Azor --- いまいちどハイチに思いを馳せてくださいませ2010/05/30 11:37:36

前にご案内しましたようにハイチのミュージシャン、Azorさんのライヴが日本各地で開催されていました。私はいうまでもありませんが行けませんでしたので、ライヴ映像を渉猟して眺める日々です。ああ、かっこいい。


これは、太鼓ソロです。2000年の岡山でのライヴだそうです。



こちらは、前に貼った映像ありましたよね、あれと同じ会場のようです。長いです。歌ってます。



ほいでもってこれは、PVですが、ハイチらしくってよい出来です。



ええ、私、こういうのが大好きなんですの。ああ、じっとしていられないわっ

アゾールさん、ほか関連情報再掲2010/05/08 10:06:09

raidaisukiさんがおっしゃっていた「北中正和さんのワールドミュージックタイム(NHK FM 月曜0時‐1時(日曜深夜))」でのハイチ特集というのが明日の晩らしいので、番組ページをご紹介します。
ここです。

でもって、ハイチのミュージシャン、アゾール(Azor)さんのライヴ情報は:ここです。

普段、あまり真面目に音楽というものを聴きません。いえ、いっぱい聴くんですが、何が鳴っていても、それがどういうジャンルの音楽で誰が鳴らしているのかということに、基本的に関心がないんですね。今も昔も好きなミュージシャンはいるけれども、新たに面白そうな音に出会っても、あまり入れ込まなくなっちゃった。そんなわけで、かつてアフリカ音楽にはノックアウトされたんだけれどもハイチ音楽についてはどうってことなかったもんですから、当然アゾールさんのことも知りませんでした。
でもって、こないだ久しぶりにRFI(ラジオフランスアンテルナショナル)のサイトをうろうろしてて、BELO君という若いミュージシャンのことを知りました。けっこう好きかも。
彼の音と声、ハイチの街、しばし味わってみてください。


いかがでした? 感想など聞かせてくださいましね。

(追記)アゾールさんのライヴ映像、見っけ。



めっさ、よろしいやんーー♪(目がハート)どおどおどお???

ハイチのアーティスト、Azorさん2010/05/07 08:03:07

敬愛するraidaisukiさんのブログでハイチのアーティスト、Azorさんの来日ライヴについて紹介されていました。エントリはここ。詳細はここ

ちょっと、そこの君、「そんなのかんけーねー」って顔してるけどっ

ま、興味ないかたも、ちょびっとそそられるかたも、ハイチを忘れないでくださいね。


ハイチ ――ちょっとそこの君、忘れてたでしょ。2010/03/11 00:45:15

いっときぬくぬくぬくと気持ち悪いくらい暖かくなって、ホラ来たぞって感じで花粉が飛び始めた。ら、目がしょぼしょぼしてったくもおおおお、何も飛ばなくても疲れ目だってのに、やめてよ。という日々が続いたが、ここ数日の寒波でさすがの杉も開花のタイミングが狂わされているのかそんなに花粉を飛ばしていないようである。一昨年あたりから私は花粉症の症状の出かたが劇的に変わっていて、とりあえず杉花粉に関しては、鼻から眼へと、まるで奴らが標的を変えたかのように、ダイナミックに移行している。檜のピークになるとまた事情は違うけど。

そんなわけで相変わらずしょぼしょぼしている目だけど、ちょっとかゆみや異物感や重みはましなのである。寒いせいである。寒さ万歳。

先日チリで地震があった。そのせいで津波が来る!というニュースが世界を駆け巡った。ちょうど例のダリ本の書評が新聞に載った日の前夜である。翌日の日曜、私は娘のバレエ教室のリハーサルを、夕方見に行った。ママフレンズたちと発表会当日の役割分担や段取りを話し合うためもあったので、リハが一段落したときに集まって立ち話をしつつメンバーが揃うのを待っていた。で、あ、そーだ朝日買わなくちゃと思い出し、近くのコンビニに走って朝日新聞を買いにいった。
教室に戻るとママフレンズのひとりが「津波、津波はどうなった?」と私の新聞を見て叫んだ。
へ? 津波?
そのとき時刻はもう5時か6時だったので、津波が予報された時刻はとっくに過ぎていたし、何のニュースも聞かなかったから、私はとっくに津波の危機は去ったと思っていた。が、そのママフレンドは「我が家の一大事」とでもいうように興奮して津波津波と繰り返す。

