Bonne année 2016!2016/01/04 01:19:59

2016年になっちゃいました。
あれれ? という感じです。
忙しくしていまして、ついついここがほったらかしになってしまいました。少し手入れをしてまた書き始めようと思っています。

そんなわけですが、とりあえず、

あけましておめでとうございます。

本読みブログのつもりですが、もちろん本は読んでいますが仕事がらみで読むことがますます増えて、なんだかしっとりいい気分になるということが少ないんですよね。どんな本も、どのような理由で読む場合も、多寡はあれど必ず有意義なんですけどね。

ブログに書くってことは、多寡はあれど読み手の存在を意識しますよね、いちおう。いいも悪いも正直に書くにしろ、そのことじたい面白がってもらわなくちゃ書く意味ないと思ってるんですね、私は。そんなふうにあれこれ思いめぐらすとけっこう時間かかっちゃってタイムリミットが来てしまうのです。

2014年の3月で会社勤めを辞めましたが、あんなにカンカンにいっぱいいっぱいになって働いていたのに、そしてそれを辞めたのに、真実自分のエッセンシャルな自由時間は少なくなりました。融通は利きますし、時間配分も自分で決められる生活ですけれども、けっきょく、勤めを辞めて得た時間のほとんどを家事と介護に充てており、その家事と介護の範囲でのやりくりや効率化をもっと革命的に行わない限り、好きなことをする時間なんて持てないのです。だって、家事と介護の時間以外の時間を使って稼がなくちゃならないでしょ。

と、そんなことをうだうだ言ってる間に世の中は進歩しちゃって、私がブログ書きに主に使っているMacBookも古くなって、負荷が大きいのかとても動きが鈍くて、アサブロの管理画面の操作も思うようにいかないことがしょっちゅう。そうね、これがいちばん大きな理由かな。久しぶりだしなんか書いとくかあ、と思って開こうとしてもちっとも画面が開いてくれなかったり、開かないまま途中で止まったり、やっと開いても入力(漢字変換)が進まなかったり。
今は、珍しくすいすいと入力できてる。キーを叩くのと変換して入力されていくのとスピードがほとんど一緒。いつもこんなだといいのに。

今年も更新は頻繁ではないかもしれませんけど、ブログを止める予定はありませんから、よければ時々覗いてくださいまし。更新してなくても、私は元気で何のかのといつもウロチョロしています。京都へ来られる時はお声かけくださいね。

それではまた次の機会に。

本年のご多幸をお祈りしつつ。

Urgent!2014/10/02 12:12:46

署名をお願いします!

「決して他人事だと思わないでください。安全圏はありません。これが見過ごされるならば、あらゆる論題に関する言論が同種の攻撃にさらされるおそれがあります。そして実際にそうなってからではもはや遅いのです」(Change)
http://chn.ge/1yyWaBy 

私も署名しました。

下記も参照してください。

http://www.labornetjp.org/news/2014/1411366582356staff01

この脅迫問題については、植村氏らを追放しろだとか抹殺せよだとか物騒な言葉でこの許し難いテロ行為を肯定する人びとが非常に多いことが、たとえば当事者の名前で検索をかけるとよくわかり、唖然とする。いったい、この国の人びとが持って(いると私は思っていたんだけれども)いた良識とか慎み深さとか、そういうものはもう完全に消滅してしまったのだろうか。いや、私だって上品とは言えない言葉でアホ安倍を罵ることはしょっちゅうだが、一国の国家元首がつねに支援と罵倒の両方を受けるのは宿命である。賛辞と批判に晒されるのは無視されていないという証拠だから、喜べよ、アベ。だが、植村氏は、一記者にすぎない。そして現在は記者を辞めている。いったい、彼の罪は何? 第二次大戦時の大日本帝国陸海空軍の罪に比べて、どうなの? そして今日、信じられない悪政で日本を内から滅ぼそうとしているアベ&his friendsの罪と比べて、いったい?

いろいろ探したけどありすぎて(苦笑)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5971.html
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5978.html

http://lite-ra.com/2014/09/post-507.html

http://m-hyodo.com/circumstance-2/

http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-0693.html

http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20140901

こっちも見過ごせないよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/9310435/

マジ、許せん。

追加します。2014.10.3
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141002/272048/
http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007/e/89602fff310eaca1a41fb0a870ff641b

100 livres qui m'ont changée2014/05/12 21:38:34


 『わたしを変えた百冊の本』
佐高信著
実業之日本社(2002年)


図書館ヘ行くと、「おすすめ図書」のオープンラックに白洲正子のヴィジュアル本が置いてあったので迷わずに手にとり、ふと視線を移すとそのすぐ横にこの本が並べられていた。なぜここにあるのだろう。なぜ白洲正子の横にこの本が? それにしても、そそるタイトルではないか。分厚い本だから全部読めないかもしれないけど、ま、ついでに借りてみよう。と、ついでに手にとった。
佐高信って著名な批評家、経済評論家だけど、その論考は一度も読んだことがなかった。ときどき識者のコメントとして何かが起こった際に名前を見かけたことがあるくらいだ。そんなのは彼を「読んだ」ことにはならないだろう。とりあえず興味の対象外だった。わたしの守備範囲からは遠く離れたところにおられた。わたしなどが投げる小さな網には、全然引っかからなかったのである。
佐高の読書経験のほんの一端を披露するこの本は、しかし、とてもつまらない(すみません)。佐高さん、ちょい、ナルシスト? 本よりも、その本を読んであんなことこんなこと考えた「ボク」って偉いでしょ、的なナルシシズムがぷんぷんする。いや、べつにいいんだけどね。「わたしを変えた」100冊だから、「わたし」が主人公なのだ。いいよいいよいいんだけどね。いいけど、よほど著者に傾倒していなければちょっと読むに耐えないんじゃないか。記述の上での技術的なことは問題ないし、佐高が感銘を受けたり影響されたりした本を紹介するという趣旨そのものは悪くなかろう。しかし、本書の中で佐高がしていることは、全部ではないが列挙した本一冊一冊について長々と思い出話を綴ったり、その思い出つながりの自分の昔の文章や自分について書かれた記事を引いたり、といったことなのである。それらは彼にとって、挙げた本たちを語るのに欠かせない要素なのかもしれないが、読むほうはちょっと辟易する。本そのものの、たとえば当時それが出版されたことの意義とか、その著者の深い思いとか 、そういうものには触れさせてもらえない。図書館で目次をぱらぱらとめくって、ブックガイドになるかもと思って借りたけど、あてが外れた。いや、もちろん、お、これ読んでみようかと思わせてくれる記述もある(後述)。しかし、自分の受けたインタビューを引用したり、大学時代の青い青い文章(保存してあるというのがすごいけど) や、駆け出し時代の勢いのいい文章を披露されていらっしゃるが、いや100歩譲ってそれじたいはオッケーとしても、紹介している書籍との関連を見出せないのが、いかにも辛いよダンナ。

《すべては書き出しが決める。書き出しが勝負なのである。まとまったドキュメントや評伝を書く場合、書き出しに呻吟する。書き出しが決まれば、けっこうスムーズに書き進められるのである。》(36ページ『雪国』川端康成 新潮文庫/名作の書き出しと迫力)

《・さびしいときにそのひとを思えば慰められる、そんな友はほしくない。怠けるときにそのひとを思えば鞭うたれる、そんな友がほしい。友のために、私も そういうものでありたい。(中略)むのたけじの『詞集たいまつ』(三省堂新書)から抜いた「断章」である。》(56ページ『詞集たいまつ』むのたけじ 三省堂新書/論争が鍛えたペン)

