのですね。
 岡 そうですか。
 小林 いまの酒を日本酒といっておりますけれども。
 岡 あんなのは日本酒ではありませんか。
 小林 日本そばと言うようなものなんです。昔の酒は、みな個性がありました。菊正なら菊正、白鷹なら白鷹、いろいろな銘柄がたくさんございましょう。
 岡 個性がございましたか。なるほどな。
 小林 店へいきますと、樽がずっと並んでいるのです。みな違うのですから、きょうはどれにしようか、そういう楽しみがあった。
 岡 小林さんは酒の個性がわかりますか。
 小林 それはわかります。
 岡 結構ですな。それは楽しみでしょうな。
 小林 文明国は、どこの国も自分の自慢の酒を持っているのですが、その自慢の酒をこれほど粗末にしている文明国は、日本以外にありませんよ。中共だって、もういい紹興酒が飲めるようになっていると思いますよ。
 岡 日本は個性を重んずることを忘れてしまった。
 小林 いい酒がつくれなくなった。
 岡 個性を重んずるということはどういうことか、知らないのですね。
 (略)
 アメリカという国は、個性を尊重するようでいて、じつは個性を大事にすることを知らない国なんです。それを真似ているんですから。食べ物にも個性がなくなっていきますね。(略)
 小林 (略)ぼくらが若いころにガブガブ飲んでいた酒とは、まるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。あれを復活しても、このごろの人は樽の香を知らない。なんだ、この酒は変な匂いがするといって売れないのです。それくらいの変動です。日本酒は世界の名酒の一つだが、世界中の名酒が今もって健全なのに、日本酒だけが大変動を受けたのです。
 (略)その代り、ウイスキーとか葡萄酒がよくなってきた。日本酒の進歩が止まって、洋酒のイミテーションが進んでいる。
 岡 日本酒を味わうのと小説を批評するのと、似ているわけですね。
 小林 似ていますね。
 岡 近ごろの小説は個性がありますか。
 小林 やはり絵と同じです。個性をきそって見せるのですね。絵と同じように、物がなくなっていますね。物がなくなっているのは、全体の傾向ですね。
 岡 世界の知力が低下しているという気がします。日本だけではなく、世界がそうじゃないかという……。小説でもそうお思いになりますか。
 小林 そうでしょうね。
 岡 物を生かすということを忘れて、自分がつくり出そうというほうだけをやりだしたのですね。
 よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか。
 小林 そうだと思います。
 岡 本質は直観と情熱でしょう。
 小林 そうだと思いますね。
 岡 批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直感し情熱をもつということが本質になりますね。
 小林 勘が内容ですからね。
 岡 勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘でさぐりあてたものを主観の中で書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです。(略)》(「国を象徴する酒」19〜24ページ)



なぜ、「よい批評家であるためには、詩人でなければならない」のだろう? 手許の『コクトー詩集』(堀口大學訳/新潮文庫)の、堀口によるあとがきにこう書いてある。《コクトーには、彼が「評論による詩」Poésie Critique と呼ぶ一連の作品がある。『閑話休題』Le Rappel à l'Ordre『ジャック・マリタンへの手紙』Lettre à Jaques Maritain(略)などがそれだ。昔から優れた詩人は同時にまた優れた批評家でしばしばあったが、コクトーもまた極めて優れた批評家だ。(略)「一作をなすごとに、僕はわざとその作に背を向けて反対の方向に新たに歩き出した」とは、彼が自らの創作態度を語る言葉だが、まさにその通りを彼は実行した。》(「あとがき」235〜236ページ)

私には優れた詩人と優れていない詩人の見分けかたはわからない。詩を鑑賞するのは好きであるが、読んでもつまらない詩は好きでないし、世間で評価されていなくても好きな詩はある。だが、私の好み云々は横へ措くとして、人に強い印象を与えうる詩とそうでない詩はたぶん歴然としてある。人の心に強く迫る詩を、迫られた読み手が好むとは限らないが、迫る詩を書いた詩人はおそらく優れた詩人の範疇に入る。読み手が、読んだ詩の感想を「ふーん」「あ、そうですか」程度で片づける場合その詩は読み手の心を捉えてはいないが、心を捉えなければ詩の存在価値はない。つーっと読み流されては「詩」として受け容れられなかったに等しい。詩が詩であるためにはその一行一行ごとに読み手を立ち止まらせなければならない。先を読みたいけどこの一行に、この一語に心がひっかかって進めないのよどうしよう離してよああもう、てな感じで身悶えしながら、奥歯ですりつぶして嚥下するまでたっぷり時間のかかるのが、詩である。そんな詩を書けるのが、優れた詩人である。

つまり、批評も同じであろう。なにしろ批評である。賞賛にしろ罵倒にしろ、もってまわった言いかたや、まわりくどい表現や、遠回しな(まわってばかりだけど。笑)言葉遣いをしていては批評にならない。批評の対象、批評の対象を愛好する者、そして批評の読み手、誰もを立ち止まらせ、うーんと唸らせ、ああ心がひっかかる、と容赦なく身悶えさせなければ優れた批評文とは言えないだろう。
ということは、批評家と詩人の仕事は、言葉や文章の表現方法、あるいは単に操作技術といってもいいが、その点において同じであるのだ。こと表現するという行為において、何か、あるいは誰かに対する「気遣い」「気兼ね」「憚り」「手加減」「配慮」「遠慮」「忌憚」「斟酌」なんぞが垣間見えたとき、それは詩に非ず、また批評に非ず、である。