古来天災に悩まされた日本列島は、十数時間後に3メートルと予測された津波に対して打つ手がないほど、ナイーヴではないはずだ。30分後に10メートルといわれたらそりゃ慌てる。被害の大きかった過去の災害は予測不可能なほど突発的であったり、予想を遥かに超えて大規模だったりしたためにそのような事態を招いたが、この国では政治家も官僚もアホだが庶民は知恵者であるから備えは万全であっただろう、いくらなんでも。
と、思っていたので、また内陸住民の気楽さも手伝って、津波のことなんかすっかり頭から消えていた。親戚とか実家とか友人が沿岸部に住んでいたらまた意識のしかたも違ったであろう。例のママフレンドにもそんな事情があるのかもしれない。と思ったがスルーして、新聞の中面を開いてダリ書評をママフレンズに見せ、さんざん宣伝した私であった。


ヒラリー・クリントン&ルネ・ガルシア・プレヴァル
Le 16 janvier 2010 a Port-au-Prince. AFP/Nicholas Kamm



で、ちょっと、そこの君。忘れてたでしょう、ハイチを。
は、はい、先生。忘れてました。

実はチリ地震の前までは覚えていたのである。
購読しているあるメルマガからたいへん有意義な記事が配信されたということもあったし。

以前ハイチについてブログに書いたとき、さくららさんという方が、ハイチ情報を求めてたどり着いてくださった。あれ以降、さくららさんはハイチについて、私のぐだぐだくだまき文ではなく、まともで正しい情報を得られただろうか。ちょっと心配だった。

購読しているメルマガというのはル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版というもので、もう10年くらい配信を受けている。ル・モンドとついているのでおわかりかな、と思うけれども、フランスの大新聞「Le Monde」(ルモンド)の外交ネタ版で月刊誌である。ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版はその名のとおり、「Le Monde Diplomatique」から抜粋した記事を和訳して購読者に配信するものだ。非常に読み応えがあって、勉強にもアタマの体操にもなる。翻訳は有志による。訳文の完成度の高さはエヴェレスト。優れた仏日翻訳者を探すならここを覗けばよいのである。
それはともかく。
2月26日、配信された記事の中にあったのがこれ
ハイチを的確に語ってあまりある。私が説明したかったのはこういうことなのである。こりゃあいいと思ってすぐブログで言及するつもりが、忘れてしまっていた。
(なぜ忘れちゃったかというと例の書評が嬉しかったり娘の発表会前でバタバタだったりしたからである)

ハイチを忘れてはいけないとあれほどいったじゃありませんか。
めっ

すっかり報道がなくなってしまったハイチ。ハイチを忘れないでください。
ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版もどうぞよろしく。

La chanson et le clip ≪Un geste pour Haiti≫2010/01/23 19:31:46

ハイチ救済にミュージシャンたちが行動に出ました。最後のアズナヴールじいちゃんと、その直前のGrand Corps Maladeしか識別できない(笑)私。昨日はラジオからも何回も流れてきていました、この歌。耳に心地いいです。 昨日、33人の孤児(1~6歳)がフランスのロワシー空港に到着。養子縁組するためである。幾世帯ものフランス人家庭が名乗りをあげたそうだ。クシュネール外相は現時点では276人の孤児を受け容れる予定だとしている。どさくさにまぎれて人身売買組織がハイチで子どもをさらいまくっているようだから、犯罪から子どもたちを守る目的がまずひとつ。それに、地震の来る前からとっくに無法状態になっていたハイチだから、扶養者をもたない子どもの場合、まともに生き延びることすら困難だった。養子縁組の好きなフランスはハイチの子どもを引き取りたくてしょうがなかったかもしれない。大地震という非常事態に乗じてもらいっ子しまくっているというとイケズかな。

