Normal! ― 2012/05/08 00:17:04
http://blog.tatsuru.com/2012/05/07_1159.php
動かそうと思えば動かせるもんがたまたま今止まっているだけなんだから、私は他の反原発派さんたちのようにバンザーイとは喜べない。まず全ての原発の廃炉を決め、その段取りを道筋つけ、廃炉へのアクションが実際に起こってからしか、喜べない。
それに、考えることはいっぱいあるんだよね。
↓ いちばん下まで読んでね。
http://shinosoryushi.blog121.fc2.com/blog-entry-388.html
そういや小出さんが「原発というのはいわば巨大な『海温め機』なんですよ」ってゆうたはったなー。
本当に、罪な物体なんだよね。
Fatiguée!!! ― 2012/04/25 23:47:25
疲れた(-_-;) 疲れた(-_-;) 疲れた(-_-;) ⊂(_ _⊂⌒つドテッ
って、なんか娘のブログみたいになってる(笑)
1年半くらい前、とあることで医者に診てもらったがそのときひどく顔色が悪いと言われた。顔色が悪いというのはよく言われることで、私は若い頃からあまり血色は良くないし、低血圧だし、地黒だし。だからその医者にも「あ、あたし、いつもそういわれますよ」というと医者は私の言葉などまるで聞いてないように、その顔はかなり貧血だと思う、念のため血液検査をしましょうといった。
で、私の血液を検査に出してくれたんだが。
来週また来なさいと言われていたんだが。
別に他意はなく、検査の結果が怖いとかアテにしてないとかそんなこともまったくなく、ただただ仕事に忙殺されて、別に悪いところもないのにただ検査結果を聞くためだけに医者に会いに行くことにあまり重要性を感じなかったからに他ならないのだが、本当に余分な時間が10分もなくて、電話すらできないまま、1年半も経ってしまった。
で、別に検査結果が聞きたくて1年半ぶりにその医者に会ったわけではなく、1年半前にあった症状がまたちょい出たので薬を処方してもらおうと訪れたのである。
ありましたよ、検査結果。
ファイルをがさごそ探してくれていた助手さんが、数値を打ち出したレシートを手渡してくれた。
相当な貧血でしたね。今は少し回復されていると思いますが、この値はひどいです。
医者はそう言ったあと、「また1年半後ではなく、せめて半年以内になんとか時間を作って、きちんと検査を受けてくださいね」と無理に目元に笑みをつくった。
マスクをしているので顔の表情が半分しかわからない。
だからことさらおおげさに「目」で表情をつくろうとしているように見える。
いささか不自然だ。
もらった検査結果を調べると、赤血球の数は十分なのだが、赤血球の質がよくないようだった。ヘモグロビン(色素)が足りない、ヘマクリット(だったっけ? タンパク質)も全然足りない。
健康、というか正常な赤血球の状態が硬式野球ボールとしたら私の赤血球は空気の抜けたゴムまり、というところか。そんな品質でいくら数だけ揃っていてもしゃあないのだ。
んなこといわれてもなあ。
疲労感じたいはいつのときも何かに熱中したあとにはやってくるもんだから嫌いではないが、たしかにここ数年の、端的に仕事「だけ」が原因の疲労感は不快きわまりない。もうアタシには明日の朝は来ないわと本気で覚悟するほど困憊して床につく、そんな状態はたしかに精神衛生上もよくない。疲れても疲れても疲れても、今日はシュートを5本決めたわよ、とか、今日はこの子といないいないばあーして遊んだのよ、とか、泣き止まなくて困ったわ、とか、お喋りなおばさんにつかまっちゃって、とか、そんなことなら、私は健やかで快い眠りにすやすやとつくことができるであろう。疲労の大きな原因のひとつ花粉について思いをめぐらすと私の思考回路はこの国の政治の無策にまたしてもワープするのでそれはできるだけしないようにし、会社の仕事を思い出すと仕事ができないどころかひとりの社会人として成人としてその存在意義を疑わねばならないような面々がモグラたたきのモグラのようにぼこぼこ出てきて夢にまで出てうなされるだけなのでそれもやめるようにしなくてはならない。
いいことだけを考えるようにしよう。
今年もまたやって来たアシナガバチの巣作りとか。
今年もまた咲いた梅と桜とロマランとカメリアのこととか。
ローレルの枝をお裾分けして友達に喜んでもらったとか。
どうやらニコラが一期だけで退場するかもしれないとか。
申請していた奨学金の審査に通ったと聞いたこととか。
娘がお弁当をおいしいといってくれたこととか。
思考が上向きになったところで(笑)お米セットしてお風呂はいって寝ることとしよう。
それにしても疲れた。
