La Petite Bijou ― 2015/03/26 17:59:55
『さびしい宝石』
パトリック・モディアノ著 白井成雄訳
作品社(2004年)
20年ちょっと前のこと、雑誌をつくっているフランス人のグループに加わり、彼らの仕事を手伝うことになった。それはスタッフたちとのちょっとした関わりがきっかけだったが、はっきりいって、当時けっこう捨て鉢な気分で生きていたので、居場所があればどこでもよかった。わずかでも小遣いになるなら、どんな仕事でもよかった。覚えたてのフランス語を使えてそれなりのバイト料ももらえるのだから申し分なかった。雑誌に掲載する記事のほとんどはフランス人による寄稿で、翻訳は仏文学科の大先生たちが格安で引き受けてくれていた。私の役目は事務所の留守番や郵便物の管理だった。
まもなく、ある映画祭のため来日するフランス人ゲストを取材することになった。パトリス・ルコント。私は浮き足立った。ルコントは当時私にとって最大級の賛辞を贈っていい映画監督のひとりだった。『仕立て屋の恋』と『髪結いの亭主』の2作品によって私は完全にノックアウトされており、『タンゴ』を見逃していただけにその次の新作を映画祭でいち早く観られるだけでもめっけもんどころではなかった。監督その人に会えるなんて。
「ルコントに何を訊きたい?」
「まなざし、の意味かな……」
「まなざし?」
「ルコントの映画の人物って、やたら人を見つめるんだよね、じーっとね。じーっと視線を送るの、日本人はあまりしないし」
「ふむ、なるほど。いいところに目をつけたな。それ、ちゃんと質問しろよ」
「え? あたし、ついていくだけでいいんでしょ」
「いちおうさ、ウチの雑誌、日仏の文化的架け橋になるとかなんとかお題目つけてんだよ。そこで仕事してるんだしさ、もうちょっとコミットしろよ」
「ぐ」
「せっかくしゃべれんのに、フランス語」
「がが……」
というような会話を会場へ行く電車の中でするもんだから、編集長、そんなの言うの遅いよと抵抗してみたがダメだった。取材を全部やれとは言ってない、でもその「まなざし」の話はお前が口火を切れといわれ、ポケット仏和−和仏辞書を繰って頭の中で質問文をつくった。
懐かしい思い出だ。
私たちはほんの数分しか時間をもらえなかったが、インタビューはすこぶるスムーズに進み、有意義な時間を得た。売れっ子監督でもあったルコントは、どのような問いにもあらかじめすべて用意してあったようにするすると答えた。とても論理的で(フランス人はたいていそうなんだけど)、口を開くたび、起承転結の完全な小話を聞くようでもあった。
私たちは彼の新作を映画祭の会場で観賞した。映画を観たのが取材より先だったか後だったかを思い出せない。たぶん、取材の後だっただろうと思う。ルコント本人に会う前に観ていたら、ずいぶんと気の持ちかたが違っていたはずだからだ。
新作は、『イヴォンヌの香り』だった。
私はこの作品にとてもがっかりしたのだった。
男ふたりに女ひとりの三角関係なので、そこは女に魅力がないと成立しない話のはずなのに、この女優が全然ダメだった。フランス人好み(たぶん)の整った小づくりな顔立ちで、美人なんだろうけど、なんといえばいいのだろう、しっかり肌を露出しているのに色気がない、ベッドシーンもあるのに色気がない。全然色気がない。艶(つや)とか、艶(なまめ)かしさとか、じわっとにじみ出るような潤いがなくて、かすかすな感じ。言葉がきたなくて申し訳ないが「しょんべんくさい」のだ。しょんべんくさいが悪ければ「ちちくさい」といおうか。「未熟」とか「稚拙」とかはあたらない。まだ若いから、芸歴がないから、といった素人くささやキャリア不足ではない。この女優はたぶん10年経ってもこんな感じのままに違いない、と思わせるほど、どうしようもないほどの「およびでない」度満開の、魅力のなさ。
なぜこの女に老いも若きも振り回されねばならないのか。……この問いは物語に感情移入して発するのではない。この女優の存在のつまらなさのせいで、映画全体が退屈なものになってしまっている。戦争が背景にあり、かつてのフランス社会に厳然とあった階級制度の名残りがちらつく。よく準備された申し分ない設定のはずの映画で、つまらぬ自問を発するしか感想のもちようがないなんて。
時代や身分がどうであろうと所詮男と女がからみ合うのよ、といったふうのいかにもなフランス映画といってしまえばそれまでで、ルコントの映画はつまりそんなのばっかりなんだけど、でも彼は俳優にその力を最大限に発揮させて従来の何倍も魅力あふれる人物に仕立て、台詞と、構成と、カメラワークと、編集の才で、ありふれたメロドラマを極上の映画に仕上げるシネアストなのだ。
なのに、これ。『イヴォンヌの香り』。
『イヴォンヌの香り』の原作はパトリック・モディアノの『Villa triste』である。パトリス・ルコントは作家モディアノを非常に敬愛し、愛読していると取材時にも話していた。もちろん私は、モディアノの名前を聞いても「誰それ、何それ?」状態であったが、のちに映画のクレジットをチラシで見て、その名前を確認はした。パトリック・モディアノ。ところが不幸なことに、『イヴォンヌの香り』に幻滅するあまり、その幻滅に原作者の名前も巻き込んでしまった。1994年。せっかくパトリック・モディアノと出会いかけたのに、顔も見ないで私は席を立ってしまったのだった。
ずっと後になって、図書館のフランス文学の書架にモディアノの名前を見つけたとき、どうしても読む気が起こらなかったのだが、そのときなぜ読む気になれないのかがわからなかった。『イヴォンヌの香り』の原作者であることなど、とうに忘却の彼方なのだった。なんだかわからないけど「お前なんかに読んでもらわんでええ」と本の背に言われているような気がして、私はモディアノを手に取らずにいた。