断絶状態2010/01/16 21:12:52

『ハイチ 目覚めたカリブの黒人共和国』
佐藤文則著
凱風社(1999年)


RFI(ラジオフランスアンテルナショナル)によるとハイチはまったく世界から断絶された状態にあるらしい。昨今流行りのTwitterとかFacebookとかもまったく役立たずだそうだ。阪神淡路大震災の時は携帯電話と携帯ラジオが役立ったという話をけっこう耳にしたが、そういうものの基幹部分が壊滅しているようだから電波も飛ばないのだろう。ポール・オ・プランスの90%の建物が倒壊したという。なんといっても、最貧だろうが何だろうがポール・オ・プランスは首都だ。日本でいうと皇居や東京タワー、霞ヶ関や新宿の都庁、六本木ヒルズとか代名詞的ないろんなもんが瓦礫と化し、成田や羽田の滑走路が飛べない機体であふれ、港には損壊した船舶がなす術なく溜まっている、というところだ。

阪神淡路大震災のとき、嬉々としてやってきた多くの報道アナウンサーの中には高価で暖かでおっしゃれーなレザーやダウン、果ては毛皮のコートまで着ていたヤツがいたし(報道合戦でもあったからここぞとばかりめかし込みたい気持ちもわかるし、実際寒かったしなあ。毛皮着てきたんなら被災者の毛布代わりに置いてってくれたらよかったのに)、スタジオでしゃべっている女子アナには映像を観ながら「東京だと思うとぞっとしますね」と映画観賞後のコメントみたくほざいたヤツまでいた(「東京でなくて、神戸でよかったね」って言っているに等しい発言を報道を担うヤツから聴いたときから、私は本気で東京大地震が起こればいいと思うようになったよ)。テレビ局のヘリが火事場の上空を飛び、燃えさかる炎をあおるだけあおって「燃えてますー」と興奮しまくっていた(火を見て喜ぶのは類人猿までだと思っていたけどね)。
よかったな君たち、なかなか見られないもん見られてさ。
当時マスメディアだけでなく、私のごく身近にすら、被災地へおもしろ半分に見物に行くヤツがいた。
あれから15年。神戸の街は美しく復興したけれど、震災はまだ人々の心に爪痕を残したままだ。
私自身は何一つ被害はなかったけれど、地震を面白がっていたヤツらのことは一生許さないと心に決めているのである。

あの朝、地鳴りがしたかと思うと、家ごと上下に揺さぶられた。私の布団のそばには本棚があって、本だけでなく人形やがらくた置き場になっていた。大きく揺さぶられたひとつめの揺れで、そんなものが布団の上にどさどさと落ちてきた。
私は布団の中で丸くなり、掛け布団にくるまったまま本棚からできるだけ離れた。
揺れが続いた。それはすごく長く感じられたが、最初の揺れほど強くならないまま、収まった。
いろいろ落ちてきたけど、何も壊れなかったし、ぼろ家のわりには、というか最初からぼろすぎて壊れるところがもうなかったというのか、家には地震で壊れた箇所などはいっさいなかった。が、それまでに覚えのないほど大きな揺れだったことには違いない。
私は階下へ降りて両親の無事を確かめ(大きな箪笥のそばで寝ていたからね)、ラジオやテレビで震源などを伝える報道を探した……

神戸には大学時代の同窓生、仕事の関係者など、多くの友人・知人がいた。家を失った子、避難所生活が続いた子など辛い思いをした友人は多かったが、幸い犠牲者も怪我人もなかった。彼らの家族もほぼ無事であった。

地震から15時間くらい経過した頃からだろうか、国内外あちこちから電話をもらった。無事か、大丈夫かと尋ねてくれる電話だった。ニュースで見てすぐかけたのに全然つながらなかったと。
私は私で、神戸の友人知人に片っ端からかけていたので、つながらなかったのはそのせいかもしれなかったが。