疲れたっ……
いかんいかん。
A voir! ― 2012/03/21 12:14:00
http://dai.ly/ybsXau
(前にリンク貼った記事内のURLも訂正しました)
ついでにこれもぜひご覧あれ。
http://dai.ly/xg2lcr
*
考えることはいろいろある。
大切なものを喪失した人々の悲しみや辛さ。それは、「悲しみや辛さ」とか「苦しみ」「心に開いた穴」のような、使い古された言葉で表現することいっさい拒む。災害は未曾有の出来事だった。前例がないのだ。したがって、貧困の一途を辿っていた国語の語彙で、彼らの心情を誰であろうと表現できるわけはない。
傍観者は、そのようなやりきれなさすら共有できない。祈るしかないのだろうと思うし、突然生を断たれた人々の冥福と残された人々の心の安寧を念じるしかないのだろうと思うのだけれど、そんなもの祈っても念じても思っても、何も生み出さないという厳然たる事実。
*
一部の教育機関で、学年度(新学期)を秋始まりにしようという動きがある。私も、自分が高校生、大学生のときから、日本の3月が年度末、4月が年度始め、というこよみに不合理を感じてきた。学年の真ん中に長い休暇(夏季)を置きながら大量の宿題を出しあるいはさまざまな活動をさせて実質休暇とはいえない状況であるとか、最も寒くなる時期に人生をも左右しかねない重要な入学試験を行うとか。
しかし、「3月11日」を経験してからはむしろ、現状維持がいいのではないかと考えるようになった。あの日、地域によっては卒業式や修了式の当日、あるいは前日、あるいは数日前や数日後だった。私たちはこの先ずっと、3月のこの日が近づくたびに身をただし、我が行いを振り返り、亡き人に黙祷し、被災者の未来を祈る。それが、従来の生活の節目とほぼ重なることで、思いは深まり、気持ちが高揚する。
あれほどの惨事を忘れるわけはないと思っていても、人の記憶力なんて残酷なほど脆いのである。梅が咲き、桃の蕾がふくらみ、桜の花芽が大きくなる頃、日本各地で卒業を祝い送る歌声が響く。そのつど、私たちは、いくつもの生活、風土、風景が無残に喪われたことを思い出さないわけにはいかないのだ。
Moi, j'adore ces deux mecs ! ― 2011/11/14 18:29:21
今更ですが小出さんの発言をまとめている場所はここ。
■小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ
http://hiroakikoide.wordpress.com/
武田のおっちゃんは時に脅迫めいた文体になるのが面白い。次々出版してるけど、明晰なわりには雑だから、きっと編集者泣かせじゃないかなと想像する(笑)。
■武田邦彦(中部大学)
http://takedanet.com/
全国の校長先生・・・これをどう思われますか?
(前略)
日本人を被曝から守る法律がいくつもあり(たとえば原子力なら原子炉等規制法、放射線なら電離放射線障害防止規則など)、それはいずれも1年1ミリと被曝限度が決まっていることをご存じと思います。
事故の直後は、あるいはご存じなかったかと思いますが、事故から8ヶ月経ちましたから、ご存じと思います。そしてこの1年1ミリが「内部被曝と外部被曝を足した1年間すべての時間の合計」であり、その中で児童生徒に及ぼす学校の影響が大きいこともご存じと思います。
問題は「ダブルスタンダード」であることです。たとえば文科省は1年20ミリと言っていますが、これは「暫定」がついています。また給食などに使う食材はセシウムだけで1年5ミリですから、常識的には1年10ミリです。従って、児童生徒は学校にいて給食を食べると1年30ミリになり、そのうち、1日の3分の1を学校にいるとすると、1年10ミリを浴びます。
1年10ミリとは1年に胸のレントゲン200回分です。
(中略)
関東、東北の学校の校長先生の動きを見ますと、いずれも「1年30ミリの暫定基準の方を採用する」というお考えのようですが、ダブルスタンダードの時代に児童生徒の健康を預かる校長先生がなぜ、被曝量の多い方の基準を採用されているのでしょうか?
日本には「法律や電力が定めている1年1ミリでなくても良い」という学者などが存在することは確かですが、もともと学校は児童生徒に「法律や学校の規則を守るように」と呼びかけて、教育をしているのではないでしょうか? 学校で1年1ミリを守ることはできますし、できなければ疎開をさせなければなりません。
ある学者が「酔っぱらい運転でも年間200人しか犠牲にならない。だからお酒を飲んで運転しても良い」と言ったら、校長先生は法律や規則を無視してそのように教育するのでしょうか?