ところがある日、モディアノとの再会は強引に訪れた。『さびしい宝石』と書かれた本の背に、原題とおぼしき「La Petite Bijou」という文字もデザインされていた。おおお、ぷちっとびじゅー、と私は思わず口走っていた。というのも、私は娘が生まれてから3年ほどのあいだ、ハードカバーのノートに子育て日記をつけていたが、そのタイトルを「Ma petite bijou」にしていたのだ。私の可愛い宝石ちゃん、くらいの意味だが、「ビジュ」の語感がいかにもベビーにぴったりで、我ながら気に入っていたのだった。これを読まないでどうする。私は小説家の名前も見ないでこの本を借りて読んだ。
19歳のテレーズは幼い頃母親と生き別れ、母親の女友達の家に預けられて育つ。母親は彼女を「La petite bijou(可愛い宝石)」と呼んでいた。いまテレーズはパリでなんとかひとり暮らしを始めようとしている。ある日混み合う地下鉄の駅で母親に似た人を見かけ、その後をつけていくが……。
パリの雑踏、夜の舗道の暗さ、親切な人、得体の知れない人、自分の中で交錯するいくつもの記憶、自分でもとらえきれない、母親にもつ感情。
当時娘は小学生で、私は仕事も忙しく、娘の学校行事やお稽古ごとなど校外活動など、かかわることも増えてきりきり舞いしていた。そんなときに、親にも社会にも見捨てられてその日を生きるのが精一杯の少女の、非行に走るでもなく男を手玉に取るでもなく人を殺すでもない、誰も知らないところでただもがくだけの毎日を描写するこの小説を、ぞんぶんに味わって読めるはずもなかった。親に捨てられ、ろくに学校にも行けず、都会に放り出された19歳。足許のおぼつかない、いつ道を踏み外してもおかしくないような状況で、それでも善悪は心得ていて、妙にお行儀がいい。もって生まれた性格なのか、それが幸いして少女は人の親切を得てかろうじて立っている。その、紙一重の危うさを生きる心象風景を描いた小説の世界に入っていけるわけもなかった。私には、この本の中の「ビジュ」のような19歳に我が娘がならないようにせんといかん、という程度の読後感しかなかった。というより、19歳なんて、想像の域を超えていた。それに、テレーズは、私の19歳の頃とはまるで似つかぬ生活をしていた。そして娘もいつか19歳になるのだけれども、想像するその姿とテレーズとは、まるで重なるところがなかった。
私はモディアノを、その素性も知らず強引に自分に引き寄せてみたけれども、何の手応えをも感じないですっと手を離してしまった。このときも、『イヴォンヌの香り』の原作者だとは気づいていないのである。
先月、娘が19歳になった。
だからといって、テレーズを思い出したわけではない。
遡って、昨年のノーベル文学賞に、パトリック・モディアノが選ばれた。村上春樹が有力視されていたらしいので、「期待に反し受賞は仏作家モディアノ」という見出しが新聞を飾った。
聞いたことのある作家だなあ。
それ以上の感想はもたなかった。
しかし、ふだんあまり小説を読まないので、ノーベル賞受賞作家は、短いものでもいいからひとつくらいは読むようにしている。で、例外なくノーベル賞受賞作家の作品は、なかなかに奥が深くて面白いのである。さすがなのである。
資料を借りにいった図書館で、ついでに何か読もうかなと仏文学の書架を眺めていると、「パトリック・モディアノ」の名前が目に入り、そしてすぐに『さびしい宝石』が目に入った。
おおおおお、Ma petite bijou!!!
モディアノだったのか!
その並びに、『イヴォンヌの香り』も収まっているのに気づいた。
うわああああ、イヴォンヌ!
そうだ、モディアノだ、モディアノだったぞ原作者!
と、バラバラだった記憶がひとつにつながったのだった。
私は見覚えのある『さびしい宝石』の表紙をめくり、カバー見返しに「なにがほしいのか、わからない。なぜ生きるのか、わからない。孤独でこわがりの、19才のテレーズ——」というキャッチコピーを見つけ、迷わず再読を決め、借りたのだった。
10年ほど前におおざっぱな読みかたしかしなかった作品は、いまははっきりとリアルにメッセージを投げているように感じる。それは、いまのこの私に対して、という意味だ。19歳の娘がいま異国で、わくわくしながら暮らすいっぽうで不安におののき、愉快な友達に囲まれながらもホームシックに苛まれ、自分がとる進路はこれでいいのか、自分も含め誰も明快な答えを出せない中でそれでも歩かなくてはならない得体の知れない圧迫感に息が詰まりそうになっている。テレーズと何も変わらないじゃないか。そうだ、同じことだ、私にしても。19歳の頃、何かに追い立てられるようにして、誰もが向かっている方向へ一緒になって歩きながら、心の奥のほうで、違うこっちじゃないと、気持ちだけが引き返していた。引き返したけれどそっちに目的地があるわけでもなかった。道しるべはない。道しるべは自分で立てていくものなのだ。でもそんなこと、わかるはずもなかった。だからもがいていた。なぜここでこうして生きているのか、なぜ生まれてきたのかわからないまま。テレーズと、そっくりだ。
テレーズのもつ、生き別れた母に対する複雑な思いは重層的で解き明かし難い。母の存在はとっくにない。実体として掴もうと欲しても叶わない。だが母は弱々しい糸のような頼りない記憶の連鎖としてテレーズの脳裏に在って、テレーズをしばっていた。自分の中で記憶を断ち切るしか、解放はされない。解放されなければ、テレーズが自分の生を取り戻すことはできない。
といって、テレーズがはっきりそんな目的意識をもって邁進しているわけではない。どうすればいいのか。どうもしなくていいのか。そもそもなにをしたかったのだろう?