あれからいろいろなものがいろいろな形に発展し、世界中コミュニケーションできないところなどなくなったかのようにいわれているけれど、地球が脇腹をちょっとかゆがった程度で、とたんに断絶されてしまう。人間のつくるものなど自然の力の前にはひとたまりもない。

佐藤さんのこの本は、ハイチの成り立ちや地理、歴史にも詳しいが、主にポール・オ・プランスのスラム街に通い詰めて撮った写真を軸にして書かれたものだ。1999年刊だが滞在はそれ以前だ。豊かな日本は大震災を経験し、官も民も何かしら学んだ(と思いたい)が、当時のハイチは無法状態で、毎日のように誰かが誰かに殺されていた。民主的に選ばれたというと聞こえはいいがあまり誰も声高にいわなかったことをわーわー叫んで人民の気持ちを高揚させただけで大統領になったアリスティドの頃である。
本書を読むと屈託ない子どもたちの黒い肌がきらきら美しいことに感動するいっぽう、いまにも崩れそうながたがたの家で頬寄せ合って暮らす子だくさん家族や、夫や親を何者かに殺されてしまい途方に暮れる家庭が密集するスラムのひどさに目を覆う。
神戸はひどい目に遭ったけれど、地球上にはとうてい回復不可能なほどに痛めつけられた生活が存在していた。痛みは慣れると無感覚になる。ハイチでは誰もが無法状態に慣れっこになっていた。

そんな街にも市は立ち、野菜や果物が並び、人は手を動かして暮らしの道具をつくる。なけなしのお金でなんとか子どもに文房具を揃えてやるのである。佐藤さんが惹かれたのは、ほんとうはけっして失われずに潜在するハイチ人の底抜けの明るさとパワー、またそれが顕著に見える音楽や信仰といった文化の底力であろう。それがある限りハイチは生き続けると。

本書は2007年に改訂新版が発行されている。その後の10年分のルポが追加されているのだろう。残念ながらハイチは何もよくなっていなかった。そして地震。佐藤さんが愛したシテソレイユ(スラム街)は跡かたもないほどに壊れてしまったのではないか。
佐藤さんは現地の誰かとの交信に成功しただろうか。

年の始めから食べまくってる私たち その2。ハイチが心配ですね2010/01/15 12:26:51

『フランケチエンヌ ――クレオールの挑戦――』
恒川邦夫著
現代企画室(1999年)


今朝は小豆粥をいただきました。毎年のことながら美味しい~~~(^0^)v
人につくってもらうからよけいに美味しいんだね。……というようなことはつい一週間ほど前にも書いたような気がするが(笑)そういうわけで、小豆粥を祝いました。昔は今日は祝日だったですけどねえ。だから正月飾りの片づけなどもできたんですけどねえ。ったく日本政府のスカポンタン。
なんで小豆のことを大納言ていうの、中納言とか少納言とかいわへんなそういえば、とか、小豆粥の小豆は甘うないね、塩で加減するさかいな、とか、円町の伯母ちゃんはメイボできてんていうたらメイボできたんか、ほな小豆食べんならんなあってゆわはった、なんで? メイボが小豆に似てるしやろな、食べたら治るねんて、食べた? メイボできたからゆーて食べたことないなあけっきょく、ははは。……というような話をしながらたらふくいただいて、平和と安寧に感謝いたしました。

日本は寒いが平和である。けれども新年早々惨事が起きてしまった。
ハイチがえらいことになっている。ハイチに知り合いはひとりもいないけれど、フランス語をやってフランス史なんかを少しかじったり、あるいはカリブ海のクレオール文化に触れるとどうしても避けては通れない国だから基本必須事項は学んだし、多少学ぶとすごく面白い国だということがわかったので、以来、ずっと気に留めていた。まだ行ったことのない国でいちばん行きたい国はマダガスカル、二番めがブータン、三番めがハイチなのである。(※一定期間住んでみたい国はほかにある。何箇所もある。何年生きねばならないだろう)