(中略)
日本の子供はお母さんの宝であるとともに、日本人全体の宝です。家庭ではお母さんが必死に子供を守っておられる重要な役割を負っておられるのですから、学校では校長先生が身を賭して児童生徒を被曝から守り、あわせて「遵法精神」を子供たちに教育してください。
(中略)
ある講演会で「給食を担当しているのですが、保護者から心配だと言われます。そうかといってベクレルを測定する訳にもいかず、困っています」という質問がありましたので、「保護者のかたのご心配はまともです。測れないなら給食を出さないでください」と答えました。
セシウム137の経口致死量は青酸カリの1000倍以上です。つまり毒物が入っている可能性のある食材を給食に出す、その理由は毒物でも何でも給食を出すのが使命だからという間違った認識ではないでしょうか。わたしは「とにかく給食を出すのが私の役割」と思い詰めているような感じがしました。
また給食を心配する子供にいろいろな形で教育者がいじめを行っているようですが、むしろ子供たちが給食を心配している子供(親)をいじめることはいけない、人は自分で自分が食べるものを選ぶ権利がある、理由があれば給食を食べないことはもちろんかまわないと教育していただきたいと思います。
(平成23年11月14日(月))
武田邦彦
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よっぱさんのブログつながりで、たしか「瓦礫マラソン」なんていう非常識な企画が持ち上がって頓挫した経緯を知ったことがある。いくらなんでもそれはないでしょ、と多くの人が考えたのだけれど、それは、地震と津波の傷痕なまなましい中を「スポーツとして健康的に走る」イベントを開催する意味があるのかという、どちらかというと人々の良心とか精神の在りかたとか気分のよしあしとか、そうしたことで取り沙汰されたと記憶している(もちろん安全保障の面でも)。
そういうことで中止になるくらいなのだから、ましてや健康を害するかもしれない、体内に致命的なダメージを受けるかもしれない、そんな環境においては「健康的な」イベントなんてありえないから、わたしは東日本女子駅伝の福島開催なんて絶対中止だと思っていた。当たり前のように中止されるか会場(コース)変更がなされるだろうと、真面目に考えていた。「東日本」にこだわるなら線量の低いどこか別の都市で実施すればいいし、こだわらないなら京都とか広島とか駅伝経験都市に申し入れればいいやん。というようなことを娘とも話していたのだが、迂闊にも私たちはついプロ野球の日本シリーズとかフィギュアスケートに気をとられていたために、夜になってから知ったのであった。
「東日本女子駅伝は福島県で実施された」のである。しかも選手に「後年何か問題が起こっても主催者の責任は問いません」(←文言は正確じゃないと思いますが許されて)と記した誓約書にサインまでさせて。福島県陸協はじめ主催者。君たち。それ、ひどすぎるよ。「人殺し」と呼ばれても文句言えないよ。放射能汚染からいちばん遠ざけないといけない、将来子どもを生む可能性のある少女たちが、屈指の高線量地域をめいっぱい呼吸しながら走ったんだ。なんのためなん? なんで彼女たちは、将来の我が身よりも、福島復興のシンボルや放射能なんか怖くないキャンペーンの片棒担ぎの真似事を選んだん? いったいなんて言って大人たちは、彼女たちを言いくるめたのだろう?