《もう何年も前から、わたしは誰にも何ひとつ打ち明けたことがなかった。すべてを自分ひとりで背負い込んできたのだ。
「お話しするには、複雑すぎて」と、わたしは答えた。
「どうして? 複雑なことなんて、なにもないわ……」。
わたしは泣きくずれた。涙を流すなんてことは、あの犬が死んでからはじめてだった。もう十二年くらい前のことだけれど。》(『さびしい宝石』80ページ)
読み終えて、というよりページをめくるたびに、私は娘を抱きしめたくなった。1行ごとに、娘の顔を見たくなった。テレーズが息をつき、言葉を口にするたびに、娘の住む町へ飛んでいきたくなった。
Mon chat qui dort comme un bébé ― 2014/11/07 21:39:38
L'Ecosse ― 2014/09/29 11:47:25
カンパンはもともと軍用の携行食として開発されたものです。
(起源は江戸時代らしいです)
その様な商品のためキャラクターは兵隊をモチーフとして誕生したそうです。
ただ、カンパンには兵隊さんそのものというわけではなく『武器を持たずに戦地へ赴き士気を高める軍楽隊であるスコットランドのバグパイパー』を採用しました。
Après la pluie ― 2014/09/01 01:13:16
野口五郎の持ち歌に「夕立のあとで」というのがあるが、ご存じだろうか。
ここ近年、よくある突然のどしゃぶりの雨があまりといえばあんまりな大雨であり、あまりにも豪雨であるために、ゆうだち、なんて風流な言葉で形容できる雨には、とんとお目にかからなくなってしまった。それでも私は、夏の午後、にわかに空が曇ってひと雨ざざああっと来た時には必ず野口五郎の「夕立のあとで」を思い出す。もちろん、ゴローちゃんの歌声で思い出すのだ。雨上がりのまちは瓦も街路樹も道も空気もきれいに洗われたように清澄だ。「夕立のあとで」はまさにそのとおりのことを歌っていて、ちょっぴり説明的ですらある。
野口五郎はたしか「私鉄沿線」という歌で大きな歌謡賞を獲ったので、昭和のアイドルについてよくご存じでないかたも「野口五郎/私鉄沿線」はセットでご記憶にあるのではないだろうか。でも、熱狂的ファンの立場から言わせてもらうと、駅とか改札とか部屋の掃除とかといった具象パーツが少々トキメキ感に欠け、よくできた歌だとわかっていても、けっきょく何が言いたいのかよくわからない「こころの叫び」とか「告白」とか「君が美しすぎて」とかの単なるそれらしいワードの羅列による抽象的ななんか青春やんこれ、みたいな歌のほうがわけもなく好きだったりするのである。ちなみに私が完全にイカレてしまったのは「甘い生活」で、この曲をきっかけにゴローちゃんはアイドル新御三家のひとりからメキメキと大人の歌手へと脱皮に脱皮を重ねていくわけだが、そのあとの幾つもの名曲に比べても、やっぱり「甘い生活」がいつまでもいつまでも好きだった。
「夕立のあとで」が発表されたとき、私はとてもがっかりしたのだった。その説明くささとメロディーラインがとても野口五郎を「老成」させて見せた。おっさんくさい。はっきりゆーとそういうことであった。なんかいやや、この歌。五郎が年寄りくさく見える。早く次の新曲出してくれ。そんなふうに思ったのをはっきり覚えている。それなのに、何十年も経った今、何かのはずみで古い歌を思い出す機会といえば、たったひとつ、夏の午後の雨降りなのである。夕立に遭うと必ず思い出すのだ、「夕立のあとで」を。面白いものである。大好きだった「こころの叫び」も「甘い生活」も、それほど「くっきりした」記憶を呼び起こすきっかけはない。野口五郎の持ち歌としてはそんなに好きでもなんでもなかったこの歌は、年を経るごとに、その歌詞の含む物語世界の大きさ、深さに自身が入り込んでいくような気にさせる。私は雨をきっかけに過去の恋愛を思い出すことはないが、夕立でこの歌を思い出したとき、否が応にも「少しは忘れかけてた」あんなことこんなことに引き戻されるのである。罪な歌である。
「雨あがる」というよい映画がある。この映画はフランスでたいへん好評を得たそうだ。かつて当時の相方の部屋でこのDVDを仏語字幕つきで観た。彼に限らず、日本の好きなフランス人は声を揃えてこの映画を大好きだという。仏語タイトルは「Après la pluie」(雨のあとで)。仏語タイトルを見たときも、私の思考回路は「夕立のあとで」を引き寄せた。「雨あがる」と「夕立のあとで」は描いている世界はまるで違うのだが、私の中では緊密にリンクしている(笑)。
雨は時に牙を剥き、そこかしこに残忍な爪痕を残すこともある。
生き延びている幸運を素直に喜び、生きていればめぐる季節と呼び覚まされる記憶を反芻しながら、毎日を大切に生きていきたいし、雨を嫌わず雨とともに在りたいと思うのである。
「夕立のあとで」
作詞:山上路夫
作曲:筒美京平
歌:野口五郎
夕立ちのあとの街は きれいに洗われたようで
緑の匂いが よみがえります
忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました
夕立ちの多い夏に 愛して別れた人です
風さえあの日と おんなじようです
通りすぎる 小さな軒先
風にゆられて 小さな風鈴が
遠い夢を呼び かすかに鳴りました
夕立ちのあとの街は なぜだかやさしげな姿
心にかなしく ひびいてきます
生きていれば 季節はめぐって