ハイチは地球史上最初の黒人共和国である。カリブ海一帯はその昔コロンブスが「発見」したのをきっかけに西欧列強が取り合って、最終的にイスパニョーラ島の西半分、三分の一くらいかな、をフランスが植民地「フランス領サン・ドマング」として支配した。フランス本国で自由と平等を謳う大革命が起きたので、それに触発されるように、奴隷たちが蜂起してハイチ革命が勃発。このとき指揮を執ったトゥサン・ルヴェルテュールという人はなかなかオトコマエな肖像画が残っていて、私の密かなアイドルである(笑)。

ハイチはそんなわけで(って何も説明していませんね、すみません。ウイキとか見てね)1804年に独立を勝ち取り、人類史上初めて黒人が自ら樹立した共和国国家として名乗りを上げたのである。が、世界は冷淡で、どの国も「そんなの認めないよ~ん」て感じ。認めたら奴隷として黒人を使えなくなるからだ。ハイチ国内でも内乱は続くし、そのうえ、意地悪なフランスが「せっかく植民地経営がうまくいってたのにあんたたちのせいでそれを台無しにされたじゃないのどうしてくれるのよ」(なぜか女言葉になったが「La France」と書くように、フランスという名詞は女性名詞なのである)とハイチ共和国に対し賠償金を請求したのだ。国際社会から独立共和国として承認をもらえないハイチは、フランスからの「借金返せたら対等と認めてあげるわ」という無体な申し出を受けざるをえなかった。その金額はいくらか知らないけど膨大で、ハイチは世界最貧国の誉れ高いが、けっしてそのせいだけではないにしても、最貧の原因の大きなひとつはフランスの「いけず」にあるのだ。

フランケチエンヌは1936年生まれのハイチの画家、小説家である。首都ポール・オ・プランス(Port-au-Prince)在住なので、今回の地震で自宅兼アトリエには大きな被害が出ているのではないだろうか。小説は一度も読んだことがないし、絵画も本書に掲載されている写真で見ただけで、フランケチエンヌというアーチストの芸術作品に対して、私はあまり関心はもたなかった。ただフランケチエンヌその人の存在性に、ハイチという国の、終わりのなさそうな不完全さが象徴されているように思えるので興味深かったのである。
フランケチエンヌのお母さんは黒人と白人の混血だった。彼女を、米国で大金持ちになってハイチにやってきたドイツ人の富豪が気に入って囲った。彼女が妊娠すると追い払った。彼女は出産後ポール・オ・プランスで地元の男性と結婚し、たくさん子どもを産んだ。フランケチエンヌは白い肌に青い眼で生まれ、また実の父は不在であったので「ててなしご」と周囲からいじめられたが、「私が今日あるのはポール・オ・プランスの両親のおかげである」と述べている。見た目がまるで白人であることは、フランケチエンヌが自覚している以上に彼の性格形成に影響したであろう。彼の本名はフランク・エチエンヌで、それを一語にしてフランケチエンヌと名乗っている。これは彼自身による彼のアイデンティティ確立の手段であったという。その彼自身の理路は本書を読んでもよくわからないが、おそらく著作のひとつ『私を産んだ私』(Je suis mon propre pere/塚本昌則訳/国書刊行会発行『月光浴―ハイチ短篇集』所収、2003年)ならば少しはわかるかもしれない。
フランス語で教育を受けたが、彼は主な小説をハイチ語で書いている。ハイチ語はフランス語から派生したクレオール語で、マルティニークやグアドループ(ともにカリブ海に浮かぶ元フランス植民地で現フランス海外県)で話されているクレオール語と同系である。
しかしハイチ語で書いても、ハイチの庶民の識字率は著しく低く、ハイチの上層は本を読むという文化的な営みに縁がない。フランケチエンヌの著作に限らずハイチでは出版活動はきわめて鈍く、図書出版は外資系または海外に居住するハイチ人のコミュニティに頼っている。フランケチエンヌはこうした状況を憂い、自分で学校を開いて教えていたが、周囲の治安悪化にともなって学費の払える富裕層が来なくなり、貧困で学費は払えないけどそれでも学びたいという家庭の子女はごく少数なため、けっきょくほとんど生徒がいなくなって閉鎖したらしい。ハイチには学校という場所に敬意を持つとか尊重するとかそういう精神文化がない。
国は公用語としてハイチ語とフランス語を掲げてはいるものの、書き言葉が成立していないに等しいハイチ語で書いても読まれず、識字率が低いため、また読書文化が育っていないためいかなる言語で表現したところで、ハイチでは意味がないといっていい。フランケチエンヌはハイチ語をハイチ共和国民の母国語として誇れる言語にしたいと考えているに違いないのだが。彼もこれを母語として育ったのだから。