コピーライターというやくざな商売は詩や批評の対極にあるといっていい。私はいつも、スポンサーを称賛する文章を自分ではない別の誰かの口を借りて書いている。「別の誰か」は、スポンサー商品の愛用者またはその予備軍、あるいは広告代理店そのものを想定する。つまり顧客だ。お客様は神様である。お客様に対して「気遣い」「気兼ね」「憚り」「手加減」「配慮」「遠慮」「忌憚」「斟酌」なしに口を利くことなど、できるわけがないのである。というわけで、私は詩人にも批評家にもなれないのである。


Hier, c'était WHITE DAY!!!2013/03/15 18:25:36

Merci! パリから愛のスパークリングよ♪ この次はとびきりのシャンパーニュ、飲みましょうね!
(↑ カーソル置いてね、ダーリン)


この世にはものすごく重要な日というのがあるだろうけれど、それらのどんなたいそうなお題目のついた日よりも、現在を生きる私たち日本人にとって、3月11日は重い日である。3月11日。ちゃんと、「さんがつじゅういちにち」と呼びたい。「にーにーきゅーじけん」とか、「きゅーてんいちいち」とか「ないんてぃーんえいてぃふぉー」とか、数字ゆえに記号化されちゃいがちな年号や日時だけれども、祈りを込めて3月11日をさんてんいちいちなんていわずに、「三月十一日」と、胸に刻みたい。

と、ことほどさように重要な日が3月の11日にある。こうなったからには、3月のほかのいろいろな日がかすんでしまうのは致し方ないのである。3月には上巳(じょうし)の節句(=ひなまつり)がまずあって(ウチらのまちでは4月3日ですけど。へえ、旧暦で祝うんどす)、オンナコドモが大はしゃぎするのだが、地域によって、学校によっては3月1日が卒業式だったりするし、早くも別れの涙でキャンパスが濡れるわけだ。ウチらのまちの公立校では、高校が3月1日、中学校が15日、小学校が20日か21日(春分の日に合わせたりずらしたり)に卒業式が行われる。それらに前後して「6年生を送る会」があったり、「先輩を送る会」が部活ごとにあったり。さらには入試の本番や合格発表があったりと、何かと「試練」が続くいっぽう、「宴会」づいてもいる小中高大学生たちである(笑)。

そんな、日本史に刻まれる墓標たるべき3月11日と、青春のビッグイベント群の合い間に、「ホワイトデー」という、商魂たくましい菓子業界が仕掛けた、ヴァレンタインデーになんかもろたらお返しせなあかんやろ、そやからお返しする日つくったで、的な、男子のための愛の儀式の日というのがある。

と、いうことをすっかり忘れていたのだった。

昨日、なぜか我が家には美味しそうなお菓子がぽろりぽろりと届き、私宛にメッセージカードが届き。何だろう、クリスマスも正月も、私も娘も誕生日済んだしなあ。と思いながら、最後に開いた友人からのメールには「ホワイトデーのご挨拶」とあって、「あ」と、やっとこさ気がついた。

私はここ数年ずっと、「お世話になっているあのかた」へのおちゃめなメッセージや、日頃不義理している友人へのご機嫌伺いや、賀状を出せなかったかたへの寒中見舞いをする日としてもっぱらヴァレンタインを使っている。こういう使いかたをするようになって、から、ああヴァレンタインデーってのも悪くはないもんだと思うようになった。

ところが、である。今思い出しても可笑しくて可笑しくてたまらないんだけど、毎年のように軽いノリのヴァレンタイングリーティングを送った相手のうちの一人が、真剣な怒りのメールを送ってきたのだ。イマふうに言うと「ガチギレ」(笑)

「あのさ、君のカード、あれ何? 受け取った人間の気持ちって考えないの?」 (言い訳するつもりはありませんけど、「悪いこと」は何も書かなかったのよ。笑)
「あのさ、バレンタインデーっていうのは愛の告白をする日なんだよ、いちおう日本では」 (……笑 完全説教モード。ぷぷぷ、いちおう日本では、だって)
「で、チョコレートがないなんて、けっこう傷ついたな、俺」

私はもう、どうすればコイツの機嫌が直るのかわからなくて、でもってべつに機嫌直したくもなかったから面倒になって適当にあしらって返信したのよねー。忙しくって目を回しているさなかに、相手してられないよ。
昔話のカテゴリに入るとはいえ、これ、もう40代になってからの話なのよ。あたしより一つ上なのよ、このオッサン。何が「愛の告白をする日なんだよ」なのよ、何が「傷ついたな、俺」だっつーの。

「ごめん、あたしね、単に季節の便りのつもりだったの」
「ごめん、あたしはね、日本の菓子業界の煽りに乗ってさ、2月14日にチョコレートを男に贈った経験はこれまでの人生皆無なの。そもそも、愛を告白する日だという認識はゼロでした」
「で、持病のために糖質制限してる君にチョコレートあげようなんて発想はますますゼロよ。傷つけちゃったんなら悪かったけど、あたしの贈ったチョコレートで持病悪化したらシャレにならないでしょ」(この人ね、お酒はいくら飲んでもいいんだけど糖質の高いものは食べてはいけない人なのよ)

そしたらさ、なんて返してきたと思う?