ほほおお、なるほどそうだなあと共感したのは上記2か所だけだった。

ほかに、読んでみたいと思わせた本は:
『 「疑惑」は晴れようとも』河野義行(文藝春秋)
『住井すゑ と永六輔の人間宣言』住井すゑ・永六輔(光文社)

以上2冊だ。

お口直し(?)にウチのイングリッシュガーデン(笑)の写真でも。

苺の花。実りますように。端っこに見えるピンクの花は西洋ツツジ。

桜の花が終わり、実が生っている。つまり、サクランボだ。

ひなたぼっこ。

明日天気になあれ。

Il neige...2014/04/07 22:27:29

筆記用具、持ってる?
『書く力をつけよう 手紙・作文・小論文』
工藤信彦著
岩波ジュニア新書(1983年)


娘からぽつりぽつりと来るメールを読むたびに、ああほんまにお前は作文コンクールなるもので三度も賞を獲ったのか、ほんまにお前は出願時の自己PR書提出と試験日の小論文とで高校入試を突破できたのか、それって全部何かの間違いだったんじゃないのか、といちいち思う。それほどまでにヤツの文章には誤字誤変換が多く、口語と文語の区別ができてなくて、主従がねじれて、文章の主体が不明で、議論は支離滅裂である。今始まったことではないし、我が娘に限った話ではない。そんなことから、2、3年前だが、ここはひとつ青少年の未来のために小論文塾をやるぞという話が私の周囲で一度盛り上がったのだが、塾用のサイトをつくるぞ!と言っていた人の体調がすぐれず立ち消えになった。だがもし始めていたらどうだったか。どんな形で始めたにせよ、今の子どもたちの手の施しようのないほどの「書けなさ」に愕然とするばかりだったんじゃなかろうか。書けないだけではない。きちんと話せない。ひと昔前の日本人と違って今の子どもたちは人前で話すことを怖がらないが、それときれいに話せるということとは別問題である。ふだんラジオを聴いているのでよくわかる。若いアナウンサーたちは、アナウンサーを名乗るための訓練を受けている人たちである。美しい声の持ち主たちである。発音もよい。明朗である。しかし、話しかたは美しくない。ニュースを読んでいる時を除いて。はっきりと言葉を発音するが、例外なく「ら抜き」であり、必要以上に語尾が伸びる。とにかくなんでもどんな時でも最後に「で」をくっつけて、「それでぇ〜」「○○でぇ〜」「△△になったんでぇ〜」「なのでえー、それは違うということでぇー」……。
破綻しているのは娘の文章だけではない。日本全体の話し言葉と書き言葉だ。つまり日本語の遣われかたそのものが破綻している。
私たちの先行世代が育てて世に出した駆け出し社会人たちがこのていたらくであるということは、先行世代の日本語もアヤシイものであり、こうなると、私たちが育てて世に出さんとしている青少年たちはもっとアヤシく、私たち=青少年の親たちの日本語もアヤシイ。アヤシイもんたちがアヤシイもんたちを育ててアヤシさの二乗三乗にしたらアヤシイがふつうになりアヤシイのスペリオールが出現しさらにアヤシイものを求める世となってしまうだろう。アヤシイ日本語に歯止めが効かなくなる。

そんなところで、こそこそと小論文塾サイトを開いても、焼け石に水。

そうした絶望感に苛まれていたある日、仕事帰りに立ち寄った本屋で目に留まったのが本書である。

表紙がいい。
HBの鉛筆がある。万年筆もある。

著者の工藤先生は1930年生まれの国語の先生だ。
本書はとても真面目で地に足着いた、綴り方の学習書である。
日記を書くことの楽しさと、思わぬ効用を語る。
手紙を書く時の礼儀作法を説く。
感想文を書く時の、対象作品に対する心得を、丁寧に述べる。
奇をてらったテクニックや、必ず試験に出るテーマだとか、これを知っておけば試験はクリアできるとか、そんなことは1行も書いてなくて、文章を書くという行為のシンプルなよさ、楽しさを知らせたいという情熱にあふれている。

《みなさんは、文章を書くということを、どのように考えていますか。心のなかにもやもやと存在しているものを、ことばで書き表わしてみると、自分の感じたり考えたりしていることが、はっきりと見えてきて、それによって自分をあらためて見直すということがあるでしょう。文章には、心で感じたり考えたりしていることを、整理する働きがあります。
 また、文章を通して自分が考えたことを相手に伝え、相手からもまた考えを示されて、お互いに心を通じあって生きてゆくことができます。これは、人生において文章のもつ重要な役割です。》(2ページ)

冒頭のこの数行で、この先生がどれほど日本語と日本語で書くことを愛しているかがわかるというものである。なんと、文章を書くということは単純で素直な営みなのであろうか。こんなに単純で素直なことならなぜに私たちは文章を書くことにこれほど四苦八苦するのか。

《ことばは心を裏切ると、よく言います。感じたことや考えたことをことばで表現してみると、どこか気持ちとくいちがってくるのです。ことばはなかなか心を正直に伝えてくれません。ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしまいます。》(3ページ)

「ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしま」うだなんて、ああ、工藤先生、あなたは詩人ね。書けずに苦しみ、んんががががコンチクショウ、と叫ぶさまを、「ことばを見出せないもどかしさがペンを止めてしま」う、とこれほどまでに美しい表現で言い放った人がいたか? しかも、べつに美辞麗句を連ねているわけではない。
しかし私たちが日常ぶち当たっているのはまさしく「ことばを見出せないもどかしさ」なのである。

感想文の章で工藤先生は三好達治の詩を引いて、こう述べる。

《詩の読み方には、その作品を読む人のさまざまな読み方があっていいでしょう。この詩で注目したいところは、〈雪ふりつむ〉という表現です。
 みなさんの知っている雪はどのように降りますか。遠い異国となってしまったサハリン(旧南樺太)生まれの私の記憶の中には、雪は降らせるものではなく、降りゆくものでしかありません。(中略)雪の降り方が一様でないように、人びとの雪の感覚もまた、多彩なのです。したがって、いくつかの感じ方があるのではなく、一人の人間には一つの感じ方しかできないことを知ることが、大切なのです。》(113〜114ページ)

日本語は、雨や雪、風や陽射しなど天候や自然現象の表現に富むとはよくいわれるところだ。とはいえ、数多の表現のあることと、ある人間の感じかたのありようとはかかわりがない。降る雪をみてどう感じるかは雪を見る本人固有のものだ。
三好達治が「ふりつむ」と表現した雪は、三好が見た雪だ。三好の見た雪を想像する。もはや降る雪を三好と同じ時間空間では見られない以上、想像するしかない。ここで想像力が問われるが、「一人の人間には一つの感じ方しかできない」。とすれば、「ふりつむ」ってあんなんかな、こんなんかなと思い描くのではなくて、ただ三好が見た雪を三好になって心眼で見る。
そうすると、この詩を対象にした感想文なんぞ、シンプルにシャッと書き上がるであろう。
だが、けっして、近道をガイドする学習書ではない。そうではなくて、きちんと射るべき的を射ること、「コア」を見誤らないこと、回り道になってもたどるべき場所をたどること。それらのことは工藤先生も力説しておられる。

それにしても、工藤先生の文章は「の」がきれいだ。「の」を美しく使うこと。現在失われている用法のうち、いちばん忘れて欲しくないのが「の」である。どの「の」のことか、わかる?