夏があなたの 想い出呼びさまし
過ぎたあの頃に もどってゆきます
忘れようと 努めて少しは
忘れかけてた あなたの想い出が
急にあざやかに もどってきました
http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=55662
Fils unique, fille unique ― 2013/12/19 18:11:55
『ひとり暮らし』
谷川俊太郎著
新潮文庫(2009年)
「華の40代」(笑)が残すところあと1か月を切ってしまった。早いもんだなー。40歳になった年のあるとき、小学生の娘と地域のお料理イベントに参加した。みんな母と子の参加で、子どもに料理のイロハを体験させるイベントのはずだったが、子はほとんど遊ぶばかりで、けっきょく母親たちが切って刻んで混ぜて煮て炊いて、と全部、わいわいいいながらつくっていた。そんな母親たちを、子ども同士に飽きた子どもらが取り囲んで、俺の母ちゃんこれー、うちのお母さんこのひとー、あたしのママはこれーと口々に母紹介&母自慢。
「ひろくんのお母さん何歳? 35?」
「ゆきちゃんのお母さん何歳? 33?」
「まーくんとこは? なっちとこは? 36? 37?」
「お母さん、お母さん、勝ったで! お母さんがいちばん年上やで」
「見て見て、ウチのお母さん、もう40歳やのにこんなに元気やで!」
……以上はすべてウチのさなぎのセリフである……。(子どもの呼び名は仮名)
私の記憶が正しければ、そこに参加していた子どもたちの9割がひとりっ子だった。小学校低学年のイベントだったので、子どもたちは7〜9歳。その時点でひとりっ子だったら、その後二人めが生まれている可能性はあまり高くないだろう。当時から今に続いておつきあいのある家庭は数えるほどしかないが、見事に子どもたちはみんなひとりっ子である。
ウチの子もひとりっ子、甥っ子もひとりっ子。保育園から一緒の幼馴染みもひとりっ子。ともに陸上に打ち込んだ同級生もひとりっ子。放課後、学童保育に連れだって通った少年たちふたりも、それぞれひとりっ子。
先述したように、32歳で娘を生んだ私は、当時は年かさのほうだった。周囲はやはり20代で第一子を生んでいるひとが圧倒的に多かった。今、30代後半で初産はちっとも珍しくない。やっと赤ちゃんを授かり予定日の近づいた若い友人は、39歳だ。私の髪をいつも切ってくれる美容師は、同じ高校の3〜4年後輩なんだが、40歳で授かった娘を玉のように愛でている。
非婚が進み、晩婚が当たり前になり、それでもし、しぜんに子宝に恵まれればめっけもんだ。たいしてほしいと思わない夫婦はそのままふたりの暮らしを楽しむだろうしなんとしてもほしいカップルは不妊治療にトライする。医療も進んだし、成功率は低くないし。でも、ひとりが精一杯だろう。私の周囲に不妊治療の末の妊娠は片手を超えるが、みんなひとりっ子だ。
私が子どもの頃は、ひとりっ子は稀有な存在だった。
といっても、きょうだいの数は2人か3人、それ以上の例はなかった。
私の父は4人兄弟(ひとり夭逝)、母は8人兄弟姉妹(2人が夭逝)。
今年、なんと初めて村上春樹の小説を読んだ。初めて読んだのは『国境の南、太陽の西』で、これは「ひとりっ子」が物語を通徹していた。その後すぐに、発売されたばかりの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を、友人から譲り受けて読んだ。そのあと短編集『東京奇譚集』だったっけ?を読んだ。思うに、主人公の男は、名前をはじめ生い立ちなど設定は少しずつ変えてあるものの、全部、けっきょく同一人物だ。水泳が趣味とか、好んで聴く音楽や好きな料理が同じだ。……というようなことは今、どうでもいいのであった。話を戻すが、最初に読んだ『国境の南、太陽の西』では、主人公の精神がひとりっ子コンプレックスに満ちていて、奇異にさえ思える。述べたように、私の世代にもひとりっ子は珍しくて、たしかにひとりっ子にはなにがしかのレッテル貼りを周囲はしたものだ。しかし、村上春樹の主人公のように、クラスで自分が唯一のひとりっ子だった、みたいなことはなかった(と思う)。親戚にも町内にも学校にも、ちょこちょことひとりっ子はいた。少数派だけど、ひとりっ子はたしかに一定数いて、ある種のプロフィールを形成していた。たぶん、こうした私の幼少の頃からひとりっ子はだんだんとその数を増やし、やがて市民権を得て(あなたもひとりっ子なのね、私もよ)、今や多数派となった(え、君ってきょうだいいるの? へーえ)のである。
村上春樹の時代に奇異で希少種だったひとりっ子は、私の父の時代にはいったいどれほど貴重な存在だったであろうか。昭和の初め、女の仕事はただ子を産むことであったのだ。
谷川俊太郎は父と同い年だ。
感性にまかせて詩を書き、要請に応じて詩を書き、ままならぬもどかしさや表現の苦しみに、ひり出すように言葉と言葉の鎖をつないで詩を書く。詩人としての生を貫いたら、結婚も離婚も3回になった。彼はひとり息子として母親に溺愛された。おそらく、方法は違っても、同じ深さでひとり息子を溺愛している。息子の賢作さんとの数々のコラボレーションの洒脱さはよく知られるところだ。
タートルネックのセーターにジーンズ。よく写真で見る谷川俊太郎のいでたちだが、父と同い年とは思えない。同じ年に生まれたというのに彼我の違いはいったいなんなんだろう?