「ねえ、君……知らないの、糖質ゼロのチョコレートだって売ってるんだぜ」

知るか!
てめーでたらふく買って食え!

でさ、挙句の果てに

「君がそんなに常識のない人だとは思わなかったよ」
「これっきりにしてくれ」

で最後のメールを締めてくれたんだがや!
は? 目の前、てんてんてん。
あっけにとられて、あたし。
顧客と誌面デザインのことで侃侃諤諤、電話でやりあってる最中にね、何度も何度も長ーいタスキみたいなメールが来てさ。2/14にチョコじゃなくてただの季節の便りしかもらえなかった恨み節を、このときもう2週間後の3月に入ってたのよ、何なのよ今頃、でしょ、ねちねちねちと、つらつらつらと、連ねるのよ。ここに書き出したの、ほんの一部なの~~。

ブログを覗いてくださったかたには断じて勘違いしてほしくないんだけど、あたしこのオッサンとなんっっでもないんだよ。あたしだって独身女だからさ、おいしそうだからつきあう男もいれば、おいしくなさそうでも会う奴もいるし、友達以上恋人未満も、アッシー以上友達未満も、単なるパシリアッシーも、複数抱えて使い分けているわけさ(念のためゆっとくと、大事に誠実におつきあいしてる友人諸氏の殿方は別格だよもちろん)。で、このオッサンは、昔馴染みだけに邪険にしたら申し訳ないから未分類のまま外野席か場外に置いといたつもりだったのさ。ああそうね、中途半端はよくないって見本だったね今思えば。


このオッサンさ、あたしに見切りをつけて「ふった」気でいるのだよ。
2/14に季節の挨拶しかしない女なんかサイテーなわけよ(笑)。
ったく、面倒くさいやつがいるもんだあ。

ああ、やっと、この話を書くタイミングを得て嬉しい~ すっとしたあ
読んでくれてありがとう、みんな!

10代や20代でこんなこと経験してたらさ、私も「こっちに悪気がなくても人を傷つけることあるのね」って殊勝に反省したけど、人生半分以上過ぎた今となっては全然そんな気がないのよね(笑)。ああ、気持ち悪かった、お子ちゃまオトコ。勝手に去ってくれ。

たく、当時アタマに来てしょうがなかったんだけど、ほら、最初に言ったように、たとえ震災が起きていなくても、メモリアルやイベントの多い時期だからね、いろいろな、もっともっと大切なことに思いを馳せてたらさ、コヤツの話なんて融けたスライムより使い道ないから後回しになっちゃって。

 *

昨日、ホワイトデーだった。
メッセージやプレゼントをくださった殿方へ。
心から愛をこめて御礼申し上げます。
不束者ですけれども、とこしえによろしくお願い申し上げます。



そして今日は、さなぎの母校の中学校で、卒業式でした。
今年の卒業生は、何を歌ったのかな。
さなぎたちの時は、この歌でした。


桜ノ雨

absorb
作詞:森 晴義(halyosy)
作曲:森 晴義(halyosy)


それぞれの場所へ旅立っても
友達だ
聞くまでもないじゃん
十人十色に輝いた日々が
胸張れと背中押す

土埃上げ競った校庭
窮屈で着くずした制服
机の上に書いた落書き
どれもこれも僕らの証し

白紙の答辞には伝え切れない
思い出の数だけ涙が滲む
幼くて傷付けもした
僕らは少し位大人に成れたのかな

教室の窓から桜ノ雨
ふわりてのひら
心に寄せた
みんな集めて出来た花束を
空に放とう

忘れないで
今はまだ…
小さな花弁(はなびら)だとしても
僕らは一人じゃない

下駄箱で見つけた恋の実
廊下で零した不平不満
屋上で手繰り描いた未来図
どれもこれも僕らの証し

卒業証書には書いてないけど
人を信じ人を愛して学んだ
泣き
笑い
喜び
怒り
僕らみたいに青く青く晴れ渡る空

教室の窓から桜ノ虹
ゆめのひとひら
胸奮わせた
出逢いの為の別れと信じて
手を振り返そう

忘れないで
いつかまた…
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう

幾千の学び舎の中で
僕らが巡り逢えた奇跡
幾つ歳をとっても変わらないで
その優しい笑顔

教室の窓から桜ノ雨
ふわりてのひら
心に寄せた
みんな集めて出来た花束を
空に放とう

忘れないで
今はまだ…
小さな花弁だとしても
僕らは一人じゃない

いつかまた…
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう

いつかまた
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう

No matter how hard it hurts me.
I'll never say good bye.
Your presence will always linger in my heart.
...wanna see your smile again.
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JASRAC作品コード 154-1919-3