Moi non plus, je n'aime pas les jeux d'olympiques.2014/04/05 21:53:27

表紙もイマイチだ。オリンピックのメインスタジアムには見えないぞ。地区予選会場みたい、中学生の。
『街場の五輪論』
内田樹、小田嶋隆、平川克美共著
朝日新聞出版(2014年2月)


つねづね申し上げているように、東京オリンピックの招致には大反対だったわけである。東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、大反対なのである。私はスポーツ観戦は好きだし、オリンピックで活躍するなんて、およそスポーツ好きな人間なら一度は夢見る頂点の栄誉だ。そのことだって否定しない。でも、オリンピックというイベントは全然好きではないのである。個別のゲームの観戦はしないでもない。昔から体操の演技は好きであった。ナディア・コマネチなんて私が男なら、今の表現でいえば「萌え」まくっていたであろう。新体操とかシンクロはあまり好きではなかったが、水泳の岩崎恭子ちゃんとか長崎宏子ちゃん(だったよね)には大いに期待したものだったし。でも、なんというか、個別に応援したい選手を目一杯応援する機会であるとか、よく観ておきたい種目をとびきり上等なプレイヤー達のプレイで観られる機会であるとか、普段は知らないスポーツについても観戦の機会があるとか、そういう個人的な趣味の範囲を満足させてくれる要素というのは、それぞれの競技のそれぞれの大会で得ればよいことであって、オリンピックというごたいそうなイベントにしてご提供いただかなくても困らないのである。こんな私のような者でもスポーツに打ち込んだ経験も勝利に酔った経験も怪我でプレイを断念した経験もあるので、思うような結果を出せなかった選手の気持ち、存分に力を出し切っても負けた選手の気持ち、てなものだって少しはわかるのである。目の前の勝負に全力を出し切ることだってたいへんなのに、背後でメダルの数をカウントされたり、国家の威信がどうのこうのと言われたり、経済的波及効果は何億円とか算盤はじかれたりして、そりゃいったいスポーツなのかいって話だよ。お国のために戦うなんて、もう第二次世界大戦の敗戦でこりごりじゃんか。お国のために戦うという言葉を使わなくても、ニッポンのみなさんの期待に応えますっていうのはつまり、同じことじゃんか。やめようよ、もう、そういうの、ってつくづく思うのよ。気持ち悪いって。というわけで、なぜ東京にオリンピックが来て欲しくなかったかと言うと、このイベント、ひたすら気持ち悪いからである。いえ私はね、前の東京オリンピックの年に生まれたざんすよ。自分の年を数えたり、生まれた頃の時代を想像するのにこれはとても便利だよ。1964年という年、当時は冬季五輪も同じ年に開催されていたからどっかで冬のオリンピックやってたんだよね、それと阪神がリーグ優勝してるのよウチのオヤジは大喜びだったらしいよ私が虎の優勝を呼んだって(笑)。海外旅行もできるようになったんだってこの年から(それまでできなかったってのが信じられないんだけどね、そんな国そんな時代だったんだよ)。敗戦後約20年経って、やっと顔を上げて世界に向けて「こんにちは、ニッポンです」っていえるようになった頃だったんだ。オリンピックはそんなニッポンにキラキラのメダルをくれたんだ。だから開会式の10月10日を体育の日として日本人の記憶に刷り込みたいと思ったんだろうに、どっかのアホがハッピーマンデーとか言って10月10日を忘却の彼方に押しやってしまった。その頃からじゃないか、オリンピックが金の亡者たちのための金儲けのためだけのイベントに成り下がったのは。2020年。きっと、それぞれにとって忘れ難いさまざまな出来事に彩られることになるであろう2020年、その一年の中でひときわ輝く東京オリンピック。ほんとうにそうなればいい。そのとき、日本と日本人が、心の底から世界の人々を迎え入れることができ、心の底から国際交流と親善のために選手と関係者と観戦に来る人々をもてなすことができ、心の底から世界の人々と笑い、語らうことができ、豊かな自然を湛える美しい国土と清廉な大和魂を印象づけることができればいい。何の憂いもなく、心に疚しいことの微塵もなく、後ろめたい気分などかけらもない、晴れ晴れとした気持ちでオリンピックを開催できるなら、いい。

しかし、そんなこてゃーありゃーせんがよー、と思う人たちが、なぜそう思うのかを好きなだけくっちゃべっているのが本書である。2013年10月に行われた鼎談を収録したものだ。

ふだんウチダのブログや書き物を読んでいる私には、目新しい内容ではないことはわかっていた。それでもこの本を買ったのは、やはりオリンピック招致キャンペーンが余りにも気持ち悪くそらぞらしく、無邪気に一生懸命になっている人たちには悪いけど安倍や猪瀬が目立ちたいだけのパフォーマンスにいいようにつきあわされているようにしか見えなくて、吐きそうになるくらい嫌だった、だから、この本を読めば、「そうよ、そのとおりよねウチダ」「同感だわウチダ」「あなたって私の分身のようだわウチダ」「私の気持ち全部知ってるのねウチダ」「あなた以外に私を理解してくれる人なんかいないわウチダ」……とこのようにウチダLOVE全開になれて鬱々とした日々のモヤモヤをすっ飛ばせるかと思ったのである。

しかし。

たしかに内容は、「そうよ、そのとおりよね」「同感だわ」の連続なんだけど、うなずく相手がウチダではないのである。小田嶋や平川なのである。この本さ、わたし、頼んでもいないのにAmazon.co.jpから内田樹の新刊が出ますよってメール来たのよ、それって内田樹が著者ってことでしょ。でもよく見たら共著で、しかも鼎談だって。どうしようかなってかなり迷ったけれどもやはり先述のような理由から買うことを決め、予約を入れたのである。こんなふうにまだ出てもいない本を予約して買うなんて、チョー珍しいことなのだ、わたしの場合。いちおう期待したのである、中身に。なのに届いた本を読むと(数時間で読んでしまった)、小田嶋と平川ばかりが喋っている。ウチダ、セリフ少なっ。これ、そう思うの私だけかな? なんかさ、すっごく、めっさめさ、騙された気分(笑)。

しかし、まあ、3人が3人とも今回の五輪招致騒ぎを苦々しく思い、招致が決まって憂鬱になっている人々なので、主張は一緒で、同じ考えをもつ者にとって読みやすくひたすら相づちを打ちながら読み進める1冊には違いない。自分のモヤモヤを誰でもいいから言葉にしてくれないかなと思ったらこれを読めばきれいに言葉になっていて、一時的にはスッキリする。しかしその「モヤモヤ」は著者たちももっているので、けっきょくこのモヤモヤなんとかしてくれよどうにかならんかい、という感じで鼎談が終わるので、モヤモヤの根本原因の解決には、もちろんならない。ならないが、オリンピックなんかやめようぜと思う人が少なくとも自分を含めて4人居ることがわかったんだし、ならばもう少しいるだろうということで、希望をもつこともできる。

何の希望?
東京オリンピックの中止。
……無理か……。

何の希望?
まともな思考の日本人も少しは存在すること。
ほんまやで、たのむわ。

Idiot...2013/11/19 12:01:00

(写真は「田中龍作ジャーナル」11月18日より)