父はいつも兄と弟に挟まれ、喧嘩もし議論もし、飲み、食い、助け合い、つねにかかわり合って生きていた。よくも悪くも血縁に依存し縛られてその生涯を終えた父。荒野にひとり、凛とたたずむひとりの男、一度手をつなぐもすぐ離し、ひょうひょうと風下へ、吹かれるように歩むひとりの男、荒野にはいつしか花が咲き始めていて、彼は空を見、花を見、詩をしたためる。谷川俊太郎。こんなイメージ、逆さにしても裏返しても父にはならないというところが、私にとっては奇跡だ。奇跡のひと、谷川俊太郎。
谷川俊太郎の詩が好きだが、それほど彼の詩集を丹念に読んでいるわけではない。幼少から私はなぜか「詩」や「ポエム」が好きだった。書く(詩などと呼べる代物ではなかったにしろ)のも、読むのも好きだった。そんな私のアンテナにかかったひとりの詩人にすぎなかった谷川俊太郎が、けっきょく私の中ではいちばん存在感をもって、詩人として在る。
詩作というのは、想像するだけなんだけど、つねに表現の限界への挑戦を強いられているような、心にある画(え)を言葉に置換し、というより言葉で描きなおしながら、しかし言葉しか解さない人に心の画を伝えるという高難度技への挑戦であるように思われる。
しかし、谷川俊太郎は舗道を歩きながら、野に出て花の香りを嗅ぎながら、しゅるしゅるっと言葉を紡ぐ(たぶん)。
その谷川俊太郎のエッセイをまとめたのが本書だ。
やはり彼は詩人であって、文章書きではないな、というのが、読後感だ。
素直すぎるのである。
飾りがなさ過ぎ。
ストレートに、吐露され過ぎ。
熱すぎない彼の表現は淡々と筆が運ばれているようでいて、実はドクドク動く生の心臓を突き出されたような、なまなましいブリュットな文章。
覆いもなく箱もない、むき出しの状態の谷川俊太郎の心が並んでいる。
それなのに、オブラートに包まれたようにしか感じられないもどかしさを強いられる。
それが本書である。
ひとりっ子の彼は、どこまでもひとりである。ほかに比較しようがないから、彼はひとりっ子を楽しみ、謳歌している。干渉もなく依存もない暮らしを貫く、孤高のひと。
と、なんだか持ち上げ過ぎたような気がするんだけど、早い話が、あまり面白くない一冊であった。言葉を使って仕事をしているひとだけど、技巧にまかせて凝った文章づくりをしているわけではない。シンプルだ。そして、意図が伝わらないわけではない。むしろ、よくわかる。でも、やはり谷川俊太郎は詩を読むに限る。彼に限らず、詩はイマジネーションをあおる。しかし谷川俊太郎の文章は、イマジネーションをあおらない。
谷川俊太郎は詩を読むに限る。
"La vie est ailleurs." ― 2013/11/21 17:10:35
Tu peux enlever de la peau de pomme sans cassée? ― 2013/10/31 20:02:26
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
ある知人が、齢93になるさる御方から茶を習っている。93という御歳で人にものを教えることができるという、その事実だけでもうひれ伏したいくらい尊敬に値する。わたしは茶道はまったく門外漢だが、そのことは今さらどうしようもないので恥じることはないと思っている。しかし茶道を心得た人(にもいろいろあるので一概には言えないけれども)はおしなべて態度が謙虚で(態度だけだったりもするけど)、気働きにすぐれている。気が利くのである。みなまで言わずとも判じるのである。冴えているわけである。さらに、茶を嗜む人は食事の時など手の動作が美しい。もちろん立居振舞もたおやかできれいだ。それは、舞踊をする人のピシッと背中の伸びた美しさとはちょっと違う。もう少し、体の重心が下に位置しているような、そして危なげなく、しかしけっしてどっしりしているのではなくて、和服の裾さばきも軽やかに、しなやかに動作されるのである。凛々しさとなよやかさが共存し均衡した美しさを保つのは日本人のなせる業だと思うのだがどうであろうか。
知人が知る茶人には90を超えた人がぞろぞろいるといい、どの御方もしゃきっとなさってて頭脳明晰言語明瞭、茶の湯の心を後世に伝えねばという使命感の強さには圧倒されるという。知人の師匠も、そうと知らずにそのかたを街角で見かけたらたぶんただの縮こまったお婆さんにしか見えないのだ。見えないのに、ひとたび茶室に入ったら彼女は縮こまった婆さんなどでは全然なく、360度の視界をもち些細な瑕疵も見逃さず間髪入れずに叱咤するスパルタ師匠なのである。怖い(笑)。
美を愛でる、美を追求するということは特別なことではない。足元に落ちてきた枯葉の色に季節を感じたり、絵具では出せない微妙な色を見出したり、その葉にもかつて命が宿っていたことに思いを馳せたり。だか、といったようなことは、いちいち言葉にするとめんどくさいが、人であれば瞬時に心をよぎるのである。きらりん、とからだのどこかに響くなにものかだ。理屈でなく、情緒なのである。いい男とすれ違うその瞬間に胸キュンとなるその感じ、それはただキュンとするだけである。ただううっとかおおっとか胸に迫るものがあったり、ぎゅっと心をつかまれたりぐりぐりされたりする感じ。おお、前からよさげなスーツを着て歩いてくる30代後半とおぼしき青年は目鼻立ちがすっきりくっきりしていてなかなかイケメンな感じだわおいしそうだわつまみぐいしたいわ、なんて、言葉にしてしまうとたしかにこれくらい、あるいはこれ以上の感動(?)を、0.001秒くらいの間に胸に響かせているにしても、言葉でなく情緒で人は喜怒哀楽を素直に感じては吐露するものなのである。毎秒のように。