本書が刊行されて約10年、フランケチエンヌは見聞する限り健在だったが……今度の地震による被害が気になる。死亡者数すらはっきりしないから個々の消息が明らかになるのはいつのことやら。
ハイチの独立・建国から200年余り。世界中が彼らを無視し、あるものはちょっかいを出しあるものはいたぶってきたが、今こそ世界一致で彼らを救済してほしい。

ハイチについては研究者・浜忠雄さんや、フォトジャーナリスト・佐藤文則さんの著作を読まれたし。あなたもハイチを「行きたい国」のひとつに挙げたくなるでしょう。

一周忌です2009/04/17 12:00:58

敬愛する詩人、エメ・セゼールが一年前の今日、亡くなりました。享年94。

高齢でらしたので、いつ亡くなられてもおかしくないといえば失礼ですが、でも私はなんだかセゼールはずーっと生きながらえていくような、そんな錯覚をもっていました。

訃報を知ったときにはあまりのショックに体中が空洞になったような気がしたものです。おおげさでなく、しばらくはまともに思考することができずに、ものすごく投げやりに日々を過ごしていたような気がします。誰ともこの悲しみを共有することができません。しようと思えばセゼールなる人物は誰なのか、私はなぜ彼を敬い尊び愛情すら覚えるのかということを説明しなければなりません。面倒というよりも、そのために悲しみが倍加しそうなので、心の奥底に驚きも悲しみも悔いも全部しまいこんで何事もなかったように過ごしていたのでしたが。

フランス語の勉強を始めて、それを続けることができているのはひとえにエメ・セゼールの存在があったからでした。

フランス語を媒体にしたさまざまな世界を、垣間見ることができているのは、まず、エメ・セゼールの『帰郷ノート』を読んだからでした。この詩が私の思考の原点、始まりなのです。

そうはいっても、私はエメ・セゼールはもちろん、彼を市長に選び続けたマルティニークの人たちや、クレオールの名のもとに繋がるグアドループの人たちの、精神の在りかたや魂の置き場所について、砂粒のかけらほども理解しているわけではありません。
彼らの場所、彼らの記憶、彼らの存在しない根っこ、そして彼らがうたう詩は、追い求めても探し続けても触れられない、憧憬でしかありません。ただ、現代に生きる彼らの思考に少しでも近づきたいために、あれこれと読むことで自分を慰めていました。

エメ・セゼールは、私がいま、上で「彼ら」と呼んだ人たちの頂上かつ中心かつ周囲にいた、「彼らの父」でした。私は彼らの中にけっして入れてはもらえない。けれども、エメ・セゼールは、私の憧憬の象徴であると同時に、私が歩いてきた道の分岐や曲がり角にいつもいた人でした。エメ・セゼールという人の存在は、私という人間が歩き始めるきっかけだったのです。

エメ・セゼールはAime Cesaireと綴ります。
検索すれば彼へのオマージュがいくつもヒットします。
映像もあるので、興味のある方はぜひ。仏語ですけど。