東日本大震災の混乱を収拾できないお子ちゃま内閣でおろおろしていた民主党をののしり、自民党のほうが何倍もましだと声高に発言していた人がたくさんいたが、この事態になっても、いまなお本当にそう思っているのだろうか? 民主党はほんとうにスカポンタンだったけれども、それでもジミントーの数万倍ましだった(注:野田が首相になる前まで)。混乱は続いただろうし、福島原発が危険であることは同じだろうし、列島の汚染が進むのも同じだろうし。だけど、憲法改悪や秘密保護法なんて話は出なかっただろう(わかんないけど)。お子ちゃまなりに、もうちょっとバカ正直な政治をして(わかんないけど)、おめーらあほやろーと多方面からいわれながら、でも、やってることはこっち(国民)の側からはよく見えたんじゃないか。……ま、わかんないけどね。なんたって「亜ジミントー」だからな。「自由民主党」の「自由」を取っただけの党名だもん、ジミントーのできそこないだったわけだよ、といったらジミントーのほうが「できてる」みたいにきこえるだろうけど、「悪党」より「悪党のできそこない」のほうがましだ。

反対の声を挙げなくてはいけないんだよ、アホアベのやってることすべてに。アホアベの存在自体にもNOといいたい。気持ち悪い。今、自分の人生で最悪、この国。


ではいくつか引用。

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「田中龍作ジャーナル」11月18日
http://tanakaryusaku.jp/2013/11/0008221

そして、メディアは日本を戦争に導いた
2013年11月18日 17:37

昭和の暗い時代と似てきたことに二人は警鐘を鳴らす。

「背筋が寒くなると同時にマスコミに怒り」。歴史に詳しい2人の作家(半藤一利、保阪正康両氏)が対談した『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(東洋経済新報社刊)を読み進めるうちに、こうした思いがこみ上げてきた。

同著は半藤氏が自民党の改憲草案に愕然とするところから始まる―
表現の自由を定めた憲法21条の1項は原行憲法と何ら変わりない。だが「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」とする第2項が新設されている。
半藤氏はこれを報じた新聞をビリビリと引き裂いてしまった、という。その怒りを次のように説明する―

「公益」「公の秩序」とはいくらでも広げて解釈が可能である。要するに「権力者」の利益と同義であり、それに反するものは「認められない」。すなわち罰せられる、弾圧されることは明らかだ。昭和史が証明している。
改元から昭和20年8月15日までの昭和史において、言論と出版の自由がいかにして奪われてきたことか。それを知れば、権力を掌握するものがその権力を安泰にし強固にするために拡大解釈がいくらでも可能な条項を織り込んだ法を作り、それによって民草からさまざまな自由を奪ってきたことがイヤというほどよくわかる。権力者はいつの時代にも同じ手口を使うものなのである。
改憲草案の9条2項は「国防軍創設」を明言し、集団的自衛権の行使を可能にする。不戦の誓いである憲法9条を戦争ができる条文に変えているのが、改憲草案の真髄だ。安倍政権の真骨頂でもある。


11日、TVキャスターたちが「秘密保護法反対」の記者会見を開いた。筆者が「遅きに失したのではないか?」と質問すると、岸井成格氏(TBSに出演/毎日新聞特別編集委員)は「こんな法案がまさか通るとは思っていなかった」と説明した。
ベテラン政治記者の岸井氏が、自民党の改憲草案を読んでいないはずはない。安倍晋三首相のタカ派的性格を知らぬはずはない。

半藤氏と保阪氏はメディアの戦争責任を厳しく追及する。軍部の検閲で筆を曲げられたと捉えられているが、そうではない。新聞は売上部数を伸ばすために戦争に協力したのである。
日露戦争(1904年~)の際、「戦争反対」の新聞は部数をドンドン減らしたが、「戦争賛成」の新聞は部数をガンガン伸ばした。日露戦争開戦前と終戦後を比較すると次のようになる―

『大阪朝日新聞』11万部 → 30万部、
『東京朝日新聞』7万3,000部 → 20万部、
『大阪毎日新聞』9万2,000部 → 27万部、
『報知新聞』  8万3,000部 → 30万部
『都新聞』   4万5,000部 → 9万5,000部

いずれも2倍、3倍の伸びだ。半藤氏は「ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだ」「“戦争は商売になる”と新聞が学んだことをしっかりと覚えておかねばならない」と指摘している。

半藤氏はとりわけ朝日新聞に厳しい。満州事変が起きた昭和6年当時に触れ「朝日新聞は70年社史で“新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた”とお書きになっているが、違いますね。商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ」と。
『大阪朝日』は満州事変直後までは反戦で頑張っていたが、不買運動の前に白旗をあげた。役員会議で編集局長が「軍部を絶対批判せず、極力これを支持すべきこと」と発言した。発言は憲兵調書に残っている。会社の誰かが憲兵に会議の内容を渡した、ということだ。

「民主主義のために新聞・テレビが戦っている」などと ゆめゆめ 思ってはいけない。ブッシュ政権のイラク侵攻(2001年)を小泉首相が支持すると、日本のマスコミはこぞって戦争賛成に回った。
国民に消費税増税を押し付けながら、自らには軽減税率の適用を求める。これがマスコミの実態だ。彼らは部数を伸ばし視聴率を上げるためなら、国民を戦争に導くことも厭わない。

(出典:『そして、メディアは日本を戦争に導いた』より)
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下記リンクも読まれたし。

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「レイバーネット」
国会前で「秘密保護法反対」座り込み始まる~新社会党が呼びかけ
http://www.labornetjp.org/news/2013/1118shasin
「Finance GreenWatch」
スイスメディアも日本の特定秘密法案に懸念
http://financegreenwatch.org/jp/?p=38379
「かっちの言い分」
ばかな自民党の補完野党が、戦後最大の悪法制定に加担する
http://31634308.at.webry.info/201311/article_15.html
「カレイドスコープ」
秘密保護法案21日にも衆院通過か、そのとき自民党も終わる
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2484.html



「村野瀬玲奈の秘書課広報室」11月19日
「みんなの党」が特定秘密保護法案成立に向けて自民党に協力。「みんなの党」に抗議したい。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5024.html

(抜粋)

「みんなの党」が自民党に協力する「合意」がなされたと報道されています。みんなの党は自民党と違いはないと思っていましたからそんなに驚きはありませんが、「残念」です。それに触れたツイートで、同意できるもの、私が気づかなかったことを指摘していたものをメモ。

Pumpkin King @japanwings
みんな反対してるのに、どこらへんが「みんなの党」なのでしょうか?

はたともこ @hatatomoko
みんなの党が秘密保護法案で自公と修正合意、賛成するとの報道。首相が特定秘密の指定・基準作成など「首相が指揮監督」の修正内容。右傾化・軍国主義化の張本人・安倍総理が監督すれば、改善どころか改悪!みんなの党の山田太郎・川田龍平参院議員は反対勉強会の呼びかけ人。一体どうなっているのか。

Shoko Egawa @amneris84
この報道が事実なら、みんなの党は終わりですにゃ。官僚支配の打破を言いながら、官僚の情報支配を促進する法律に協力するとは。 →秘密保護法案:与党とみんなの党 19日大筋合意の見通し

徳永みちお @tokunagamichio
プライムNを見ていたら、みんなの党の浅尾が、特定秘密の指定を「政府」ではなく「首相」が定めるとした案を提示して特定秘密保護法案に賛同するとアホな事言ってたけど、、それって首相の胸三寸で、どんな倒閣運動も特定秘密違反ということで公安を使って阻止出来るようになるということじゃん!