情緒豊かな人は、生命の尊さにあふれているのである。それは純粋である。
《岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。》(「人間と人生への無知」45ページ)
《岡 (前略)欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。》(「人間と人生への無知」48ページ)
《岡 (前略)何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやった方が幾分利益があればできるものです。(中略)人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。(中略)大自然は、もう一まわりスケールが大きいものかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。》(破壊だけの自然科学)55~58ページ)
《岡 (前略)つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情熱が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。(後略)
(中略)
岡 きょう初めてお会いしている小林さんは、たしかに詩人と言い切れます。あなたのほうから非常に発信していますね。》(「美的感動について」71~74ページ)
情緒豊かな人は、詩人でもあるだろう。やなせたかしは詩人だった。わたしは、たった1冊持っているやなせたかしの詩集の中の、りんごの皮を切れないようにむく、という短い詩が好きだった。切れずに長く手許から下がっていくりんごの紅い皮、それはまるで赤い川のようでもあった。彼のその詩を読んで以来、わたしはりんごの皮を剥くときはただひたすら切れないように剥くことだけを念頭において剥くようになった。あとから実を切り分けること、芯を取り除くこと、食べること、料理に使うことなど何も考えず、巻きぐせのついたリボンのようにくねくねと垂れ下がるりんごの皮の姿を想像しながら(だってそれをリアルに見ながら剥くことはできないから)。何年も何年もあとになって、小学校の家庭科の宿題にりんごの皮むきをマスターせよといわれた娘が、不器用な手で、無心に、りんごの皮を切れないように丁寧に剥く、その剥かれて垂れ下がるりんごの皮を見てわたしは、昔好んだやなせたかしの詩の数々を思い出した。今は我が家では、りんごは皮を剥かずにいただくのを常としているので、もうりんごの皮を切れないように剥くことはしなくなった。それでもわたしはりんごを使って料理をするとき、やなせたかしの詩のフレーズと、切れることなく剥けたりんご1個分の「赤い川」、得意げにそれを両親と弟に見せる自分、娘に見せる自分、わたしに見せる娘、そしてそれぞれの感嘆の声などが、ひゅんひゅんと脳裏を交錯するのを感じる。だからどうだということはない。これまでもなかったし、いまもない。やなせたかしさんは矍鑠としていつもお元気そうだった。おそらく亡くなる間際まで、しゃきっとして、りんごの皮を切れないように剥いておられたであろう。きっとそうに違いない。詩人だったから。
Je t'aime, Munich! ― 2013/10/17 23:20:22
来月の公演で踊ることになったのでいま練習がたいへんなようである。たいへんだというのは、彼女には経験のないコンテンポラリー作品であるということがひとつ。そして使用する音楽を四六時中聴いて音と振りを覚えたいのに、娘のiPod nanoは彼女に持たせたPC(VAIO/Win 8/iTunes 11)とは同期しないことが判明した(とほほ)。それがもうひとつ。さらに、教師から「もっと肉をつけなさい」といわれたそうである。娘は、むっちりついていた陸上競技用マッスルを全部そぎ落とすためにダイエットして成功したんだけど、肩から二の腕だけは落ち過ぎてしまってガリ細なのである。実際の腕力がなくなったわけではないし、春にオデットを踊ったときは細いゆえ弱々しさが際立ってちょうどよいくらいだったんだが、しかし、ふつうに見れば細すぎるぞというご意見には大賛成である。二の腕を細くしたくて奮闘しているご婦人方の多い世の中で、意図してもいないのに必要以上に二の腕の筋肉が落ちてしまって嘆くのは贅沢の極みかもしれないけれども、なんといわれようとも今のままでは全然美しくないのだ、ダンサーとして。しかし、だからといって筋トレでつけちゃうとこれまた全然美しくないのだ、バレリーナとして。さあどうするさなぎ in Munich!