娘やその仲間を見ているとよくわかるが、陸上競技に夢中になる中高生は、ただ走るのが好きで走っているというだけだ。走るのが気持ちいいのである。「期待に応えたい」とか「力を出し切ってチームに貢献」とか、お題目並べたようなコメントをすらすら出す選手もいるが、そういうのは「定型文」として顧問の教師やコーチから刷り込まれているだけで、「走りたい気持ち」とは関係ない。
ちゃんと正確な情報を与えてやって、ちょっと冷静になって考えさせれば、「もし走ったら取り返しがつかなくなるかも、少なくともそういう目に見えない不安に苛まれて生きていかなくちゃいけないんだ」、そうなるとわかっているそんな状態で「わーい♪走ります~」なんて、絶対に言わない。顧問のセンコーがどうしたコーチのメンツがなんだよ陸協のオヤジがなんぼのもんやねん。
だが、当地のムードはまるで違うのだろう。中高生はじめ駅伝選手たちにはそのような考える機会も選択の余地もなかったのだろう。「被災地の復興のために」走るのは名誉なこと、これを断ったりしたら一生後ろ指を差される。そっちのほうを、命を縮めるより恐れたとしても、給食を食べない児童を非国民呼ばわりする教師のいるところだから、驚かないな、たしかに。
Un reportage qui raconte une caractère nationale très japonaise... ― 2011/10/11 03:13:51
選択的地デジ難民なのでテレビを全然視ていないのだが、インターネットのおかげで便利になった。NHKでこのような番組が放送されたそうだ。辛いけれど視てほしいと思ったので貼っておく。
巨大津波「その時ひとはどう動いたか」 投稿者 torrentru
大きな被害に遭い、家族を亡くしたにもかかわらず、取材者に冷静に答える人たちの表情が、自分のような被害とも復興とも無縁の人間にはたいへんこたえる。言葉がない。
Merci pour tous !!! ― 2011/10/04 20:12:31
なかなかやるやん、あたし。といっても、そのうちの相当な割合が自分なんだろーなー(笑)
ここで私が書いてることって、真偽ごちゃ混ぜで針小棒大、嘘とか法螺とか作り話のてんこ盛り。
でもでも、読んでいない本を「読んだ」といっていい加減なことを書いたりはしないし、つまらないものはつまらないと書くし、面白いと思ったら手放しで称賛する。
本の話ばかりじゃなくて、日頃のぐだぐだも書く。日頃のぐだぐだは真偽ごちゃ混ぜで針小棒大、嘘とか法螺とか作り話のてんこ盛りなわけだけど、誠意あるコメントをくださる皆さんには本当に感謝している。的外れなコメントをくださる方にも、的外れなレスを返してお茶を濁す(笑)。濁しても、感謝している。
書いたものって、どうとでもとれる場合のほうが多い。「そんな」つもりじゃないのに「そんな」ふうに解釈されて、困ることも苛立つことも、逆に勘違いで嬉しいことも(笑)ある。
実は私は、そんな行き違いをあまり楽しめる性質(たち)ではない。
書いたものでの公開議論なんて、議論にならないと思っていたりする。日本語うまくないから余計に。
顔を見てきちんと議論するのは好きだけど。
あ、それと、ごくごく親しい人との私信のやり取りはまた、別ものだし。
だから、30年前くらいかなあ、ニ○ティサーブとかホニャララとかのフォーラムにフランスのニュースを投稿するという仕事をしていたのだけど、覗いてみると、なんだか近寄れない雰囲気があふれ出てて、不思議な世界だと思っていた。インターネットが普及し始めてからも、昔から掲示板への書き込みは長続きしなかった。まして、こうしたブログが発達しても、(かつて有志が集った文章塾のように目的のある投稿とコメントでなければ)コメント欄はともすれば匿名をいいことに中傷罵倒が先を争う「白いマットのジャングルに今日も嵐が吹き荒れる~♪ルール無用の悪党に~♪」みたいな場になってしまう。そんなの、無意味で無駄だもんね。
自分のブログが踏み荒らされたらさっさと閉じようと思っていたけど、幸い、読んで時たまコメントをくださる(くださらなくても)皆さんのおかげで、私にはよいオアシスor道楽orひまつぶしorストレス解消の道具になっている。
みんなありがとうね。
去年と同じペースで仕事が回るとすると、今月、いちばん忙しいんだ。
過労死しないことを祈っていてくれ。
生きてたらまた何かエントリするし。
空が澄み渡って美しい季節になった。
あっちでもこっちでも地球の裏側でも、空が等しく生きとし生けるものすべてに微笑みかけますように。
C'est vraiment pas possible...!!! ― 2011/09/29 22:19:05
そんなわけで、グリーンピースさんのスタッフさんが日本縦断講演会をするそうなので、関心のあるかたは下記をクリックされるがよろし。
http://www.greenpeace.org/japan/ja/campaign/energy/etour/
私は自然エネルギーなんか「けっ」という立場なので、脱原発派だけど、自然(再生)エネ派ではないという意味で、このドイツ人さんが主張されるであろうことには「けっ」としか思わないであろうと想像されるが、それでも傾聴すべきなんだろなと思う。でも10/12(水)なんて絶対行けねーもんな。もしどなたか行かれたら感想を述べられたし。