ジャーナリスト 田中稔 @minorucchu
特定秘密保護法案の修正協議。けさ、NHKで安達宜正解説委員が指摘した通り、みんなの党が与党と合意する方向になった。ただ、衆議院の採決はこれから。参議院もある。反対世論を盛り上げ、廃案に。民主主義を守る戦い。

renbou-T @renbouT
秘密保護法案の「修正」協議でわかったことがある。法案を自公は胸を張って語れないのだ。だから法案成立にむけた共同戦犯が必要なのだ。国民の圧倒的な共感・支持を得られず成立させられる法律は法律と呼べるのか。与党がどんな形で法案を強行しようとも、必ず大波乱がおきる。

満田夏花 @kannamitsuta
本日、40人の市民が、みんなの党を中心に議員事務所まわりをまわり、「妥協せずに、反対を!」と訴えました。
明日(11/19)もやります!
⇒ ☆市民500人で国会に行こう!☆ STOP!! 秘密保護法 みんなのアクション

深草 徹 @tofuka01
特定秘密保護法案、自民、公明には反対を、みんな、維新、民主には部分的修正で成立させてはならないことを一人ひとりの創意と工夫で訴えましょう。この1週間、インターネットの力で生まれ変わりつつあるグラスルーツ・デモクラシーの輝かしい成果を歴史に刻みつけるべく頑張ろうではありませんか。

キレネンコ 特定秘密保護法案にNO @YumGreens
正念場です。みんなの党本部に明日の朝行ける人は行きましょう。
みんなの党は、自民の〝補完勢力〟として、秘密保護法を明日採決しようとしています。もう声を上げるのが明日しかないのです。

社民党OfficialTweet @SDPJapan
【秘密保護法案 廃案しかない】
秘密保護法案に反対する超党派国会議員の街頭宣伝が13日、東京・有楽町で行なわれ、社民、民主、共産、生活、新党大地各党の議員が参加した。
(社会新報11月20日号)


さらに重要な指摘を追加。


ののまみ 秘密保護法反対を議員に伝えよう @nonomami
フクイチ4号機燃料棒取り出し・・・わざと秘密保護法とぶつけてくる・・・同時多発で情報操作。秘密保護法のニュースが消える・・・これぞ「静かにやろうぜ」の<ナチスの手口

兵頭正俊 @hyodo_masatoshi
御用メディアの4号機の伝え方は、典型的な愚民観に基づいている。つまり取り出し作業が失敗したときに愚民どもに非難されないように、ニュースとしては流す。しかし、愚民どもがパニックに陥らないように、真実は語らない。これが、特定秘密保護法案を先取りした「公益を図る目的」の報道なのである。

FUJII Hiroyuki @fjhiro3
戦前も大政翼賛会化して民主主義が破壊されたわけだがまた繰り返すのか。「公明・維新・みんな」の罪は重い。
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数日前の、愛するウチダのツイート。

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内田樹 @levinassien
電話取材で「小泉元首相の脱原発発言をどう思うか?」アンケート。小泉さんがフィンランドに行ってそこで放射性物質処理の難しさを知って反原発に転じたというストーリーを本気にしているジャーナリストがいるとしたら、よほどナイーブな方でしょうとお答えしました。

内田樹 @levinassien
フィンランドに行くまで放射性物質の処理の技術的困難さについて「知らなかった」政治家が日本の原子力行政のトップにいたという話を信じる人がいることが僕には信じられません。彼は「複雑な問題を単純な問題に還元する」政治技術の達人です。そのことをみんなもう忘れちゃったのかな。

内田樹 @levinassien
かつては靖国神社公式参拝の有無に外交問題を縮減して「首相が靖国に行くかゆかないかを世界中が固唾を呑んで見守る」という特権的状況を作り出しました。その次は日本社会のすべてのシステム不調を「郵政民営化されていないからだ」というシングルイシューに還元して選挙に圧勝しました。

内田樹 @levinassien
複雑な政治的ファクターをわかりやすいシングルイシューにとりまとめて、それを仕上げて「すべては解決した」と言い切って、ほんとうの問題から国民の目をそらせるように仕向ける技術において、小泉さんは天才です。たいしたものです。今だってすべてのメディアが手のひらで転がされている。

内田樹 @levinassien
今の問題は「最終処理場があるのか、ないのか」だけに縮減されました。「ない」なら原発を止める、はい、おしまい。それまでの原子力行政のすべての失態と犯罪的行為についてはさらりとスルー。「処理場がある」なら原発再稼働を阻害する理由は何もない、という話になります。

内田樹 @levinassien
安倍自民党のアイディアは、小泉反原発をレバレッジにして原発問題を「ゴミ捨て場の有無」に縮減し、「捨てる場はある、だから原発再稼働に問題はない」という結論に世論を誘導することだと僕には思えます。どこにあるのかって?安倍さんが「完全にブロック」したがっているあそこですよ。

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まったく、いったいどこのどなたさんたちがジミントーを支え続け、アホアベを育てて担ぎ出し、またしてもジミントーを勝たせて、第二次大日本帝国へと突き進ませているのか。ジミントー支持者たちに唾吐きたい気分だが、その唾は私自身に跳ね返る。この事態は私たち全員の怠慢の賜物だ。だからこそ、いまはなにがなんでも反対の声を挙げなくてはならない。

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「原発隣接地帯から: 脱原発を考えるブログ」
β線汚染物質、明らかに海へ
http://fkuoka.blog.fc2.com/blog-entry-971.html

「JANJAN Blog」
子どもたちに負の遺産は残せないー熊谷あさ子さんの遺志ー
http://www.janjanblog.com/archives/103763

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下記は少し前のエントリーだが、いま一度読み返したい。

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「福島 フクシマ FUKUSHIMA」
汚染水より深刻  使用済み核燃料の取り出し ――収束作業の現場からⅡ
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/
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今朝の新聞には燃料棒取り出し!と嬉しそうな見出しが躍っていた。なんだか「できたよママ!」みたいな。しかしとてつもなく危険なのだ。危険は危険なのである。国は知っているのだ。再度村野瀬さんち。

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「村野瀬玲奈の秘書課広報室」
関東以北への「警戒」
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5025.html

これは一つの重大な警告。

ケイシー まつおか @Casey_Matsuoka
危機管理会社より連絡がありました。
18日から2週間、警戒レベルが上がります。
「火急の用以外の東北・関東へ渡航自粛」から
「関東以北への全面渡航自粛」に。
子供がいるアライアンス企業従業員に
家族の帰国を勧め、帰国できない場合も
すぐに出国できるよう常時準備を要請されています。
2013年11月17日 5:34 AM

ケイシー まつおか @Casey_Matsuoka
【緊急のお願い】
大地震、原発事故の被害状況は
まず在日米軍、在日公館、主要外資系企業に
伝達されます。
地震発生時は在日米軍の動きにご注目下さい。
また、外資系企業のお知り合いのご家族からも
情報を収集して下さい。
3日分の食料・飲料水・防寒具・薬品等の
ご常備もお願いします。
2013年11月17日 5:44 AM


なぜかといえば、『東電福島第一原発の燃料棒取り出し作業には人類史上最大級の危険が伴うと思った方がよいのか。 (4)』で書いたことが理由と考えられます。

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この警告を押さえつつ、騒ぎに乗じどさくさにまぎれて全部やりたい放題しようとするアホアベ一味を放置してはならない。ったく、サイテー。