台風が通り過ぎ、一気に朝夕寒くなった。出社時はもうお日さまがすっかり照りつけているのでそうでもないが、退社時はまともに夜更けなので冷え込むことこの上ない。帰路用にダウンジャケット&マフラーが必要である。しかし数日前まで、そりゃ朝夕涼しくなり始めてはいたけど、日中は真夏日だったのに。よくこの寒暖差に耐えるよな、人間。ちょうどいい時候というのは花の命よりも短いのだ。私は昔から、四季の中では秋がいちばん好きだった。自分の名前に「秋」の字が入っていてほしかった。だから将来晴れて歌手デビューした時は(爆)千秋という芸名を名乗っているからなと周りに向かって豪語したものだ。小学2年生の頃だ。歌手への夢はもともとスチュワーデスからすり替わったものだったがその後漫画家へと一気に変容を遂げ、そのあとは漫画家〜絵本作家〜エディトリアルデザイナ〜とマイナーチェンジに終始し、けっきょく何も実現せず、芸名どころかネット上のハンドルにすら千秋という名は使わずに生きている。私がこれほどまでに「秋」に対して執着しなかったせいで、地球は秋を演出しなくなったのであろうか。だとしたら世間の秋愛好家には申し訳ないことをした。したけれども、私が秋への愛をちょっとばかし蔑ろにしていたからってそんな暴挙に出るとは地球もいささか大人げないのではないか? 台風ばかり律儀につくってないで、皆が喜ぶ突き抜ける青空に鱗雲鰯雲飛行機雲、黄金の銀杏と濃緋の紅葉を山に、焼き芋の香りと落ち葉焚きの煙を道端に、そんな秋を地上に届けてほしいんだけど、聞いてるか地球?
次の日曜は満月だけど、狼男が出ませんように。
ミュンヘンにも、出ませんように。
Les boissons alcooliques qui symbolisent le pays ― 2013/03/19 19:31:00
Hier, c'était WHITE DAY!!! ― 2013/03/15 18:25:36
この世にはものすごく重要な日というのがあるだろうけれど、それらのどんなたいそうなお題目のついた日よりも、現在を生きる私たち日本人にとって、3月11日は重い日である。3月11日。ちゃんと、「さんがつじゅういちにち」と呼びたい。「にーにーきゅーじけん」とか、「きゅーてんいちいち」とか「ないんてぃーんえいてぃふぉー」とか、数字ゆえに記号化されちゃいがちな年号や日時だけれども、祈りを込めて3月11日をさんてんいちいちなんていわずに、「三月十一日」と、胸に刻みたい。
と、ことほどさように重要な日が3月の11日にある。こうなったからには、3月のほかのいろいろな日がかすんでしまうのは致し方ないのである。3月には上巳(じょうし)の節句(=ひなまつり)がまずあって(ウチらのまちでは4月3日ですけど。へえ、旧暦で祝うんどす)、オンナコドモが大はしゃぎするのだが、地域によって、学校によっては3月1日が卒業式だったりするし、早くも別れの涙でキャンパスが濡れるわけだ。ウチらのまちの公立校では、高校が3月1日、中学校が15日、小学校が20日か21日(春分の日に合わせたりずらしたり)に卒業式が行われる。それらに前後して「6年生を送る会」があったり、「先輩を送る会」が部活ごとにあったり。さらには入試の本番や合格発表があったりと、何かと「試練」が続くいっぽう、「宴会」づいてもいる小中高大学生たちである(笑)。
そんな、日本史に刻まれる墓標たるべき3月11日と、青春のビッグイベント群の合い間に、「ホワイトデー」という、商魂たくましい菓子業界が仕掛けた、ヴァレンタインデーになんかもろたらお返しせなあかんやろ、そやからお返しする日つくったで、的な、男子のための愛の儀式の日というのがある。
と、いうことをすっかり忘れていたのだった。
昨日、なぜか我が家には美味しそうなお菓子がぽろりぽろりと届き、私宛にメッセージカードが届き。何だろう、クリスマスも正月も、私も娘も誕生日済んだしなあ。と思いながら、最後に開いた友人からのメールには「ホワイトデーのご挨拶」とあって、「あ」と、やっとこさ気がついた。
私はここ数年ずっと、「お世話になっているあのかた」へのおちゃめなメッセージや、日頃不義理している友人へのご機嫌伺いや、賀状を出せなかったかたへの寒中見舞いをする日としてもっぱらヴァレンタインを使っている。こういう使いかたをするようになって、から、ああヴァレンタインデーってのも悪くはないもんだと思うようになった。
ところが、である。今思い出しても可笑しくて可笑しくてたまらないんだけど、毎年のように軽いノリのヴァレンタイングリーティングを送った相手のうちの一人が、真剣な怒りのメールを送ってきたのだ。イマふうに言うと「ガチギレ」(笑)
「あのさ、君のカード、あれ何? 受け取った人間の気持ちって考えないの?」 (言い訳するつもりはありませんけど、「悪いこと」は何も書かなかったのよ。笑)
「あのさ、バレンタインデーっていうのは愛の告白をする日なんだよ、いちおう日本では」 (……笑 完全説教モード。ぷぷぷ、いちおう日本では、だって)
「で、チョコレートがないなんて、けっこう傷ついたな、俺」
私はもう、どうすればコイツの機嫌が直るのかわからなくて、でもってべつに機嫌直したくもなかったから面倒になって適当にあしらって返信したのよねー。忙しくって目を回しているさなかに、相手してられないよ。
昔話のカテゴリに入るとはいえ、これ、もう40代になってからの話なのよ。あたしより一つ上なのよ、このオッサン。何が「愛の告白をする日なんだよ」なのよ、何が「傷ついたな、俺」だっつーの。
「ごめん、あたしね、単に季節の便りのつもりだったの」
「ごめん、あたしはね、日本の菓子業界の煽りに乗ってさ、2月14日にチョコレートを男に贈った経験はこれまでの人生皆無なの。そもそも、愛を告白する日だという認識はゼロでした」
「で、持病のために糖質制限してる君にチョコレートあげようなんて発想はますますゼロよ。傷つけちゃったんなら悪かったけど、あたしの贈ったチョコレートで持病悪化したらシャレにならないでしょ」(この人ね、お酒はいくら飲んでもいいんだけど糖質の高いものは食べてはいけない人なのよ)
そしたらさ、なんて返してきたと思う?