*
これまでいろいろとあっちを読みこっちを読み、考えてきた(まだまだ考え足りないが)。
私は自分で自分のことを決して特異だとは思っていないし、といって決してほめられた常識人でもない、とも自覚しているんだけど、そんな私がどう考えても、真っ当に考えれば考えるほど、出てくる結論は「原発やめるしかないやん」なんだが。至って平静に、そう思えるのだが。
なのに、美味し国「うつくしまふくしま」をあんなにしてしまったのに、それでもやめないってへーきで言う人がかなりいるということに唖然とする。
『夕凪の街・桜の国』で、ヒロインが「死んでもいいって思われたんだ、私たち」とつぶやく場面があったように思うんだけど、震度6程度で壊れて放射性物質を漏らしちゃうかもしれない施設をつくって老朽化しても放置してたってことは、周辺の住民のことなんか「死んでもいい」と思ってたに等しい。都市部から離れた過疎地だし、何か起こって死傷者が出ても大した数にはならないし、と、要は見通しが甘かった。ええ、たしかに見通しは甘かった。でもさ、いわば見通しが甘かっただけじゃん。「だけ」じゃん。と、そう言っているのだ。これって、水俣でチッソがやらかしたことと同じで「僕らのせいじゃないよ、だってわざとじゃないもん、だってそんなことになるとは思ってなかったもん」という理屈である。ただただ、逃げるのである。悪質な轢き逃げとおんなじ。あれ、なんか撥ねちゃった? やばいかも? でも見えなかったんだもんしょうがないよな、しーらない、とりあえず逃げよ。
ある人間のことが憎くて憎くて仕方がない。
だから殺そうと決意した。
入念に準備をした。計画した。抜かりのないように手はずを整えて、殺した。
殺した人間はひどい奴である。なんでまたそんなに憎む羽目になったか、時間をかけて計画練って、そうしている間にもぴくりとも揺るがなかった殺意、そんなもの、人として到底容認はできない。人類史最大の悲劇といわれる、アドルフ・ヒトラーによるホロコーストは、こっちの類である。んなもん、許せるはずはない。
ないんだが。
軽い気持ちで酒を飲み、深夜だから車も人も少ないと思ってスピードをガンガン出し、よく前を見ないで走って挙げ句に人を撥ね、引き摺って、わざとじゃないもんねーとただひたすら逃げる。
私はこの後者のほうがさらにいっそう悪質だと考える。誰がなんと言おうと絶対に許すことはできない。
水俣病の発生も原発事故による放射能汚染も、こっちに似ている。
人間のすることだもん、過ちも手違いも見込み違いもあるよ、では済まされないことをしでかしているのに、その自覚がない。ぜんぜんない。あんびりーばぼー。
*
べつに、こんな事態になったから脱原発だあ、とわめいているのでもない。そうでしょ? みんな昔から、心のどこかでは脱原発派だった。そうじゃなかった?
私は、日本人は全員、「しかたなく」原子力発電を受け入れていると思っていた。本当は一基だってつくってほしくはないけれど、火力発電や水力発電だけでは限界があるだろうから、そうだな全体の3割くらいまでなら、しょうがないだろ。広島や長崎、ビキニのようなことは起こるまいさ。だって核爆弾つくってんじゃないんだから。そう自分自身に、大なり小なり言い聞かせて。「しょうがないだろ」とは思うことのできない一握りの人たちが、活発に脱原発を唱えている。「しょうがないだろ」「しょうがないとは思うけど、やはりなんとかしてほしい」「しょうがないではダメだ!」というふうに温度差はずいぶんあるけれど、それでも、基本はみんな「反原発」だと思っていた。
チェルノブイリの事故のほんのひと月前までヨーロッパにいたので、私はあの事故には本当にぞっとした。社会人デビューしたとこだったから正直言ってこの件は「人任せ」にしていたけれど、この事故によって飛び出した放射性物質は日本にも到達したし、あの頃、けっこうな騒ぎになっていた。原発反対を唱える人の声は、たしかにあのとき一気に大きくなり、歳月を追って徐々にではあるけどやはり大きくなっている。拡大している。
だから今、脱原発の議論がことさらに高まっているとは思えず、みんなの意識の根底にあったことを、それぞれが、それぞれの表象のしかたで述べているんだと、そう思っていたんだけど。原発施設に従事している人、原子力や放射線の研究をしている人イコール推進派ではない。むしろ逆が多いもん。声高に脱原発を言えずにいた人たちが言うようになったとしたらそれはそれでいいことだし、つまり、私は基本的に、被爆国の日本人は、全員がそういう共通のメンタリティを持っていると思っていた。
でもそうじゃないのね。マジでガンガン増やしてガンガン稼動させんでどうすんのさと思っている人、いるのね。原発万歳! 原発なくして日本に未来はない! と考える人たちが相当数いるということが明らかになって、いささかビビっている。こわい。
今日、広々とした田んぼを見た。
その美しかったこと。
私たちにとって本当に大切なものってなんなのか。
もっともっと、考えたい。
































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