Tu peux enlever de la peau de pomme sans cassée?2013/10/31 20:02:26

史上最強の雑談(6)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


ある知人が、齢93になるさる御方から茶を習っている。93という御歳で人にものを教えることができるという、その事実だけでもうひれ伏したいくらい尊敬に値する。わたしは茶道はまったく門外漢だが、そのことは今さらどうしようもないので恥じることはないと思っている。しかし茶道を心得た人(にもいろいろあるので一概には言えないけれども)はおしなべて態度が謙虚で(態度だけだったりもするけど)、気働きにすぐれている。気が利くのである。みなまで言わずとも判じるのである。冴えているわけである。さらに、茶を嗜む人は食事の時など手の動作が美しい。もちろん立居振舞もたおやかできれいだ。それは、舞踊をする人のピシッと背中の伸びた美しさとはちょっと違う。もう少し、体の重心が下に位置しているような、そして危なげなく、しかしけっしてどっしりしているのではなくて、和服の裾さばきも軽やかに、しなやかに動作されるのである。凛々しさとなよやかさが共存し均衡した美しさを保つのは日本人のなせる業だと思うのだがどうであろうか。
知人が知る茶人には90を超えた人がぞろぞろいるといい、どの御方もしゃきっとなさってて頭脳明晰言語明瞭、茶の湯の心を後世に伝えねばという使命感の強さには圧倒されるという。知人の師匠も、そうと知らずにそのかたを街角で見かけたらたぶんただの縮こまったお婆さんにしか見えないのだ。見えないのに、ひとたび茶室に入ったら彼女は縮こまった婆さんなどでは全然なく、360度の視界をもち些細な瑕疵も見逃さず間髪入れずに叱咤するスパルタ師匠なのである。怖い(笑)。
美を愛でる、美を追求するということは特別なことではない。足元に落ちてきた枯葉の色に季節を感じたり、絵具では出せない微妙な色を見出したり、その葉にもかつて命が宿っていたことに思いを馳せたり。だか、といったようなことは、いちいち言葉にするとめんどくさいが、人であれば瞬時に心をよぎるのである。きらりん、とからだのどこかに響くなにものかだ。理屈でなく、情緒なのである。いい男とすれ違うその瞬間に胸キュンとなるその感じ、それはただキュンとするだけである。ただううっとかおおっとか胸に迫るものがあったり、ぎゅっと心をつかまれたりぐりぐりされたりする感じ。おお、前からよさげなスーツを着て歩いてくる30代後半とおぼしき青年は目鼻立ちがすっきりくっきりしていてなかなかイケメンな感じだわおいしそうだわつまみぐいしたいわ、なんて、言葉にしてしまうとたしかにこれくらい、あるいはこれ以上の感動(?)を、0.001秒くらいの間に胸に響かせているにしても、言葉でなく情緒で人は喜怒哀楽を素直に感じては吐露するものなのである。毎秒のように。

情緒豊かな人は、生命の尊さにあふれているのである。それは純粋である。

《岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起きないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。》(「人間と人生への無知」45ページ)

《岡 (前略)欧米人には小我をもって自己と考える欠点があり、それが指導層を貫いているようです。いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争が内容である間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。》(「人間と人生への無知」48ページ)

《岡 (前略)何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやった方が幾分利益があればできるものです。(中略)人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。(中略)大自然は、もう一まわりスケールが大きいものかもしれませんね。私のそういう空想を打ち消す力はいまの世界では見当たりません。ともかく人類時代というものが始まれば、そのときは腰をすえて、人間とはなにか、自分とはなにか、人の心の一番根底はこれである、だからというところから考え直していくことです。そしてそれはおもしろいことだろうなと思います。》(破壊だけの自然科学)55~58ページ)

《岡 (前略)つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその現れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と呼んでいるわけです。
 そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と呼んでおります。どうも前頭葉はそういう構造をしているらしい。言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情熱が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。(後略)
(中略)
 岡 きょう初めてお会いしている小林さんは、たしかに詩人と言い切れます。あなたのほうから非常に発信していますね。》(「美的感動について」71~74ページ)


情緒豊かな人は、詩人でもあるだろう。やなせたかしは詩人だった。わたしは、たった1冊持っているやなせたかしの詩集の中の、りんごの皮を切れないようにむく、という短い詩が好きだった。切れずに長く手許から下がっていくりんごの紅い皮、それはまるで赤い川のようでもあった。彼のその詩を読んで以来、わたしはりんごの皮を剥くときはただひたすら切れないように剥くことだけを念頭において剥くようになった。あとから実を切り分けること、芯を取り除くこと、食べること、料理に使うことなど何も考えず、巻きぐせのついたリボンのようにくねくねと垂れ下がるりんごの皮の姿を想像しながら(だってそれをリアルに見ながら剥くことはできないから)。何年も何年もあとになって、小学校の家庭科の宿題にりんごの皮むきをマスターせよといわれた娘が、不器用な手で、無心に、りんごの皮を切れないように丁寧に剥く、その剥かれて垂れ下がるりんごの皮を見てわたしは、昔好んだやなせたかしの詩の数々を思い出した。今は我が家では、りんごは皮を剥かずにいただくのを常としているので、もうりんごの皮を切れないように剥くことはしなくなった。それでもわたしはりんごを使って料理をするとき、やなせたかしの詩のフレーズと、切れることなく剥けたりんご1個分の「赤い川」、得意げにそれを両親と弟に見せる自分、娘に見せる自分、わたしに見せる娘、そしてそれぞれの感嘆の声などが、ひゅんひゅんと脳裏を交錯するのを感じる。だからどうだということはない。これまでもなかったし、いまもない。やなせたかしさんは矍鑠としていつもお元気そうだった。おそらく亡くなる間際まで、しゃきっとして、りんごの皮を切れないように剥いておられたであろう。きっとそうに違いない。詩人だったから。

C'est l'automne...2013/10/06 12:45:02

空の真ん中に白いすじ。いったいどこから飛んだ飛行機がそんな飛びかたをしたのか。はたまた、落ちたのか? ちなみにこれは東の空。


『辰巳芳子のひとこと集
   お役にたつかしら』
辰巳芳子著
文藝春秋 (2013年)


辰巳芳子さんを尊敬したり敬愛したり、ヅカファンのように盲信的に愛したり、ストーカーみたく追っかけしたり、ただひたすらその料理指南書を学んだり、とにかく辰巳センセはスンバラシイ!と崇拝する人は今や山のようにいると思うが、私も、いや私は盲信してないし追っかけてないしそんなに料理を研究してもいないけど、私もその山のような人々のひとりである。

本書は、ここでも何度か取り上げたことがある、辰巳さんの「鋭いひと言」をかき集めた本である。なんでまたそんな本つくるねん、と思った。たしかに辰巳さんの言葉は重いし忘れがたいけど、それは料理をはじめとする、食を中心にした生活のありさま、季節の移ろい、そうしたものとともに綴られるから意味をもち、色みを帯び、重さを増すのであって、言葉だけを切り取って、そんなアータ、世界の格言名言集やないねんから、逆効果やないやろか〜と思ったんである。