「ねえ、君……知らないの、糖質ゼロのチョコレートだって売ってるんだぜ」
知るか!
てめーでたらふく買って食え!
でさ、挙句の果てに
「君がそんなに常識のない人だとは思わなかったよ」
「これっきりにしてくれ」
で最後のメールを締めてくれたんだがや!
は? 目の前、てんてんてん。
あっけにとられて、あたし。
顧客と誌面デザインのことで侃侃諤諤、電話でやりあってる最中にね、何度も何度も長ーいタスキみたいなメールが来てさ。2/14にチョコじゃなくてただの季節の便りしかもらえなかった恨み節を、このときもう2週間後の3月に入ってたのよ、何なのよ今頃、でしょ、ねちねちねちと、つらつらつらと、連ねるのよ。ここに書き出したの、ほんの一部なの~~。
ブログを覗いてくださったかたには断じて勘違いしてほしくないんだけど、あたしこのオッサンとなんっっでもないんだよ。あたしだって独身女だからさ、おいしそうだからつきあう男もいれば、おいしくなさそうでも会う奴もいるし、友達以上恋人未満も、アッシー以上友達未満も、単なるパシリアッシーも、複数抱えて使い分けているわけさ(念のためゆっとくと、大事に誠実におつきあいしてる友人諸氏の殿方は別格だよもちろん)。で、このオッサンは、昔馴染みだけに邪険にしたら申し訳ないから未分類のまま外野席か場外に置いといたつもりだったのさ。ああそうね、中途半端はよくないって見本だったね今思えば。
このオッサンさ、あたしに見切りをつけて「ふった」気でいるのだよ。
2/14に季節の挨拶しかしない女なんかサイテーなわけよ(笑)。
ったく、面倒くさいやつがいるもんだあ。
ああ、やっと、この話を書くタイミングを得て嬉しい~ すっとしたあ
読んでくれてありがとう、みんな!
10代や20代でこんなこと経験してたらさ、私も「こっちに悪気がなくても人を傷つけることあるのね」って殊勝に反省したけど、人生半分以上過ぎた今となっては全然そんな気がないのよね(笑)。ああ、気持ち悪かった、お子ちゃまオトコ。勝手に去ってくれ。
たく、当時アタマに来てしょうがなかったんだけど、ほら、最初に言ったように、たとえ震災が起きていなくても、メモリアルやイベントの多い時期だからね、いろいろな、もっともっと大切なことに思いを馳せてたらさ、コヤツの話なんて融けたスライムより使い道ないから後回しになっちゃって。
*
昨日、ホワイトデーだった。
メッセージやプレゼントをくださった殿方へ。
心から愛をこめて御礼申し上げます。
不束者ですけれども、とこしえによろしくお願い申し上げます。
*
そして今日は、さなぎの母校の中学校で、卒業式でした。
今年の卒業生は、何を歌ったのかな。
さなぎたちの時は、この歌でした。
桜ノ雨
absorb
作詞:森 晴義(halyosy)
作曲:森 晴義(halyosy)
それぞれの場所へ旅立っても
友達だ
聞くまでもないじゃん
十人十色に輝いた日々が
胸張れと背中押す
土埃上げ競った校庭
窮屈で着くずした制服
机の上に書いた落書き
どれもこれも僕らの証し
白紙の答辞には伝え切れない
思い出の数だけ涙が滲む
幼くて傷付けもした
僕らは少し位大人に成れたのかな
教室の窓から桜ノ雨
ふわりてのひら
心に寄せた
みんな集めて出来た花束を
空に放とう
忘れないで
今はまだ…
小さな花弁(はなびら)だとしても
僕らは一人じゃない
下駄箱で見つけた恋の実
廊下で零した不平不満
屋上で手繰り描いた未来図
どれもこれも僕らの証し
卒業証書には書いてないけど
人を信じ人を愛して学んだ
泣き
笑い
喜び
怒り
僕らみたいに青く青く晴れ渡る空
教室の窓から桜ノ虹
ゆめのひとひら
胸奮わせた
出逢いの為の別れと信じて
手を振り返そう
忘れないで
いつかまた…
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう
幾千の学び舎の中で
僕らが巡り逢えた奇跡
幾つ歳をとっても変わらないで
その優しい笑顔
教室の窓から桜ノ雨
ふわりてのひら
心に寄せた
みんな集めて出来た花束を
空に放とう
忘れないで
今はまだ…
小さな花弁だとしても
僕らは一人じゃない
いつかまた…
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう
いつかまた
大きな花弁を咲かせ
僕らはここで逢おう
No matter how hard it hurts me.
I'll never say good bye.
Your presence will always linger in my heart.
...wanna see your smile again.
______________
JASRAC作品コード 154-1919-3