私は、実はそれほど辰巳さんの本を読んでいない。日本の食文化に警鐘を鳴らした2、3冊の単行本と、いつかマイブログで紹介した小振りなスープのレシピ本だけである。オフィシャルブログにリンクを張っているけれど、正直、ときどきクリックして穏やかなご尊顔を拝するだけである。
そして、この人のお母様には、芳子さんがいたけれども、この人には、この人の料理を継承する人がいるのだろうかと、ちょっと心が曇る。
こんなに本をバンバン出して、映画もつくって、お弟子さんもぎょうさんいるみたいやし、レシピの継承は誰かが(というかみんなが)するとは思われるが、私は「辰巳芳子」をそんなに普遍的な、シンボライズしたものにしてよいのか、という疑問が少しある。
ボキューズとか、リュカ・カルトンとか、デュカスとか、レストラン経営の多国籍企業の「顔」ならいいんだけど、辰巳さんのメッセージって、つまるところ「おうちでご飯つくりなさいよ、家庭の味を大切にしなさいよ」ということだと思っている。味覚は人それぞれ固有にもつものだし、それに左右される家庭料理は間違いなく、家庭の構成員の好みや賛否に揺れながら、何らかの形、何らかの味つけを構築されて、その家の真ん中を流れる大河、というか地下水脈、つーか動脈のように、生命線のごとく流れて維持されて受け継がれていくものだろう。たいそうな表現をしたが、早い話、おうちでご飯つくりましょう、なのである。ならば、なんというのか、「辰巳芳子語録」というのはもしそれが彼女のいう「おうちでご飯つくりなさい」を幹にした枝葉のひとえだ、ひと葉、なのだとしたら、いわば「辰巳家」固有の、ごくプライベートな言葉としてそっと仕舞われて、しかるべきところにだけ開陳されていればよいはずである。

でも、もはや「辰巳芳子」は辰巳さんひとりのものでなくなっている。そんなの、とっくにご本人は自覚なさっていることだろう。なさっているだろうけれど、こうしてさまざまな出版物や映像で広く行き渡らせることは、けっして彼女が受け継いだ辰巳浜子の味や心を、誰かに遺伝することにはならないのである。そう思うと、やはり心が曇る。

本書には、私ごときの半端な辰巳ファンにも目に覚えのある辰巳語録が満載である。そして、お母様/辰巳浜子さんのことだけでなく、半端なファンである私はあまり知らなかったお父様のことも書かれている。辰巳さんは父も母もたいへん愛しておられた。戦争、高度成長、公害、バブル、震災、原発汚染。父と母への、そのまた父たち、母たちへの、揺るぎない愛と信頼なしには生き抜いてこれなかったかもしれない。本書の価値は、たぶん私ごときにそのように思わせた一点に尽きるかもしれない。

辰巳さんだけではない、1920年代生まれの、90歳を超えた、あるいは超えようとする人々の言葉は、もっともっと聞かれ、書かれ、伝承されなくてはならないはずだ。お元気でご長寿、いいですねえ、なんていっている場合ではない。このかたがたのほんの2、30年あとの世代にはどこかのソーリ大臣みたいに、戦争知らないから戦争やりたくってしょうがないのボク、みたいな極右アホぼん目白押しなのである。アホぼんどもにいいようにされないためには、さらに後続の私たちが、先人の言葉と知恵と行動に学ばなければならないのだ。

秋である。読書の、にしたい秋である。

Si ça vous intéresse...2013/10/03 11:50:44

正式には明日が発売日なのですが、すでにオンライン書店では注文可能となっており、また監修者さん主催の会合ではすでに出席者に配布されたとの噂が。

よろしければぜひお手にとってご覧くださいませ。
ご興味を惹きますようなことがありましたらぜひお買い求めくださいませ。
なお、記載内容につきましては当方は一切の責任を負いませぬ(笑)。
なにこれ? と不審に思われた点も、うっそー! と仰天なさった点も、その時どきの笑い話として後日の酒の肴に、いえ、いやいや何ゆうたはりますのん、そんなんいうたらお酒の席に失礼でっしゃろ、お認めにならはったけったいなとこは、そのつどせえだいこそっと水に流しとくりゃす。

とかなんとかゆっちゃってえー

そんなわけなので、ま、ひとつ騙されたと思って買うとくれ!!!
Merci beaucoup, merci mille fois!

Parce que c'est l'imagination, le math!2013/09/17 19:13:31

史上最強の雑談(5)

『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)


「史上最強の雑談」についてのコメントを再開。購入以来何度も繰り返し読み、ブログに感想を綴り始めてからも幾度となく読了しているし、読めていないわけではないのだけど、あまりにも内容が「この国の今」への忠言めいていて、ふんふんふーんと読み流し&書きなぐるわけにはいかないという意識が強く働いてしまって、ブログに書くならきちんと書かないとな、と思って先送りばかりしているのである。やっとアップできる程度にまとまった(かな?)。

まったくもって本当に痛快、半世紀前の対談とは思えないほど、現在に通じる。

数学者の藤原正彦さんが著書『祖国とは国語』のなかでさかんに「情緒」という言葉を使っているが、数学をやる人って、数字と記号と図形とx軸・y軸しか頭の中になさそうなのに(失礼。笑)、意外とロマンチストであり芸術家肌であり、花鳥風月を愛でる人だったり、センチメンタルで涙もろくて夢追い人だったりする。

高校時代に習った数学教師は二人いて、どっちの発言だったか覚えていないが、

「平行線は永遠の彼方で交わるんだよ」

私は耳を疑ったものだ。ほんとうに交わるのかどうかはどうでもいいが、そいつ(つまりガチガチの数学教師)の口から「永遠の彼方」なんつう言葉が出てくるなんていう事実に仰天した。
私はますます数学と数学者を敬遠するようになり、美大時代は、一年次で単位取得すべき一般教養科目群に数学も並んでいたし、デザイン学部はほぼ全員が選択していたが、恐ろしくて避けたのだった。何を恐れたのだろう? 数学教師に惚れてしまうのを恐れたのである。

人は見かけによらない、とよく言う。私は「見かけによらない内面」をもつ人にてんで弱い。顔はイケてないけどハートはイケメン、ガリガリ痩せっぽちだけど力持ちで寛容。そんな人、素敵やん。私の中でステレオタイプのように在る「Aの人はア」「Bの人はイ」という図式にあてはまらない、「Aなのにイ」みたいな人に出会うとわりかし簡単にノックアウトされるのである。ま、それで失敗も多々あるけれど。
(だって往々にして「Aなのにイとみせかけてやっぱしコチコチのア」だった、ってことはよくある。笑)

数学系の人を避けて生きていたはずだけど、まさかの留学中に引っ掛かってしまった。夏季集中講座受講のために滞在したグルノーブル大学の9月期のクラスで、ドイツのカールスルーエから来たステファンに出会った。隣り合わせに座り、会話のレッスンなどで組むうち意気投合してクラスの前後にお茶したり食事したりするようになった。ソフトな外観に舌足らずなドイツ訛りのフランス語がキュートだった。一緒に街を歩くときはよく画廊を覗いた。展示作品を観て「なんだか主張が感じられないわ」「観る人に媚びてるような受け狙いの作品ね」などと私が知ったふうな口を利くと、「僕は門外漢だからわからないなあ」「きれいなものはきれいだし、やあきれいだな、ハイ終わり、でも別にいいじゃん」なんて言う。ある抽象的な立体作品についてどう思うか聞いたとき。彼は「これ、作者の恋心だな、きっと。もやもやしてて不定形だけどカラフル。恋愛ってそういう感じじゃん?」と、ドイツ人にしては気の利いたセリフを吐いた。なかなかやるなおぬし、みたいな気持ちが私の中にむくむくと起き上がりつつあった。
でも、私はモンペリエに引っ越すことが決まっていたので、あまり親しくし過ぎないようにしようと思っていた。すでにグルノーブルにたくさん友達ができていて、彼ら彼女らと別れるかと思うとけっこう辛かった。ステファンは私に何度もホントにモンペリエ行っちゃうの?と訊いた。ステファンはグルノーブルに残って正規学部生として学業を続けることになっていたのだ。

「ここで何の勉強するの? 何の専攻?」
「数学だよ」

ステファンは数学専攻の学生だったのである。なんと、まあ。どうしよ。私は、自分の気持ちが歯止めの効かないほうに移動しつつあるのをはっきりと感じていた。ヤバい。

「数学を学ぶ者にとってフランスってのは特別な国なんだ」
「どうして?」
「有名な学者はみんなフランス人で、数学者か哲学者あるいは両方だろ」
「そうなん? 私知らない。あ、パスカルとか?」
「また大人物を例に出したもんだね(笑)。もっと近いところでもたくさんいるんだよ、○○とか△△とか……」
「ふーん」
「それに、フランスで数学を学ぶことにもすごく意味があるんだよ」
「なんで?」
「だって数学はイマジネーションだからさ」


  *

「だって数学はイマジネーションだからさ」

ゆってくれるじゃないの、ステファン。このときの私に、高校時代の教師の言葉「永遠の彼方」の記憶が蘇ったわけではなかったけれど、「印象を裏切る数学者の公式」が体感としてどこかに残っていたのだろう、私は自分で「今まさに数学者にノックアウトされかかっている自分」を感じていた。

本書『人間の建設』は、私の時空を超えたアイドル小林秀雄の著書だから買い求めたのだが、上で述べたような気持ちの揺れ動きを、雑談相手の数学者・岡潔に感じている。
というより、小林が数学者と対談していることは表紙にも帯にも明記してあるのだから、私は最初からそれと知ってこの本を読み始めたのである。つまり、青春時代、数学者に覚えたときめきを追体験したかったのだろうか。あの日あの時の数学系男子を捕まえときゃ、今の体たらくはなかったかもしれないなあ。
なんて悔恨を反芻するだけはつまらないから、ここはひとつ、めいっぱい岡潔にときめいちゃうことにする。おほほほほ。



《岡 (前略)欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人も置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危いというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手の人も、やむを得ずまた載せて、ついにばらばらと全体がくずれてしまう。これ以上積んだら駄目だといったって、やめないでしょうし、自分の思うとおりどんどんやっていって、最後にどうしようもなくなって、朝鮮へ出兵して、案の定やりそこなった秀吉と似ているのじゃないですか。いまの人類の文化は、そこまできているのではないかと思います。(中略)欧米の文明というものは、そういうものだと思います。
(中略)
 小林 数学の世界も、やはり積木細工みたいになっているのですか。
 岡 なっているのですね。いま私が書いているような論文の、その言葉を理解しようと思えば、始めからずっと体系をやっていかなければならぬ。
(中略)
 小林 それが数学は抽象的になったということですね。そういう抽象的な数学というものは、やはり積木細工のようなものですか。
 岡 いろいろな概念を組合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重にも複雑になされている。(後略)》(「数学も個性を失う」29~31ページ)


原発なんか張子細工やんけと思っていたが、積木細工のほうがぴたりとくるかもな。ジェンガみたいなもんかもな。


《岡 (前略)世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。西洋の歴史だって、ローマ時代は明らかに暗黒時代であって、あのときの思想は功利主義だったと思います。人は政治を重んじ、軍事を重んじ、土木工事を求める。そういうものしか認めない。現在もそういう時代になってきています。ローマの暗黒時代そっくりそのままになってきていると思います。これは知力が下がったためで、ローマの暗黒時代は二千年続くのですが、こんどもほうっておくと、すでに水爆なんかできていますから、この調子で二千年続くとはとうてい考えられない。徳川時代はずいぶん長いと思うけれども三百年です。このままだとすると、人類が滅亡せずに続くことができるのは長くて二百年くらいじゃないかと思っているのです。世界の知力はどんどん低下している。それは音楽とか絵画とか小説とか、そんなところにいちばん敏感にあらわれているのじゃなかろうかと思うのです。音楽だって絵画だって美がわからなくなっている。(後略)》(「数学も個性を失う」33~34ページ)


現代日本はローマ時代より明らかに知力が低いから暗黒時代なんてもんじゃないよね。ずっと先の未来で、人類が今の私たちの時代を振り返ったときなんと形容するだろう? 暗黒より暗くて黒い、闇夜より泥沼より奈落の底より暗い社会。首脳の「脳」の程度が低くて、人種差別や弱い者いじめは得意な国。金儲けが下手だから余計に躍起になってカネカネカネと目を血走らせる国。そんな国に洗脳され、人と自然が共存していた本来のこの郷土の美しさを忘却の彼方へ放り投げてしまった人々。


《小林 (前略)たとえばベルグソンがアインシュタインと衝突したことがあるのですが……。
(中略)
 ベルグソンに「持続と同時性」というアインシュタイン論があるのです。アインシュタインの学説というものは、そのころフランスでも、もちろん専門的な学者だけが関心をもっていたもので、ああいう物理学的な世界のイメージがどういう意味をもつかということは、だれも考えてはいなかった。はじめてベルグソンがそれに、はっきりと目をつけたわけです。
 岡 おもしろいですね。
 小林 それで批評したのですが、誤解したのですね。物理学者としてのアインシュタインの表現を誤解した。それでこんどは逆に科学者から反対がおこりまして、ベルグソンさん、ここは違うじゃないかといわれた。ベルグソンはその本を死ぬときに絶版にしたのです。
 岡 惜しいですね。それは本質的に関係がないことではないかと思いますね。
 小林 ないのです。というのは、私の素人考えを申しますと、ベルグソンという人は、時間というものを一生懸命考えた思想家なのですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。
 岡 当然そうですね。そうあるべきです。
 小林 アインシュタインは四次元の世界で考えていますから、時間の観念が違うでしょう。根本はその食い違いです。
 岡 ニュートン以後、物理学でいっている時間というものは、人がそれあるがゆえに生きている時間というものと違います。それは明らかに別ですね。
 小林 そこが衝突の原因なんです。
 岡 そうですか。そんなところで衝突したって。絶版にする必要がないのに。
 小林 だから、おれとおまえとは全然ちがうのだ、といってしまえばよかったのです。》(「科学的知性の限界」35~37ページ)


雲仙岳噴火から22年、奥尻島の津波から20年、阪神大震災から18年が過ぎた。新潟中越地震から9年、台風23号からも9年、東日本大震災から2年半、台風12号から2年が過ぎた。
でも、数字は物理的時間でしかない。被災した人、災害で大切な人を亡くした人、生活を根こそぎ奪われた人たちにとっては、時間のカウントなど意味をなさない。私たちはコンマ01秒単位の世界で記録に挑むアスリートの活躍に一喜一憂するが、そこでカウントするタイムと日々生きながら流れる時間とは種類が違う。


《岡 (前略)数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないと説いて聞かしたって無力なんです。(中略)矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。(中略)人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです》(「科学的知性の限界」39~40ページ)


数学の世界だけではないだろう。iPS細胞とやらについても、はたしてみんな「感情」が納得しているのか? 山中教授はとてもナイスガイなので彼の業績にケチをつける気は全然ないけれど、私は、それでいったいヒトをどうしようというの? とでもいえばいいだろうか、ある種の、釈然としない何か、腑に落ちない何かがつっかえて、素直にすごいすごいといえなかったりする。

画期的研究についてさえ、そういうケースはあるのだから、あほぼんどものやってるママゴト政治なんざ矛盾だらけであり、それを解消する知性なんざ彼らにはかけらもない。ましてや誰の「感情」も、極右あほぼんどものお遊びを受容したりするわけはないのである。ああ、もういい加減にしてくれよな。

それにしてもときめくでしょ、岡潔!